森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

ポーの一族 「ユニコーン」 vol.2 ホフマンの舟歌【後編】

2018-07-30 00:04:37 | 漫画・マンガ・まんが

例えば優雅にまたは豊かに生きていく為には、音楽をまたは絵画(別の物語で)を愛することは必須だなと、エドガーとアランは私に教えてくれるような気がするのです。

ピアノを弾くエドガー。その音の調べに合わせて歌を歌うアラン。

「ホフマンの舟唄」の後編は、ベネチアでのコンサートの出来事と、少し後を描いていました。

 

あがり症のジュリエッタ。その原因はたぶん母親へのコンプレックスだと思います。だけど彼女の歌を聴いて、アランもエドガーも心から自然に、そして普通に褒めるのです。

「上手いなぁ、お姉さん。」

「『舟唄』を歌うのにピッタリの名前だね。」

「声も甘くてステキだね。」

それだけで、ジュリエッタは自信を持つー。

 

凄く素敵な流れだと思いました。

そしてアランはまた褒めるー。

「ホフマンの舟唄」を聴いて。

「ぼくね、

この美しい歌は

波も聞いて海も聞いて風も聞いてて

世界の遠くまで

響いていくと思うよ。」

 

アラン、詩人ですね。

こんな風に人を褒めるのって、そうそうできる事ではないですよね。

そしてこの「世界の遠くまで響いていく。」と言うのが、(ここでは)ミューズの願いでもあったのですよね。

 

わざわざ窓を開けて、聴かせたかった人がいたのです。

 

エドガーとルチアの始祖であるシスターとの(ある意味)対決、サルヴァトーレの愛の行方など次に繋がる展開にもトキメキました。

私はあまりヴァンパネラの謎には迫ってもらいたくない方なのですが、かなり解明されつつあって、ちょっと怖いです。

 

次回の「ユニコーン」の続きは、2019年の春だそうです。

エライコッタ。

アッチが痛いコッチが痛いなどと言ってる場合ではございません。

 

(この下にも、少々記事は続いています。)

月刊flowers 2018年9月号(2018年7月27日発売) [雑誌]
flowers編集部
小学館

 

 もっとエライコッチャと思ったのは、「萩尾望都画業50年企画」が2019年1月から始まることなのですよ。

「ポーの一族」の上下巻が同時発売なのですが、

「持ってるから要らないや。」と言うわけにはいかないかも。

「萩尾望都先生より加筆訂正された原稿を使用。」だって !!!

その告知は上記の雑誌の、110ページにありますよ~。

 

あっ、そうだ !

私、ちょっと思ってしまったのですが、ミューズ(ダイモン)の兄さんって、もしかしたら大老ポー ?

愛と憎しみは紙一重と言うし・・・。しかし彼らに何があったと言うのでしょう。

本当に簡単に語れるわけがない叙事詩のような物語ですね。


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かんぽ生命ドリームシアター宝塚雪組公演『凱旋門』

2018-07-29 16:54:27 | 観劇・コンサート日記

 宝塚の舞台は、本当にサービス満点。私はコメディにはイマイチの反応の人だと思うのですが、

そのほかの舞台では、いつだって大いに泣いて心も揺れて、そして元気になるのです。

舞台は最高。宝塚のラインダンスは地響きを起こすのだなと、今回初めて知りました。

以下は主にお出掛け日記とほんのちょっとの感想です。

 

 朝起きたら、眉間に皴が寄っていました。深く刻まれてしまっていたと言うか。

ショックでした。確かに真夜中、足は痛み、その痛みに耐えながら寝てはいました。

恐ろしい事に、その痛みに耐えた長い時間が、私の顔に皴を作ったのです。

「まじいまじい」と言って、私は中指の先でその皴を伸ばすように撫ぜたのでした。

 

だけど世の中は一つマイナスがあれば、きっとプラスもあるもので、台風が近づいていると言う天気予報を気にしつつ、7月28日は宝塚の公演に出掛けてまいりました。

このチケットはかんぽ生命の招待で、その抽選に姉の娘婿が当たって姉にプレゼントされたモノが、ペア招待だったので私にもおこぼれが回って来たのです。

なんと言うラッキー♪

だけど台風の事も気にしていました。だけど姉に聞いたら、行く選択肢しかないと彼女はきっぱりと言ったのです。

毎日は、そんなに苦しい事ばかりではないかも知れませんが、それでも早々楽ではないと言う日が続く事もあるでしょう。

宝塚の公演には、そんな日常の辛さから救い出してくれるような、そんな気持ちにさせる何かがあるのですよ。

 

天気予報では、出掛ける12時ごろには既に強雨だったのに、実際には雨もまだ降っていなかったのです。

それで私は行く途中にある大好きなゴジラさんの写真など撮って、ウキウキと劇場に向かいました。

 

この日の強運は、姉にありました。座席は劇場にて抽選で決まるのでした。姉が引き当てた座席は・・・・

なんと !!

