森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

まあ、いいか、2008。

2008-12-31 23:47:28 | 梢は歌う(日記)

12月31日は、毎年「まあ、いいか。」と言う記事を書くことになっているようで・・・。
後わずかで、今年も終わり。またも遣り残したことや、なんだかこんなことでいいのかと思うことも多数。でも、重い心の荷物はいったんどこかの棚の上に上げてしまいましょう。

そして「まあ、いいか。」と呟いてみることに・・。

 

紅白、見ていますか?
私は水谷さんが終わったら、もう良いや。彼、あがっていましたね。落ち着かない様子がなんか可愛かったです。歌いだして落ち着いたと言う感じがしましたが、なんだか私までちょっとドキドキしてしまいましたわ。身内が出ていると言った感じなのでしょうか。

そういえば・・・・。「相棒」のお仲間が応援に、なんてことはなかったわね。とにかく水谷さんが家に帰るのは、12時過ぎと言うわけですね。

ところで、最近嵌っている物。

   季節限定のお酒入りチョコレート。

それからこれは、日曜日のおやつ。

   新しいケーキ屋さんを開拓しました。

そしてこれは、私が月曜日に作ったスィートポテト。

   見た目はあまり良くないけれど、結構美味しいんですよ。

でも~。  こんな事やっていたら痩せませんよね。

結局口だけに終わってしまったダイエット。来年は頑張ります。

と、一応怪しい決意などをしてみたりします。

だって、「痩せるもんか。意地でももっと太ってやる~。」なんてことは言えませんものね。

ワタクシの来年の決意、その1。
美しいと言うことに拘る。

・・・と、ここまで書いて年越し蕎麦の準備をしなければ・・・

また続きはこの後に、お蕎麦を食べてから書きますね。

                      

食べてきました。

 その「美しいことに拘る」にも関係していますが、来年は部屋の片づけを真剣にやります。

今年の年末は大掃除はしないと決めていました。基本的には日常の
「今お掃除が終わった所なの。どうぞ、お入りになって。」レベルまでの掃除にしようと決めていたのですが、それがかえって良かったのか、いつもよりは片付いている部屋での年の瀬を迎えることが出来ました。でも、やっぱり私のお仕事周りが酷いです。

全部捨ててしまいましょう。それこそ悩まずに。仕事からざっくりと。

・・・、またまたダークな暗黒面に落ちそうになってしまいました。

それでも、お風呂場を磨き、玄関のたたきやポーチにワックスをかけ、生花なんかを飾り、ポーチの花も植え替えたりしたのです。

        

 

今日は義母のうちでお食事をしました。玄関で鍵を開けながら、ふと思い出し
「ねえ、綺麗?」と聞きましたら
「何を、いきなり妖怪になっているんだ。」
「はい
「だって、いきなり『あたし綺麗?』って、そりゃ、妖怪だろ。」

綺麗って聞いたのは、私ではなく花なんですけれど・・。

 年賀状も出したし、一夜飾りにならないようにおもちも飾ったし、私的には頑張った年の暮れです。

来年の決意その2は、好きなものに拘るです。

好きな人好きなものがたくさんあります。今までどおりエールも送り続けます。

   

 

・・紅白が終わってしまいました。

今年も一年ありがとうございました。また、来年もよろしくお願いいたします。

 

  

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生、宇宙、すべての答え

2008-12-31 03:10:56 | 思いつくまま

人生、宇宙、すべての答え = 42

Google 電卓機能で「人生、宇宙、すべての答え」と打ち込むと「42」と言う数字が出てくるのを知っていましたか。

私は子供がリビングにふらっと入ってくると、
「何か面白いことないの?」と聞くのが習慣なのですが、今年(2008年)の新年に、そのことを教えてもらいました。

― ワー、面白ーい
と、思いました。でも、どうしてかと聞くと、彼は自分で調べてくださいと去っていきました。

でも、その時は調べませんでした。

たぶん、何かのジョークなんだろうとは思いましたが、そのジョークが真面目に 電卓で答えが出てくることが素晴らしいと感じてしまいました。

「なぜか」なんて、すぐにその先の解説を知るのも野暮じゃないかなと思ったのです。でも、今年ももうすぐ終わりだし、そろそろ調べてもいい頃かなと思って、wikipediaを開いてみたのでした。

「人生、宇宙、すべての答え = 42 」は小説「銀河ヒッチハイク」の中で登場してくる答えなのでした。なぜなのかについては、その小説を読むか、映画になっているのでそれを見るか、またはwikipediaのそのページをしみじみ読むかで知っていただきたいのですが、私がそのページをテキトーに読んだ感じでは、作者ダグラス・アダムスのテキトーな閃きなんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか。

