人生、宇宙、すべての答え = 42
Google 電卓機能で「人生、宇宙、すべての答え」と打ち込むと「42」と言う数字が出てくるのを知っていましたか。
私は子供がリビングにふらっと入ってくると、
「何か面白いことないの?」と聞くのが習慣なのですが、今年(2008年)の新年に、そのことを教えてもらいました。
― ワー、面白ーい
と、思いました。でも、どうしてかと聞くと、彼は自分で調べてくださいと去っていきました。
でも、その時は調べませんでした。
たぶん、何かのジョークなんだろうとは思いましたが、そのジョークが真面目に 電卓で答えが出てくることが素晴らしいと感じてしまいました。
「なぜか」なんて、すぐにその先の解説を知るのも野暮じゃないかなと思ったのです。でも、今年ももうすぐ終わりだし、そろそろ調べてもいい頃かなと思って、wikipediaを開いてみたのでした。
「人生、宇宙、すべての答え = 42 」は小説「銀河ヒッチハイク」の中で登場してくる答えなのでした。なぜなのかについては、その小説を読むか、映画になっているのでそれを見るか、またはwikipediaのそのページをしみじみ読むかで知っていただきたいのですが、私がそのページをテキトーに読んだ感じでは、作者ダグラス・アダムスのテキトーな閃きなんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか。
でも、その小説の中に出てくる答えを、Google 電卓機能で出す、
そのユーモアに拍手を送りたくなってしまいませんか。
私はそういうユーモアに触れた時、そのユーモアのある人もそれを面白いと感じる人も同じ感性の仲間で、なんとなく人との繋がりを感じたりするのです。
昨日書こうと思っていた「数の響き」の話です。「数の響き」には、イマジネーションに直接語りかけてくるような、そんなロマンがあるのかもしれません。
日本の数の単位ですが、どれだけ言えますか。
「一、十、百、千、万、億、兆、京、」
取り合えずこんなものでしょうか。不思議とこう言う数の単位を見ていると、お金を連想しませんか。日本の借金はおよそ800兆円と言われていますよね。「兆」と付けばもう半端ではない数なのですよね。
ちなみに世界の人口がおよそ66億6千万人。
ちょっと人の感覚って、不思議ではないですか。私が先に「京」と言う単位まで示しておき、その次に京にははるかに及ばない800兆と言う数字を出し、そしてそれよりもはるかに少ない66億と言う数字を言うと、世界の人口ってそんなものなのと言う風に感じませんでしたか?
この数字の感覚は、身近な生活の中にも様々な所で応用されていると思いますよ。時には気をつけなければならない場合もあるかもしれませんね。
ところで、日本の国家予算が88兆円、心が暗くなる日本の借金でさえ(ちなみに誰がその借金を作ったの?)800兆円なわけですから、「京」と言う単位は、いったいどんな時に使うのだろうかと思ってしまいます。地球誕生から46億年だし。もう日常の世界では皆無ですよね。
学問の世界とか宗教の世界とか・・・・
その「京」でさえ使われないと言うのに、その上の数の単位はと言うと
「垓(がい)、𥝱(じょ)および秭(し)、穰(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)、恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)」となります。
また昔の話です。
何かのスペシャル番組に特別なCMが付きました。提供は日立かナショナルかシャープか、そんなところだったと思います。宇宙の映像に重々しいナレーションでこの数の単位を読み上げていくだけ。目の前には、果てしなく続く星の海に星雲という島。
感動しました。
特に恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)には、なんとも言えないロマンを感じました。
恒河沙(ごうがしゃ)はガンジス川にある砂を意味し、それほど多くの数と言うことを表し、それの一万倍が阿僧祇(あそうぎ)になるわけです。いずれも経文の中に登場してくる言葉なのです。
でも翌日、その感動したことを会社で仲良くしていた方に言いましたら、
「何で、そんなものに。」と言われました。
そういう感覚の違いはどうしようもないことなんですよね。その時若い私は、自分が変っているのだと思いました。いわゆる少数派です。
でも、今思うとそうではないですね。
だってそのCMは、私のような人が多数いるだろうと想定されて作られたはずですから。だから何も心動かなかった彼が少数派なのですよ、たぶん。
「京」はどうやって使うんだろうと思ったりするのに、あまりに上の単位になってしまうと、もうそこには数の概念と言う理数系より、思想哲学または空想の世界に飛び出して行くように感じるのです。例えば・・・
ある時宇宙のステーションで、僕は奇妙な病気に苦しんでいる男と知りあった。何度も繰り返し生まれ変わっているのに、過去の記憶を消し去ることが出来ない。あまりに背負っているものが多くて、体の半分が透けてしまっていると言うのだ。
「何度生まれ変わったと言うのですか。」と僕は聞いた。
「たぶんあなたの半分ぐらいですよ。私はあなたとはしょっちゅう出会いますよ。」
あなたの半分と言われて、僕は益々男が何度転生を繰り返したのか知りたくなった。
「そんなこと聞いても意味はないですよ。そうですね、ほんの一恒河沙ぐらいかな。」
と、言う風に思わず想像の世界に迷い込んでしまいます。
ちなみに小数の呼び方はと言うと、
分、厘、毛、糸・・・・と続き「0、」のあとに0を24を打った場所が、名前が付いている数の最小になるわけで「涅槃寂静」というのです。
またこれにも感激してしまうわけですよ。
「ねはんじゃくじょう」
何かを砕いて砕いて、またさらに砕いていった時、そこには「無」に等しい「有」が存在するのでしょうか。なんだか心の中でこの数の単位を呟いて見ると、心がシーンとなるような気がしませんか。
さて心がシーンとなったところで、ふと気がつけば日付が変わって31日ですよ。明日の今頃は、なんと2009年。
なんだか凄いですね。同じように繰り返されているような昨日と今日なのに、12月31日には、ドンと大きな壁があり、それを乗り越えるといつもの朝日に、「めでたい」と言うおまけがついてくるのです。
そして始まる、新しい365日。
何だぁ、一年ってたった365日しかないんだよ。それを私はたった××年しか繰り返していないんだわ。こんな程度の成長ぶりでも仕方がないよね。笑った数もそうだけれど、泣いた数も辛いと感じた数も、怒った数も数えることが出来たなら、それでも億の単位まで行くことはないような。大したことないな、大したことないよ。
と、呟いてみたりして・・・。