森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

予想外な一日

2025-02-09 11:20:05 | 家族スナップ

#義母日記 その4

真夜中の電話に震えました

阿修羅か菩薩か、それが問題だ。

ポツンと座って居た。

の続きです。

 

2月8日は、元々14時から義母の面会の予約を入れていました。

ところが早朝に義兄から電話が入りました。

真夜中に義母から「苦しい」と電話が入ったと言うのです。

「スタッフに連絡して」と伝えると、また電話が入り「もう少し寝ていて」と言われたと言いました。

その話を聞いて、私は不安に感じました。

 

真夜中の施設は、「苦しい」と伝えても、その時に対応した看護士又は介護士の判断のみになってしまうからです。

義母はハキハキと話すし、何でもない時はかなりまともに見えてしまうのですが、実は認知症度はかなり上がっていて、言うことをすべて鵜呑みには出来ません。

それで午後会う時に詳しく聞こうと思っていました。

 

その日の午前中は、夫は皮膚科に予約を入れて、私はマンションのサークルのミーティングに行こうと身支度を整えていました。

さあもう行こうと、コートを手にした10時5分前、施設からお電話を頂きました。

そして義母を病院に連れて行った方が良いと言われました。

義母は今の段階では介護認定が低いので、ショートステイ中です。それで病院には私たちが連れて行くのです。

 

お電話を頂いて、私はホッとしました。

早朝の義兄からの電話では、状況がよく分からなかったからです。

病院には電話して、何とか予約を入れてもらいました。

もちろん夫の皮膚科も私のサークルのミーティングもキャンセルです。

病院と施設に電話連絡を入れたので、10時20分に家を出ました。

 

迎えに行くと、義母は顔色も悪くゼイゼイハァハァと言っていました。

私は診察をしてもらったら、そのまま入院とかして欲しいなと思っていました。と言うのは、義母の義兄への電話で、不安に感じた事が理由です。

だけど長い待ち時間の間に、おしゃべりなどをしてまあまあと楽しい時間を持っていたら、彼女の顔色も良くなって、ゼエゼエと言っていたのも収まってきたように感じました。

これは薬を貰って帰るパターンになってしまうかしらと、そんな風に思いました。それはそれで仕方がないかと諦める気持ちになっていたのです。

この日、義母はたくさん検査をしました。

午前中の診療時間が終わってしまって、午後からまた検査再開。

この時、詳しくはバカバカしくて書きませんが看護士の勘違いがあって、私たち全員昼食抜きになってしまいました。

病院から帰る時に、みんなで何か食べて施設に帰ればいいねと言う予定にし、ペコペコのお腹に我慢をさせました。

検査も終わって、やっと診察の時間が来ました。

その少し前、やっぱり同じくその日に一緒に面会に行く予定だった義兄も病院にやってきました。

みんなでワイワイと診察室に入ってもと思ったので、夫と義母だけが入っていきました。

するとすぐに扉が開いて、夫が義兄を手招きで呼び入れました。

ああ、なんか嫌な予感がー。

 

出てきたみんなは、ざわついた雰囲気。

「入院だ。」と夫が言いました。

「ああ、そうなの。」と、私は暢気な言い方をしました。出来ないかと思っていたのに、望み通りの入院に決まったのかなと思ったからです。

「千葉××総合病院に救急車を使って搬送になるらしい。」

「えっ、そうなの。」

私は吃驚しました。近くのこの病院ではなくて、そんな遠い所に!!

