森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

言葉を紡いで その3

2015-11-30 16:23:55 | メモリーズ

たった53の詩でも、あの時この時と書いた日の想い出は昨日の事のように思い出されるのです。

10年ひと昔と言いますし、過ぎた日はあっという間だったように思います。ですがそのあっという間のその日々は、大きな10年だったかもしれません。

言葉を紡いで その2」の続きです。

 

 

このブログを開いた時の一つのテーマは、それは「過ぎた過去の日々」でした。さりげなく自分史を織り込もうと考えていたのかも知れません。その過去の日々には、通り過ぎていった人々の想い出があるのです。会いたくてももう不可能になってしまった、若くして逝ってしまった人たち。

心の中で  過ぎていった者たちの手を取りて
僕は 語りかけている

僕は  忘れないよ
僕が  覚えているからね

僕は  忘れないよ
僕が  覚えているからね

それから僕は」より

 

ただこの詩とやはり対になっているひとつ前の「あの頃 僕は」を読むと、私の中の小さな野心を感じるのです。

捨てきれなかった夢の欠片を握り締め

― 私は生きる!! 生きる私の中でみんなも生きているんだよ。

そんな想いを感じるのです。

 

それから10年が経って、今の私は静かに自分の「老い」を見つめています。その準備は出来ているのか。

今年になって詠んだ「気まぐれに」はそんな詩。

このページの冒頭にも書き、繰り返しになってしまいますが10年の年月はけっこう長いし重いのですよね。

 

 このメモリーズの記事を書こうと、自分の詩をちょっと読み返しました。そして過去に書いた自分の詩に励まされている自分がいます。「老い」を見つめるのも大事な事だけれど、やっぱりポケットの中の夢の欠片を探したいと思えたからです。

 

そしてまた読み返した詩の中で、自作でありながら、いや自作だからこそだと思うのですが、泣かずにはいられないものがいくつかあるのです。

母へ」はその中の一つです。

 

またいっけん平凡な恋の歌に見える「春だから」と「秋の日に想う」は、ちょっと種明かしをしてしまうと、実は死んでしまった我が家の柴犬ココを思って詠ったものでした。たぶんこの詩で泣くのは私だけ。

大人しくて優しかったココちゃん。美しい茶色の毛並みで鼻白顔がとっても可愛かったココちゃん。でも最晩年は体の毛がぜんぶ抜けて、滅茶苦茶臭かったココちゃんー。

悔いる事がいっぱいです。

 

2011年は、それ以前それ以降と言う恐ろしい線が引かれた年だと思います。

そして私自身ずっと背負っていくらしい病気になり、私の人生にも大きな節目がやって来ました。その年の最後にそんな想いを込めた詩は「悲鳴」で、その後もなかなか気持ちは復帰せず、2012年の初頭も誕生日にも、詩に関して言えばですが何にもやる気が出なかったのでした。

人は辛くなると、歌うものなのでしょうか。

 

2012年に未だにまったく上達していないピアノを習い始めました。あなた様の想像通り、右手と左手が違うリズムで引くようになってから、あっという間に限界が来てしまいました。体調が悪かったり予定が立て込んでいたりする時にはお休みさせてもらっています。なのでさらに上達しません。ピアノのお稽古のオハナシは、もっと何か面白くなって来てからご報告しますね。ただピアノが下手くそであることと言葉に音をつける楽しさは別物です。

このマイブームは少々続きました。

ほとんど推敲しない私でしたが、音をつけるとなるとそうはいきません。この詩でなんでメロディが付くんだろうと思われる方もいらっしゃるかも。実はここに載せてあるのは、ほとんどが推敲前。失礼な事をしているのですよね、私。

メロディをつけるとなると、本当に指を折って字数を数え、なかなか楽しいひと時でした。

そして作った歌は、病気で家で療養中の父と看護している母の前でほとんど歌われてお仕舞です。

たぶん私は父に「ねえねえ。」と楽しいお気楽な話題を振ってみたかったのじゃないかと思うのです。それと辛い想いを歌に還元していたのかも知れません。

歌と父と言うのは、やはり微妙な繋がりがあったようで「船が出る」と言う曲を作ったら、私の中でブームは静かに去って行ってしまったのでした。

 