 

 

ss席だったのですよ~。

私が引いたら、きっとB席だったのじゃないかしら。

このSS席は確かに実際に買い求めたらお値段も高いのですが、それよりもこの席を普段自分で求めようとしたら、発売日の初日一番にパソコンと(無駄と知りつつ)向かい合うか、友の会などに入らないと無理だと思うのですよね。

 

確かに私の足は痛いまま。姉の体調もイマイチで、外は台風。

だけどそれを押して来た甲斐が本当にありました。

 

抽選で席を取ってから、劇場開場までの時間に遅いランチを取りました。

なんたって薬を飲まなくてはね(ちっとも効かないのだけれど)

 

 

かんぽ生命さんは太っ腹です。

パンフレットもお土産に頂きました。

カッコいいですよね~。

宝塚の男は本当にカッコいいのです。

(えっ、そこで「男か?」って言っちゃあだめですからね。)

 

お土産には

 これを買ってきたのですが、中身はチョコ。食べ終わったらペンシルケースに使うつもりです。

 

このミュージカル・プレイの『凱旋門』には、-エリッヒ・マリア・レマルクの小説による- という副題がついています。

凱旋門(上)
山西英一
グーテンベルク21


『「ふたりは細い雨の降っている、人影ひとつない灰色の街を歩いていった。街の端までくると、ふたりのまえにまた広場がひろびろと果てしもなくひろがった。流れる白銀の糸の中から、凱旋門のどっしりした灰色の姿が、震えながら空高くそそりたっていた」』

パリと雨は本当に良く似合うー。

原作の文章のイメージがばっちりです。衣装も美しかったです。

「パララ パララ パララ~」と頭の中で音楽が響くと、なんだかべそをかきたくなりました。

本当は絶望しかないようなラスト。管制下の元、灯りの消えたパリの街で暗黒に浮かび上がる凱旋門が、それを象徴しているかのようでした。

だけど必死に生きて必死に愛したラヴィックは、いつか親友であるボリスといつかパリのフーケで再会するのではないかと、勝手に妄想せざるを得ません。

ラヴィック 轟悠

ジョアン  真彩希帆

ボリス   望海風斗

 

かなり昔(1948年)に映画にもなっていました。

凱旋門 イングリット・バーグマン 【DVD】
イングリット・バーグマン
メーカー情報なし

 

この公演のBlu-rayは9月30日に発売予定で、今は予約販売をしています。

雪組宝塚大劇場公演 ミュージカル・プレイ『凱旋門』 ショー・パッショナブル『Gato Bonito‼』 [Blu-ray]
望海風斗,真彩希帆,彩風咲奈,彩凪翔,梨花ますみ
宝塚クリエイティブアーツ

 

帰り道、雨は降っていましたが、大したこともなく家路につきました。

「雨、大したことがなかったね。」と夫に言うと、

「君が舞台を観ていた頃、大雨で強風だったのさ。」と言われました。

やっぱり…ラッキーだったのかな。

 

楽しい一日でした♪

 

・・・・足は痛いけれどね(/_;)

 

 

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今じゃないでしょ。

2018-07-27 13:24:03 | 梢は歌う(日記)

連日のうだるような暑さが、今日は和らいでいますね。

だけど早ければ今日の夜から雨で、明日(28日)には台風上陸だとか。

関東では、こんなに雨が降っていないのではそろそろまずい状態なのではないかと思っていた所に雨。

イイのではないでしょうか。

だけど

  台風・・・

じゃなくても良かったんじゃないかと。

空よー。

明日は出掛けるんですよね。

今じゃななくても・・・

もしくは

真夜中限定にしてくれないかな~。

ってなわけにはいかないか。

 

 

今週は楽しみな外出が二つの予定。

ひとつは明日。

もう一つは25日。

行ってまいりました。

観てまいりました。

「レインマン」。

メッチャ良かったです。

感想はまた書きますね。

 

だけど今は痛みに耐えています。

その痛みと言うのは、足が、足がいたーい !!

 

ちぎれるように痛い。

ちょっとだけ23日に腰痛を感じました。

大した事はなかったのです。

25日の朝も、参加しているサークルのダンスやら、花殻摘みとかをやった後

(出かける日の朝にしては多忙)

「あっ、いたた」ぐらいは思ったのです。

でもやっぱり大した事はないような気がしたのです。

 

秋葉原に着いて岩本町まで徒歩で移動です。

その時、

「痛い!!!」

足の付け根がイタタタタ。

 

と思いつつ

 

街の写真を撮る私。

(和泉橋の上から)

 

 

「神田川」は決してきれいな川ではないけれど、

それでもやはり、何かしらの美しさは存在しているんですよね。

しかし写真撮ってる場合か。

って言うか、

何よ、この痛み。

それ、今、止めて欲しいわ。

でも座っていると、痛みは感じないので、移動中は「イタタ」でも

お芝居は堪能できました。

 

だけど寝る時には激痛で、翌日の昨日は病院に行きました。

痛み止めを貰ったら、劇的に良くなるのかと思ったら、そうでもなくて辛いです。

今日(27日・金曜日)にお友達と出掛ける約束をしなくて良かったと思いました。

体力が続かないので、東京にはいかないとお断りしてしまったのですが、

本当は、出掛ける先は凄く興味があったのです。

今週末には終わってしまう「ミラクル・エッシャー展」、

ちょっと面白そうじゃないですか。

だけどこの展覧会の名前が出た時に

HPを端から端まで読みました。

 

今の私。

今年になってまた新しい事を始めて、新しい人たちとも触れ合って

なんだか心のどこかが、凄く疲れているような気がするんです。

この心理テストの挿絵にも使えそうなエッシャーの絵を見るのは

今じゃないでしょと思ったので、

本当は少々未練もあったけれど、諦める事にしたのです。

 

昨日もランチの約束をしていたのですが、お相手の方にいろいろな事が起きて、

キャンセルになってしまったのです。

でもだから私は病院に行けたのだと思います。

このお友達とは、最近会えてなくて、久しぶりだったので、

そちらからのお電話がなかったら、私は(アホなんで)出掛けたと思います。

 

25日、時間が経過して26日の真夜中、

まさかその後足が激痛になるとも知らず

ブログを書きました。

「レインマン」の感想を普通書きそうなものですが、

なんだか心の中に溢れそうになっている幸せな気持ちを大切にしたかったので

先に、書きかけて放置してあった記事を書きました。

どうしても書き終えたかったからです。

それはひとつ前に書いた「命の尊厳」です。

 

