森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

ももち

2011-04-29 07:47:58 | 猫さま日記

今日から連休ですね。今日は「昭和の日」ですよ、お間違いなく。
でも私は「ほぼ専業主婦」なので、連休なんか関係ないとですよ。
連休なんか関係ないものが、ここにもいるなあ。

それって、あたしの事ですかあ~~。

 

そうですたい。

にゃンでそんないんちき方言使っているの~?

 

そう言う気分です鯛。

えっ、鯛!?

あっ、間違い。「たい」です鯛。

えっ、鯛!?

おや、また間違えた。「たい」で・・

くだらにゃ!

 

ふにゃら。

だいたい、ここのママとパパはいい加減なのよ。

ママは時々「ココちゃん」とか呼んでくるし。ルートとか呼ばれている体の大きな優しいお兄さんに咳払いされると、「気のせいよ。」とすっとぼけてるしね。

でもパパだって、この前「ココ丸」とか言うの。ママが「『ココ丸』じゃないよ。」と言うと、「ももち」って言うの。

この人たちは、時々私の頭を撫ぜながら、他の誰かの事も思い出しているみたい。

でも私には関係がないにゃ。

名前の後に「ち」をつけるのが好きなら、あたしも「ママチ、パパチ」って呼んでやるから。

 

ああ、眠くなってきたにゃ。

だってお腹が空いたから、パパチを起こしに行ったら
「まだ、5時だよ~。」ってぼやいていたわ。

ママチは「それが猫を飼う宿命よ。」とか済ましているし。

どうもママチは「へ・い・じ・つ」と言う日が担当らしい。

なんだろ、それ。

「れ・ん・きゅ・う」

なんだろ、それ。

とにかく、大好きなパパチが家に居る日らしい。

ママチは「お出かけしちゃうよ。」って言っているけれど

「お・で・か・け」

なんだろ、それ。

まっ、いいや。

ねるにゃ。

 

zzz・・・・


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さよならスーちゃん

2011-04-28 12:35:58 | 同じ時代の船に乗る

昨日友人とランチに行きました、やはりそこで出た話題はキャンディーズの田中好子さんの訃報のことでした。彼女の死はかなり衝撃的なものでした。
20年近くも癌と向き合って戦っていたなんて、彼女の仕事ぶりからはうかがい知る事も出来ない事でした。「東京DOGS」で肝心なときに「奏ちゃあん。」と電話をかけてくる可愛いお母さん。キラキラしていました。信じられません。(でもこの作品2009年の作品なんですね。ああ、時間が経つのが早すぎます。)

 

彼女の訃報を知ったのは、またもツイッターからでした。結構大きな地震があり、それが怖かったのでパソコンを開けたのでしたが、地震よりも衝撃的な彼女の訃報を知らせるツイートが並んでいました。

本当にショックでした。

なぜならその昔、私はスーちゃんに一目惚れ。キャンディーズが大好きだったからです。その頃同級生の男子が、テレサ・テンの顔見て、お腹が一杯になるようで好きなんだと言っていました。それと同じような感覚を彼女に感じたのですね。もともと芸能人に興味を持つことが稀でしたので、(フォーク系の人は別)好きになる人は男女はあまり関係の無い私だったのです。

そして芸能人に興味が無い故に、私が稀に好きになる人は必ず売れる人なのだと確信していました。もちろん私などが応援しなくても、キャンディーズが一時代を作った事は、その年代の人たちでは知らない人はいないことだと思います。

あなたが好き~
  とっても好き~♪

かなり鼻歌で歌わせていただきました。

ヒット曲がたくさんあって、どの曲が一番好きかと言われると、迷うところでもありますが、やっぱり「やさしい悪魔」でしようか。拓郎さんの曲ですよね。

でも私=春一番。
近所の女子友とよく一緒に歌いました。お陰で結婚式の時も、歌っていただいたと言うより、呼ばれて共に歌いました。

思い出がたくさんあると言うわけではありませんが、彼女が「黒い雨」で原爆症で苦しむ女性を演じた事は印象深い事でした。

      ※                       ※                           ※

その日の朝、たまたまある知人と電話で話していました。
「今日が癌再発1周年なんだ。」
「もうそんなに。でも治療が上手くいって良かったね。大丈夫だよね。」
「大丈夫、私これから30年生きるから。」
「ええ、そんなに生きるの。」
そう言って笑いあいました。

だけどその夜のスーちゃん、いや、今はスーさんってお仲間に呼ばれていたのですね、その田中好子さんの訃報で、20年も闘っていた事を知りました。ちょっと複雑な気持ちになってしまいました。なんと言う長い闘いでしょう。この事で勇気付けられる人と言うよりは、心騒ぐ人たちもたくさんいるんじゃないかしらとも思ってしまいました。

でも美しい人は死に様まで美しいのですね。

お葬式に流された彼女の肉声のご挨拶を聞いていたら、そうではないなと思えてきました。

癌に勝つと言うのは、死なないという事だけではなくて、最後まで生き生きと生きるってことなんだなとしみじみと思ったのでした。

 