目次を作っていて、初めて気が付いたことですが、2014年は1篇の詩も作らなかったのでした。あまりにも様々な事が毎月あってそれどころじゃなかったのかも知れませんね。詩を作らないと言う習慣はずっと続いていたようで、日光の旅行記を書くにあたって、久しぶりにその旅行記の扉のイメージで書いたのが、上にも紹介させていただいた「気まぐれに」だったのです。

 

その時感じた事は、あの音をつける時代は無駄ではなかったなと言うことでした。少々理詰めで言葉を綴る私の詩。なんだかさっぱりと書けるようになったと感じたからです。物事は何でも絡み合って今に至っているのかも知れません。

 

これからも拙い詩を書き続けると思います。お目に止まったならば、どれどれとお立ち寄り下さったら幸いに思います。

最後にクイズです。

1月の詩〈その1〉」の中には三つの物語が隠れています。

さて何でしょうか^^

 

 

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そして僕は今日も君に言う。
「おはよう。」
「おやすみ。」

「愛しているよ」の変わりに今日も言う。
「おはよう。」
「おやすみ。」

ま・い・に・ち」より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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言葉を紡いで その2

2015-11-29 14:14:56 | メモリーズ

「歌は世につれ、世は歌につれ」ー。

言葉を紡いで その1」の続きです。

 

ブログを開いた2006年、子供たちの自殺が相次ぎました。

思わず作った詩が「命が千あるならば・・」であり 「ねぇ、君さ。。」でした。

その頃、私の子供たちはまだ二人とも学生。

彼らにも面と向かって言った事などなかった言葉を一気に語りつくしたような詩だったと思います。

推敲ナシのいっき書き。

私の詩はほとんどがそれなので、いつもどおりだったのですが、今思うと良く書いたなあと思うのです。

 

ただそれは2006年の子供たちへ語り掛けた詩だったと思います。

時は流れて、今またテレビを点けると、再び子供たちの自死のニュースがたびたび流されてきます。

今も死の誘惑に駆られている子供たちに、この詩で針の一本分でさえ死までの猶予が与えられるかは疑問です。

テレビから聞こえてくる彼らの叫びは、死をもって復讐とすると言うものでもなければ、死にたいは逃げ出したいの同義語でもない場合もあるような気がするからです。言うなれば、自身の抹殺願望のような・・・・・。

もっと言葉に力があったならばー。生きるヒントは野に咲く花からも飛ぶ鳥からも受け取れるー。

だけど彼らは心を閉ざした彼らは目も閉じて耳もふさいでいるのでしょうか。

 

たとえ力のない言葉でも、波のように繰り返す、そんな事が大切な事なのかも知れませんね。

 

時は

貪欲な略奪者だから

いつか君の耐えられない苦しさも奪っていってしまう

それは本当だよ本当だよ本当なんだよ

命が千あるならば・・」より。

 

 

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詩に関してもメモリーズは、もう少し続きます。 

 

 

 


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言葉を紡いで その1

2015-11-29 02:40:48 | メモリーズ

遠くに見えるのは

想い焦がれていた夢の国だろうか

それとも

・・・・・・・・・・・・・

 

 

あとわずかで11月も終わり12月がやって来ると、あっという間に新しい年を迎える事になるのではないでしょうか。

その新年と同時にこのブログもとうとう10年の節目を迎えます。それに向けていろいろとまとめ記事を書いています。

 

この記事を書こうと思った時に、ふと

「歌は世につれ、世は歌につれ」と言う言葉を思い出しました。

余談ですがこの言葉は、なんとことわざだったのですね。私はこれをある名司会者の方のオリジナルだったのかと、勝手に思い込んでいました。

「世は歌につれ」と言うのは、かなり稀なる例になるのではないかと思うのですが、「歌は世につれ」はまさしくその通りだと思います。

 

言葉を綴る「詩(うた)」でも、同じことが言えるのではないでしょうか。

 