でも、その小説の中に出てくる答えを、Google 電卓機能で出す、
そのユーモアに拍手を送りたくなってしまいませんか。

私はそういうユーモアに触れた時、そのユーモアのある人もそれを面白いと感じる人も同じ感性の仲間で、なんとなく人との繋がりを感じたりするのです。

 

 昨日書こうと思っていた「数の響き」の話です。「数の響き」には、イマジネーションに直接語りかけてくるような、そんなロマンがあるのかもしれません。

日本の数の単位ですが、どれだけ言えますか。

「一、十、百、千、万、億、兆、京、」

取り合えずこんなものでしょうか。不思議とこう言う数の単位を見ていると、お金を連想しませんか。日本の借金はおよそ800兆円と言われていますよね。「兆」と付けばもう半端ではない数なのですよね。

ちなみに世界の人口がおよそ66億6千万人。

ちょっと人の感覚って、不思議ではないですか。私が先に「京」と言う単位まで示しておき、その次に京にははるかに及ばない800兆と言う数字を出し、そしてそれよりもはるかに少ない66億と言う数字を言うと、世界の人口ってそんなものなのと言う風に感じませんでしたか?

この数字の感覚は、身近な生活の中にも様々な所で応用されていると思いますよ。時には気をつけなければならない場合もあるかもしれませんね。

ところで、日本の国家予算が88兆円、心が暗くなる日本の借金でさえ(ちなみに誰がその借金を作ったの?)800兆円なわけですから、「京」と言う単位は、いったいどんな時に使うのだろうかと思ってしまいます。地球誕生から46億年だし。もう日常の世界では皆無ですよね。

学問の世界とか宗教の世界とか・・・・

その「京」でさえ使われないと言うのに、その上の数の単位はと言うと

(がい)、𥝱(じょ)および(し)、(じょう)、(こう)、(かん)、(せい)、(さい)、(ごく)、恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)」となります。

 

また昔の話です。

何かのスペシャル番組に特別なCMが付きました。提供は日立かナショナルかシャープか、そんなところだったと思います。宇宙の映像に重々しいナレーションでこの数の単位を読み上げていくだけ。目の前には、果てしなく続く星の海に星雲という島。

感動しました。

特に恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)には、なんとも言えないロマンを感じました。 

恒河沙(ごうがしゃ)はガンジス川にある砂を意味し、それほど多くの数と言うことを表し、それの一万倍が阿僧祇(あそうぎ)になるわけです。いずれも経文の中に登場してくる言葉なのです。

でも翌日、その感動したことを会社で仲良くしていた方に言いましたら、
「何で、そんなものに。」と言われました。

そういう感覚の違いはどうしようもないことなんですよね。その時若い私は、自分が変っているのだと思いました。いわゆる少数派です。

でも、今思うとそうではないですね。

だってそのCMは、私のような人が多数いるだろうと想定されて作られたはずですから。だから何も心動かなかった彼が少数派なのですよ、たぶん。

「京」はどうやって使うんだろうと思ったりするのに、あまりに上の単位になってしまうと、もうそこには数の概念と言う理数系より、思想哲学または空想の世界に飛び出して行くように感じるのです。例えば・・・

 

 ある時宇宙のステーションで、僕は奇妙な病気に苦しんでいる男と知りあった。何度も繰り返し生まれ変わっているのに、過去の記憶を消し去ることが出来ない。あまりに背負っているものが多くて、体の半分が透けてしまっていると言うのだ。
「何度生まれ変わったと言うのですか。」と僕は聞いた。
「たぶんあなたの半分ぐらいですよ。私はあなたとはしょっちゅう出会いますよ。」
あなたの半分と言われて、僕は益々男が何度転生を繰り返したのか知りたくなった。
「そんなこと聞いても意味はないですよ。そうですね、ほんの一恒河沙ぐらいかな。」

と、言う風に思わず想像の世界に迷い込んでしまいます。

ちなみに小数の呼び方はと言うと、

分、厘、毛、糸・・・・と続き「0、」のあとに0を24を打った場所が、名前が付いている数の最小になるわけで「涅槃寂静」というのです。

またこれにも感激してしまうわけですよ。

「ねはんじゃくじょう」

何かを砕いて砕いて、またさらに砕いていった時、そこには「無」に等しい「有」が存在するのでしょうか。なんだか心の中でこの数の単位を呟いて見ると、心がシーンとなるような気がしませんか。

 

さて心がシーンとなったところで、ふと気がつけば日付が変わって31日ですよ。明日の今頃は、なんと2009年。
なんだか凄いですね。同じように繰り返されているような昨日と今日なのに、12月31日には、ドンと大きな壁があり、それを乗り越えるといつもの朝日に、「めでたい」と言うおまけがついてくるのです。