最後の最後までキラキラ生きた田中好子さんのご冥福を、心の底からお祈りいたします。

 

 

 

 



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100年平安に生きるという事<その5>

2011-04-27 10:19:38 | 思いつくまま

「100年平安に生きるという事」の<その4>では今までの趣と違って、ちょっこシ真面目。でもタイトルの核心に近づいてきたような雰囲気が醸し出されていたでしょうか。

それでは<その3>までに書かれていた、予知・予測について書かれていたことは何だったのかと言う事になってしまうのですが、もちろん関係があることなのです。たとえ数秒前の警報が役に立たなくても、右に行けと勘が働いたのに、うっかり左に行ってしまっても、本当は全力で未知なる力が働いていたのに、襲ってくる力の方が大きすぎて力及ばずとも、それらのものは、その者を助けようとする力であったことは間違いのないことなのだと思います。

―「その者を助けようとする力であったことは間違いがない」ことなのだ。
私は、それを自分自身に言わざるを得ない・・・。―

「100年平安に生きるという事」と言うこのタイトルは、実は2月の終わり、または3月の最初の日々に考えてきた事から生まれました。そして編集画面では<その4>で書いたようなことが既に数行書かれていたのです。

100年200年の戦争の無い歴史を作る。それは変わらぬ平和への想いですが、でも今平和であっても、日本と言う国は平安な国なんだろうかと言う疑問は払拭できないものがあるのです。

子育て支援のばら撒きが強いては少子化問題に役立つとでも、本当にこの国の上に立つ人たちは思っているのでしょうか。

私たちは高い教育費も子供の為の医療費も、今のようには恵まれずに自分で払ってきました。

でも頑張って来ました。夫婦で手を取り合って。大変ではあっても出来た事なのです。

別に財源も無いのにばら撒いて貰っても、自分の夫の仕事に陰りがあったら、元の木阿弥なのですよ。目を吊り上げて真剣に取り組まなければならないのは、雇用の安定なのじゃないですか。

と言っても子育て支援のばら撒きは今度の震災で立ち消えになってしまいましたので、言う必要もないことですが、納得の行かない案件でした。

少子化に対する一番の政策は、若い人の雇用安定です。一体誰が「派遣法」なんて馬鹿な法案を作ったのですか。いや、知ってはいますが、一言そう言ってもみたくなるってものでしょう。

若い人が派遣のお仕事なんかしているから、結婚なんか出来ないんですよ。結婚できなきゃ、子供なんか生まれないんですよ・・普通は。

結婚している人は生活が安定していれば、ほっといたって勝手に子供は作りますよ。子供が好きな夫婦ならば。

大河がゆっくり流れていくように、人の営みも同じように繰り返されていく、時が来たら子供たちは学びだし、その時代が過ぎたら働いて独立し、次の時代を作っていく。その流れが崩れだしているのに、なぜ今の世を平安と呼べるのでしょうか。

ほんのちょっと前の事ですが、私の友人のおよそ半分が、一家にひとり自宅警備員がいるという状態だったのですよ。これを異常と思わなければ、既に普通の感覚を失っているとしか思えません。じゃあ、お前の家はどうなんだと思う方もいるかもしれませんが、ここは私のブログなので、家族の事は当たり障りの無い事以外は書かないように心掛けてはいるのです。だけどある時から、私の心は曇天の空の下にいるような感覚、または止まない雨に耐えているような感覚・・・・
時々、このブログにも書いて発散しています。と書いてしまえば察しもついてしまうと言うものですね。

 

私たちの事なんかどうでも良いんだ、後は老いていくだけさとか言っていたいけれど、早々暢気に老いてもいられないような気配です。ご存知のように私はかなりのヘナチョコなのに、私自身が強くなることを強いられているような気がするのです。それは何処のお母さんも同じです。

先日も子供が大学院に入るので、その街まで送っていった人が、心が晴れないと言っていました。勉学の志高く、その子供を送り出すと言うよりは、今の時代の緊急避難的進学だったからに他ならないと思います。

先の見えない閉塞感で、時々息が詰まりそうになるのです。

私にたった一人の友人も居なくて、姉妹たちもいなかったら、心が折れてしまいそうになるかもしれません。どの人も私よりは強い人かもしれませんが、もしも私と同じような気持ちでいるのに、周りに似たような友人がいなかったとしたら、ここにはたくさんの似たもの同士がいるのだと思ってくださいね。

 

母は強くならなければと言うお話に戻りますが、そう思い毎日を過ごしていたら今年に入って、あるビジョンが脳裏に浮かぶようになって来ました。それは戦後の焼け野原。何もない瓦礫の町です。