この10年で53の詩をアップしてきました。

平均すると5作品と数は少なく、また拙い出来であったとしても、私にとっては大切な自己表現の手段だったのだと思います。

このブログは「A TREE IN THE FOREST 」と言う詩から始まりました。言うなればブログタイトルの「森の中の一本の木」の核のようなものを書いたのですね。

ずっと以前にも書いたことなのですが、この詩だけ読むと、「誰にも気づかれない世界の片隅に生きているけれど、私はちゃんとここにいるんだよ~」と自己主張をしているかのようにも取る事も出来てしまうのですが、実はそう言うニュアンスではなかったのです。

今思うと、自己発信のブログなのでそう言う意味であってもまったく問題がなかったなとは思うのですが。

A TREE IN THE FOREST」は20代前半に書いた「TREES」と対になっているのです。

 

それに対しての記事は別の所に書いたのですが、こちらに手直しして再掲させていただきます。

「まだ学生の頃、用があって日帰りで軽井沢に行かなければならないことが在りました。遊びで行く軽井沢ではなかったの で、心弾むという事もなかったのですが、それでも、家の周りには森も林も縁がなく、木々は公園にしかないようなところで育っていましたので、車窓に広がる森等をぼんやりと見て楽しんでいま した。

その時一瞬ですが、遠くの方に滝が見えたのです。その一瞬、私は思いこんでしまったのですね。誰も行かない、誰の手にも届かない所にその滝があると。でも滝好きの日本人のことですから、その遠くに見えた滝も何か名前のある滝だったのかも知れません。

 ですがそれが合図になったかのように、何かが胸に突き刺さってきました。それは凛としてたたずむ木々の姿でした。森の奥深い所で誰にも見られることもないのに、変わらずに立っている木々たち。

 その後幸せそのものだった学生時代を終えて社会に放り出されると、様々なちょっと辛い事を経験するようになりました。

 そんな時私は、ともすれば流されやすい自分の気持ちと対比して、遠くにあるその変わらずにそこにあるものを見つめていたのです。

この詩の中の「君」と言うのは、私自身の事です。変わらずにそこにある木々たちは、いつも、ただ「いる」というだけで私にエールを送り続けてくれたのでした。

  ところが時は流れて、ある時私はふと自分がいつの間にか、その森の中の一本の木であるような気がしてきたのです。またはそうでありたいと言う願望でしょうか。」

上記の元になった文は2006年の12月に書いたものなのです。この文章の後には、別の場所に違う意味も込めて書かれたこともあって、少々子供たちに対しての熱い思いが語られています。

元記事はここにあります。→「いつのまにか

 

仕事に関してはピークの頃で、熱い気持ちであふれていたのですね。今も冷めてしまったと言うわけではありませんが、緩やかに流れる場所に流れていったと言えばいいのでしょうか。

変わらずにと言う事は、あり得ない事なのです。遠い森の中の木々たちも、いつかは朽ちて倒れていくのです。

それでもやっぱり私はここにいます。

ただここにいます。

 

 

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吉田拓郎の歌と想い出

2015-11-16 13:46:25 | メモリーズ

11月11日はブログ生活3600日目でポッキーの日の日でした。

その日何気にポッキーを買っておけば良かったと悔やんだ私。

「今日はポッキーの日だから、おやつ付きです。」と家に来た子供にあげたら喜んだと思ったからです。そう言うミニイベントが結構好きなのです。

ブログ生活が3650日になると、このブログも10年の節目を迎えます。

家の中もあまり片付いてないように思いますが、ブログ内の整理整頓も出来ていないように思うので、それに向けて整理&まとめなどをしていきたいと思います。

 

吉田拓郎氏に関連するブログ記事を拾って目次にした「目次:吉田拓郎の歌と想い出」は→こちらです。

 

このブログを始めた時の書きたいことの一つに、いかに彼の歌が好きなのかどんな所が好きなのかと、彼の歌の感じた事を気持ちのまま書きたいと思っていました。でもこのブログはテーマを絞っていない何でもありのブログなので、結局この10年でそれらしきものを書いたのは、「自殺の詩」についてだけだったと思います。〈リンクさせました。〉