そして始まる、新しい365日。
何だぁ、一年ってたった365日しかないんだよ。それを私はたった××年しか繰り返していないんだわ。こんな程度の成長ぶりでも仕方がないよね。笑った数もそうだけれど、泣いた数も辛いと感じた数も、怒った数も数えることが出来たなら、それでも億の単位まで行くことはないような。大したことないな、大したことないよ。

 と、呟いてみたりして・・・。

 

 

銀河ヒッチハイク・ガイド (河出文庫)
ダグラス・アダムス
河出書房新社

このアイテムの詳細を見る
銀河ヒッチハイク・ガイド

ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

このアイテムの詳細を見る
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「違う」からいい

2008-12-29 03:24:52 | 梢は歌う(日記)

「日本人ってやっぱり時代劇が好きなんだなぁ。」とだんなが言いました。

お正月恒例大型時代劇、テレビ東京の「徳川風雲録」の再放送を、昨日に続いて今日もまた見てしまいました。毎年、あの時代劇ってなにげに見ているのに、今年はなぜか見なかったみたいで、はじめて見ました。

天一坊最後の時は、泣けました。

私はこういうお話に弱いのよ。見た人いる?

どうせフィクションなんだから助けてあげたかったな。天一坊と若き日の吉宗役の内田朝陽さんが素敵でした。見たことがあるなと思ったら、「ゴンゾウ」の乙部くんじゃないの。

好きな俳優さんが増えました。

                         

 

ところで、昨日の朝書いた「あなたとは違う」の続きです。

「私はね、あなたとは違うんですよ。」と言うと、己は喧嘩売ってんのかと言う言葉になってしまいますが、言われなくたって本来人はみんな違うもの。同じ「違う」を違う感性で言うと、こんなに素敵になります。

 

 私が両手をひろげても
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、地面を速く走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

 金子みすゞの「私と小鳥とすずと」ですが、私はこの詩を子供の小学校の教科書で知りました。だから多くの人に結構知られている詩ですよね。そして何回読んでも、やっぱり良いですね。

(蛇足ですが、この詩が歌になっていることを、今日はじめて知りました。下の方に貼っておきますね。既にみんなに愛され、親しまれている歌らしいです。)

この「違う」と言うことをテーマにして書くと、小船が大海に乗り出してしまうようなものになってしまいそうです。世の中は様々な「違う」で成り立っているような気もします。

だいたいみんな同じ空間にいるだけで、本当に同じものを見ていたり感じているのかも怪しくないですか。

近頃とみに、だんなと話がかみ合いません。途切れること無く会話していると言うのに、私はAの話しをしていたはずなのに、彼はBの話だったり、または二人で同じ意見なのに、言い争いになっていたり・・・
「だから私はAだと思うの。」
「だけど俺はAなんだよ。」
「だってAなのよ。」
「しかしAなんだ。」   同じだよ!!
・・・・・ほんと、嫌な私たち。宝くじ当たったら、少し離れようね、パパ。
あなたと別れたら、ガスストーブにしようかな。灯油を買うのって重いから・・・。
オットうっかり独り言。

既に大海に乗り出してしまったのでしょうか。単に真夜中だからではないでしょうか。(早く寝すぎて起きてしまった私・・。テンションが違うかも)

実は「数の響き」とタイトルを打っていました。でも、このテンションでYou Tubeでジブリや癒し系の音楽を聴きすぎて浸ってしまい、すっかり心が持っていかれてしまいました。あれやこれやと思考が飛んでしまいます。

でもいいや。

思ったことは書けませんでしたが、なんか閃いたし。

もう寝ましょう。書かないと思っていましたが、やっぱり年賀状も書くことにしましたし、朝からやりたいことがたくさんあったのでした。

とにかく、人はみんな「違う」。だから、腹も立つこともあるけれど、面白かったりするのですよね。・・・と無理やり纏めたのがミエミエです

<未来日記>

朝来ていただいた方へ
おはようございます。
私は今、シャワーを浴びながらお風呂場のお掃除中です。その後、年賀状を急いで書いて出しに行きます。一日には着きませんね、きっと。

昼来て頂いた方へ
こんにちは。
kiriyは今外出中です。
年賀状を書いている時に焼き上げたスィートポテトを、友だちの家に届けがてら、銀行と買い物に行っています。

夕方来て頂いた方へ
一日って早いですね。たぶん私はお昼寝中です。または、お仕事の続きをやっています。

夜来て頂いた方へ
こんばんは~☆
私は、さも働き者のような顔をして家事をしています。
でも、今日は何か面白いテレビ番組ってありますか?