でもその日の26日、偶然にも残りのオウムの死刑囚6人の刑は執行されました。

ちょっと吃驚しました。

それで私はまた、ちょっと関連の記事を読んでしまいました。

この「江川紹子氏、麻原元死刑囚と弟子の責任は「天と地ほど違う」「大きな衝撃を受けた」」と言う記事の中で

『また、死刑囚との面会が親族以外は困難だったことを挙げ「彼らがなぜ教祖を信じ込んだか、プロセスを語る証人なので、もう少し専門家が話を聞いて事件を研究する必要があった。カルトとは何か、テロとは何か、教訓として後々につなげていかなければいけなかった。オウムと関連事件の解析と研究が進まなかったことは残念」と振り返った。』

 

思わず、何を言ってるのだと思ってしまいました。

この長き年月は、ただ徒に過ぎたと言うのか。

じゃあ何も

「カルトとは何か、テロとは何か、教訓として後々につなげてい・・・」という研究等されていないのか。

それを訴えるとしたら、

そう、それこそ

「今じゃないでしょう~。」

と、私は思ってしまったのでした。

 

 

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命の尊厳

2018-07-26 00:44:10 | 梢は歌う(日記)

「この先、この話題はしないと思うので続けて書いてます。」と言いながら、オウムの事件のあった時の話を書いてきましたが、もう少しだけ書いておきたい事があるのです。

 

「松本サリン」「地下鉄サリン」の事を書いたと言いましても、事件そのものの事ではなくて、どちらかと言うと報道の事ばかりを書いてしまったように思います。だからと言って、その元である事件そのもののインパクトが小さかったはずはありません。

事件そのものの概要と言うのは、いろいろ取材されまた記録されていますので、検索すればいつでも知ることが出来ると思います。

ただあの時自分は何を見て、何を感じたのかと言う記憶だけは徐々に薄れていき、そして風化して行ってしまうのではないでしょうか。

だからあの時自分が思った事を、そして今思った事を書き留めておこうと思っているのです。

 

なぜあんなことが起きてしまったのかー。

それを麻原自身の口から、まだすべてを聞いていないから真実は語られていないと言う方もいらっしゃるみたいだけれど、私個人が考えでは、もうそれは永久に語られなかったと思います。

人格破壊が起きてまともではなかったからというのみではなく、この年月を思ったら、、もしまともな精神状態であったとしても、その時自分の中で信じていた真実って言うものを、彼自身も忘れてしまったって、言えなくはないのでは?

または脳内で都合よく書き換えると言う事が起きてもおかしくはないとも思うのです。

23年の年月って言うのは、それだけの長さと重みがある !

もしもその年月の間、真実を自分の中で保ち続けるとしたら、それは自分にずっと繰り返し語りかけ記憶を途切れさせないようにしないとダメな事で、あの人にそれが出来たのかどうか疑問に思います。

―そうだわ。―

私はむしろその真実が知りたい。

 

その真実って言うのは、

「人は痴呆の真似をしていると、本当に痴呆になってしまうのか。」って言う私的疑問。

それともなぜ彼はそんな風になってしまったのかと言う疑問。

ちっぽけな魂の器にキャパ超えの恐怖が注がれたからなのでしょうか。

 

それでも遺骨引き取りに四女を指名したのですよね。何かマスコミ等で憶測されているような、ちゃんと理由があっての事だったのでしょうか。それとも刑務官の言葉のオウム返しだったとか。(ああ、ちょっとボケそうになりましたが、この記事では止めておきますね。)

 

事件当時は、彼ら殺人者の事を敢えて知ろうとしませんでした。

その人がどんな人でどのような気持ちでそんなことをしてしまったのかなど、むしろ無視したかったです。

如何なる人であろうと、その行った行為に1分の赦しさえないと思ったからです。

 

だけど今頃になって、私は彼らの事を知ろうとしました。

なぜなら、あの処刑の日、私は思ってしまったからです。

 

彼らが生まれた日、ある親たちは

「この子は何て可愛いのだろう。」と思ったのに違いありません。

また学校に通う子供を見て、ある親たちは

「この子は賢い子供だね。」と自慢に思った事でしょう。

それがどうして、こんな事になってしまったのでしょうか。

 

彼らもまた、何かを悩み何かを探し、自分の中の正義と言うものを追い求めていたのかも知れません。

出会いにその悲劇があったのだと私は思います。

彼らの人生はその時に終わってしまったようなものだったかもしれません。

若き日にはその犯罪に一生懸命に正義と思って手を染め、捕まった後には、23年と言う長き歳月を刑務所で死の恐怖と共に暮らし、そして徒に歳を取りそして処刑された・・・・。

もしも転生と言うものがあるのなら、まったく違う良き出会いの人生を歩ませてあげたいものだと思ってしまったのでした。

麻原にしたって、彼らのような弟子に出会わなければ、ただの傲慢な詐欺師でいられたのに。

 

もしも出会いに悲劇があったとしたら、その悲劇の可能性は、他の誰かにもありえたことだったと思います。

私だったり、あなただったり・・・・。

 

ある人が言いました。

彼らだって、ある意味被害者なのかも知れないとー。

 

でもだからと言ってまったく許せるものではありません。

 

坂本弁護士殺人事件では「この子だけは助けて。」と母は言ったのに、幼子まで手にかけて、しかも遠く離れた所に別々に埋めた。

いつ、彼らは人間ではなくなってしまったのだろう。

それでもだよ。

その既に人間の皮を被ったものにすぎなかった者の処刑には、その関わった人たちはその後、何も手が付かずに家に帰ったそうです。家に帰ったところで、その心に刻まれてしまったものを、その人たちはずっと胸の奥にしまい込むと思うのです。

