森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

遣るとか遣らないとか、自分で決めたらいいんじゃない。

2024-01-04 18:28:18 | 思いつくまま

※追記:先ほど読み直しましたら、なぜか同じ文章の繰り返しが掲載されていました。

読みづらかったと思います。ご迷惑をおかけしました。m(__)m

 

ある人が、何かを始めて幸せそうだと、なんだか自分もやらなくちゃならないような気持になる時があるのだと知りました。

それは「やってみたい」と言うよりも、もっと踏み込んだ「やらなくてはならないような」感覚。

確かに「良いなぁ」が気持ちの最初だったと思うのですが、それに気がつかずに、自分もやらなくてはと思い込む・・・。

そんな事があるのかと思われるかもしれませんが、それは私の表現の力が不足していて、上手く伝えられないのかもしれません。

昨年は人のそういう感覚に、ほんのちょっぴり振り回されたような気がします。

 

だけど私自身も何でもやってみたいお年頃で、ちっとも遣らなくてはならないわけではないのに手を出して、生活自体にゆとりが無くなってふぅふぅと言っている愚かさを自分でも感じているので、人のことばかりは言えないと思います。

 

またある時は、お気に入りの漫画家さんのエッセイを読んで、「断捨離はしない。」と言う言葉に惹かれました。

以前からなんでも捨てたがる断捨離マニアの方には、まったく共鳴できないものを感じていて、独自のマイルールが自分の中には出来ているものの、実践できていないので説得力などありゃしないと言うのが現時点の私です。

だけど、その漫画家さんのその発言には、大きな背景があるのです。つまり生活の変化に伴って、一軒家から一人暮らしに適したマンションに引っ越したので、その時に整理したのだと思うのです。もうこれ以上の整理は、しっかりと子供たちにやって貰おうと思っての発言だったと思います。

ゆえにこの発言を自分の生活にスライドして受け入れてしまってはならないと言うことですね。

 

また先日友人が、ある俳優さんのエッセイのタイトルに共鳴したと言ってきました。「終活はしない」と言うようなものだったと思います。それはその為に時間を費やさずに、残された時間を好きなことに使おうという趣旨だったと思います。

凄く共鳴しました。

が、

その俳優さん、凄くストイックな人で、無駄な脂肪すら微塵も持っていません。

きっと家の中も同じじゃないかしら。

これはやっぱり100%の共鳴は、逆に危険と言うことなのだと思いました。

(友達、危ないわよ。だけど余計なことは言わない方が良いよね(笑))

 

私は年齢的に言ったら、まだ「終活」と言う言葉には違和感があるのですが、なんたってお友達を妹も含めて4人も60代で失って、また一人は頭脳明晰を誇っていた人が転んで頭を打ち、昨日の記憶を保てず車いす生活で、まったく会えなくなってしまったと言う友達もいます。何があるか分からない年齢になってきてしまったと言うことなんですよね。

私は「終活」に近いような、最低限やる必要な事があるなと感じています。

私はやっぱりゴミ捨てと(やっぱりそれか !!)とお金の管理と家族に対しての見える化です。

先日ぼんやり考えました。子供のコーナーは置いておいて、物に関しては家族の共有物は20%、夫の個人の物は10%。残りは私の物じゃないかと思います(;^_^A

このままでは万が一、私が先に亡くなったら、家族は大変だと思います。

またこのような人は我が家だけではないと思うのですが、大切な家のお金の管理を、妻が一人でほぼやっているってことはないですか。

これもある日突然、私が居なくなったら、まず夫は家じゅうをひっくり返して、そこから始めなくちゃならないと思うのです。

もちろん諸々と大事なものはそれなりの場所にあり、それなりにノートに記録していますが、なんたって私の頭の中はぶっ飛んでいますので、そのノートが・・・・・。

って止めておきますね(;'∀')(;^_^A

まあ、とりあえず、今年はそれらを楽しみながらやっていこうと思っています。

 

ただ、タイトルに「自分で決める」と書きましたが、やはり人の話、人の意見は参考になるし、ものの考え方のベースになると思うのですよ。それを参考にしたり、それは私とは違うなと思って見たりで、何でもかんでも無の状態から思考すると、我に走ると言うこともあると思います。

意外と参考になるなと愛読している雑誌は

 

別にスーパー主婦になる予定はないのですが、くせになる雑誌は

 

↑ なんかこれ、面白そうじゃないですか。買っちゃおうかな~。

トップ画像は、横浜に行く途中からの画像です。

記事とは関係はありませんが、花を添えました。

ついでながら、本当の花も添えておきますね。

 

 

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3月10日だって、忘れないよ。

2022-03-10 23:21:52 | 思いつくまま

今の私の悩みは、図書館で借りた580ページもある本が、返却期限が1週間後と迫っているのに、まだ100ページしか読んでいなくて読み切れるのかという事なのです。
もっと深刻な悩みがあるとしたら、止めちゃったダイエットのツケで、飛び出したお腹をどうしようかという事。
私個人の事ではもっと気が重い事も確かにあるけれど、とりあえずテレビを消してしまうと、敢えて狙われて子供たちが爆撃の犠牲になっていることも視界から消えてしまうのです。
そして努力すれば解決するような、そんなちっぽけな悩みに終始して一日を終えるのでした。