ひとり救急車に同乗しなくてはなりません。

夫も義兄も車で来ていましたので、乗っていくのは私と言うことになりました。

 

救急車の中で、義母が「救急車に乗っちゃったりして、私、戸惑ってドキドキしてる。」と言うので、私ってとんでもなく面白がりやな人なので彼女に言いました。

「お母さん、世の中には血まみれになっていたり、虫の息で救急車に乗る人が多いと言うのに、お母さんはそうじゃないじゃない。凄いわ、救急車に乗っちゃったって自慢すること増えちゃったじゃない。」と励ましたが、その時流石にちょっと不謹慎発言かなと思って、救急隊員の方に

「すみません、馬鹿な事を言って。」と謝りました。

「いやいや全然大丈夫ですよ。我々も今日は元気な100歳の人を乗せたって、なんか今日は縁起が良いなと感じていますから。」と言ってくださったのです。

 

そして、病院について、またもいろいろ検査。ずっと後から来た義兄と夫とで待合室で待機していて、そして無事に入院させ、帰りに夕食を頂いて、家に帰ってきたのが23時でした。確かにその日は「今日一日はおばあちゃんの為に使おう。」と思ってはいましたが、まさかこんな時間になるとは思ってもみませんでした。

 

義兄や夫といる時のおしゃべりなど、いろいろな(多すぎる)情報を得たりしましたが、ひとりの待ち時間の時も持っていった本を開くこともなく、ほとんど何も考えずに、夜になると、頭が空っぽになったような気がしました。

 

夜、途中のガストで食事を取ったわけですが、その時、私は言いました。

「今日の朝、まさか昼食抜きになるって、思いもしなかったよね。

今日の朝、まさか救急車に乗るなんて、思いもしなかったよね。

こんな時間に夕食を食べることになるなんて、思ってもみなかった。

本当に予想外な一日だったね。」と。

 

 

夜、入浴前に体重を測ったら全然減ってない  !!

あんなに腹ペコだったのを我慢したのに、体重が減らないなんて思ってもみなかったわ !


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ポツンと座って居た。

2025-01-25 03:12:47 | 家族スナップ

#義母日記 その3

真夜中の電話に震えました

阿修羅か菩薩か、それが問題だ。

の続きです。

 

1月24日、義母は100歳になりました。

凄い凄い。

それだけで私は彼女を尊敬します。

だけどよもやその誕生日の日を、施設で迎えさせることになるとは思ってもみなかった事でした。

 

仕方がないことです。

あの時、義母の衰弱は、数日後の死を感じさせるものが確かにありました。

人は病気でなくても死ぬのです。

それが急遽の施設へのショートスティとしての入所で、彼女は復活できたのだと思っています。

だけれど、元気になれたからと言って、すぐには出られないのです。

介護認定をあげて今後のサポート体制をきちんとしなければ、同じことが起きるのは誰でも分かることだからです。

誰でもと書きましたが、分からないのは義母ばかりと言えるかもしれません。

 

義母からの電話は、あれからみんなを苦しめることになりました。

嫁である私は、さすがに彼女から攻撃的な言葉を受けることはありません。

それは距離感なのか、それとも信頼のなせる業か。

私は後者と信じたいです。

 

ある時、夫にかかってきた直後に、同じ部屋にいた私に時間を空けずにかかってきたことがありました。

一つ一つ、彼女の言っていることも否定せずに説明していくと、納得してくれて「私、もうちょっと頑張るね。」と言ってくれたのでホッとしました。

だけどその時に、義母と夫の会話を聞いていた私ははっきりと言いました。

「あのね、もっとパパの事を信じてくれないかしら。
あの人は本当にお母さんのこと大事に思ってるよ。
だから私も、お母さんの事を凄く大事に思えるんだよ。」と。

「悪い事ばかり考えちゃうのよ。」

そう言って彼女が語った妄想は、それを聞いただけで、世間の人が「ボケてしまったのね。」と言うような内容でした。

義母のいないうちに家を売って、三人で分けるー。

だいたいその三人のうちの一人は、死んでしまっているじゃないの。

いや、義母はその中にケアマネを入れたのかしら。彼女の事を、鬼と言っていましたから。

「あのね、そんな悪人になるには、相応の知恵が必要なのよね。申し訳ないけれど、うちのパパさんに、そんな知恵はないと思うわ。」と親相手に、相当失礼な発言をする私。

「そうね。私はうちの子供たちをそんな風に育てなかった。」

「そうよ。信じてあげて。そんな風に疑われちゃうなんてパパが可哀そうよ。」

 