ある時の私の姉への電話。

「ねえ、お姉ちゃん、あのね。日本っていう国は豊かな国だよね。東京は大都会だし、そうでなくても私の町だって暮らしやすいし。だけど、私、なんだか焼け野原みたいなところを歩いているような気がするんだ。そのくらい強くなれって事だと思うの。だってあの人たちは(戦後を生きた人たち)は、住む家を失って、みーんな同じようにボロを着て、明日食べるものを心配しながら、それでも優秀な人は優秀だったし、働き者は働き者で、10年20年しないうちに、みんなそれなりに家を構えたり家族もしっかり持って、しっかり生きたじゃない。泣いたり笑ったりしながら生きたじゃない。心の中には瓦礫の街を歩いているイメージ。だけどあの人たちに負けないよ、私。強くならなくちゃね。」

 

でも・・・・・・

3.11のあの光景は・・・・

一体何なのよ。
心の中にあった光景が現実の世界に飛び出して、目の前に広がっているのですよ。
なんだか凄く疲れてしまいました。なんだか毎日が大変な思いと言う思いの部分も、あまり単純でなく複雑になってきてしまったように感じました。糸が絡み合っているという感覚です。

あれはただの私の心象風景だったのに。

もちろん、私は被災地の人間ではありません。だけどあの沸き起こってきたビジョンは単なる偶然なのだろうかと思ってみたりもするのです。
もしも未来に吹く風が時を震わせ見せた幻影と言うならば、先に書いたとおり
「その者を助けようとする力であったことは間違いがない」ことなのだと自分自身に言わざるを得ないのです。

私は時には、人から「強い人」だと言われます。でもそれは自分が如何に弱い人なのかと言うことを知っているからに他ならないと思うのです。時にはその弱さを過食で乗り越えると言う情けない部分もあるかもしれませんが、ほとんどは大切な人とのおしゃべりと書くことで乗り越えているのだと思います。被災地の皆様はもちろんの事、そうでない地域の皆様も、日々の不安に疲れてきてしまっている方も多数いらっしゃると思いますよ。そう言うときは無理せずに「疲れた」と言いましょう。片寄せあって踏ん張りましょう。先の昭和と言う時代の瓦礫の街を生きた人たちに負けじと頑張ろうと、私は思います。

 

100年平安に生きるという事は・・と「は」と言う助詞をつけたならば、たぶんあなた様の脳は予測し推理すると思います。そしてこう繋げるでしょう。

「100年平安に生きることは、なんて難しい事なのでしょう。」と。

まさしく心の底からそう思います。たとえ戦争が無くても。

 

でもいつか100年後の人たちが、いやもしかしたら、今から一昔とちょっとしか経たないで生まれた人が大人になった時に、凄い時代を生きていたんだね、凄いね、頑張ったんだねと、私たちを褒めてくれる日が来るかもしれないと、私は思うのです。

 

<3月のお纏め日記。思ったこと、その1と言うところです。>

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またも、ちょっと、ももです。

2011-04-24 01:19:07 | 猫さま日記

最近、時々猫ブログ。

わかっていますよ。ママちゃんが写真が下手だって事は。

どうだ!

上手く撮っただろって思ったら・・・ああ、ぼけてる~!!

分かりましたよ。ママちゃんが上手く撮れるのは、寝ているときだけさ、ああそうさ。

 

みゅ、何か言った?

 

えっ、なんでもない。じゃあ、ふね~。

 

 

 

 

と言うわけで、寝てる画像ばっかり。

キャットタワーには、最初は見向きもし無かったけれど、今は気に入ったみたいです。


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100年平安に生きると言う事<その4>

2011-04-23 17:48:26 | 思いつくまま

                             ワタシハ、トリアエズ、ヘイワナノニャ・・

 

 ある時まで私は、自分が先の大戦が終わって何十年も経ってから生まれてきたのだと思っていました。今二十歳を迎えた子供たちが、同じように思っているのと同じ様に。でも実はそうでもなく、自分の誕生は終戦から一昔とちょっとだった事を知ったのは、学校で「れ・き・し」と言うものを学ぶようになってからでした。

通りで母が教えてくれたじゃんけん遊びには、「軍艦」「ハワイ」「沈没」と言う言葉が盛り込まれていましたし、父が山梨から横浜に出てきたときには進駐軍にいたのだと言っていたのは、そう言うわけだったからです。

でも私は小学校の社会の教科書に載っている交差する立体道路、つまり高速道路の写真に胸をときめかせ、鉄腕アトムの漫画の世界が来るべき世界なのだと信じて疑っていませんでした。そんな世界がすぐ傍にあるような時代に生まれてきた私が、あの敗戦で多くの人が死に多くの人が飢えた時代が、「自分の時代」の近所であったなんて思いもよらない事だったのです。

でもある日年表を見ていて、戦争が終わってから私の誕生まで、と言うか、姉の誕生までほんの一昔しか空いていない事を知ったのでした。

凄いなあ、人間って。

そう思いました。

こんなちょっとの間で、大戦の傷跡を既に「過去」へと押し流してしまっていたのです。

それでもその事実を知った時には、なるほどなと思ったことがたくさんありました。だからと言ってその時も子供なので比較するにも、子供のときからさらに子供に遡ったときの子供の記憶との比較と言うわけになるのですが、それでも吃驚するような変化が町にはありました。子供の私が何処でその変化を見ていたのかと言うと、それは公園です。