と言うわけで、おやすみなさい。

 

<!-- みんなちがってみんないい -->
                

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あなたとは違う」

2008-12-28 10:06:19 | 思いつくまま

 昨晩はかなりストレートに書きなぐり、「書いてストレス発散」をして寝たわけですが、本当の事を言うと、今の自分の気持ちをストレートにあれやこれやと書くことは、そんなにストレスの発散にはならないように思うのですよね。

昨日のような書きなぐりで「ムキュー」とか言っているのは別ですが、自分のストレスと向き合うと言うことは、自分と真摯に対話しなくてはならなくて、発散するどころか、それに水を与えて膨張させるようなものです。

ただそれとしっかり向き合うことによって、ストレスは燃焼させることが出来ると思うのです。燃焼するときに出る熱は、時には自分を苦しめたりもするけれど、次のステップのエネルギーになる場合もあるのじゃないかしら。

時にはその自分のストレスと向き合うことを「壁」と言うのかも知れませんね。壁にぶつかった時チャンスがあるというでしょう。

でも、年末の今は逃げている私です。
新年も、新年だからと逃げて、春には花見で逃げて夏は暑いからと逃げて・・・、自分と向き合うことから逃げてきたのかな・・・

オットいけない、「逃げる」と言いながら自分の仕掛けた罠に嵌る所でした。とにかく目の前の積み上げられている仕事の山を崩しましょう。

と言うわけで、今日も一日溜まっているお仕事頑張ります!!

  で、本題。    (前置き長いの。いつもの事だけれど。)

昨日、ふと
「あなたとは違うんです。」と言う言葉を思い出してしまいました。そういえば今年の流行語大賞ってなんだっけ・・。ああそうだ。「アラフォー」でしたね。それから、もう一つは・・・、忘れてしまいました。

賞には関係ないけれど、意外と、忘れてあげる事が出来ません。だって吃驚しましたから。思わず小学生高学年の女子あたりの口げんかを思い浮かべてしまいました。

甲高い声で
「あなたとは違うのよー。」って、ほら言いそうだし、言ったこともあったかも。

大人になってからだって、何処にいっても対人関係のストレスってあるじゃないですか。そんな時心の中で、この言葉を呟いて乗り越えてきたこともあったのではないですか。

が、口に出しちゃいけないよね。

その「失言」に賞をあげましょうと言われても、お断りするのは当然と言えば当然ですよね。ある意味イヤミ。でもそれも何か難しいことを言って、前総理は辞退していましたよね。

確かに今年も既にだけれど、昨年の流行語大賞なんかは、調べなくては思い出せません。でも、この言葉は忘れませんよ、数年は。

だけど、辞退せずににっこり出てきて
「私の失言にまで賞をいただけるなんて・・・。
出来れば私の行動と正論の方にも同じように注目し、評価していただきたかったものですね。」なんてのたまったら、記憶に残る人になったかもしれませんね。

でもそんなに肝が据わっている人だったら、途中放棄なんかしなかったかも知れません。

なので、私の中の流行語大賞はやっぱりそれだよなあと思うところですが、ここまでのお話もある意味前置き。

本当の本題は、またもささやかなお話です。
人は誰だって違うもの。特に感覚の違いにはいろいろあるようです。でもまた長くなってしまったので、続きはまた夜に。

この記事書いている途中に、朝食を作って友人と電話して、洗濯機と食洗器が働いて・・・・。
さぁ、今日も一日頑張りましょうね。

 

 


 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ストレス発散・・・

2008-12-28 00:59:53 | 梢は歌う(日記)
ああ~眠い。
―眠いなら寝なさいよ、あなた。―と、言われそう。

なので、後30分以内で寝ますよ。決意!

金曜日に子供と接するお仕事は終わりました。でもそこからも本当のお仕事は終わりません。本来なら、年賀状書いてお掃除して買出しして、一年の反省をしたり来年の目標を立てたりしたいところですが・・・

好きなことからやって仕事を来年に残すと、なんだか気も重くなってしまうので、年内はずっと溜まってしまったあれやこれやのお仕事を片付ける予定です。

と、書くとイライラします。
年内最後の愚痴・・・。

あたしはこれが嫌になってしまったのよ。いつまでもいつまでもエンドレス。家事もエンドレス。

同じお仕事をしている方の中には、そんなことないわよという方もいるかもしれないけれど、私はそこが能力不足。それに、自分で進んで次の重荷を背負うからいけないのよね。

「書いて発散」と思っていますが、こんな風にストレートに発散したことはないかもしれませんね。(こちらのブログでは)
今日は本当に朝からずっと仕事ばかりしていたから、メッチャ、ストレスが溜まってしまったみたい。

ムキィー・・・とか言ってみよう。


ふう、なんかスッキリしました。 ・・単純?!