またその知らせをニュースで聞いた私たちでも、大きな重いものを感じたと思います。

人の死と言うものの前には、普通の人間の感覚だとそうなると思うのです。

 

だけど

この会合とこの写真、災害の事で叩かれていました。

「(災害が)まさかこんなことになるとは分からなかった。」と言うような弁解をしていましたが、私がこの画像を見たのは、このオウムの処刑に絡んでのツイートでだったのですよ。

オウム事件は、日本の安全神話を叩き壊した事件だったと思います。彼らの死を思ってと言うのもあるけれど、その彼らによって失った命を思うならば、その処刑を知っていた人は、やはりこれはないかなと思えてしまうのです。

 

確かに大人の事情はありますよね。予定変更は叶わないとか。

だけれど記念写真まではいらなかったんじゃないかしら。

何も考えていない・・・・。

そう思っていいのではないかしら。

 

それからまだこの時思った事があったのですが、オウムは消えているのは名前だけだと思っているので、あまり踏み込んだことを書くのは、如何に世界の片隅で書いているようなブログであっても、止めておこうかなと、そろそろ思い始めています。

 

ああ、だけどもう一つだけ、正直な気持ちを書かせてください。

今回の大量処刑は、来年の天皇即位に寄る恩赦に関係があるのだと聞きました。

日本に終身刑は無く無期懲役。

この事件のみではなく無期懲役の人達に、恩赦など与えないで欲しい。

単なる私の願望に過ぎない、本音です。

 

 


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君は偉いね。

2018-07-22 15:05:55 | お散歩&写真日記
 
うちなる命の煌めき
歳が五つ、六つ、七つのそのあたりの私の心配事は、私は他のみんなと同じようにちゃんと死ねるのだろうかと言うものでした。私は昔から信心深い子供でしたので、何かの折には神仏に手を合わ......
 

上の囲みは昨年の7月21日に投稿したものです。

過去のブログの記事は、未来の、今の私への手紙だなと思いました。

「うんうん。」「そうかそうか。」と頷きながら、私は自分の記事を読みました。

(goo様、ありがとう。)

 

そしてまた、ちゃんと丁寧に生きたいものだと思ったのでした。

 

ところでおとといの20日の日は金曜日でしたので、短い時間のバイトですが、1時間ほど間が空いてしまうので、近頃はその時間にスーパーのイートインコーナーで、コーヒーなどを頂きながら読書タイムを取らせていただいています。

そこに向かう道で、幾分暑さも和らいだような気もさせる夜風が吹いてきました。

その道をスタスタと歩いていましたら、ふと、自分の中の命が輝いているような気持ちになりました。

今日と言う日をちゃんと生きる。今日と言う日を、ちょっとだけ頑張って生きる。ただそれだけで、そのような気持ちになれたのかも知れません。

 

 

またその日の月は、半月でありながらとっても美しく輝いていたのですよ。

私はそのように美しい月などを見ると、やはり自分の中の命も輝くような気持ちになるのです。

帰り道、美しい月の光と一緒に軽い足取りで歩いていた時、ふと私の眼の中に飛び込んできた夜のひまわり。

なんともドラマチックな光景じゃないですか。

このヒマワリは昨年の花の種が落ちて勝手に育ったノラひまわりですよ。

昨年あたりまでこの柵の中は、ひまわりとコスモスが競演するように咲き乱れていたのです。でもその時もたぶん咲き乱れていた者たちは、勝手に育ったノラさんたち。

前に管理したり手を加えていた人の名残りか、それともここなら良いかと種を捨てていく人もいたのか、その二つの花ばかりではなく、時々他の花たちも紛れていました。だけど雑草もいっぱい。

それでも道行く人を楽しませていたのです。

手を加えられなくなって持ったのは昨年までがぎりぎりだったのかも知れません。

今年は見るも無残な雑草ばかりの空き地です。

 

ここを綺麗にしていた人たちは最初はきっと張り切っていたと思うのです。少々不愉快な感じの小さな看板まで立てて自己主張までしていましたから。

だけどこういう善意は、永遠とは続かない事だと思います。人の肉体や気持ちの若さはずっと同じと言うわけにはいかないからです。それは仕方がない事だと思うし、「今まで」を評価し感謝しても良い事だと思うのです。

だけど自己主張の看板もそのまま放置。

引き際と言うものはよく言われることですが、それは「時」を指すよりも「所作」を指して大事だと言われるものかも知れませんね。

なんたって週に三日もこの道を通るので、ちょっといろいろと考えてしまう事も多かったのです。

 

だけどこのヒマワリを見よ。

川の流れのように押し流されて行ってしまう人の思惑や人の時間。

みんな関係ない。

このヒマワリは、ただ自分の命を全うさせようとしているだけ。

しかもまだ柵の内側だったら守られることも多いのに、あえて柵の外に生まれてきてしまうとは。

だけど立派なヒマワリになりました。

 

 

私はにっこりほほ笑んで、じっとヒマワリとそして遠くに輝く月を見て、なんだか勇気のようなものを貰ったような気がしたのです。

 

そして思わず私は言ってしまいました。

 

君は偉いね。

って。

 

 

 

 

 

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幕が上がりましたね

2018-07-21 02:16:28 | 観劇・コンサート日記

とうとう、昨日「レインマン」の幕が上がりましたね。

皆さんのツイッターでの初日感想を読むと、またまた違う竜也さんを見る事が出来そうです。

ハンカチは必須みたいですね。

 

もちろん私、行きますよ。

凄く楽しみです。

当日券などもあるようなので、皆様も是非。

新国立劇場HP

 

そして、またまた更に楽しみな事は続きますね。

 

19日に発表された来年2月の公演。

「プラトーノフ」。

 

 

なんと四股 !!!