吉田拓郎と私の原点である曲は出会いでもある「夏休み」かも知れませんが、この「自殺の詩」が私にとっては非常に意味のある曲だったのです。

拓郎が〈この先は敬称略で書かせていただきます。〉高校二年の時に作ったと言うこの曲は、かなりの傑作だと思います。傑作ゆえに、今心が本当に弱っている人には決してお勧めできません。

誰もがこの曲に向かってファイティングポーズをとって戦いに挑むような気持ちになるとは限らないからです。

と言っても、もともとファイティングポーズをとるような歌なんかではないのですが、人生の初めての挫折に心が弱り少々病みかけていた15歳の頃、私は本当にこの歌が怖かったのです。

負けるもんか、いつか大きな声でこの歌を歌ってやると思えたのは、私と言う人生は一度だけだと生に執着していた私だったからかもしれません。私はこの歌に挑むことで病みかけていた心を復活させていきました。

そして加えて言うと、10代の頃の私にはこの歌の真意が良く分かっていなかったのだと思います。

>nagarerukumoni  tutumareru  zibunnwomimasita

時に、人は他者の目を持って自分を見る事はとっても大切な事だと思います。

 

2010年に「吉田拓郎、大展覧会」と言うのがあって出かけて行きましたが、そこに好きな曲アンケートのようなものがあって3曲まで書けるようになっていました。お世話になったので、その「自殺の詩」を書こうとしましたが、リストにはありませんでした。

ああ、残念と思いましたが、すこぶる分かるような気もしたのでした。

 

2006年にブログを始めその年の9月に「つま恋」がありました。すこぶる熱い記事になっています。私が旅行記でもお芝居のレビューでも、長めで思わず熱くなって書くのはこの頃からの習慣なのかも知れませんね。

2007年にイギリスに行って、その飛行機の中で、「次は拓ちゃんのライブだな。」とワクワクしながら帰って来たのに、留守をしていた間に病気でライブは中止になってしまいました。すこぶるがっかりしましたが、その時戻って来たお金で買ったTシャツを、私は今年の夏もちゃんと着ました。

だけれど本当に悲しいのは、その後のコンサートのチケットが一気に入手困難になってしまった事です。

 

それまでは行こうと思ったら、何とか行く事も出来たと思うのに、もう宝くじレベルです。

いろいろな事が充実していた私の2009年。でもその時の拓郎ライブのチケットも撃沈で、姉がヤフオクで5万だと言いました。私は心の中で物凄く腹を立て、かねてから行きたかった名古屋に旅行してきました。その時かかった費用が約5万。姉はそれでも行きたかったのだと思います。でももうお金は使ってしまったので諦めもつくと言うものです。

時々物の価値をオークションの金額で測る人がいますが〈テレビの中の人とか〉、ライブの価値はそんなものでは測れませんよ。私は絶対にそう思います。チケット代を異常に吊り上げるのは便乗で儲けようとしているダフ屋に他ならず、敵です!!

その年のライブでは恐ろしい事が起きました。ライブ中の事件とかではありません。拓郎氏が体調を崩し、途中でライブ自体が中止になってしまったのです。

最初から買う気などさらさらなかった私ですが、もしもあの時5万と言うお金を出してチケットを入手していたら、いったいどうなった訳?

ネットダフ屋さんからお金は戻って来たと言うのでしょうか。

拓郎氏の体調も心配でしたが、同時に中止になってしまってチケットを持っていながら行けなかった人たちの事を思うと胸が痛かったです。

 

そしてなんだかんだと言って「つま恋」からずっと彼のライブには行く事が出来なかった私は、本当にありがたいお心によってチケットを譲っていただき2014年の7月、念願叶って8年ぶりにライブに行く事が出来たのでした。

「つま恋」以前、つまりブログを始める以前にも、彼のライブには何回か行きました。時には満足できない時もあったのです。だけれど行きたいのに行けないと言うその想いは、彼の曲を心の底から聞くことが出来る耳と楽しむ心を私に与えてくれました。

その年の8月、またも私は病気。

入院レベルですと言われながら10日間点滴を受けに病院に通いました。ちょうど自分で申込んで外れたライブが行われていた頃です。もしも私のチケット申し込みが当選していたら、私はそのライブにはいけなかったと思います。

何か不思議さを感じた2014年のライブだったのです。

 

 そして2015年・・・・

あれっ?