義母は会っている時は、いたって普通で、今ある状況も分かっていて、皆に感謝してニコニコしています。だけど時々混乱してしまうのでしょうか。

そして電話をかけまくる・・・・

嫌な想いは、私は一つもしていないけれど、なんでか凄く疲れます。

彼女のふたりの息子たちは、さらに草臥れてしまっています。

 

だけど足りないものを届けに義母を訪れた時に、周りの方が、かなりの認知症の人ばかりで、話す相手もいなくてポツンとひとりで座って居た義母が、すごく可愛そうに感じたのです。

キラキラと輝いて生きて来たのに、こんなところにポツンとひとりで座って居るのかと感じたからです。

 

「ここは牢獄」とある時、義母は夫に言いました。

電話攻撃にうんざりしている息子たちには、そう言った義母の苦しみは我儘にも聞こえたかもしれません。

明るく爽やかに見えた施設のスタッフの人たちは、みな業務に追われて、母の個室に訪れることも稀だと言います。もちろん母の話を鵜呑みにすることは出来ません。ただ「話しかける」と言うことが、介護の中からは脱落しているのは感じます。

たぶん人手が足りなくて手が回ってないのでしょう。

「あんなこともこんなこともやらされる。」と言う愚痴だけは言って帰っていったそうですから。

でもはっきり言って駄目だと思うー。

 

いろいろな事を考えさせられます。

これからは老人社会じゃないですか。

そしてうちのマンションだって独居老人率が高いのです。みな明日は我が身じゃないですか。

議会中にいねむりばっかりしている議員なんか要らないから、介護する人を増やしていくのは急務じゃないですか。

それに知恵を絞っていくのが政治なんじゃないのかしら。

 

まあ、思っていたものとは違ってしまいましたが、ともかくも姑に無事に100歳を迎えさせることが出来て、嫁として私はほんのちょっとだけホッとしたのでした。

 

 

 

 

 


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阿修羅か菩薩か、それが問題だ。

2025-01-12 02:00:53 | 家族スナップ

ひとつ前の記事「真夜中の電話に震えました」のタイトルをじっと見ていたら、これって、そのタイトルだけでちょっとツリっぽいなと思いました。別にオチなどないわけですが、それでもオチと言うものがあったら、「間違い電話なんてもので、ごめんなさい。」ってなもんですよね。

意外と真面目に書いていたので、そのタイトルの持つイメージなんてものにまで思いがいきませんでした。

「真夜中」「震えた」、こんなキィワードがあったら、やっぱり少々怪異的なものを連想なさった方もいらっしゃったかもしれませんね。

 

だけど確かに電話と言うものは、時には不思議な力を発揮する時があるのではと思っています。

昔、実家でもありましたよ。

ある日かかってきた電話が、単なる混線電話で(そう言うことって昔はあったのよね。)、「もしもし」と言っても、相手の声しか聞こえてこないわけですが、その声が東京に住む父の姉と、山梨に住む父の弟との会話。

聞き覚えがある声で、なんだか不安に感じて、電話を掛け直すと父の姉の不調の訴え・・・・。

そのおばさんは結局はその後60代で食道癌で亡くなったわけですが、その混線電話がそのおばさんが亡くなっていくまでの物語の最初なんですね。

東京と山梨の会話。そしてそれが姉弟との会話。そんな電話の混線って、どういうことなのかしら。

 

私自身も、いまだに謎のままなのは「謎の携帯メール事件」。

これは、本当にさっぱり分からない。やっぱり2013年に亡くなった父が打ったのではないかしら。

まあ、分からなくても良いや。

あの人も言ってるじゃない。

「すべてを知ろうなんて、人間の傲慢です。」って(笑)

 

というわけでタイトルが誤解を生みそうだった「真夜中の電話に震えました」の続きです。

 

施設と言う所は、別に姥捨て山ではありません。

家で介護している人にも助かる場所かも知れませんが、一番助かるのは、当の本人だからです。

だけど初めて家族を預かってもらう時、少々複雑な気持ちになるのも分かります。

今頃何をしているのかなと気になっていたところに、真夜中の電話です。義母の場合、衰弱してからのショートステイだったので、何があるか分からないじゃないですか。ドキドキしましたが、間違い電話でホッとしたのです。