と、言うわけでぜんぜん年末意識が高まってきません。買い物に行ってくれただんなが、
「スーパーが異常に混んでいた。暮なんだなぁ、としみじみ思ったよ。」
などと言いました。

―人ごみで知る暮と正月。―

いいよなぁ。明日は買い物に行きましょう。

なんかテレビで時代劇の再放送をしていました。「徳川・・・」、ええと、調べると時間切れになるので、今はいい加減ですが勘弁してください。吉宗と天一坊の物語みたいです。面白かったです。それは見ながら、紙ごみの整理をしていました。
そんな時代劇を見ていると、正月が近づいてきたと言う気持ちになります。

特番で 季節感じる 年の瀬か

なんちゃって。

と言うわけで、おやすみなさい。
また明日の朝、ささやかな独り言を書くと思います。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ささやかな・・

2008-12-27 02:03:14 | 梢は歌う(日記)

 ご飯を作っている時に、鼻歌ならぬ口ずさむ歌は何ですか?

そうか。

この質問は食事の支度を歌いながらやっていると言うことが前提だわね。歌いながら作っていませんか?

私は時々、歌っています。しかももうすぐ終わりだよと言う時に合わせて。

こんな歌。

―ホロホロ鳥が遠くで鳴いた~♪

ひよこの母さん裏木戸開けて、ひよこを呼んでる

ご飯だよ~♪ ―

で、子供を呼ぶの。

「ご飯だよ~!!」って。

ささやかな遊び心です。

 先日宝くじを買いに行きました。その時サマージャンボのくじを調べに行きました。(10枚だけですが)

私は宝くじを事前に調べません。あれが当たっているか新聞などで確かめる楽しみもあると思いますが、私はある時から、未開封で売り場にもって行く楽しみを覚えたのです。

何て言うか、ささやかなギャンブルです。くじ売り場のお姉さんが封を切って確かめる間、何分あるのでしょうか?その間が、ギャンブル時間です。

私は済ました普通の顔をしていますが、
ーダカダカダカダカーと、心の中でドラがなります。心拍数が上がります。心の中で「よっし!行けー」みたいな掛け声をかけていたりして・・・

当たったことがないので分かりませんが、高額当選だとお支払い場所とかが違うし、手続きとかがあるらしいのですよね。

お姉さんが、まあと言う顔をして「こちらへどうぞ」とか言ってくれないかなと、ささやかな夢をその数分間で見るのです。

で、300円が渡されると、途端にグレーの現実に引き戻されて・・・ああ~。

そんなことがほとんどですが、前に一度だけ1万があたった時があって、とっても嬉しかったですよ~。

でも、今回もいつもどおり300円が戻ってきて、いつもどおり「あ~あ」と思ったら、売り場のお姉さんが
「お寒い中、せっかくきていただいたのに。」と言うのです。そして、年末ジャンボを続けて買うと
「今度こそ当たります様に。」といって渡してくれました。

最近は宝くじ売り場の人が、「当たります様に」と言って渡してくれることは流行のようですが、今回のように「今度こそ」と言われたのは初めてでした。

ささやかなことですが、ちょっと嬉しかったのですよ。

 ささやかなギャンブル、その2。

ここのところ連戦連敗です。

何と勝負しているのかと言うと、「家事時間」です。前にやるべきことを小さなことでもみんな書き出して、やるべきことの認識をするというようなことを言いましたが、今度は書き出したことのうちの最低限の家事を、決めた時間までにやると言う勝負です。例えば10時に洗濯と掃除、ゴミステ、台所の片付けまで終わっていたら、「勝ち」終わらなければ「負け」みたいにやるわけです。

どうもテキパキ出来なくて、情けないです。明日こそ勝ちます

  上の画像は、あけぼの山です。春にはチューリップ、秋にはコスモス、最近は夏のひまわりなんかも有名になりつつありますね。でも冬には何にもありません。

でも、何もなくても綺麗です。冬には冬の美しさがありますね。

 

春になると、この所には菜の花一面になります。

 

ここには一面のチューリップが・・・。

チューリップの間にはパンジーがその隙間を埋めますが、早くもそのパンジーは植えられていたのでした。着々と土の中に眠る球根から芽が出て花が咲くその時を、冬の寒さに耐えながら待っているのでしょうね。

毎年飽きることなく訪れる、ささやかな楽しみスポットです。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

待ち人は愛しき人に姿を変えて

2008-12-25 10:04:54 | 思いつくまま
<ちょっと昨日の出来事ですが・・>
禁パソコンでお片づけ日の予定が、テレビで見たい映画が二つもあって、要するに映画&お片づけで一日が終わったと言う訳です。禁パソコンと言っても映画を二つも見た後は、なんだか音楽が聞きたくなり、Yahooのステーションでクラシックを聴こうと点けてしまいました。歌詞なし音楽は、意外とお掃除などの効率を上げます。その時ふと目に付いた急上昇ワードに「飯島愛」と言う文字が。
その時私は「復帰するのかな。それもいいんじゃないかな。」と思ってしまいました。辛口の時も優しい時もなかなか的を得たことを言う彼女のコメントが好きでしたから。夫が帰ってきて、はじめて彼女の死を知りました。吃驚しました。ショックです。いったいどうしたと言うのでしょう・・・・