今年の彼は何してた?

ラジオとか聞き逃してた、私?

わかりませーん !!

 

とりあえずここでは謎の発言を→ここ

唐突に消去されるらしいのでお気をつけて。

 

今日まで彼が好きでした。

そして明日からも彼が好きです。

 

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十月桜と共に

2015-11-15 14:08:30 | メモリーズ
 
十月桜ですよ。
 父からの贈り物父は本当は11月13日の自分の誕生日に死にたかった。世の中ままならぬことは多いが、病気などの自然死においては死ぬ日の予定日ほどままならぬも...
 

 

〈続けての投稿なので、ひとつ前の写真日記もよろしくお願いいたします。〉

上の囲みは昨年の11月14日の記事です。そこに行くと、また昨年の記事にたどり着くと言うツリーになっています。

 

ブログを開いた2006年の9月、公園に散歩に行った私は秋に咲くその花を見つけたのです。

最初は狂い咲きかと思いました。でもこのお花は春と秋の二回開花する「十月桜」だったのでした。

それからほぼ毎年、この十月桜を見続けてきました。

 

ブログの功罪と言う事を考えるとしたら、「功」の部分にあたるのが、自分自身のアンテナの感度が上がった事じゃないかと思います。また「ふーん」「へえ」で流されてしまう日常の出来事を、ちょっとだけ丁寧に見る・考える習慣がついていったのも、それにあたるのだと思います。

「罪」に当たる部分も確かに私の場合はあります。でもそれを打ち消す「功」の部分は、私にはかなり多くの比率をしめていて、この先も止められそうもありません。

この記事はブログ生活10年になる事を意識して書いているメモリーズの記事なので、過去記事を一応リンクしました。

いつも見に行くのは夕方や曇りの日が多く、画像は皆イマイチ。

いえいえ、そうではありませんでした。お天気や時間のせいじゃなくて、私の腕が悪いのですね。

リンクはしましたが、本当に書きたかったことは下の方にあるので、お時間がありましたら最後までお読み下さったら嬉しく思います。

 

十月桜  2006年9月に書いたこの記事は、携帯から投稿したもの。この頃の私の携帯の画像はこんな程度でした。

10月桜その後と事故

2006年の10月に、その後の桜を見に行った画像を載せていますが、内容は友達の車に乗っていて追突されたと言うもの。その中で「警察を呼んでちゃんとしよう。」と私が言ったのは、かつて私に起きた事の反省から来ています。

十月桜

2009年10月。寂し気な画像を撮ったその年の私は仕事は過渡期。でも地域役員の仕事もやりつつ、かなりお気楽にお芝居を見に行ったり映画を見たりとすこぶる幸せな時代で公私ともに充実していた年でした。

10月だと言うのに

2010年10月の最後の日々。忙しいとバタバタしながらも、この花を見に行きブログを書いている私。何かを間違えてないかと思いつつ、脳内整理をブログでしているんだなと分かります。

10月桜の今頃は

2010年11月11日に別ブログ「梢は歌う」の方にアップしたもの。「梢は歌う」は本来の日記ブログの役目を終えて、その頃はツイッターの置場所、題詠ブログの場所としてそれなりに使いこなしていた頃。

月と桜

2011年11月14日にアップしたもの。どうも11月14日は私にとっては「十月桜day」なのかも。この年に入院した私は、この画像を撮ってる時は、体調が復活していなくて、それとは関係ないのに写真はみんなピンボケです。それでなのかそこでもここと同じように過去記事リンクをしています。記事のない2008年のしょぼい携帯画像まで探して載せているのは、体調が悪かったので、今までの事をまとめたいような気持ちになっていたのかもしれません。