だけど朝方夢を見ました。

荷物に化粧水と乳液を入れる時に、量が少なかったのが気になっていました。それでそれを届けている夢でした。

普通のなんて事のない夢だったのに、なんだか目覚めが悪かったのです。だけどこの夢はすぐに忘れてしまって、なんで目覚めが悪かったのかも思い出せませんでした。何か夢の中でトラブったような気がしました。

 

その日の夕方、義母から電話がありました。

明るい感謝の電話で、楽しく語らい、私は心からホッとしたのです。

「良かったわ。たった一日で声に元気が出て来たわ。」

「ずっとここにいるわけじゃないのよね。」

「違うわよ。ちゃんと食べて気力と体力が戻ったら帰ろうね。もう気になっちゃって、今日夢まで見ちゃった。」

「ありがとうね。頑張るね、私。」という感じで、そんな電話があったことを、早く夫にも伝えてあげたいなと、彼の帰宅も楽しみに待っていました。

 

帰ってきた夫、靴を脱ぎながら(早く私に言いたかったのでしょう。)、開口一番、「早速来たよ、電話。」

「えっ、パパにも来たんだ♪」と明るい私。

「帰りたいってさ。」

「えっ!? えええっ!!!」とビックリな私。

「なんでこんなところに私いるのか分からないって。あなたが無理やり車に乗せて連れて来たってさ。」

その嫌な報告は、もっと長かったわけですが、私は震えてしまいました。

 

「なんか天国と地獄じゃん。私とあなたの電話の違いって。」

 

阿修羅って仏を守る鬼神だし、菩薩も悟りを求める修行する人、一般的には仏に準じるイメージがあるじゃないですか。夫と私のふたりは、ともに義母を支える人なわけですが、義母から見たら、夫は阿修羅側の人で私は菩薩側の人に感じているのでしょうか。

でも次に電話がかかってきたとき、夫にかかってきたような話だったらどうしようと、真夜中じゃなくても私は震えました。

 

確かにお義母さんは、少々ボケてきてしまったように思います。(少々とは言えないかも。(/_;))

だけどもうすぐ100歳なんですよ。今頃になってやっとなんですよ。

立派だと思います。あと17年生きて日本最高齢になるとは、さすがに思えないので、ちょっと頑張ろうって思っています。

 

そして掛かってきたのですよ・・・・・その電話。

だけどこの嫁は意外とですね・・・・・ってまた続きます。

 

でも次はドラマや映画や本の感想を少し続けて書く予定です。

 

 


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真夜中の電話に震えました

2025-01-10 14:32:01 | 家族スナップ

真夜中にアップした「相棒season23第10話「雨やどり」」もよろしくお願いします。

※      ※      ※

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜第一回「ありがた山の寒がらす」

の記事の中で、ほんの少し触れさせていただいたのですが、姑が

年末からなんだかいきなり老いが進んでしまったような気がしていました。

1月1日は長男さんたちとお食事。翌日の2日の日に私たちが行き、夜は長男さんたちが用意しておいたおせちの残りと(ゴージャスおせちなので、たくさん残っていたのです。)しゃぶしゃぶにしました。義母は喜んで食べてくれましたが、ほんのちょっぴり・・・・

4日の日は、私たちも午前中は病院に行ったので、その後気がついたものを買って1時頃に義母の家に行くと、まだ布団の中にいました。

暖房をつけて部屋中を暖めて、買って行ったものを温めて食べてもらいましたが、3口だけ。

その翌日は2時に行くと、やっぱり布団の中にいました。ちょっとマシだったのは寝ている部屋の灯りは着いていて、ラジオがかかっていたのです。

でも出した雑炊をムリムリ4口とプリンを食べただけでした。

夜はこれをと用意して帰っても、多分食べないのではと思いました。

 

今の私たちには、二往復は現実的には無理なことで、あと20日で100歳になると言うのに、このままではその前に力尽きてしまうのではないかと、ものすごく不安になりました。

「老衰」と言う言葉があるじゃないですか。

もうすぐ100歳と言ったら、その言葉もピーンとくると思うのですが、最近、もっと若い(と言っても80代か90代初め)方が死因は老衰というニュースが流れてくると、私はイメージが掴めず、首を傾げてしまっていたのです。病名もなく老衰 ?