だけど出来るならば、そんなちっぽけな悩みそしてささやかな幸せで成り立つ毎日が、これからも続きますように。

これからの人類の進歩というものを望むとしたらは、それはもう同じ人間同士で殺し合わない。戦争はしない。そんな精神的進歩しかないと思うのです。
また歴史を学ぶ意義は、そこから「過ちは繰り返さない。」と学ぶところにあると思うのです。

かの貧しい大国は、何をしているのでしょうか。
時代の流れに逆流してるとしか思えません。
また自分の意を介さないクラスメートを体育館裏に呼び出して、内臓が破裂するほど殴りつける様なバカと同じにしか見えないんだけれど、なんとかならないのでしょうか。みんながおかしいと思っているのに。

下の囲みは、昨年の3月11日に投稿したもので、3月10日の事が書いてあります。
3月10日は「東京大空襲の日」。77年目ですね。

昨日、小学生の少女に、「今日は何の日か知ってる ?」と聞きました。
これ確か前もやってます。家に来ていた中学生に、同じ事を聞いて、その後にいろいろと会話をしました。
少女が知るわけもありません。
少女の若いお母さんはもちろんですが、私だって戦争を知りません。私の母は疎開組で、ギリギリ。

だからこそ伝えて行かなくてはならない事があると思いました。




 
3月10日の日記
ひとつ前の「相棒」の感想と、あまり間が空いていません。よろしかったら、そちらの記事もよろしくお願いいたします。→相棒19 第19話「暗殺者への招待」一番下にある囲みは、昨年......
 




最近の私の仕方がないなと思いながらも、少し気が重い事の一つに母の認知症の事があります。
それまでも老人だからその程度はあるだろうと思えるような、すっとぼけた事はありました。だけどちゃんと買い物に行って自分の食事を作り、自分の生活をしていた母。
それでも先日、認知症テスト受けに行きました。
姉から聞いた話では、
「あら、なんだかテストみたいね。やだわ、テストみたいなんだもの。」とはしゃいでいたそうです。
話だけ聞いていると、可愛らしくも感じてしまう離れて暮らす娘←私の事です。

 

私が、母もちょっと危なくなってきたなと思ったのは昨年でした。

私がラッタさんとルート君を連れて実家に行くと、母は決まって彼らに言っていた言葉があるんです。

「戦争は絶対にダメだから。」「戦争は絶対に二度としちゃいけないよ。」「いいかい。これがおばあちゃんの遺言だからね。」と。

 

ところが母は、そのいつも言う言葉をすっかり忘れて言わなかったのです。

 

同じ言葉を繰り返して言うと、人はボケて来たと思うのかもしれません。だけれど、ずっと強い気持ちを持って言い続けてきた事を言わない事こそ、老いが進んだと言えるのではないでしょうか。

私は母のいつも言う遺言の言葉を、聞けなかった事を寂しく感じました。

 

こうして、身をもってその苦しさを感じて、心から語ってきた人も沈黙する時代が来てしまいました。

だからこそその気持ちを引き継いでいかなくてはならないと、私は思うのでした。

 

2022・03・11・19:21


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この種をポケットに

2022-03-01 23:59:16 | 思いつくまま

テレビでも取り上げられていたので、その映像を目にした人多いかと思います。

一応一番下に貼っておきます。(いつまで見られるかの保証はありませんが。)

ウクライナの女性がロシア兵に詰め寄るシーンです。

彼女は言いました。

「私たちの土地に何しに来たの ?

分かっているの ?

占領軍なのよ。」と。

そして

「この種をポケットに入れていきなよ。
あんたがここで死んだ時、
そこからヒマワリが生えるように。」と。

私がその話を夫に言うと、彼は「怖いね。」と言いました。

ちょっとその反応に驚いた私・・・。

「怖い?」

なぜなら私はちょっと感動したからです。

だってこの人は本当に強い人だと思いませんか ?

そして言葉が詩人のようではありませんか。

 

例えば、ちょっと女性の比率が多いような、いわゆる女の職場と言う所にパート体験などをした人などは経験も多いかと思うのですが、強い言葉で話す女性に傷つけられたり驚かされたことなどないですか。

ところがそういう方に限って、本当に意味のある大事な時には、何も語らない事もあったりするのですね。

日頃の強い口調に騙されてしまうけれど、本当は強くもなんともないのですよ。

だけどこの女性は、たった一人でも武器を持った男に怯まないんですよ。

 

若い時には怖いもの知らずで、少々の武勇伝もありの私ですが(そんな事を言っていても、私レベルの全く大したことはない話です。)、歳を取るに比例して、臆病者になって来てしまいました。

言うべき時には言える人でありたいなと、私は彼女を見て本当にそう思いました。

また、この対峙したロシア兵の青年も、いっけん彼女の勢いにタジタジとなっているかのようですが、そうとばかりは言えないと思いました。

たった一人で抵抗してきた年配の女性に、彼は配慮して暴言や暴力の行使をしなかったのではないでしょうか。

こういう時、私の知っている世界では、相手がだれであっても拳を振り上げて「このババア!」と言うような場面を容易に想像できてしまうからです。

そうはならなかったのは、その青年が普通の家で躾け良く育てられたちゃんとした人であることが窺えたのです。

 