束の間の過ぎた日を想って

2012年はないなあと思っていたら、この年の12月にアップしたところに小っちゃく載せてありました。「十月桜」は長々と咲くのです。

2007年と2013年は欠番です。

2007年はちょうど10月ハロウィーンの頃イギリス旅行に行き、その後も川越に遊びに行って、ブログを書いて楽しみ、残りの日々は熱心に仕事をしていました。とても公園に散歩に行く余裕はなかったのですね。

2013年は父が亡くなった年。この年の秋はツリーの記事に繋がるのですが、父のお墓参りに行ったり、またそんな中でも大阪に旅行に出掛けたりで、やはりその公園には足を向けなかったのかもしれません。きっとその年は「十月桜」の存在を忘れていたのに違いありません。

 

それで2014年には、ほぼ忘れかけていたのに思い出し、暗くなる直前にその公園に出掛けたのでした。それが上の囲みの記事なのですが、私はその時のその記事が大好きなんです。

 

今年の11月13日に父の誕生日だからと墓参りに行き姉妹たちで集い合った私たち。それを聞いたルート君が不思議そうな顔をして言いました。

「死者の誕生日の時にも、そう言うことをするものなのかい。」と。

「うーん。普通はやらないんじゃないかしら。うちらだからだよ。」

囲みの昨年の記事「十月桜ですよ。」とそれに続く「赤羽、気をつけて。」その2

に、なぜ11月13日に集まるようになったのかといういきさつが書いてあるのです。

 

物事は絡み合い単体では存在しないと言うお話です。

「十月桜ですよ。」と「赤羽・・・」の記事を読んでも、ピンと来ないと思うのでその絡み合いっぷりを箇条書きに書きますと

 

☆20年近く親交のなかった人の家に、亡くなった旦那さんに線香をあげに行く。その時寒くなって来たから、こんな時にお好み焼きは美味しそうだなと思いながらお店の前を過ぎる。

☆その人と、一緒にその家に行ってくれた友人と3人でランチの約束をする。→それでそのお店を提案。〈この時のメンバーでバンクーバーも日光も行く事になったのです。〉

☆そこのお店が美味しかったから、他の友達を誘ってまた行く事にした私。

☆同時にピグで知り合った人たちとのオフ会企画進行。

☆11月13日、父の誕生日だった事はすっかり忘れて十月桜を見に行き父の事を思い出していた私。

☆14日の朝、操作を間違えて父の伝言の声を聞いてちょっと怖くなる。友人たちとそのお好み屋さんでランチ。「赤羽に行くんだ。」と言うと友人が「赤羽、気を付けて。」と謎の言葉を言い、暗示のような気がして頭が痛くなってしまう。

☆あまりにも頭が痛かったので、もしもの時を考えてオフ会メンバーに連絡を取る方法をちゃんとしようとマメじゃないメールを開ける。そこでgooからの昨年の記事を読んで父の誕生日を思い出す。

☆父の誕生日を思い出した途端に頭痛が治る・・・・・。

 

きっと何か言いたいことがあるんだって、そう思うのも無理がない展開でしょう。

それで考えて生まれた姉妹と母の「家族の日」だったのです。〈その考えに至った理由は「赤羽・・」の記事の下の方に〉

 

2006年からブログを始めて、ほぼ毎年同じ木の「十月桜」を見続けてきました。

父とその花とは何ら関係はないのに、2014年にその花を見て父を思い出したことで、やはり今年もその花を見たら父の事を思い出してしまった私なのでした。

 

今年の記事は 2015年の十月桜

 

 

 

「見たよ」と言う軽いお気持ちで押していただけると、励みになります。いつもありがとう。

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ぼくらが愛した「カーネーション」

2015-11-09 00:47:05 | メモリーズ

今年も残すところ8週間になってしまいました。
この8週間が過ぎて新しい年を迎えると、このブログもとうとう10周年という節目を迎えるわけなのです。

家の中もあまり片付いてないように思いますが、ブログ内の整理整頓も出来ていないように思うので、それに向けて整理&まとめなどをしていきたいと思います。

※         ※        ※

〈テーマが朝ドラに関してだったので、gooの「好きな朝ドラは?」と言うお題に参加しています。〉

 