つまり老衰って、病名がないのに、すべてが弱っていく状態を言うのですね。

まさに義母はその状態ではないですか。しかもいきなり来ました。

私は義母に、ショートステイの話をしました。とにかく24時間見守っていてくれて、三食何の心配もなく時間で食べさせていただける場所は、今の義母にはとっても大事なことだと思いました。

義母は、99歳だってのに要介護1なんですよね。特養なんかに入るには、要介護3以上なんですよね。

今度のことでケアマネが、その認定を変えてくると思いますが、とりあえず体力が回復するまで、どうだろうかと思いました。

義兄がもう特養でなくても構わないと言っていましたが、とにかく目の前の状況を抜け出した後の話です。

 

ケアマネも同じことを思っていたようで、夫と義兄と義母の話し合いでトントン拍子に話が進み、8日の日の午前中に夫と二人でその施設に送っていくことが出来ました。

すぐに入れる施設を探して、連絡してくださったケアマネに感謝しました。

 

お部屋は個室で綺麗だし、施設の方々は皆若く親切でホッとしました。

この日は起きてないと思われる母の準備のために、8時半から家を出て半日を費やし疲れ果ててしまいました。

だけど夜になると、義母はどうしているのかなぁと物凄く気になってしまいました。

上手くやっているかしら。食事は取れているかしら。ちゃんと眠れているかしら・・・・。

 

いつものように夕寝をしてしまったので、真夜中は起きていたのですが、その真夜中2時に夫にスマホが鳴りました。ワン切りではなく何度も着信音がなりました。

ドキッとしますよね。

取る直前に切れてしまったのですが、番号を見ると知らない番号で、どうも間違い電話だったみたいです。

なんと迷惑な事か。真夜中の電話はお気をつけて!!!

こんな老人を抱えているうちもあるのですからね。

 

翌日、義母から電話を貰ってホッとしました。

だけど、またいろいろとあって・・・・と、続きはまた書きますね。

 

 


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11月の線香花火

2024-11-18 17:21:30 | 家族スナップ

ある日実家の母が、

「最近、みんなに会ってないね。どうしているのかしら。元気なのかしら。」と言いました。

と言うわけで、11月3日に集合したのです。

と言いましても、母はアルツハイマー型認知症で、みんなと会って喜んでも、帰った後、その数分後にすべて忘れてしまうのは承知の上でした。

だけど会っている時のその瞬間は、きっと楽しくて嬉しいのだと思います。だからそのわずかな時間の幸せのために、出来るだけ会って行こうねと言うのが姉妹の気持ちです。

 

姉妹集合の日にちなどを決める時、ふと、「そうだ、今年もあれをやろう。」と思い立ちました。

大人たちだけの線香花火大会。いや、すぐに「大会」などと付けたがるのは、日本人の癖らしいです。

とにかくみんなでやる線香花火。

昨年もやりました。

9月の4枚《夏の終わりの線香花火》

上の記事にもリンクしていますが、私がなにげに花火を意識してしまうのは、2020年のスノウさんと過ごした最後の夏が忘れられないからなんですね。

恋しゅうて 名残りの夏の 花火かな

 

最初は姉妹三人でと思いましたが、そこでまた閃きました。スノウさんの娘ちゃんを呼びましょうと。

おばさんばかりではアレなんで、横浜暮らしのラッタさんも呼びました。

そしたら、たまたまですが、母の弟さんから電話があり

「近頃、親戚の人の夢ばかり見ている。」などと姉に言ったそうなのです。それってヤバくないですか。(いい方の意味じゃなくて(笑))

思わず姉は3日の日にみんなが来るとお誘いしたのです。

 