 

しかもチェーホフ。

 

(あっ、いや、チェーホフさんはちょっと難しいなって、ちょっと思っているものだから^^)

 

※ なんか毎日が暑すぎちゃって。その割にはいろいろやってます。気力が失せているのは、珍しい事にブログ書き。

しばらく止めておくかなとか思ったりもするのだけれど、書かない事によって記憶が失せてしまうのも嫌だな。

こう言う時に生きてくる言葉って「適当に」ってやつですよね。

 

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どこかに行きたいと思いつつ

2018-07-18 02:25:36 | 梢は歌う(日記)
 
ふらり『清澄白河』
火曜日に皮膚科に行って、思ったよりも早く終わりその後友達とランチに行ったって言ったじゃない?  その時、ふと思いついて『清澄白河』に行ってみたんです。 ......
 

 上の囲みは昨年の7月14日に投稿したものなんです。

昨年の7月11日(火)に病院の診察が早く終わったので、お友達を呼び出して『清澄白河』にふらりと行ったと言うお話です。

「ねえねえ」と呼びだしてきてくれる友達がいてくれるって、本当に幸せな事だと思うのです。

だけど今年の7月13日、実は逆の事があって、だけど私、「はいはい」と言って出掛ける事が出来なかったのですよ。

 

なんか自分の中で悔いのようなものを感じました。だって、友達がフットワーク軽く来てくれることの嬉しさを私は知っていたのですから。

 

だけど、まあ言い訳&反省点なのですが、その週は月曜から木曜日まで毎日お出掛け&お仕事(ほんの少しですが)。だけど私的には疲れてしまって、金曜日は朝からのんびりとしていたのです。主婦の「朝からのんびり」は「家事を何もしていない」と言う別の言い方であって、その日の夜のバイトがなかったら、何もせずとも「ok」と言えたと思うのですが、夕食を作って出かけなければならない日だったので、家事は放り出せない状況。

と言うわけで、やむなくお誘いをお断りしてしまったのですが、なんか申し訳ないような気持ちがしてしまったのでした。

で、反省。

「やるべき事をやってからのんびりしましょう。」というもの。

「当たり前だのクラッカー」と言われそうなことかもしれませんが(言うわけないか・(笑))

その日に何があるのかは分からない事なので、フリーな時間を作っておくと言うのはある種の備えですよね。

 

 

そのお誘いを受けた方とは、ちょっとだけ夕方に会ったのです。

「昨年はお出掛けが多すぎたよね。」みたいなことを私が言うと、

「今年は輪を掛けて、もっと凄い。」とその人が言ったのです。

「ひぇ~、そうなの !!!」って私は言いました。

 

私って、自分も好きな事に関してはけっこう影響を受けやすい人。

ああ、どこかに行きたいなあってな気分になってしまいました。

 

でもどこに行く ?

 

本当はちょっと行きたいところはあるのです。

だけどなんたってこの暑さでしょう。

行くにしたって、今ではないような気がするのですよね。

 

やっぱり夏行く場所は、海とか山とか避暑とかじゃないかしら。

行った先で何が見たいのかしら私 ?

 

そんな事を考えていた、その翌日、お仕事で出かけた先のその近くの森で(このブログには以前にも登場してます。)

その木々を見ていたら、

「もう私は、その『どこか』に来ているんじゃないのか。」って思ったのでした。

 

だけどやはりどんなに毎日あちらこちらに出掛けていたとしても、それでも時に旅ごころに襲われるのは、非日常を求めてなんじゃないかしら。

はっきり言って、主婦業に休みなし。

泊りがけで逃げ出さないと「おやすみ」にはならないものね。

 

ここまで書いたら、自分の気持ちが分かってきました。

見たいものは、私の毎日の日常の風景に既にあるような気がします。

要するに、非日常に逃亡したいのね、私。

 

 

とりあえず、その非日常への逃亡の予定なし。

この夏は「時間の備え」を作るためにも、我が家を相手に向き合う事にします。

(の、割には小口の外出の予定は多いかも…)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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やってはいけないと思う、これからも。

2018-07-15 13:12:50 | 梢は歌う(日記)

あっ、そうか。「やってはいけない。」って、テロの事を言っているわけじゃないんだけれどね。そう思われるかな。まさかね。だって、あれは「やってはいけない」ってレベルの事じゃなくて、「ヤルナヨ、馬鹿 ~~!!!」ってレベルですよね。

 

※        ※        ※    

もうこの先この話題はしないと思うので、続けて書いています。

 

※       ※         ※

 

先日、参加したボランティア先で、やはり今の話題としてオウム真理教の死刑囚の刑執行が話題になったと言いました。

その中の一人の方が

「あの『地下鉄サリン事件』の時、私は京都に居て、その日に帰る予定だったけれど、『東京で、大変な事が起きたらしいから今日帰るのは止めた方が良い。」と兄に止められたのですよ。」と語りました。

すると別の方が、

「私は仕事をしていた時、あの時間のあの地下鉄を使って通っていたので、他人事には思えなかった。」とも言いました。

これは私も、かなり同じような事を感じた事だったのです。

 

大きな事件があった時、その事件が共通体験となって「あの時私は」と言う記憶が残ったりすると思います。

かつてあったその事件や事故を風化させてはならないと思っても、やっぱり自分の中では風化して忘れていってしまうと思うのです。だけどその時に自分は何をしていたのか、またその時自分は何を見てどう思ったのかを覚えていると言うことが大事だと思います。