何もなくて、空き地に近い公園が、時代と共にどんどん色づいていきました。この公園のお話は、また次の時に触れたいと思います。

 

「歴史」を学ぶということはいろいろと意味があると思います。過去の事例から多くを学び、次の時代の思考の構築に役立てるべきもの。そう思っていましたが、近頃では、ちょっと首を傾げたくなる事も多いかと思います。それはともかくとして、ある時日本は、きっちりと10年おきに当たり前のように戦争をしていた時がありました。

日清戦争1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月
日露戦争1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)
第一次世界大戦1914年から1918年にかけて

この事にも歴史を学び始めた最初は鈍感にも気がつきませんでした。だいたい学校の歴史の授業は、最初や途中で手間取って、大概先生が
「ここからが結構大事なんだけれど、間に合わないので飛ばして行きます。」などと言う事が多くて、ちっとも頭に入らないと言う事も多くあるのではないですか。

知らない事も依然多すぎて、例えばこの時代の徴兵制はどうなっていたのだろうかとか、ふと思ってみたりもします。

徴兵と言うと、先の太平洋戦争での、悲惨な学生から果ては子供のような者まで引っ張っていったイメージしか思い浮かばないのですが、それ以前はどうだったのでしょうか。調べてみましたよ←ちょっと偉そう。

私の中にも、なんとなくイメージの勘違いもありました。徴兵と召集はイコールではないのですね。20歳になったら徴兵検査を受けるけれど、闇雲に引っ張られていったわけではなかったのです。4

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あっと、やられた。近頃書きかけでちょっと席を立つと、続きを猫のももが打っておいてくれるのです。でもどうやったらこうなるんだろうか。

と、それはともかくで、お話を元に戻しますね。徴兵と召集については次のところを参考にしてください。→徴兵制度wikipedia日清戦争・動員wiki

30年、ずっと戦争をしていたわけではありませんが、10年おきに戦争が起きればなんら影響を受けないわけではないと思います。ただこの戦争は中身がかなり悲惨でも、とにかく勝ち続け、本土は戦場にはなりませんでした。運悪く名誉と言う名目で召集に引っかかった人たちを除けば、兵隊さんたちには感謝しつつも、かなり対岸の火事的な部分もあったんじゃないかと思います。加えて好景気なんかもやってきていれば、人々の戦争と平和に対する認識も今とまったく同じとはいえないと思います。

だけど次の21年後に始まった大戦が、人々のそんな気持ちは根底から覆えされたと思います。

第二次世界大戦は1939年から1945年。

日清戦争の時代に生まれた子供も、第一次世界大戦が終わった年に生まれた子供もみんな引っかかってしまいました。この戦争の事は、今ここで深く書く必要もないことですね。

人々はこの大戦であまりにも多くの犠牲を払ってしまいましたが、それでようやく手に入れたものもあった・・とこの先を今、深く書くのは私的には怖いですよ。いろいろな方がいますからね。で、今はさらりと行く事に。でも戦争ばかりしていた日本が、65年(まだ8月がきていないので)戦争をしていないのは、当たり前ではなく奇跡かもしれません。それは・・・って、まだブログには書かないんだっけね。

 

私は戦争を知りません。多くの人も知らない。それって素晴らしい事だと思いませんか。

65年も戦争をしていない。凄い事だと思っているんですよ。例えば、この私が35年の寿命が有るか無いかは微妙なところですが、生きている間は戦争などは知らないと言う人生を送りたいです。そんなんでようやく100年の歴史が出来るんですよ。そしてその思いは次の時代になんとしてでも受け継いでいただいて、100年200年の歴史を作っていかなければと思っています。

 

なるほど、これがこの記事の結論かって・・・いやあ、ちょっと違います。
ここに書いたことは、いつも私が思っていることですが、次に書くことの下地です。前書きかな。

 


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100年平安に生きるという事<その3>

2011-04-21 12:00:03 | 思いつくまま

見ようによっては怖い写真。夫の指のところからトリミングしたら・・・・
キャッ、怖い・・・。

 

と言うわけで、「100年平安に生きるという事<その2>」の続きです。
遠い大予言より近くのシックスセンス。
やっぱり自分の勘を育てる事は大切な事なのですよね。但し、これは結構デリケートな問題で、既に何言ってるんだと思った人もいるはず。どんなに勘を育てても、数秒前に来る警報と同じで、これが運命を分けたと言うわけではありませんよ。それでも警報と同じで、ないよりはあったほうがいいとは思うのです。だけど問題は、その勘を如何にすれば育てられるのかっってことが分からない事ですよね。