姉のたまう。

「ただ二人が来て、何でもないような事だったのに、なんだか大ごとになってしまったわ。」

確かに。

だけどたまには良いんじゃない。

 

楽しい賑やかなお昼のお食事会とお茶の時間が終わって、おじさん夫婦は姉夫婦が家まで送り帰っていきました。

 

毎回忘れてしまうので、これは私的メモですが、今回はおじさんがあんなことを言うし、彼らも母に殉じた年齢なので良しとしたいと思うのですが、若い人を先に呼んだときは、彼らは別の時に来てもらおうと、決めました。あっ、姉にもその旨を伝えておかなくちゃ。

本当はこの夫婦の事が、子供の時から大好きなんですよ。おじさんは面白い人だし、おばさんは良く気が利くし働き者で、母にもよく気づかいをしてくれてありがたいと思っているのです。

だけどおばさん、しゃべりすぎ。

そして主に自慢話。

私たちだけだったらね、少々心の中でうんざりしていても、ずっとニコニコして聞いてあげます。この時も最後までそうしていたと思います。

だけどさ、これ、気を付けましょう、シニアの皆様。

話したいのは分かります。

だけど若い人たちにちょっと話を振っても、さぁ~と横から話もかっさらって、ずっとしゃべっている・・・・。

若い二人から顔の表情が消えていくのが気になって仕方がなかったです。

まあ、こういう時、「眠くなっちゃったのね。ご飯をいっぱい食べたから。」で片づけられちゃうのですが、違いますよ。つまらないんですよ。ご老人のお話がと言うのではなく、自慢話が。

 

なにげにこれは私に対してのメモかも。

もっと人生を重ねたら、過去の方がなんたって比重が重くなるわけで、話したくなるのは当然。だけど話していて楽しいのは自分ばかりなので、若い人には過去の栄光を語るまいという所です。でもね、そんなの寂しいじゃないと思うじゃないですか。だからお互い様なんだから、同年代で語り合うか、もしくはブログなどで発散させたらいいのですよね。

「昔、こんなことがあったの。私ちょっと自分の事、凄いと思っちゃった。」と書いても、誰かに何か言われる筋合いはないってものですよ。シニアになったらむしろブログを書けってなものですよね(笑)

 

私と名都さんは、元々頭がパッパラパー、違う言い方をすれば気持ちが若いということになるわけですが、叔父さんたちが帰った後は若い人たちとアニメの話やら来年には行きたいと思っている旅行の話やらとおしゃべりも弾み、楽しい時間を持ちました。

夕食後に花火をやるのだと言うと、そこまでは待てないとラッタさんは帰っていきました。また母はその時間は既にお布団の中なので、予定通り女4人で線香花火をやり、またまた楽しい時間を持ちました。

 

私は思わず、

「夏の終わりの 線香花火」と言いましたら、

姉に

「もう11月よ。」と言われましたが、その翌日は凄く暑い日で、別に間違えてないんじゃないかと思ってしまいました。

11月の初めには、夏の残骸が残っていたように思いました。

だけどこれを書いている今日、そして明日などはかなり気温が下がるみたいです。

本当に秋は儚い季節になってしまいましたね。

 

この花火は夏の送り火。私は線香花火の光を見ながら、妹を想い、父を想っていました。

だけどちょうどこの日、陶芸のサークルを始めた時にお世話になっていた方が亡くなったのだと、後から知りました。これからもお世話になりたいと思っていた大切な方でした。知らず知らずのうちに、その日に送り火代わりの線香花火をしていたことが、何となく不思議なような気持ちになりました。

本当は全く意味などないのだと思います。

だけど人は、時には何かしら意味をそこに感じてしまうものではないでしょうか。

 

やはり縁あった人たちとは、その縁を大切にしていきたいものですね。

 

 

 

 

 

 


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母に会いに横浜に。その4

2024-07-31 10:15:00 | 家族スナップ

7月の前半はの私はまだ、坐骨神経痛真っ盛り。

痛みに耐えてトボトボと歩いていました。

実家の近くの駅に降りて、そんな感じで川や珍しい植物の写真など撮り、気持ちを紛らわしつつ歩いていましたら、妹の名都さんが1本遅れた電車に乗ってくることが分かりました。

この歩き方なら途中で追い付かれると思うけれど、せっかくだからと思って国道を渡った信号の先で待っていました。

少しだけ待っていると、名都さんが嬉しそうに手を振って渡ってくるのが見えました。

 

彼女は嬉しそうに言いました。

「お姉ちゃんの姿が見えて嬉しかった。なんか涙が出そうになっちゃった。」

 

何でそんな些細なことが嬉しかったのかと不思議に思われるかもしれません。

だけど私にはその気持ちが痛いほど分かり

「うん。それを聞いたら、私も涙が出そうになったよ。」と言いました。

 

実家に帰ってくるこの道を歩く時、私もいつも目が探してしまいます。もう決して迎えには来てくれない母の姿を。

母は私たちがもう来る頃だなと思うと、この国道の横断歩道の先で待っていれることが多かったのです。

帰る時も、駅まで送ってくれることもありましたが、時間がないと、やはりこの場所まで送ってくれました。

そして今、いつもいつもそれを思い出し寂しく思うのでした。

だからその日、私が同じ場所で待っていたことが、名都さんにはとっても嬉しく感じたのだと思います。

 

確か、駅まで送ってくれた時のことのブログ記事があったなと思い探してみました。

アナログの日記と違って、17年半分の記事の中から、ほんのちょっとの時間でその内容が見つかるところが、さすがブログは凄いなと思います。

その時の記事はこちらです→私のお母さんはこんな人

 

とリンクしましても、「そんな話、面白いの!?」とお読みいただける方は早々はいらっしゃらないかもしれませんね。

 

でも次の詩は、どちらかと言うと読んで欲しいと思ったりもしますので再掲させていただきます。

 

 

母へ

2007-10-01 00:00:05 | 詩、小説

 

所詮、
いつかは誰もいなくなってしまうのですよ
お母様もわたくしも

そして、それでも
風がざわざわ
草をならして通り過ぎていくように
人の世も変わらなく過ぎていくのです

今日、
わたくしを道路の向こうから見送ってくださったあなたが
あんまり可愛らしく手を振るものだから、
わたしはさっさと手を振って、足早に立ち去りましたよ

だって、いやじゃあないですか
あなたをじっと見つめたら
いつかの終わりのその時に
きっと、何度も繰り返し思い出してしまいます
可愛らしく手を振って、道路の向こう側に立つあなた

でも、
きっとだめですね
わたくしはきっと思い出す
何度も何度も思い出す
ずっと、わたくしの背中に向かって手を振ってくださった
あなたの姿を

所詮、
いつかは誰もいなくなってしまうのですよ
お母様もわたくしも

そして、それでも
風がざわざわ
草をならして通り過ぎていくように
人の世も変わらなく過ぎていくのです

だからといって、
お母様もわたくしも
いなかったと言うわけではないのです。

 

 

※          ※         ※

その詩を書いたのは2007年なのね。

あっという間に毎日は過ぎていきますね。

 

 

ところで横浜に来るたびに、息子のラッタさんに会うのも楽しみの一つです。

だけど彼は、過去はすべて忘却と言う川に投げ入れていく人。

それが彼のポリシーみたい・・・・

って言うことは、私が彼に毎回貢いでも、みんなその川の中かい !?

 

 

今回のお食事。

 

そう言えば備忘録として書いておこうと思うのだけれど、小市民的な発想で言うと、その7月7日、ちょっと贅沢しちゃった。

何かというと実家から横浜駅までタクシーを使い、ラッタさんと待ち合わせをした駅からお店まで、私がよほど辛そうな顔をしていたからか、お店から駅までまたタクシーを彼が呼びました。

近くて悪いわという発想は昔のものですね。手数料+迎車代などでワンメーターだとしても倍は払うわけですし、タクシーの方も無駄に駅の乗り場で待機しなくても良いので助かるみたいですよ。年齢がいった方は免許は返納した方が良いし、だけど病院などで車異動の必要性は高いまま。思うにあの迎車代は少し安くても良いと思います。