だから事件の概要など、または実行犯のあれやこれや、警察のその時のあれやこれやなどは、このブログでは取り上げていないテーマなのですが、いずれにしても私が、それをテーマにしても、あまり自分らしくないなと思ったりするのですよね。

だけど、もっとしっかり知りたいと思う方は、それをテーマにしたブログなどを選ぶか、または→「地下鉄サリン事件」などをどうぞお読みくださればと思います。

 

1995年3月20日の8時前後通勤ラッシュ時の時間帯を狙って起きたそのテロの情報は、比較的早い段階でテレビの速報で流されたのではなかったでしょうか。

何が起きたのか分からないまま、その異常な光景はテレビの向こう側から映像となって送られてきました。

その日、私が何をしていたのか、全く記憶がありません。

それはまるで当たり前のような日常の朝を破壊してやって来たような出来事だったからです。

誰もが送るはずだった、普通の日。

(でもその普通の日を送ろうと思って、いつものように乗り込んだ地下鉄の中で、それと遭遇してしまい、今もその後遺症に悩まされている方々の事を想うと、23年はあっという間だったのか、それとも長い年月だったのか分からないような気持ちにさえなるのです。)

 

ただその日も私は姉と、ほぼ日課になっている朝の電話タイムを持ったように思います。

その時私は言いました。

「あの人はさ、助かったのよね。」と。

 

テレビから流されてきた映像は、緊迫感のある恐ろしいモノでした。

中年の男の人が倒れ、抱きかかえられたままで、たぶん救急車を待っているのだと思いましたが、目は大きく見開かれ、焦点が合わないような感じで瞬きをしていました。そして口は魚のようにパキぱくいっていたのです。

それだけで、朝、地下鉄に恐ろしい事が起きたのだと分かりました。

顔はアップで大写しです。

 

「あの人は、助かったからあんなにアップで写されていたのよね。」

きっとあの人は、自分に近づいてきた者を、その苦しさに耐えながら、きっと自分を助けてくれる人たちに違いないと思ったかもしれません。

 

だけど後になって、この地下鉄で散布されたモノがサリンだと分かり、その被害に遭った時の状況などが伝えられるようになると、とてもあの苦しんでいた方が助かったとは思えなくなったのです。

たぶんニュースなどでその後の事は知らされたのかも知れません。

もしかしたら、私が知らないだけで助かっていらっしゃったかも・・・(そうだと良いのですが。)

 

だけどだけど・・・・

やっぱり思います。

苦しんでいる人の表面からしかもアップで撮り続けた、そのカメラの仕事は絶対にやるべきではなかったと思うのです。

 

あの時、いち早く駆けつけて、その映像を撮った人はスクープだと喜んでいたのでしょうか。あの映像はその日ずっと使いまわされていました。誰もそれを使う事を止めなかったのでしょうか。

その映像を今現在に、23年前に「地下鉄サリン事件」がありましたと言って、当時の状況として流すことが出来るものなのかと問えば、絶対に出来ないと私は思います。

 

時が過ぎて、いろいろと冷静になったり、気持ちが成長したりして、時には過去の仕事ぶりなどを悔いる時もあるかもしれません。

忘れてしまいたい事も。

 

だけどね、悪いんだけどさ、私は忘れてあげないんだー。

と、私は思っています。

 

私はあの時、自分がそこに横たわっているような錯覚に囚われました。

― 苦しい苦しい、誰か助けて。目もやられたのかしら、良く見えないわ。『大丈夫ですか。頑張って。もうすぐ病院に行けますよ。』って誰かが励ましてくれているわ。ありがとう。ああ、近づいてきたあなたはお医者様ですか。助けてください。息も苦しいです。話す事も出来ないんです。真上からじっと見降ろしているあなたは誰ですか。助けてください、はやく・・・・ ―

そう思って横たわっていた私の姿が、その日のニュースにずっと流されて・・・・・・・・

 

もちろんそれは妄想、凄く悲しい。

 

報道と言うものは、衝撃さだけで、選んでいっては、裁かれない罪を作ってしまうものかも知れません。

 

違う意味で、忘れないでいたいと思う映像。

あの袋の中に恐ろしいサリンが入っていたとは知らずに、ホームに投げ出されたそれを丁寧に片づけていた助役さんの写真。

あの後、その方は亡くなってしまったのです。だけどそのきっちりとお仕事をされていた姿を、むしろずっと覚えていたいなと思うのです。

 

それもやはり、その日を伝えようとした報道のお蔭だと思います。

 

「地下鉄サリン事件」は23年も前に起きた事件かも知れません。だけど、そこで学び伝えていきたい事はたくさんあったかもしれませんね。

 

 

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あの時学んだこと。

2018-07-11 17:00:38 | 梢は歌う(日記)

この先、きっとこの話を話題にすることはあまりないと思うので、続けて書いています。

 

私が「松本サリン事件」で学んだことは、当たり前の事ですが、「夜は窓を閉めて寝よう。」などと言う事だけではありません。

たぶん大勢の人が同じ過ちをし、そして反省をし(ここが重要な分かれ道だ。)、学んだと思う事があの事件にはあったのではないでしょうか。

つまり冤罪の作られ方と言うものを。

そしてー。

 

だけど人は忘れてしまう生き物なのです。そして前の記事で書いたように、あの時にまだ世界が見えていなかった子供だった人たちが育って、また社会の中心になっていたりすると、学ぶ機会がなかったのかも知れません。

 

今はあの豪雨被害の事が第一に報道されなくてはならないし、それが当然だと思っています。

ワイドショー的な話題では、今はあの看護士の件ですね。

 

だけど少し前は、あの金持ちの男の人の殺人事件の事でワイドショーは持ちきりではなかったですか?