私のこの10年の間で、朝ドラを見始めたと言うのも変化の一つだと言えるのでしょう。2010年の「ゲゲゲの女房」から見始めたので、5年の歴史。思ったよりも浅いです。

感想は主にツイッターで呟いて、稀に最終回などにまとめ記事を書いていたりしました。

その目次を作りました。それは→こちらです。

毎朝観る朝ドラからは、時には頑張る力を貰ったり、いつまでも心に残るセリフの言葉に励まされてきました。

そしてツイッターでの交流にも本当に楽しいものを感じていました。

目次のメモにも書きましたが、この「カーネーション」と言うドラマは好きすぎてまとめ記事を書くタイミングを逃してしまったのです。

本当は、その前の「てっぱん」と「おひさま」が呟きすぎたので、朝ドラ自体の視聴を止めて朝はもっと違う有意義な事に時間を使おうかと思っていたのでした。

だけれど初回のミュージカルのようなオープニングに心がときめきました。

あの最初の数分間で止めるのを止めたのです。

 

糸子からは毎朝頑張る力と元気を本当に貰いました。そしてドラマの音楽からも。

 

このドラマが終わってから、高文研と言う出版社様から

「ぼくらの愛した『カーネーション』」と言う本を頂きました。

なぜ頂いたのかと言うと、この本の中に、私のツイートが載っているからなのです。

「カーネーション」と言うドラマにはたくさんの心に残るセリフがありました。

そんなセリフやツイッターの反応など、後は想い出のシーンなど、そんなものがギュッと詰まっているこのドラマのファンにはたまらない一冊なんです。

このツイッターのコーナーに私のツイートがほんのちょっと載ったと言うわけなのです。

 

毎朝感動しながら視聴して、毎朝楽しく呟いて、そして本に載せて頂いたと言うわけで、大好きだった「カーネーション」はさらに想い出に残る作品になりました。

 

ぼくらが愛した「カーネーション」
タンブリング・ダイス
高文研

 

私はこの本を2013年のお正月に実家に持っていき、みんなに見せました。

たった数行の言葉でも、普通の暮らしをしている一族にとっては、活字になって本に載ると言う事は珍しい事でみんなでワイワイと盛り上がってくれました。

父が

「花ちゃんは作家さんなんだものね。」と言いました。

花ちゃんと言うのは、ここでの私の事です。ちゃん付けで呼ばれても若くもありません。そして誤解があってはと思うのですが、私は作家ではありません。「家」と付いたら、やはりそれはプロのと言う意味なのだと思います。

でも父が言ったのは、文を綴る人と言う意味なのだと思いました。

だから私は短く「うん」と言ったのか、それとも「いやだわ、そんなんじゃないよ。」と言ったのか、もう今となっては思い出すことも出来ません。

 

ただきゅっと胸が痛くなったことは確かです。

誰にも語らずに勝手にしていた約束を、未だに果たしていない自分に気が付いてしまったから。

心の中で勝手にしていたその約束は、いわば妄想のようなもの。だけれどそれを果たしたら絶対に父は喜んでくれただろうと言う私の夢なのでした。

いつか頑張ろうと思いながら、その「いつか」は未だに自分の中ではやって来てはなかったのでした。

だけれどもう間に合いません。そのお正月は父にとっては最後のものになるだろうと言う予感があったからなのです。

 

その本を興味深げに手に取る父に、それで勘弁してもらおうと私は思いました。

たった数行の、父にとっては私の本。

 

そして手のひらに握りしめた雨粒程度の幸せを、父にあげる事が出来たのではないかと私は信じているのです。

そんな年に送られてきたこの本は、私にとってはちょっと不思議な縁を感じさせる大切な一冊になったのでした。

 

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「相棒」ブログなのか!?

2015-11-07 18:06:44 | メモリーズ

今年も残すところ8週間になってしまいました。

この8週間が過ぎて新しい年を迎えると、このブログもとうとう10周年という節目を迎えるわけなのです。

家の中もあまり片付いてないように思いますが、ブログ内の整理整頓も出来ていないように思うので、それに向けて整理&まとめなどをしていきたいと思います。

 

それの1記事目が「相棒」と言うドラマのお話と言うのは、よほどのファンなのだなと誤解を招くようなものかも知れませんね。

でも「よほど」ではありませんが、「そこそこ」のファンであることには変わりがありません。

かつては「相棒」の映画のエキストラに参加したり、水谷さんのコンサートに行ったりと「よほど」のファンであったと思いますが、この10年の間に山の頂点は過ぎたと言うのが正直な気持ちだと思います。

 

私が「相棒」と言うドラマに嵌って行ったかは「『相棒』のオハナシ」 の中で書かせていただきました。

そしてなぜこの「相棒」と言うドラマの感想だけに拘って書き続けているのかと言う事ですが、かつてはこのドラマは、ドラマブロガーさんたちのほとんどが、いや、ほとんどというか皆無と言っていいほどレビューを書いてくれるところはなかったのです。この事はさりげなく繰り返し述べているかもしれません。

「今期の見る予定のドラマとレビューをする予定のもの。「相棒」はまあ、いいか。」とわざわざ、「まあ、いいか」と書かない宣言までしてあると言う丁寧さ。しかもそれがほとんど。

今でもそうなんじゃないかなと思うのですが、テレ朝ドラマのシリーズ物は、ドラマブロガーさんは手を出さないことが多いのだと思います。

 

でもブログ経験の浅い私は、相手にされていないんだと思ってしまったのでした。

それで自分で書く事にしたのです。

もしかしたら、これって同情が愛に変わったと言うやつと同じ心境でしょうか。

 

最初は一人で寂しく書いていた「相棒」の感想。

でもある時、素敵なサイトを見つけてー。

あの時代は、本当に「相棒」を見る事が楽しくて仕方がありませんでした。そして早く感想を書いて、早くTBを送りたいなとワクワクしたのです。そこには同じ感覚の人がたくさんいたので、そこでの語りあいもとっても楽しいものになりました。

でも・・・・、そんな時代は短くて亀山薫退場と共に終わってしまったのでした。

ふとそんな時代を思い出したら、ちょっと感傷的な気持ちになって涙が出ました。

とっても楽しかったですよ~。

みなさーん、お元気ですか~!?

 

そしてまたポツンと一人・・・・・。

 

いいえ、そんな事はありません。

見えない方々に支えられて、ここまで来ることが出来たのです。

 

物事は、始めた時には予想もつかない方向に行く事があると思います。

 

かなり以前の事ですが、検索で「相棒ブログ」と言う言葉で我が家にやってくる方が多々いらっしゃいました。

思いがけない事でした。

「森の中の一本の木」と言う、このようなタイトルのブログがですよ、「相棒ブログ」の検索で引っかかるなどと思ってもみなかったのでした。

 

あっ、そうだと思って、今グーグルで検索したら・・・・

これって自分のブログはよけるのかしら・・・・って思うくらい出てこないんですけれど !?

 

いやいや、ちょっと冷静になります。

「かなり以前」って書きましたよね。

じゃ、いいかな。

いまだに「相棒」関係で訪問してくださる方が多いのは事実ですし。

 

 

「好きなものを応援する」と言うのがこのブログのスタンス。

ふと始めた「相棒」レビューもほぼ10年です。

 

そしてこのブログのもう一つの基本姿勢が「私はここにいます。」なのです。

だから私は、「相棒」と言うドラマは最終回までお付き合いしようと思っています。〈ブログ自体が存続していたらですが。〉

 

「相棒」と言うドラマが縁で、同じ時間を共有し、私にひと時の幸せをくださった方々へ。

また気まぐれにでも、いつでもお立ち寄りください。

 

私はここにいます。

 

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※ 「相棒」の目次を復活させました。それに伴って場所を移動してしまいました。そこを出入り口にしていた方は迷子になってしまうかもしれませんが、またよろしくお願いいたします。

目次:「相棒」の感想

 

 

 

 

 

 


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