ところで今日はクリスマス。昨年の私は何を書いていたのかなと見てみたら、全然関係ないことを書いていました。お化けが関係のあるハロウィーンは、宗教無視して楽しんでしまうくせに、クリスマスに対しては、「だってあたしキリスト教じゃないし。」と、ぜんぜん燃えない私です。
 でも、そんな私にクリスマスの思い出がないのかと言うと、そうでもないのです。どんなお話をしようかなと迷うところです。


どうでもいいけれど、昇ってきた朝日がやけに眩しいです。8時近くの朝の光は私の座っている位置では目が開けられません。今日もホワイトクリスマスと言うわけには行きませんでしたね。ここでホワイトクリスマスの思い出なんかを話してしまうと、完全に歳がばれそうです。

でも、ホワイトクリスマスどころかクリスマスも大して意識もしていなかったし、もしかしたらその時の私はサンタクロースの存在をを知らなかったのじゃないかと思うほどの昔、確か大雪が降ったのじゃないかしら。

家の前は車も通らない生活道路で、足跡もあまり付いていない雪の絨毯は、子供にとってこんなに嬉しいものはなかったと思います。転がったり雪球を作ったりして、朝早くから遊んでいました。その時ふと何かがこの道をやってくる。そんな予感がして耳を澄ましました。
すると遠くの方からサクッサクッと雪を踏みしめながら近づいてくる足音が聞こえてきました。こんな雪の中を誰が来るんだろうと、その足音の方をじっと見ていましたら。角を曲がって見えた姿は、母の弟で若き頃の叔父さんでした。

彼はわざわざ雪の中を歩いて、クリスマスのプレゼントを持ってきてくれたのです。文明堂の踊るクマのぬいぐるみのCMを知っていますか?
カステラ一番電話は二番、三時のおやつは文明堂~♪
でしたっけ?
あのぬいぐるみで背中の所がファスナーが付いていてバッグになっていたのですよ。姉が赤、私は青。
クリスマスにプレゼントなんて、それだけでも大騒ぎな私たちを、雪も解けるからと言って、午後から映画に連れて行ってくれたのです。
「101匹わんちゃん大行進」です。

映画館から出てきた私たちの手が冷たいのに気が付いた叔父さんは、
「手袋、ないの?」と聞いてくれました。
ないと言うと、「まったく、姉ちゃんはー!」と怒りながら、映画館の向かいのデパートで姉と私に手袋を買ってくれました。

その時、私は何でこの人は私たちにこんなに優しくしてくれるんだろうと、嬉しく思いました。そして、私は自分が突然「お姫様」になっていくような気がしたのです。


今のようにイルミネーションなどない街並み。それでも横浜伊勢崎町の通りは街行く人で賑やかだったと思います。人は分厚いコートを着て、ぐちゃぐちゃに解けた雪に滑らないように、行きかっていました。
その時の叔父さんは、たぶん今のラッタ君と同じくらいの年齢だったと思います。

私たちは、バスでも電車の中でも映画館でも普通に座っていられますし、喉が渇いたお腹が空いたアレを買って抱っこしてなどと言うような事など決してない、確かに「良い子」でした。

でも、その時姉は7歳私は4歳ぐらい。


今の私から言わせれば、そんなめんどくさい年齢の子供を、未婚の若い叔父さんが良く面倒を見てくれたものだと感心してしまうのです。

私は若い頃、子供が嫌いと言うわけではありませんが、子供に自分の時間を煩わされるのは嫌でした。だからよその子供に、不必要に構うのは苦痛。それが自分に子供が生まれた途端に、180度その気持ちが変わってしまった驚きを忘れません。

でもその気持ちも忘れないようにしようと思っています。若い人や子どものいない方には、話題や子供のことで煩わさせないような気遣いは、時に応じて必要だと思います。

ただ苦手だった若い頃も、この思い出が私の自省の砦。そしてそれは今もかもしれません。

―愛を知らない子供は、人を愛せない。
愛されて育った子供は、また人を愛するし、誰かに優しくされた記憶のある子供は、また誰かに優しく出来る。―


 やはり子供の時に外国のドラマで、オカルト的な事件を探偵が解決していくものを楽しみに見ていました。その最終回はラストに相応しく、最強の敵が出てきました。殺されてしまう人は皆その魔物を身近に招きよせてしまうのです。最後にそのからくりが分かります。その魔物は、その人が一番信頼している人や愛している人に化けてやってくるのです。
 この話は大きくなってから、魔物ではありませんが仏典の中に元になるような話があったので感心したことがあります。

 でも、私は思うのです。
魔物ばかりではなく、私を守る何か、私を導く何か、私にとって良き何か、それらは身近な愛おしい人に姿を変えて、やって来てくれるのです。

 子供たちが待っていたあのおじさんは真夜中にやってきましたか?