あの時、さながら契約妻はまるで犯人のような報道のされ方をしていました。もしくは相当怪しいような言い方で、彼女は弁明のインタビューを受けなければならなかったのですよね。

1か月100万円、貰っていた・・・・

そんな事を世間に向かって、言わなくてはならない事なんだろうか・・・・?

 

確かに怪しいような部分はあるのかも知れませんが、報道の仕方は気を付けなくてはならないと思いました。

そして一番大事な事は、見ている視聴者は、テレビの誘導に引っ掛からない事だと思います。

 

2時間ドラマのサスペンスの時、よほど凝った作りの名作でなければ、情報はほとんど視聴者にドラマ内で晒されていたりするのです。だから得意な人は(結構自信あり)、犯人が分かるのです。

だけど実際に起きている事件では、ほとんど情報はマスコミ経由で相当な穴あきパネルのようなものです。それなのに分かったような口を、たとえ奥様ランチのお喋りなどの時にさえ決めつけたような言い方をするのは如何なものかと、きっぱりと思います。

 

そしてそう思うのは、あの「松本サリン事件」が教えてくれたからです。

 

あの時、何でか奥様ランチが続いてあったような気がします。

最初の時、早い段階ですでに容疑者があがり、それが農薬が混ざってみたいなことが言われた時、その奥様ランチでのみんなの話題。

「えっ、なんか、だらしがなかったのかしら。男の人なんか、農薬とか薬品なんか物置に放り込んでおくとかやってしまいそうよね。パッケージが劣化して破れて混ざっちゃったのかしら。なんか心配になって来ちゃった。実家のお父さんなんかやりかねないわ。今日電話しようかな。」

みたいな感じ。

ここまでだって、物凄いショックな事件でした。

何かの薬品が勝手に混ざっちゃって、(もしくは除草剤として故意に配合したのであっても)、それが近隣住人を大量に殺傷してしまうガスを生み出すだなんて、いまだかって聞いたことが無いじゃないですか。

そのようなレベルで、ある人に起きたとする過失致死傷害は、他の人にも起こり得る事ではないでしょうか。

 

この時、第一通報者の方を、警察では参考人として話を聞くと言う形式だったかもしれませんが、ニュアンスとしては第一容疑者であったような印象を、殆どの人が感じたのではないかと思います。それと言うのも、マスコミがそれの後押し報道をがんがんと遣ったからです。

 

昨日はボランティア活動で、あるサークルに顔を出してきました。

この時、やはりオウムの人たちの処刑が話題になり、あの時の事件の事が出てきました。

誰もが「松本サリン事件」の犯人は、あの男の人だと思っていたと言いました。

そうマスコミが言ったからだと思います。

 

その後、ガスの正体が「サリン」と言う聞いたこともない猛毒だと分かりました。

 

普通のおっさんが作れるようなものではないと分かったのです。

だけど、この容疑者として疑われてしまった方は「地下鉄サリン事件」の頃まで、完全なる容疑晴れにはならなかったのではなかったかしら。

 

彼が潔白だと分かった時、

えーっ、なんなのよ。

あの恐ろしい報道リンチはって、思い怒りを感じた人も多かったと私は信じたいです。

 

そしてその方が潔白と分かった時、私を含め私のお仲間たちは「やっぱりそうね。」と思ったはずです。

 

と言うのも、ちょうど私たち奥様ランチのメンバーは、その頃30代の終わりと40代の最初の頃。まだ若かったのです。

だからだったのか、そこでの会話の応酬は、私たちをちょっとだけ冷静にさせるものがありました。

だからと言って、理路整然とした論理派の方や情報に長けた方が導き出した答えからではありません。

 

良くお気楽サスペンスに登場してくる「主婦の勘」「濃密な人生経験から来る(わけの分からない)勘」みたいなもので、あれがサスペンスで(しょうがないなあと)受け入れられるのは、意外な事に侮れないものがあるからなのだと思います。

 

「この報道は、何か狂っているよね。他社との競争に追われ、過熱し冷静じゃない。だから全部鵜呑みにはしない事にしよう。彼が犯人ってなんか変だし。」と言う私たちの結論。

 

私が、狂ってると思ったある報道のシーン。

 

母はガスの被害で重篤で意識不明のまま病院に入院している。

父は嫌疑をかけられて警察に呼ばれている。

父も母もいない子供だけがいる夜の家に、ベルを鳴らし

「こんばんは~」と入って行く報道マン。

「お父さんは、今どちらに。」と彼は中学生か高校生の少年に尋ねます。

「母は今まだ意識もなく・・・・・」

「父は今警察の方で話をしています。」

― 受けごたえがしっかりしている子供だな。こんな時に偉いな。

と、私は思いました。

でも本当に思っていたのは、そんな事ではなく、不信感と怒りです。

引き戸の玄関の向こう側から聞こえてくるしっかりとした声。

だけど子供ですよ。

子供だけの家に、この男たちは、分かっている事を聞きに行ったのですよ。

家に残されている家族が、どんな顔をしているのかを見たかったとでもいうのでしょうか。

ぼんやりとした明かりの付く玄関を離れた所で撮るカメラ。

 

「なんで行くの。この家に、今。」

 

私は思わず立ち上がり、テレビを消そうとしました。

だけどそのシーンをじぃーっとじぃーっと、忘れないように見続けたのでした。

 

この時容疑者として疑われた方(敢えて名前を出していません。)の嫌疑が晴れた時、大勢の報道マンが反省をし、謝罪の手紙を個人名で送って来たのだそうです。

きっと、子供だけの家に夜に取材に行った彼らも手紙を書いたことでしょう。

と、私は信じたいです。

 