女や子供が逃げまどい泣かなければならない状況を作り出すものに、どんなに言葉を取り繕っても、そこに正義などないのです。

ある朝目が覚めたら、空の向こう側からミサイルが飛んでくる、そんな空の風景を作ってはならないのです。

それにロシア側だって、

何の大義があって、自国の若者の命を奪っているんですかと問いたくなりますよね。

戦争は国の他殺と自殺を同時に行っている行為だと思います。

自分の中でその戦いを肯定できぬまま、他者を殺したりまたは自分が死んでいかなくてはならなかったロシア兵士だって、同じような被害者ではないのですか。

ロシアの国内で反戦デモが起きるのは当然でしょう。

ロシアの人々に真実が隠蔽される事なく、正しく伝わり、自分の国の父親や息子たちを守って欲しいと思います。

もしも戦争に駆り出され、命を失っても、それは安全な所に居てしゃべりまくっているだけの男たちに利用されただけの無駄死にだと思います。

かつて日本の祖父たちもそうでした。

お国の為とか家族を守るためとかと言う大義を背負わされて、南の地でただ飢えと闘って無駄に死んだのです。

もしもポケットにヒマワリの種を持っていたら、帰る事のなかったその肉体は朽ち果てても、きっと深い森の奥で咲いては種を零し咲いては種を零し、いつかその子供たちが、その森の奥の向日葵畑を見つけた事でしょう。

 

こんな言葉が浮かんできました。

― お母さん、僕はいまウクライナに居ます。

訓練だと思っていたのに、本当の戦争だった。市民は撃たないと言ったのに、今は子供さえ殺してる。

ファシストだとののしられて、僕は辛いです。今日、僕は女の人にヒマワリの種を貰いました。それは抗議の言葉と行為だったけれど、僕には返す言葉も持っていなくて、手を出してその種を貰いました。ちょっと笑えるのは、その人が入れろと言ったのに、僕がその種をポケットに入れたら、驚いた顔をしたのだよ。早く出て行けと大きな声で言った後、その人は小さな声で「あんたも死ぬんじゃないよ。」と言ったんだ。

だけどお母さん、もしも僕が家に帰る事がなかったら、いつかこの国に来て僕の花を探してください。

僕はその花の下で眠っています。

朝、あなたが入れた珈琲を飲みながら、今日は何をしようかななんて事をぼんやり考えていた、いつかの朝の夢を見ながら。ー

 

 


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こいねがう

2022-01-02 15:48:13 | 思いつくまま

「こいねがう」は「希う」と書く。

強く願う、切望すると言う意味。

「望む」と言う文字の意味は、『物事がこうであればいい、自分としてはこうしたい、こうなりたい、また、なんとか得られないものかなどと、心に思う。』(goo辞書による)

 

希望と言う文字は、似たような意味を二つ重ねて出来ている熟語である。

人が希んで望んだその先に、希望は生まれるのかもしれない。

 

だったら私は何を望むかな。

もうオジサンズの子供たちの幸せ。

もろに影響を受けるので、夫の健康は願わずにはいられない。

わたし ?

私が私に望むことは、たった一つだな。

「今はまだ死なない。」

ただそれだけ。

 

生きてさえいれば、まだできる事があるんだよ。

自分の為に。

人の為に。

 

祈ることだって出来るんだよ。

この疫病の時代が過ぎ去って、平安の世が訪れる事が出来ますように。

過去の憎しみを捨て、たずたずと歩み寄る事も出来るんだよ。

 

スノウさんから、彼女の夫が代筆でラインにメールが入りました。

そこには「今年も頑張るよ。」と書き込まれていました。

スノウさんは要介護4になってしまったらしいです。

それでも「今年も頑張る。」と彼女は言いました。

私は心の中で拳を握り、深く頷きました。

 

画像は1日の日、7時半ごろ、横浜に向かう車中から撮ったものです。

 

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薔薇と秋の日

2021-10-28 17:12:49 | 思いつくまま

薔薇と雑文と日記。

「相棒」の感想が先かなと思っていましたが、最初の15分で寝落ち。見直してから感想を書くので遅れます。

花と花の間に、いつものように文を差し込もうと思いましたが、すでに多くを語る花たちに負けて、一番下から書き始める事にしました。

「文、要らないじゃん。」とも思いましたが、ひとつ前の『「横浜イングリッシュガーデン」の薔薇たちと。』の中に

『薔薇の花を背景に、また最近のつれづれを好きに語らせていただきたい』と書いたので、またも自分の言葉に縛られて、やっぱり書いていく事にします。

ただ、一言入れさせていただくと、すぐ下の写真は私自身の自撮り。もちろん顔の部分は編集で切ったわけですが、自撮り棒などは使わない自撮りだと、私は目があらぬ方向を見ていていつも微妙な顔をしています。めったに撮らないのですが、そういうのも上手になりたいものです。

だけど薔薇の花の方は、なにげに綺麗に撮れていました(これも、自画自賛かしら^^)

 

 

 

ちょっと前の話ですが、先月の月一の吉田拓郎「オールナイトニッポンGOLD」は神回と言われただけあって、本当に素晴らしかったのですよ。

もう一回聴きなおして、ブログにも保存しようと思ったのですが、うっかり二回目を聞き逃して、ブログアップも諦めたのでした。だからこの記事は、そのラジオの記事ではないです。検索で引っかかった人が居たら申し訳ないので、一番下にウキィ様を貼っておきますね。

 

主につま恋コンサートの話だったわけですが、1975年の様子が拓郎さんの口から細かく語られて、大変興味深かったです。

私のツイッターのタイムラインでも「懐かしい。」と言う言葉が並びました。

斯くいう私も・・・・・・って、本音を言えば、全く懐かしくなんかなかったのです。

行ってないですから。

新しい事実を知っていろいろと面白く感じたのですね。

 