私にとっての待ち人は、「時間がなくなっちゃった!ゴミステに行ってくれる?」の一言で「あいよ~」と言ってくれるルート君かもしれませんね。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「レッド・クリフPart1」/「三国志」

2008-12-24 00:30:00 | 映画

 映画ブログ「近未来二番館」のお知らせです。

そちらのブログで記事を書いたらこちらでお知らせしようと思いつつ、お知らせだけと言うのも嫌なので、何か書き込もうとしつつタイミングを逃していたいたというか。

「レッド・クリフPart1」を公開終了間際になって見ました。ちょっと今は諸葛亮孔明にクラクラ来ています。

その感想は→こちらです。

 

下の動画は、映画とは関係ありませんが、その昔見ていたNHKの人形劇のエンディングです。これがカッコいいんだな。いつもとっても楽しみに見ていました。

ある日、ふと気がつきました。

私はすべての戦争を憎む者のはずです。それなのに、この剣を振りまして砂漠を行くものを見て、心ときめくのはどういうわけなんだろうと。

そして私は悟ったのです。ちょっと偉そうな言い方ですが、この人形劇はかなり昔のもので、私もまだまだ若く、はっきり言って何も見えない何も知らないヒヨコだったのです。

人の心の中には、切り捨てるわけには行かない闘争心がある。私はそういう争う心と言うのは、心の中のマイナスゾーンに存在するカテゴリーで、自制によって押さえられるものだと思っていました。

でも闘争心と言うのは生きて行く上で捨ててはいけない性。

心の中の本能が、戦う姿に憧れて美しいと感じるのかもしれません。

その時私は思ったのです。
平和を語る時、そういう本能が自分には無きが如く語れば、偽善的なものに偏ったり上澄みをすくうものになってしまうと。

この話は堅いですか?

だってシャーないじゃん。その昔に思ってしまったのだから。

 

同じ音楽なんですが、人形劇バージョンの素敵なものも見つけてしまいました。捨てがたいので「近未来二番館」に貼っておきました。

 

 

<!-- NHK人形劇「三国志」 -->

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルート君の献血

2008-12-23 10:26:27 | 家族スナップ
 先日、台所にやって来たラッタ青年に
「今日は一日何をしていたのか。」と私は聞きました。
「そういうあなたは何をしたというのだ。」と言い返されたので、ふと家事以外のことは何もしていなくて、彼がリビングに来るたびに、PCの前にいたり、お昼寝をしていたり、テレビを見て泣いていたりしていたことを思いだしました。
で、私の一言。

「働いたら負けかと思って・・・。」

ラッタ青年は意味ありげに微笑み去っていきました。

このセリフは知っている人は知っている、とあるニート青年がインタビューの時にうっかり言ってしまったお言葉。
ネットの世界は怖い。
なぜか縁もゆかりのない私が知っていて、使われちゃうのだから。

そう思うと私もニート君の、・・アッ、間違えた、ルート君の「三顧の礼」とか「人はパンのみに生きるに非ず」の愛おしき新解釈を、嬉しげに公開したのは間違いだったのではないかと、しばし反省なんかしていたある日の出来事。


ケーキを食べようとしていた私に、
「これも食べなされ。甘いものの次にはこういうのが食べたくなるでしょ。」とおせんべをくれました。
「どうしたの、これ?」
「昨日学校の近くで献血したらくれたんだ。」
「偉いねぇ~。でもこれは君が得た物なんだから、君がお食べ。」
「いや、もう僕の分はは食べたからいいよ。」

あの、ちょっと、いったいこの会話はなんだって言うの。
「一杯の掛けそば」か?
と、母は不思議な感覚を感じながらケーキなどを食していたのであります。


その翌日、夕方から出かけるラッタ青年と昼食なんかを食べていた時、彼曰く。
「今日のヤツの昼飯、知ってる?カップラーメンだってよ。」
「ああ、学校で売っているらしいね。」
「そうじゃなくて、その出所知ってる?」

ちょっと中断。もちろんこんな風に書けば、予想はついてしまいますね。

ちなみに我が家の鉄のルール。
高校を出たら、小遣いなし。もちろん昼食代もなし。払ってあげるのは学費、教材費・定期代のみ。一緒に引き落とされてしまうから携帯代は免除。昼食を食べたかったら、智慧を使いなさいというのが、私の決めたルール。