 

なんか時代時代の流行と言うものがあるのでしょうか。

この時のカメラなど、今でも納得の出来ないものがあるのです。

そしてそれは次回に。

 

 

 

 

 

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開け放された夏の夜は

2018-07-09 17:49:55 | 梢は歌う(日記)

変化しすでに遠い昔になりつつある日本の風景はたくさんあると思います。

その一つには、夏の夜、窓を開けっぱなしにして眠ることだと思います。

そんな時代があったなんて信じられないと、若い人は思うかしら。

 

― ああ、とうとう私も「若い人は」などと言うようになっちゃった。-

 

それともどんな田舎に住んでいたのだろうって思うかもしれません。

 

横浜とか、東京に近い千葉の東葛地区を田舎と思うならそうかもしれません。

そしてそれは、そんなに大昔の事ではなかったのですよ。

 

つい先日、私は家にやって来る中学生の子に、このマンションに来る前は、夏は窓を開けて寝ていた話をしました。

だけどこのマンションに来て、同じようにしていたら、他の部屋のエアコンの室外機が出す熱風が部屋に入って来て、とても窓を開けて寝られる状態ではなかったと笑い合いました。

安全神話にとっぷり嵌った非常に抜けたような住人の話に聞こえるかもしれませんが、20世紀はその安全神話がちゃんと生きていたのです。言うなれば、日本と言う国は神話が生きる神秘の国なのですよね。いや、「だった」と言うべきなのでしょう。

 

「で、私の家も夜は窓を閉めて、エアコンを入れて寝るようになってしまったのよね。こうして地球温暖化は進む・・・・・。」

そうすると、やっぱり一斉にみんなエアコンを止めて、窓をバーンと開け放したらどうだって思うけれど・・・・・

「でもさ、そうなったのはそれだけじゃないのよね。」

と、私はその少年に続けて言いました。

「松本サリン事件、知ってる?」

すると少年は首を傾げたのです。

「オウムの。」と私が言うと、

「ああ、地下鉄のは知ってますよ。でもそっちは知らない。」

 

平成生まれの14歳。そんなものなのですよ。

この話は、本当にたまたま彼らの死刑執行の数日前に出たのです。偶然なのですが、そう言う事ってよくありますよね。

松本サリン事件を知らない若い方、または風化してしまった方はこちらをどうぞ→松本サリン事件

 

上のリンクしたところには書いていないけれど、この時、マンションで亡くなった方は3階から上の階の人が多かったのだと、私は何かの記事で読んだのです。

3階以上上だと、ベランダ側だと防犯的には大丈夫な事が多いので、窓を開けて眠ることが出来るかと思うのです。

それでその時、窓を開けて寝ていた方が、亡くなったのだと書いてあったのです。

(すでに遠い昔なので(1994年)、100%の確かさではありません。)

 

松本サリン事件が起きた6月27日は、7月に近い夏の初め。エアコンを入れるほどではなくてもそれなりに暑かったのではないでしょうか。

窓を開けて眠るー入ってくるのは熱風ばかりではないんだと、私は震えました。

 

マンションとかがあると、必ず公園を作らなくてはならないのですよね。マンションでなくてもまとまった住宅地を作るときもそうですが、何戸に公園が一つみたいなルールがあるのでしょう。

うちのマンションも例外ではありません。

その時、まるでうちのマンションが狙われたように、そしてその時の様子をまるで見たかのように、その情景が浮かんできたのです。公園の向こうの薄暗い道路に、実行犯の車が止まり、じぃいいっと息をひそめてタイミングを計るように、辺りを見回している。そして彼らは頷き合って、マスクをかぶるとそしてー。

その時から、私は一度も、窓を開けて寝た事はないのです。

 

だけどこれは相当イメージ先行で書いているなと思われる方もいらっしゃると思います。

その通りです。

私はその時、彼らは真夜中にやって来たのだと思っていたのです。当然、そう思いませんか。闇に紛れてやって来たのだと。

ところが彼らは、頭が無駄に良かった悪魔たちでした。

 

私は昔は安全神話を信じる無防備な人が普通に居たみたいな書き方をしていますが、それは単に私のみの勘違いかも知れません。

と言う事は、夜寝る時は皆防犯上、ちゃんと窓を閉めて寝るとするでしょう。

だから悪魔たちは、それを午後10時ごろに実行したのですよね。

 

ある年齢になると、午後10時は真夜中に等しいけれど、ある年齢では宵の口で、窓は開けられているでしょう。

私のうちもまだエアコンはイイナと言う陽気の頃は、午後10時頃は窓は開いていますよ。(本当はそろそろ真夜中世代なんだけれどね。)

だから亡くなった被害者は、若い人が多かったのかと思いました。

この午後10時と言うのは、上にリンクしたウィキペディアの記事によるものだったのですが、その時間帯を読んで、恐ろしい悪魔たちだと感じたのです。だけど、更に読んでみると、なんだろうかと思うほど、行き当たりばったりなんですよね、この人たち。

 

「まあ、とにかくね。」と私は少年に言いました。

「私の中の日本のある風景は、その時に終わってしまったのですよ。」と。

 

 

真夜中に急に雨が降り、温度が急激に下がって、窓の外からひんやりとした空気が流れ込んでくる。

「あっ、寒い。」と言って、慌てて窓を閉めに起きてくる、そんな夏の日の夜は遠い昔だね。

 

 

しかし、「松本サリン事件」が私たちに教えてくれたことは、そればかりではなかったですよね。

それはまた次回にー。

 

 

 


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