ずっと後になって、姉が言いました。

「何で私たちはあの時、行かなかったのだろうか。」と。

私は即答です。

「だって、私、未成年だし。行かないし、行けないよ。」

またしばらくして、姉は言いました。

「あの時、中学生だった人も家を抜け出して行ったとか、他にも花ちゃんぐらいの人はたくさんいたらしいよ。」

うーむ・・・・

そこで少し過去の自分を思い出す・・・・・

「家を抜け出して行くなんて論外だけど、そうでなくても、やっぱり私たちの家では、そのコンサートに参加する事は、あの時代ではありえない事だったよ。」と、私は姉に言いました。

 

人はその成長や環境によって、行動範囲が決まってくると思います。

意外と好き勝手な事をやっていたような気がするのですが、それも時代と共にゆっくりだったと思います。

あの時の私は、深夜に大勢の人に紛れて、野外に立ってテンション高く盛り上がる自分を想像もできない事だったし、そこに出掛けていくエネルギーさえなかったのでした。(40日間、休み一日でバイトし続けるエネルギーは有ったけれど)

だけど、その時に行けなかったそれを、心の中ではずっと意識していたのかもしれません。本当は行きたかったのだと思います。だから2006年、また「つま恋コンサート」が決定し、姉が「行く?」と聞いて来た時、「行くとも !!」と気合を込めてお返事しました。

2006年の会場でも、いっそ朝までやってくれないかなぐらいの事を思っていました。

 

もちろんそれは夢の夢。

だけれど、そんな朝までやらないコンサートでしたが、感激で胸がいっぱいになり、その頃始めたばかりの拙いブログでしたが、記事を四つ書きました。

「聖なる場所に祝福を―つま恋」

「朱夏の群れ、晩夏をいく  〈つま恋〉」

「朱夏の群れ、晩夏をいく  〈つま恋〉後編」

「ありがとう」

私はこの記事の中に、

人は若さを何かの特権のように誇る時があるけれど、〈かって私もそうだったかも〉生き続けていくことが出来るならば、「人生の時」は残酷なほど平等だ。

「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」・・・・

なかには遅い青春の終わりにしがみついている方もいるかもしれないが、私たちは「朱夏」の時代を生きている。大きな荷物を背中に背負って、大汗かいて、だけど生き生きと。

一寸先の未来さえ見ることも出来なくて、いつも何かが不安だった、いつも何かにイラついていた。そんな青の時代に、懐かしさはあったとしても、何の未練があるのだろう。

 

15年前の私は、間違いなく「朱夏」の人。

でも今は、違うと思います。確かに仕事もしています。だけど働き盛りではないのです。昔と違って、ある意味恐ろしい時代です。反面違う視点で見たら素晴らしい時代です。

昔はご隠居さんにしかなれなかった年齢に、まだお仕事があるのです。まだ働かなければならない事情もあるのです。光と影とがそこにも存在しているのです。

働きつつも、この白い秋を迎えると言うのは、私にとっては大事な考えるべき視点だと思います。「朱夏」の時代とは、気持ちは変わらなくても肉体が違うからです。

また、年齢問わずに次の冬を、時にはじっと見て考えなくてはいけない時代でもあるかなと思うのですね。

人はみな、訪れる季節によって、自分の環境や生活スタイルを考えていくことは、本当に大切な事だと思います。

そして今、私は、自分の人生の秋に戸惑いながら、毎日の時間を時には無駄に過ごしているような気がするのですが、無駄になんか過ごす時間など、人生の砂時計には残ってないかもですね。

 

→「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」

→「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」

 

 

 

 

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「ああ、そうだったのか。」

2020-06-07 15:45:34 | 思いつくまま

私たちは生まれてくる時に、

何も知らされずに誕生してくる。

そしてそれから、

何も分からずに生きていく。

そして何んにも分からないまま死んでいく。

 

確かに、生まれて死んでいくまでの間に多くの知識を得る事でしょう。

でもその知識は、どんなに人類の今や未来のために役立つ知識であったとしても

生きて死んでいく間に役に立つ知識でしかないわけで、

今目の前のご飯を食べるのに必要な箸と大差ない大事さなんじゃないかしら。

それはけっして軽んじて言っているわけじゃないの。

生きて死んでいく間に役に立つ知識こそ、最重要事項よね。

だって、私たち

生きて死んでいくまでの世界が、自分で認識できるすべての世界なんだもね。

 

とうとう何もわからずじまいなのかと思うのは、

命は何処から来てどこに去るのか

何のために生まれて来て、また死んでいくのだろうか

それよりも

宇宙とは何なのか

宇宙とはどこに存在し、その存在が消えた時に、そこには何があるのか。

人間の脳の許容範囲を超えているのか、

考えだすと狂い出しそうになる。

あっ、失礼しました。

「人間の脳」などと、皆を巻き込んでは行けなかった。

「私の脳」と言うべきなんだろうね。

 

私には量子力学とか科学から答えに辿り着くには、そうとうの年月を待たなければならないような気がしてしまう。

 

子供の時には、死ぬその時に

パァァァぁあと

光が目の前に広がって

「ああ、そうだったのか。」と、すべてが分かるような気がしていたんだ。

なんでかそう思い込んでいたんだよ。

だからそれはいつか未来のお愉しみみたいにも思えていた。

つまり死ぬときのお愉しみ。

本当にそうだったらいいのになあ。

 

だけどそれは子供時代の思い込みで、人はただ死んでいくのではないかと

なんだか分かって来ちゃったんだよね。

 

だからね

命の秘密を

人は生まれた時にも何も知らず

そして、何もわからずに生きて

また

何も分からないまま死んでいくんだ。

 

ああ、だけど

本当の事は分からないよね。

だって本当に死んだ人に聞いたことないでしょう。

 

人は根拠なく思う時、何か無意識のうちに計算していたり、

過去の経験を通しての思考だったりすることがあるでしょう。

子供の時に思い込んでいた

死ぬときに何かが分かると言うのは、もしかしたら完全な間違いとは言えないかも知れないじゃない。

 

人間なんかちっぽけな存在だから、すべてなんかが分かるわけがないかもしれないね。

それでも

死は魂が老いたり損壊したりで維持できなくなった肉体を捨て去る儀式だったとしたら、

その魂は解放されて

いろいろなものを一気に見たり、広い世界を見渡す事が出来るかもしれない。

そして

「ああ、そうだったのか。」と、思えるような事が何か一つでもあるかもしれないじゃない。

 

 

いや、むしろ

今はそうであって欲しいなと私は思っている。

そして願ってもいる。

「ああ、そうだったのか。そんな事があったのか。そんな風に生きて来たのか。

そんな風に思っていたのか。そんな所にいたんだね。」

もう腕はないんだ。地上に置いて来てしまったからね。

それでも残像の腕を差し出して、記憶の中の少女を抱きしめる・・・

命の秘密などと、大それたことが分からなくても、

一生懸命に生きたご褒美に、

たった一つの真実を

どうか

彼に教えてあげて欲しい。

 

心の底からそう思う。

 

 

※横田滋さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

 


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備えがあっても憂いは生じた

2020-03-12 11:01:38 | 思いつくまま

また今年も3月11日がやってまいりました。

そして9年が経ったのです。

だけど今はまた新たな苦しみにみんなが絶えている所なんですよね。しかしながら災害に疫病に苦しんできたのは、ずっと人類の歴史の昔から繰り返されてきたことなのではないかと思います。

水辺に生えるか弱い葦のように私たちは為すすべきこともなく、オロオロするばかりなのでしょうか。

 

先日集まったサークルの会合では、戦時中の話の後、「3.11」の「あの時、私は」と言うテーマになりました。もうこの話題は何処で終わりが来るのだろうかと言うくらいに、皆が活発に語りました。

そしてまた、あの後何が起こったのかと言う話にもなりました。

スーパーからいろいろなものが消えたあの時・・・・。

まるで今を思わせるあの時の思い出でした。

 

確かに、私の街は多くの死者を出した被災地ではありません。それ故、あの時私たちレベルの大変だったことを、何か言い辛いような気もして語らずに来た事がありました。でもいつか語りたいと思っていました。たぶんそれは今なのではないかと思います。

 

私はシンプルライフって素敵だなと思っているんです。整理整頓の収納の達人にも憧れるし、スーパー主婦と言う人たちの事も尊敬しています。ただ私、「ミニマリスト」と言う人たちも素敵な人たちだなと思いつつ、自分の生活とはあまりにも真逆なので、自分は絶対にならない人たちだなと思うのです。もちろん素敵だなと思っているのは本当で、だからサイトなんかも時々覗いたり、またはブログなども読まさせていただいています。

ある時テレビで、そのクラスタのある人が

「私なんか、トイレットペーパーなんか最後のひとロールになったら買いに行きますよ。」とにこやかに笑いながら言ったのです。

私はひとり暮らしの人みたいに、テレビに向かって「ダメよ、そんなの。」とか言ってしまいました。姉にその話を言うと、人それぞれだから、それが素敵ねと思えばマネするし、違うと思えばスルーするだけと言うようなことを言いました。確かに正論です。だけどテレビって影響力があるじゃないですか。

在庫を抱えない生活って、シンプルで素敵だと思うんです、本当は。

だけどそれはずっと何もない平穏な日々が続くと約束されている時に限ってはなのですよね。

 

トイレットペーパーは、シングルかダブルかでもロールの数が違ってくると思うのですが、ギュッと巻いてあるシングルで、我が家の適正在庫量は12ロール以上だと思っています。つまり6ロール入りが二袋以上。その数を意識するようになったのは、その3.11からなんです。それまでは一袋の6個で十分だと思っていました。

普段の生活で必要なもの備えるようになったのは、たぶんこの頃かと思います。「この頃」と言うのは、2006年の
備えないので憂いあり」と言う記事を書いた辺りからです。

まだブログも始めて間もなかったものですから、自分だけが分かるような文章を書いていました。(今もかも(^_^;))

今はこんな風に寝る時間が遅いものだから、あまり夢を見ない人になってしまったのですが、その頃はよく夢を見て、そして夢から何かメッセージみたいなものを感じる事があったのです。

今でもその夢のあるシーンはよく覚えているのですが、リンクした記事を書いた二日前、夢を見たのです。

事も有ろうか、富士山の大噴火の夢だったのです。なぜか私は故郷の道を歩いていて、横浜には火山灰だけが雪のように降り続いているのです。それは本当に雪のようで、街は真っ白になり、なぜか半端のない量の路駐の車のボンネットの上にも降り積もっていたのです。そして夢の中で私は言いました。

「どうしよう。家に何もない。買い物にも行けないと言うのに困ったわ。」と。そして二日後、朝起きたらすでに雪が降り続けていて、私は夢の中の言葉と同じ事を言っていたのでした。

今思うと、夢の中の世界では、買い物に行けたとしても、たぶん何も売ってなかったのではないかと思います。富士山大噴火なんて、そして横浜にも火山灰が振る程度だったら、そうとうの災害ですものね。

そんな経験を通して、「備えないので憂いあり」の生活は止めようと思ったのでした。「そんな経験」と言うのが夢&雪と言うのは、幸いの最たるものだったようにも思えます(^_^;)

 

と言うわけであの3.11の時、いろいろなものが十分に家にはあったのです。

と言っても、たまたまの運の良さもあったのです。なぜならその週の水曜日に生協が「お米」賞味期限が長い「ロングライフのパン」などを持って来たばかりだったからです。実は水の備えはなかったように思います。だけど幸いにも私の地域では、水はちゃんと供給されていたのでその時は良かったのです。

もちろん上に書いたような「そんな経験」もあって、トイレットペーパーにティッシュにラップ類、みんな家にありました。

私はそれで少し傲慢な気持ちにもなりました。「私って、偉いわぁ。」みたいな。

 

ところが本当の恐ろしさは、その後に来たのですね。自分の事を褒めたくなるほどちゃんとしていたと思っていたのに、それらが無くなる頃になっても、流通がまともに復活しなかったのです。皆無くなって行ってしまいました。

「ある」と言うところから始まった我が家でもそうなのですから、「ない」から始まった家は、本当に大変だったと思います。

よく「三日分の備蓄」とか言うじゃないですか。あれは被災地の事で、三日間持ちこたえたら何らかの物が届けられる(かも知れない)と言うことを言っていたのだと、しみじみと思い知らされました。被災地周辺の流通が止まってしまったところなどは1か月はまともじゃなかったように思います。

 

震災の翌日、その頃は独居老人だった姑を誘って、普通の買い物にスーパーに行くと、お店は凄い事になっていました。みんなが買い出しに来ていたのです。私は意味が分からずにポカーンとしていました。そして長蛇の列に並んで普通の買い物をして帰って来たと言う虚け者です。私の前に並んでいる若い夫婦の夫の人が、並んでいる間もお餅の袋などを見つけると、手に取り考えているような仕草を見せると、それをカゴに入れました。

それを見て、ああ、そう言う意味かと気が付いたようなものです。←相当なアホな私。

だけど家に帰ってから、それは必要な事なのかなと考えました。

その時も私も夫も、ある映画のシーンを思い出しました。他の記事にも書きましたが、アメリカ映画の何か特別な事があると、住民がこぞってスーパー―に行き窓ガラスなどを割って、根こそぎ持って行ってしまう暴動シーンです。

あの時も海外から、わけの分からない事で褒められた日本人ですよね。

「ちゃんとレジに並んで買い物をしている。」と。いや、どう考えても普通だろ、それは。

だけど本質は一緒なんですよね。

私も昼間のスーパーでの出来事を思い返し、不安になり夜になって夫殿に言いました。

「たぶん、もう駄目じゃないかと思うのだけれど、明日、買い物に行った時に、もしあったらお米もパンもカップラーメンとかも、なんか諸々買っておこうかな。」

「もう駄目だな、たぶん。」と夫殿。

そして予想通りにまったくダメでした。

こんなにガラガラのスーパーの棚を見た事はありませんでした。だけどカップラーメンはあまり食べる習慣もなくて、ほかの物は家にありましたので焦る事はなかったのですが、そのガラガラの棚がいつまでも埋まらない日々が続くなど、思ってもみない事でした。

 

ただでさえ揺れる毎日でストレスが溜まっていくと言うのに、毎日のささやかな習慣を変えなくてはならないのは、ストレスの重ねになって行ってしまいましたよね。

朝食にパンを食べたいパン好き。珈琲には牛乳を入れたい派。

我が家は牛乳に負けないインスタント珈琲派なので、牛乳が無くなってしまっては、そこにパウダー系のミルクを入れていましたが、はっきり言って好みではなく我慢の日々が続きました。

その時、いざという時のためにトイレットペーパーを車に乗せておくと言うアドバイスを受けました。だけど余分なそれがありません。それで私は、それしかなかったからなのですが、初めてダブルの柄と香り付きでバージンパルプと言う、贅沢の極みにしか感じないペーパーの4個入りロールを買いました。

出来る限り普通の生活をしようと、いつもながらの生活習慣で、自転車の前と後ろのカゴ一杯の買い物をしたら白い目で見られたとか、嫌な想い出もいっぱいです。でもその時は姉に叱られたんです。

「カゴの中を見て欲しいと思うわ。品薄になっているものなんかひとつもないと言うのに。」と私が言うと、

「いつもと同じの『普通の生活』ではダメなのよ。」と教えてくれたのです。

けっこう、その頃は昼と夜に働いていたので、こまめな買い物は厳しいものがあったのです。なんだかんだと無理を強いられました。(だから病気になったのかしら・・・? )

 

あの時、少し離れたスーパーに行ったら、そこは関西系列なのかいち早くお米もパンも牛乳もあって、本当に嬉しかったです。レジに並びながら、友人に電話しました。

「あるよ~、ここに、みんな。」

「ありがとう !!!   すぐに行くわ~ !!!」

まるで天国はここにあるよみたいな感じ(笑)

そしていち早く対応してくれた、このスーパーに感謝すらしたのでした。

 

確かにそれなりの苦労はあったけれど、やはり本当の被災地の大変さを思ったら、こんな程度と今でも思ってしまいます。

だからあの時は語れなかったのです。

だけど学ぶことはたくさんありました。

 

学んだけれども悲しいかな、人は忘れてしまう生き物なんですよね。

備蓄とか、普段から万全ですか ?

 

こういう事に、完璧はないのですよね。だけどそれなりに考えながら、やはりこれからもやっていこうと思います。

外出できない今、それらの整理や自分の家の必要数のチェックなどをするのも良いかも知れませんね。

 

ところで最後に、3.11の震災後のモノ不足が続いていた頃、私が見たツイッターのツイートで、凄く腹が立ったものがあったのです。

みんながパンが買えなくて、パン屋情報とか、パンが食べられない事を嘆いたツイートを流していた時に、それを愚かと思ったのでしょうか。

汚らしいパン屑が落ちているようなお皿の上に乗っている食べかけの食パンの画像に

「パンが食べられなかったらお菓子を食べればいいじゃない。w」と言う言葉が付いていたもの。

 

画像も汚いけれど、心も汚いなって思わず感じてしまいました。m(__)m

この上の数行って、見えない誰かに対しての攻撃になってしまい少々の胸の痛みを感じますが、敢えて書かせてくださいね。それは9年経っても、やっぱり不愉快に感じるのです。もちろん呟いた方は西の方ですよ。その時、西に住む方にとっては対岸の火事に感じている方もいらしゃったのかもしれません。もちろんほとんどの多くの人がそうではない事は分かっています。阪神大震災を対岸の火事だと思った事などないからです。

たぶん私は、そのツイートをわざと忘れないようにしているのだと思うのです。自分への戒めとして。

 

最後は、綺麗な画像で閉めますね。

昨日もお散歩に行ったので。

♪ 花は 花は 花は咲く~♪♪

 

 


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新しい時代を生きる

2019-05-02 23:36:48 | 思いつくまま

かつて私は何かのニュースなどで、とある女性などを紹介する時に

「明治・大正・昭和を生きた。」と言う言葉を聞くと、なんてカッコいいのだろうかと思っていました。

三つの時代をまたがって生きるなんて、なんて素敵な事だろうかと思っていたのです。

もしも100歳生きたとしたら、明治は45年大正は15年ですから、維新の時に生まれても、関東大震災も経験してそしてそれから太平洋戦争の終わりを経て、東京オリンピックを見ても、まだ1年もあったのです。

ただ生きた。

もうそれだけで素晴らしいと感じたのです。

もちろんそれは大正・昭和・平成であっても同じように、様々な激動の時代を生き抜いたと思います。

 

ある時、上皇が生前退位をなさると知ってから、ふと、私も憧れの三つの時代を生きる事が出来る事に気が付きました。

「昭和・平成・そしてまだ決まっていなかった新しい時代、その三つを生きる事が出来るのだわ。」と嬉しい気持ちに満たされたのでした。

 

新年の一族で集まった時の母の挨拶も、その事に触れていました。

母も昭和生まれなのです。

「何としても皆生き抜いて、新しい時代を迎えましょう。」と母は結びました。

ああ、そうかと、私は思いました。

時が過ぎれば当たり前のようにやって来る「時」。だけどそれは誰でもが迎えられるわけではないのですよね。

4月の終わりの夜の仕事の終わりの帰り道、または4月30日の歯医者の帰り道、私はいつも以上にぼんやりとしないように気を付けて帰りました。ここまで来たのだから気を付けなくてはと思ったのです。

そして無事に令和を迎える事が出来ました。

私と同じ年に生まれた友達の愛子さんは、昭和・平成しか生きる事が出来ませんでした。

やっぱり三つの元号を生きる事は、ただそれだけで素晴らしいと思い、また感謝の気持ちが心の中に溢れるのでした。

 

昭和・平成・令和を生きるー。

私は戦争が終わって、なんだかそれは過去の出来事のように感じるようなそんな時代に生まれてきました。そして今だにその「戦争を知らない」を継続中。

10年ごとに戦争をしていた日本の、素晴らしい時代を生きています。

そしてそれを誇りに思っているのです。

またその奇跡を次の人たちに繋いでいきたいと、心の底から願っています。

 

4月30日は姑の家で、夫殿の一族集合でお食事をしました。

姪の婿殿が、

「もう一つ行けそうだな。」と言いました。

つまり、生前退位ならば、もう一つの元号の時代まで生きられると言ったのです。まだ30代ですから。

そう思っている若い人はたくさん居そうです。

4つかー。

ああ、私には、それはとっても微妙な事だなと思いました。

だけど姑は大正14年生まれなので、大正・昭和・平成そして令和までたどり着いた94歳なのです。

 

姑はただの94歳じゃないなと、今これを打ちながらまたしみじみと思ってしまいました。

みんなが集う、その時のお食事をひとりで作ってみんなを持て成し、私とは映画に行って、

「キムタク、良いよね~」と会話してる・・・・・・・。

こりゃ、負けっちゃいられないと思うけれど、心のどこかで、勝てそうもないなってちょっと思ってしまっている自分がいるのです^^

 

 

 


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グダグダ言うなよ。

2019-01-12 13:57:48 | 思いつくまま

家で近所の子供たちのお勉強のお手伝いをしています。

昨年のとある日。

 

「じゃあ、Practice。これをやりたまえ。」と、少年に差し出したものは、今やり方を教えたばかりの計算問題がどっちゃリ。

「ああ~」と少年。

「そう嘆きたくなるお気持ちは分かりますけれどね、数学はこのウンザリするような練習を繰り返すことが、すこぶる大事な事なんですよ。」

「分かっていますよ~。分かっているけれど、気分じゃない時ってあるじゃないですか。」

 

ー すっごい分かる !!

気分じゃない時に、気分じゃないものをヤレと言われる面倒くささ。私なんかベソをかきたくなるってものさ。―

だけど私にも立場と言うものがあるのでね、「じゃあ、止めっかな。」とは言ってあげられないでしょう。それで私は語りました。

「昨年自治会の役員をやったせいもあって、かなり年配の方々ともお知り合いになったのだけど、その中のある方とある方が同じ歳。だけど全然違うように感じるのよね。

なんでかなあと考えてみたのだけれど、その違いはね、ひとりの人は体の調子が悪いせいもあって、暑い寒いから始まって自分の生活すべてを愚痴ってばかりいるの。

もうひとりの方は『年寄りなんかこんなものよ。』みたいにサバサバしていて、まったく愚痴らず、やるべきことはきっちりやって、なおかつ新しい事にも挑戦し続けているのよ。

大事な事は、やはりグダグダ言わないと言う事なのだと私は学んだなぁ。グダグダ言う事によって差がついちゃうって事なのよね。だからね、・・」

 

「分かりました !!!」と少年。

― まあ、なんて素直な・・・ ♪ ―

「歳を取ってグダグダ言ってると、老けて見えると言う事ですね。」

― ・・・・ !?
いや、話の内容としては間違ってはいないけどね。(^_^;) ―

 

「だから俺は、今のうちに思う存分、グダグダと言う事にします !!!」

 

※        ※        ※

もちろん彼は、わざと言ったのです。大人とのこういう会話は、子供にとっても意外と楽しいものがあったりするのですよね。いろいろと話せる大人を親以外に持つと言う事は、大事な事だと私は思っています。

 

※       ※        ※

今朝、このブログの「家族スナップ」のカテゴリーの記事をたくさんお読みになって下さり、ありがとうございました。私も読んで下さった記事を追いかけるように読み直してみました。もうおっさんズになってしまったラッタさんとルート君との懐かしい会話。笑いながら、チョピッと涙が出ました。

もう大人になってしまった彼らでも、意外とその会話は楽しいものですよ。でも大人対大人の会話なので、昔ほどの面白さはないのです。

それでも私は幸せな事にこんな仕事をしているものですから、少年・少女たちのこの時代だからこその楽しい会話を楽しみながら、今も暮らしているのです。


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埋もれた砂の中・咲き乱れた花の中

2018-05-23 01:08:19 | 思いつくまま

薔薇の季節2018のその2

ついでながら、お喋りなどを。

 

大人になってから始めたピアノは、ちっとも上達はしません。

そんなのは当たり前。

練習をしない時はまったくしないし、お稽古に行くのも気まぐれだからです。

近頃は、教えてくださっていた方がすっかり多忙になってしまって、

お稽古の予約がなかなか決まらなかった事もあって、ますます離れ気味になっていました。

だけどまったく止める気はないのです。

 

アレですよ、あれ。

アレッて何かというと、

つまり私は、音楽の調べを愛しているのですね。

調べまでも行かなくても、美しい音に触れた時に、

幸せを感じる人なのです。

 

まあ、ダラダラ行こうと思っています。

だけど今日、ソファミレと弾いた時に、

ああ、綺麗な音だなあと嬉しく思いました。

 

「えっ、ソファミレの何が?」って思う方もいるのかしら。

でも、綺麗なソファミレと、そうじゃないソファミレがあるのだよ。

と、

さも何か極めた人の言い方をしているけれど、実は低レベルなだけなのですよ。

ワハハ。

 

だけど、その時私、ある事を思い出してしまったのです。

この薔薇を見に行った時、どこかのお教室の合同の発表会が近くでやっていたので、ちょっとだけ顔を出してみる事にしたのです。

本当は、その発表会に行くのがメインで薔薇はオマケだったのですが、

ご一緒したお友達が、

子供の時にピアノをやっていた事があったからか、またはお友達のまたお友達の影響なのか、

子供の上達途中のピアノの音は聴けないと言いました。

私などはその子供たち以下の実力なので、どちらかと言うと全部感心しながら聴けてしまうのですが、

お友達の話に「なるほどなあ。」と思ったのでした。

思い入れのない子供たちしか出演しないならば、

我慢して聴く必要はないのですものね。

 

だいたいこういう発表会は家族や知人が観客が多いので、知っている方が出る時間を狙って聞くことにしたのです。

適当な時間に行くと、ピアノの音が聞こえてきました。友人が

「まだ子供の時間ね。」と言いました。

でもすぐに歌声が聞こえてきて、それが歌の伴奏だったことが分かったのです。

吃驚するぐらいタイミングよく会場に来ることが出来たと知って凄いと思いました。

だけど私は友達が言った

「まだ子供の時間ね。」の意味が、なんとなく分かってしまって心に残りました。

音響がすこぶる悪い会場だったのです。

だけど、それだけかしら・・・・・。

 

音楽を愛する人がいて、世界に音の調べが溢れています。

その中で心を貫くような音、または調べに出会えることは本当に幸せな事だと思います。

溢れる音の中の澄み渡る一音は、咲き乱れる花の中で本当に美しい一輪の花を探すようなものなのかも知れません。

または使い古された表現ですが、砂浜の中の一粒の砂とも言えるのでしょうか。

 

それはまた、音楽の事のみとは言えない事なのかも知れませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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