そんな風に言ったら、子供たちは否応もなくバイトして自立の道を歩みだすのかと思いきや、そしてさらに、いつか「もう定期代はいりません。」ぐらいのことは言ってくれるのかと思いきや(「ラッタ君の定期代」で言っていましたよね。)、うちの子供たちは学校が遠いからとか接客業が嫌いだからとか言って、なかなかバイトに出て外貨を稼ごうとしません。
はっきり言って、「ボンボン太郎丸、次郎丸」でございます。

でもワタクシも鬼ではありませんので、食べ盛りの子供に昼食を我慢させるわけにも行きませんので、それなりの仕事を与えてお金を渡すと言う配慮はしているので、ご安心下さい。
それでもそんなルールがあるのは、我が家と言う温室の中のささやかな荒野と言う所でしょうか。

で、元に戻って・・・。

「献血してゲットしたぜって言っていたよ。」
「それじゃバイ・・ムニャムニャ?」

何がどうというわけではないのですが、何だかその後笑いが込み上げてきてしまいました。
これぞ「情けは人のためならず」だっちゃ


・・・ちょっと待てよ~!
たった今ルート君の部屋にご訪問。

「ネェネェ君さ、『情けは人のためならず』ってどういう意味か言ってみぃ」
「ええと、確か、半端な情けはそいつの為にならないからかけないほうが良いって言う意味じゃ・・」

ゲゲゲ、ヤッパシ~

「ブブー(ぶうぶうじゃないからね)、不正解。『ならず』は古文の断定の助動詞『なり』に否定の『ズ』が付いたんだよ。だから『情けは人のためなり』だったら『情けは人のためだ。』。それの否定だから『情けは人のためにではない』となって、おのずとその後ろに『めぐりめぐって己のためのものだ』と暗に意味が付随してくるのだよ。
世の情けと献血したけれど、それが自分の昼食代を助けたみたいに・・・」
「なるほど~」


アタシって、ちょっと嫌なお母さん? 
でも、本当は
そこに献血車があったからと当たり前のように献血してきたと言うルート君を、本当に偉いなと思っているんです。
献血経験がありません。針が怖いし血も怖いからなんですが、いつか君を見習ってチャレンジするねと、心の中で呟いている母でした。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家事達人への道<その1>

2008-12-21 22:43:22 | 梢は歌う(日記)
<その1>と書きましたが、<その2>があるかは分かりません。

だいたい私の家事達人への道には、瓦礫がたくさん転がっている、落とし穴が掘ってある、草木が茂り道が見えなくなっているなどと閉ざされていることこの上なし。

はっきり言って、不器用です。でもそんな私が「家庭科」と言う教科で「5」を取ったことがありますが、その時の単元は「家計管理」。チマチマと家計簿をつける授業でした。そういうのは得意です。一円たりとも狂いません。

あれから何年~。

家計はどんぶりですくってザルにあげるという家計管理。

ABOUTという言葉は私の辞書の半分を占めている・・・・・ああ~、どうしてそんな人になってしまったのか。


 若い時、野中の一軒家ではありませんが、幽霊つきの一軒家に一人で住む羽目になってしまいました。幽霊付きと言っても、「かつて」と言う意味で私がそこで怖い目にあったことはありません。
一軒家にひとりなので、真夜中にごそごそやるのも誰にも気遣うこともなく、夜中の整理整頓が趣味でした。
机の引き出しの中までキッチリ整頓されているのが自慢でした。

あれから何年~・・。

・・・もう何も言いたくないや。


はっきり言って、結婚してから今まで暇だと思ったのは、ひとり目の子供の懐妊時代だけ。不器用な私はあれあやこれやと起用にはこなせません。ふと気が付くと昔得意と思ったこと、出来たことが出来なくなってしまいました。

でも、いつからだって人はやり直しが出来るんだ。

自己分析してみると、どうも家事段取りが上手くありません。
ちょっとやっては、フ~、少しやってはハァ~。
なんだか半日かかって、普通の家事をやっているみたい。

その一歩は、普通の家事段取りをテキパキと上手く組み立てることでしょうか。
その為には、詰らない細かいことから箇条書きで書き出し、自分の仕事を把握すること。(言っておきますが、これは家事ダメ度が5ぐらいの人のお話ですからね。)
☆布団を畳む
☆洗濯をする
☆洗濯物を片付ける
・・・・のように。
そして、どんどん消しこんでいく。
この項目って書き出すと、かなりありますよね。それを次、次、とやっていくと、かなり早く終わるしヤッターと言う感じにもなりますよ。

これって子供が赤ちゃんの時やっていました。
書き出した項目には、散歩(もちろん赤ん坊と)とかもあったけれど、やりたいことも書き出してあって、「読書」なんていうのもあったような気がします。

私って生活自体もどんぶりになっていたんだなと、ふと思いました。



中年主婦の家事達人への道・・・その第一歩
自分のやるべき家事を把握して、テキパキやる。


(やっぱり続きはあるのかな~)



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする