「100年平安に生きるという事」の<その4>では今までの趣と違って、ちょっこシ真面目。でもタイトルの核心に近づいてきたような雰囲気が醸し出されていたでしょうか。
それでは<その3>までに書かれていた、予知・予測について書かれていたことは何だったのかと言う事になってしまうのですが、もちろん関係があることなのです。たとえ数秒前の警報が役に立たなくても、右に行けと勘が働いたのに、うっかり左に行ってしまっても、本当は全力で未知なる力が働いていたのに、襲ってくる力の方が大きすぎて力及ばずとも、それらのものは、その者を助けようとする力であったことは間違いのないことなのだと思います。
―「その者を助けようとする力であったことは間違いがない」ことなのだ。
私は、それを自分自身に言わざるを得ない・・・。―
「100年平安に生きるという事」と言うこのタイトルは、実は2月の終わり、または3月の最初の日々に考えてきた事から生まれました。そして編集画面では<その4>で書いたようなことが既に数行書かれていたのです。
100年200年の戦争の無い歴史を作る。それは変わらぬ平和への想いですが、でも今平和であっても、日本と言う国は平安な国なんだろうかと言う疑問は払拭できないものがあるのです。
子育て支援のばら撒きが強いては少子化問題に役立つとでも、本当にこの国の上に立つ人たちは思っているのでしょうか。
私たちは高い教育費も子供の為の医療費も、今のようには恵まれずに自分で払ってきました。
でも頑張って来ました。夫婦で手を取り合って。大変ではあっても出来た事なのです。
別に財源も無いのにばら撒いて貰っても、自分の夫の仕事に陰りがあったら、元の木阿弥なのですよ。目を吊り上げて真剣に取り組まなければならないのは、雇用の安定なのじゃないですか。
と言っても子育て支援のばら撒きは今度の震災で立ち消えになってしまいましたので、言う必要もないことですが、納得の行かない案件でした。
少子化に対する一番の政策は、若い人の雇用安定です。一体誰が「派遣法」なんて馬鹿な法案を作ったのですか。いや、知ってはいますが、一言そう言ってもみたくなるってものでしょう。
若い人が派遣のお仕事なんかしているから、結婚なんか出来ないんですよ。結婚できなきゃ、子供なんか生まれないんですよ・・普通は。
結婚している人は生活が安定していれば、ほっといたって勝手に子供は作りますよ。子供が好きな夫婦ならば。
大河がゆっくり流れていくように、人の営みも同じように繰り返されていく、時が来たら子供たちは学びだし、その時代が過ぎたら働いて独立し、次の時代を作っていく。その流れが崩れだしているのに、なぜ今の世を平安と呼べるのでしょうか。
ほんのちょっと前の事ですが、私の友人のおよそ半分が、一家にひとり自宅警備員がいるという状態だったのですよ。これを異常と思わなければ、既に普通の感覚を失っているとしか思えません。じゃあ、お前の家はどうなんだと思う方もいるかもしれませんが、ここは私のブログなので、家族の事は当たり障りの無い事以外は書かないように心掛けてはいるのです。だけどある時から、私の心は曇天の空の下にいるような感覚、または止まない雨に耐えているような感覚・・・・
時々、このブログにも書いて発散しています。と書いてしまえば察しもついてしまうと言うものですね。
私たちの事なんかどうでも良いんだ、後は老いていくだけさとか言っていたいけれど、早々暢気に老いてもいられないような気配です。ご存知のように私はかなりのヘナチョコなのに、私自身が強くなることを強いられているような気がするのです。それは何処のお母さんも同じです。
先日も子供が大学院に入るので、その街まで送っていった人が、心が晴れないと言っていました。勉学の志高く、その子供を送り出すと言うよりは、今の時代の緊急避難的進学だったからに他ならないと思います。
先の見えない閉塞感で、時々息が詰まりそうになるのです。
私にたった一人の友人も居なくて、姉妹たちもいなかったら、心が折れてしまいそうになるかもしれません。どの人も私よりは強い人かもしれませんが、もしも私と同じような気持ちでいるのに、周りに似たような友人がいなかったとしたら、ここにはたくさんの似たもの同士がいるのだと思ってくださいね。
母は強くならなければと言うお話に戻りますが、そう思い毎日を過ごしていたら今年に入って、あるビジョンが脳裏に浮かぶようになって来ました。それは戦後の焼け野原。何もない瓦礫の町です。
ある時の私の姉への電話。
「ねえ、お姉ちゃん、あのね。日本っていう国は豊かな国だよね。東京は大都会だし、そうでなくても私の町だって暮らしやすいし。だけど、私、なんだか焼け野原みたいなところを歩いているような気がするんだ。そのくらい強くなれって事だと思うの。だってあの人たちは(戦後を生きた人たち)は、住む家を失って、みーんな同じようにボロを着て、明日食べるものを心配しながら、それでも優秀な人は優秀だったし、働き者は働き者で、10年20年しないうちに、みんなそれなりに家を構えたり家族もしっかり持って、しっかり生きたじゃない。泣いたり笑ったりしながら生きたじゃない。心の中には瓦礫の街を歩いているイメージ。だけどあの人たちに負けないよ、私。強くならなくちゃね。」
でも・・・・・・
3.11のあの光景は・・・・
一体何なのよ。
心の中にあった光景が現実の世界に飛び出して、目の前に広がっているのですよ。
なんだか凄く疲れてしまいました。なんだか毎日が大変な思いと言う思いの部分も、あまり単純でなく複雑になってきてしまったように感じました。糸が絡み合っているという感覚です。
あれはただの私の心象風景だったのに。
もちろん、私は被災地の人間ではありません。だけどあの沸き起こってきたビジョンは単なる偶然なのだろうかと思ってみたりもするのです。
もしも未来に吹く風が時を震わせ見せた幻影と言うならば、先に書いたとおり
「その者を助けようとする力であったことは間違いがない」ことなのだと自分自身に言わざるを得ないのです。
私は時には、人から「強い人」だと言われます。でもそれは自分が如何に弱い人なのかと言うことを知っているからに他ならないと思うのです。時にはその弱さを過食で乗り越えると言う情けない部分もあるかもしれませんが、ほとんどは大切な人とのおしゃべりと書くことで乗り越えているのだと思います。被災地の皆様はもちろんの事、そうでない地域の皆様も、日々の不安に疲れてきてしまっている方も多数いらっしゃると思いますよ。そう言うときは無理せずに「疲れた」と言いましょう。片寄せあって踏ん張りましょう。先の昭和と言う時代の瓦礫の街を生きた人たちに負けじと頑張ろうと、私は思います。
100年平安に生きるという事は・・と「は」と言う助詞をつけたならば、たぶんあなた様の脳は予測し推理すると思います。そしてこう繋げるでしょう。
「100年平安に生きることは、なんて難しい事なのでしょう。」と。
まさしく心の底からそう思います。たとえ戦争が無くても。
でもいつか100年後の人たちが、いやもしかしたら、今から一昔とちょっとしか経たないで生まれた人が大人になった時に、凄い時代を生きていたんだね、凄いね、頑張ったんだねと、私たちを褒めてくれる日が来るかもしれないと、私は思うのです。
<3月のお纏め日記。思ったこと、その1と言うところです。>