他の事だったら、才能もそうだけれども努力でまかなえる事もかなりあるというのに。ついでなので本線外れながらゆるゆるといってみます。

例えば数学的センス。

もともとの才能もあるけれど、問題を解くときにこのセンスはかなり大切です。問題を解き始めたときに、実は答えは予測し推理されて、それに向けて行動、つまり計算を進めていくのが数学だと思っています。このあらかじめ予測し推理する力が乏しい子供は、問題を読みきれず最初の段階で根をあげるのです。呆れ返ってしまう例としては、問題集でその単元をやっているにもかかわらず、何を使って解くのかも迷うのです。これは数学的センスから程遠い。でも実はこの予測し推理して問題を解くと言うのは、数学に限った事ではなくすべての問題に共通している事なのかと思います。

予測し推理する。

あらかじめ、漠然と答えの行き着く先が分かっている。自分の脳は自分が認識している以上に優秀だったりもするのです。問題を解くと言う事は、それを明確化させる検算です。

これの意味が分かっている子供は、はっきり言ってもともと成績がいい場合が多いと思います。

この数学的センス、または数学的勘は、耳を澄まして精神力を高めればアップするものではなくて、大概の場合はその練習量で培われるものなのですよ。
何だ、結局勉強じゃん。
あっ、なんか声が聞こえました。
でもそのとおり。何でもある程度の練習量で培われた確固たるものがなければ、勘など磨かれるわけもないことだと思います。

私はもっと口では厳しい事を言うのですが、ブログだと少しぼかして書くので普通の当たり前の事を言っているようにしか聞こえませんが、それは常識。よっぽどの天才でもなければ、努力なくして基礎であるセンスと言う部分もモノすることなど出来ないのですよ。

 

でもこの理屈で言うと、シックス・センスだって同じ理屈が通用するんじゃないのかって思いませんか。

私は、それもありだなと思うのです。

でも訓練によって、映画のように幽霊と会話する人になれるかは微妙、いや、まず幽霊の存在や霊の話に行ってしまうので、それはパス。
何かを見通す力、無意識に動く、ぴんと来る、勘が冴えるなど。

 

それには「知っている」と言う知識が有るか無いか。これ、大きなポイントではないですか。
それらに支えられたとっさの判断力に限って考えてみました。

この震災では多くの映像やインタビューなどが放送されましたが、その中で、ある方の津波体験は非常に印象深かったです。見た方も多かったと思いますが、テレビ関係の方だったと思いますが、タクシーか何かに乗っていて地震に合い、街の中を取材していたのだと思います。ここまでの事はその後が凄かったので忘れてしまったのですが、そのうち水が足元を濡らすほどになりました。

「やばいやばい・・」と言いながら、車の運転手さんにも「車を捨てて」と促し、近くのビルに走って逃げ込むのです。入り口が見つからず、既に上にいた人に窓から入り口を聞き、階段を上がって振り向くと、その階段の真下を川のように水が流れ込んできたのです。もちろんビルの中をです。

この人は助かってインタビューを受けているわけですが、それでもドキドキしました。なぜなら、もし私が同じ立場になってしまったら、この人のように行動が出来るのだろうかと言う、言い知れぬ緊張感を感じたからです。

この場合は、もちろん走るのが遅いとかテキパキ動けないと言う事は差し引いて考えてもらう事にしましょう。

ポイントはすばやく判断できるか否かだと思います。
ここで、先に述べた「知っている。」と言う知識があることが、すばやく判断を下し行動に出る事が出来る基盤を作っているのだと感じました。

水が足元を濡らした程度の時、私は脱兎のごとく走り出す事が出来たのだろうか。私だったら、これから自分に向かってくるものを一瞬立ち止まって、しっかり見ようとしてしまったのじゃないだろうか。そんな不安が動悸を激しくさせたのでした。

右か左か、その判断をとっさに下すとき、知識のあることが、そのスピードを早めるのかもしれないと思ったのでした。

 

だけどワタクシ、右と思いながら左に行ってしまいそうな人なので、こういう人がいる限り「、知識→とっさの判断→素早い行動」を公式化する事は出来ないかもしれませんね。

 

最後に、また上に書いたことと相反する事をちょっと書かせてください。
私は映画好き。3月の映画スケジュールは意外と立て込んでいました。今日行かなければ、見逃してしまうだろうなと思っていた映画は、ジョニデの「ツーリスト」。ジョニデの映画はほとんど見ています。3.11は午後から仕事だったので、前日の夜からちょっと頑張って、私的には凄く珍しく10時には家事もやるべきことも終わってしまいました。余裕で映画館に行けるのです。好きな映画に行くときも、結構ふうふう言いながら準備する方なのに、頑張ったのです。ところが行きたくないのです。
「行きたくない・・・何これ。家に居たい、ずっと。何で。」私は自分に不愉快。せっかく頑張ったのに。でもこういう時は、昔から母が行くなと言っていました。

「この映画諦めよう。時には自分の気持ちに正直にって言うのも大切よね。疲れているから出かけるよりは休めって言う事なのかもしれないよね。」と、姉に言ったか自分に言ったかはもう忘れてしまいましたが。お陰でビビリの私は外で自転車、もしくはバスの中であれを体験しなくてもすんだのでした。

ルート君も前日は終日学校に行っていましたが、その日は前日頑張ったから家に一日中いるんだと、その時間も昼寝中だったのです。夕方から仕事のラッタ君も含めて、だからその時、私の傍には子どもがいてくれたのですね。子供が傍にいるということが、私にとっては何よりも安心できる事でしたし心強いことなのでした。

「見通す力、無意識に動く、ぴんと来る、勘が冴える」と言う事は、詰め込まれた知識の脳の処理能力と言う事が、私の結論でもあり持論なのですが、それでも、やっぱり「見えない力」「見えない何か」に私たちは守られているときがあると、時々思わないわけにはいかないなと思うのです。

 

と言うわけで、つづく。。。。。まだ。

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ももちゃんです。

2011-04-20 23:43:10 | 猫さま日記

今日は凄く眠くて、文章が綴れません。

なので、我が家の(既に)アイドル、ももちゃんの画像です。ももちゃんの表記を「桃」にしようか「もも」にしようか、それとも「モモ」にしようか考え中です。しばらくいろいろな文字で登場すると思います。

ももが来て、早くも5日目。でも画像は初日の分しかないのです。はっきり言ってめちゃくちゃド下手です。ももも私も慣れていないから。何で焦っているのか、上の画像も耳なしになってしまいました。しかもぼけているし・・・。

 

でもすっかり慣れて、昼間は私の後を突いて回ります。凄く可愛い顔を一杯見せてくれるのに、私は写真を撮るのも忘れて、
「キャッ、可愛いな。」と独り占めしているのです。

子猫の時間は短いと言うのに・・・・

 

来たばかり・・・
此処はどこなの、あなたはだあれ・・・と言っている。

 

この手の人は、誰なのよ・・・と言っている。

 

 

ぼやけてる。だって動きがすばやくて。早くも猫じゃらし的おもちゃがお気に入り。

 

 

何撮ってんだか。

この画像で映画の「リング」を思い出す。祟られた猫の写真。ろくでもないことを考えている私。

 

 

あんまり可愛くない。これでは人気猫ブログの道は遠いな。

 

 

疲れたわ、私・・・と言って昼寝中。
初日はやっぱり慣れていない。なにげにマットの下にもぐっているつもりなんだよね。

 


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100年平安に生きるという事<その2>

2011-04-19 14:42:58 | 思いつくまま

桃ちゃんです。大好きな花桃の桃です。我が家の新しい家族、どうぞよろしくね。

 

前回は予知夢の話で、すっかり私が怪しい人になっていた所まででした。今日はその続きです。まだ、怪しい人のままです。→100年平安に生きるという事<その1>

見た夢が何かの役に立たないかなと思い始めていた私は、かなり意識して夢を見るようになりました。そして見た夢は、大型ヘリの墜落の夢でした。夢の中でドキドキしながらその落ちる場所をじっとみると、白い大き目のアパートか、マンションのようなものが見えました。その表か裏手、凄く近くに落ちていく夢でした。そのヘリの横に文字が書いてありました。ああ、良く見えないな。でも警察かな?なんかそんな感じ・・・と思ったところで目が覚めたのです。

あまりにはっきりとした夢だったので、その夢の話を夫にし、覚えていて欲しいと言いました。先に言っておかなければ意味がないのです。信用度の問題です。その翌日、目が覚めたらニュースで自衛隊のヘリの墜落の模様を伝えていました。まったく同じ。私は吃驚して
「ねえ、ほら昨日の夢の・・・」と言いかけたら、夫は嫌そうな顔をして、「人の不幸をすぐそう言う風に言う。」と頗るもっともな事を言いました。でも、私は心の底から嫌な気持ちがしました。なぜならそこには普通に存在する、驚くと言う反応が抜けていたからです。

夫の事は家族として愛していますが、こういうところが苦手です。彼は本当に人の話が聞けないのです。うっかりなぜそんな人なのかも書きかけてしまいましたが、今は関係がないので削除しました。ああ、うんざり・・・

 

だけど、その「もっともな事」について私は考えました。当たったとしても、それは「私って凄いでしょ」的な自己満足に過ぎないじゃないかと思えてきました。たとえ時間場所が分かっていたとしても、それを止める事が出来ないではないですか。匿名の電話をかける、せいぜいそんなところかもしれません。だけどもし大きな電車の転覆事故、今回のような大災害・・・それもかなり正確な夢を見ることが出来ても、それを生かす力などありません。

意味がない。私はそう思いました。

人は不思議な力に憧れたりもします。そして、時には自分にもそんな力がわずかにでもあれば良いなと思うあまり偶然に起きた出来事に錯覚を起こす事もあります。でも本当に必要なのはそれを生かす力だと思うのです。「知る」と言うことを活かすことが出来て、初めて意味があるのですよね。

 

ところで、ちょっと猫の話。

子猫のモモが来てから、早くも4日目。すっかり慣れてお転婆猫まっしぐらです。
でも夜はケージの中でおとなしく寝ています。だけど、真夜中にちょっとだけ鳴きました。どうしたのかと思ったら地震が来ました。

同じように明け方、また静かにしていたモモが鳴きました。と、また同じように地震が来たのです。その後は部屋の中を走り回ってたり冒険中なので、そのような事はなかったのですが、静かな夜、または明け方、微妙に伝わってくる振動には、人間より先に感じるのかもしれないと思ったのでした。

 

ビッグな摩訶不思議な力を持っている人は、世の中にはそうそうにはいませんが、人も動物と同じで、その正体が分からなくても何かを感じ取る力を持っているのは確かなことだと思います。俗に言う、シックスセンスと言うやつかも知れません。

大予言は意味が無くても、もしくは意味を持たせることが出来なくても、この小口の力、それも人のふんどしではない自分の力は大切なんじゃないかと思います。うっかり夜中でもないのに、「自分の力」ではな「く自分のおパンツ」とか書きそうになってしまいました。少々疲れてきて、本性が出てしまいそうです。

なので、また次回です。

タイトルと書いていることが一致していないと思っている方、いらっしゃいますか。
大丈夫、いつか一致するのですよ・・・。


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100年平安に生きるという事<その1>

2011-04-18 02:07:02 | 思いつくまま

花は散ってしまっても新緑へと変わっていき、命の息吹はちゃんと受け継がれているのですね。(これはこぶしか木蓮か分からなかった元白い花)

 

つれづれに3月のお纏め日記として、思ったことを中心に綴っていくつもりです。

先日、コメント欄にて今度の原発の自主避難や放射能汚染についての事を書かれたものを頂きました。ああ、みんな話したい。その場所を求めているんだなと思いました。心に溢れそうな想いなどがあったら、「思ったこと」「感じた事」などを、どうぞコメント欄にお書きください。また非表示でと付け加えてくだされば、表示しません。

だけど情報的な事をお書きくださる場合は、必ずソース添付にてお書きください。「聞いたお話」で下さった場合は、私が個人的に「フムフム」とか「へえ」とか感心させては頂きますが、申し訳ありませんが非表示にさせていただきます。

 

今度のような大きな災害が起きると、いろいろな視点でいろいろな話題が入ってきますが、そこに「予知」と言う分野もあると思います。

科学的予知による一番の成果は、「緊急地震速報」ですね。3.11の後のツイッターで、地下鉄に乗っていたらみんなの携帯が行き成り鳴り出したけれど、みんなが普通の顔をしていたと言うものを目にしました。

私はほとんど家に居るのですが、これは想像するとかなり怖いです。1車両の多くの人々の携帯がいっせいに鳴り出すのですよ。しかも地震速報の音はなんとなく緊迫感がある音ですよね。なんだかゴジラ襲来のような感じがしますよ。
人々が普通の顔をしているのは、成す術もないからだと思うのです。それと同時に、今来ているものは「余震」であると言う認識が、落ち着いた判断を導いているのだと思います。

この「緊急地震速報」は外れる事もありますが、やはり多くの場合は「来るぞ!!」と気構えさせ、わずかばかりの安心感を生み出しているように思います。成す術がないことは変わりませんが、数秒前でも「知る」と言うことは大切な事なのかもしれません。

私の携帯にはそう言う機能がなく、テレビが消えてしまっている時には行き成り地震を感じなくてはいけませんが、知っていたのと知らなかったのとでは、落ち着き度が違うように感じます。

 

ところが、心は相反しています。知っていたからと言って、成す術を持たないならばあまり何の役にも立たないのではないかと思うのは、科学的ではない予知の方。

今度の地震の後、この大震災を気持ちの悪いほど言い当てていた人がいたことを知りました。知っている人は知っていたその筋では有名な方らしかったのですが、私はその人を知らず、あまりに当たっているので思わず疑ってしまいました。つまり、かなりの記事数のあるブログを何日あって何人あれば作る事が出来るのかと言う風に。

疑り深いと言えばそうかもしれませんが、この方は講演会とかもやっていると書いてあったので、新手の詐欺かもと思うのも、決して愚かなことではありません。でも、そうではないみたいです。上の文と重複しますが、その道では時々話題になっていた方とか。

凄い人ですね。原発に関しても、先に書いてありました。その方の新しい日記では、何とはなしに「虫」の事が取り上げられていましたね。
と、いつもならここですと、→でリンクを貼ったり、そのネット上の住所を書いておいたりもするのですが、今回は止めておきます。ただ凄く気になる方は「照の日記」とか「世見」とかで検索するとでてきますよ。だけど震災以後アクセス数が凄いことになってしまったらしく、繋がりにくくなっているみたいです。

ところで、数行上の文で「あまり役に立たない」と書いたのは、別にこの方の批判ではありません。全体的な科学的ではない予知、または予言のことを、なんとなく大きな括りに入れていってみたのです。と言うよりは、科学的予知である予報も、想定外であったという点から見れば、同じようなものであったかと思います。

もとより予知が役に立つか否かは、それを何処まで信じる事が出来るのかで、その影響力が違うと思います。優れた預言者がいてもその存在を知らなければ意味もなく、知っていてもその傾倒率でやはり行動が変わってくると言うもの。ちょっとと言うか、さながら宗教と類似点があると思います。

そう考えると、今私たちが危険なまでに信じすぎているものは「科学」と言う宗教、もしくは神話だったのかと思ってみたりもするのです。

 

今の私たちの苦しみは、その信じたものからの裏切り。
それはつまり「原発」の事ですが、それはまた別に書きたいと思っています。

 

私が科学的ではない予知をあまり役に立たないと思っているのは、自分の経験からのものなのです。

私はそんな大予言でなくても何らかの予知をする人がいると言うのは、信じているのです。身近で言うと自分の母とか。もっと身近で言えば、過去の自分とか。

母は昔、何かあると後出しじゃんけんのように「あの時、そう思ったの。」みたいな事をたびたび言うので、思春期になり反抗期になった頃の私は、とうとう腹を立て、「後から言われると、変な人に感じるし、意味ないじゃない。何かを思ったら先に言って。」と、母に言い渡しました。

ところが母はその後は、そんな私に気を使って先に何かを言うようになったのですが、実はそれをやられると、変な人度は増した感じがしました。しかも社会的に何の有用な事もありませんし。ただ、そんな母ですので、時々不安な事があると「なんか嫌な予感とかする?」とさりげなく聞いてしまうときがあります。彼女が何も感じないと言うと、ホッとしたりして。

また数年前のある日、何日か続けてみた夢が、ことごとく予知夢になっているなと思った私は・・・・
凄く怪しい話になってきましたが、別に信じてくれなくて良いです。その時に見た夢の内容も忘れてしまったので。

ただ、その時の私はちょっと妄想をしました。こう言う力は、何かで鍛えればそれなりの「何か」になるんじゃないかしらと。

そしてその日の夜にまた夢を見たのです。

 

と、長くなってしまったので続きはまた次回。

 

「JIN-仁」、見ましたよ。「神さんは乗り越えられる試練しかお与えになんないのです。」って子供が言うとジーンとしちゃうな。でもこの言葉、今はなんかより深く聞こえてきますね。

 


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つれづれに

2011-04-16 00:51:17 | 思いつくまま

4月も半ばになってしまったので、そろそろ3月のまとめをしなくてはと思い始めているこの頃。

でも3月はひたすら耐える日々であったような気がします。

そしてひたすら様々な事を考える日々でもありました。

でも思うことも多すぎて、それに伴う「書く技術」が足りなくて、心の中には蓄積していくばかりです。でも自分の中のそこを見つめていかなければ、3月の終わりはないように思うのです。

思いつくまま、しばらく突っ走ります。

ああ、でも分からないな~。

明日猫が来るのですよ。猫ブログに変身してしまっていたりして・・・。

まあ、心は多角経営ですからね、それもありと言う事で。

 

桜の咲く季節は他の花も咲き乱れ、そしてあっという間に消えていきます。

上に載せたのは「ハナニラ」。ハナ大根と共に地味だけど清楚な感じが人気ですよね。

そして、これは「花は桜のみにあらず2011」に載せた「こぶし」です。(うーん、もしかしたらモクレンかな。)

 

あんなに咲き乱れていたのに、もう花はほとんど残っていません。でも良く見ると新芽がたくさん出ているのが分かります。

季節は次の準備を既にしているのですね。

 

まとめ記事を書こうと思うときは、書いた記事も書いたけれど途中まででアップしなかった記事も、拾って読み直してみます。その時の自分が良く見えてきて、なかなか面白かったりもするのですよ。

下のは別に面白いわけではなかったのですが、書きかけの詩です。

タイトルは「祈り」

3月19日に書いていました。

この後の言葉が思い浮かばなくて、放置してあったのですね。このような内容は、普通の文章で書かせていただいたように思います。

 

でも一ヶ月が過ぎ、この書きかけの詩を読み直してみると、続きなど出来なくて当たり前だと思いました。完結しているのです。

突然、閃きました。五行歌と言うのがあるのでした。このブログを開いた頃、一回だけ作った事がありました。

 

 

この世に「奇跡」と言う言葉があるという事は

今までだって奇跡が起きてきたという証

その奇跡が、今、起きないわけがない。

手を合わせ私は祈る。

あなたはきっと帰ってくる。

 

 

海の泡に等しいくらい、多くの悲しみがありました。

でもテレビでは追いかけきれないほどの、多くの奇跡もきっとあったのだと、私は信じています。


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