5分以内で走っている車が来ることが多いのだからね。

じゃないとこれからシニアのど真ん中に入っていく人たちは、シニアの後半を生きる人と違って、年金もさほど多くないしケチって乗らないのでは。

私自身も、贅沢しちゃったなと言う気持ちになってしまいましたものね。(もう忘れていましたが)

 

水辺の風景が撮りたくて、ちょっとだけカメラをずらして撮った車窓からの風景。

カメラをもずらしたけれど、風景もずれました。

あっ、そう言えばと、あと3つ思い浮かんだことがあったのですが、そうするとこの「母に会いに横浜に。」の記事がずっと続くことになってしまうので、ここまでにしますね(笑)

あれっ !?

なんと、今日で7月は終わりってことなのね。ビックリ~!!


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母に会いに横浜に。その3

2024-07-29 23:57:32 | 家族スナップ

母に会いに横浜に。その2」の続きです。

またもトップ画像は記事には関係が無くて、「夏の雲はいろいろなものに見えて、面白いね。」の第2弾です。

私には、犬、ネズミ、蛇に見えて、もっと他に干支に見えるものはないかと、思わず探してしまいました。

 

 

毎年、日本の気候は変化していき、もはや温暖な気候とは言い難く、どちらかと言うと夏などは熱帯に近いと思います。そこまで大げさなと思うかもしれませんが、湿度が高く、また本当の熱帯地方の方は、肌の色も濃く太陽から元々守る体だと思うのですが、訳の分からないうちに熱帯に近づいている日本人の肌は依然と同じで、しかもしっかりとスーツなどを着込んでいる生活なのですから堪りませんよね。

そして家でも建物でも中ではエアコンガンガンで、外はますますの温暖化。

転がる坂道って感じですよね。

と言いながらも、じゃあ、その温暖化防止のために、自分の家だけはエアコンを出来るだけつけずに頑張るぞと言うレベルではなくなってきてしまいました。

 

かつて実家での夏は窓をガラガラと開けて寝ていました。

涼しい風が丘の上から降りて来て、朝方は寒くなって窓を閉めたのです。

いつの間にか治安が悪くなって、そんな事はもう夢の夢です。

 

この横浜に行った日も、めちゃくちゃ暑い日でした。

だから私たちのいる部屋は、ずっとエアコンが入っていて快適でした。

ところが母は、その部屋が寒くて長くはいられずに、すぐに何もない暑い部屋に戻って行こうとしました。

私たちも若くはないので、そんなに強い冷房ではなくて普通ならかなり快適なはずです。

でも母にはダメなのです。

年齢がいって体感温度が狂ってしまった人が身近にいる人は、他にもいらっしゃると思います。

 

2年前の夏は実家の片づけを少々手伝っていました。

→「実家の片付け その2」

その記事内には書かなかった事ですが、母の部屋の片づけをしていた時、椅子の上に毛糸のカーデガンが置いてあり、私はこれは洗濯してしまうものだなと振り分けようとしました。すると母は、それは毎晩着て寝るものだから、片づけてはダメだと言いました。

7月ですよ!?

ちょっとだけモメました。だけど嫌がることをしに来たわけではないので、結局は母の言うとおりにしたのだと思います。

 

だけど姉が、やはり歳が100歳近くの人の家に行ったら、やはりこの暑さの中でも、こたつを勧められたと言うので、やっぱり他にもそういう人たちはいるのだなと納得したというのです。

そうは言ってもですよ、現にお年寄りの家の中での熱中症による死亡のニュースが流れたりするわけですから、本人が寒いと言っているから大丈夫ではないと思うのですよ。

私も以前は、お年寄りが冷房代をケチって点けないか、または貧困から冷房がないかなのだと思い込んでいました。そういう場合もあるかもしれませんが、そればかりではないと最近は思っています。

 

実家に帰っても早く寝るということもなくて、日付が変わった頃に、寝る準備のために自分たちの部屋を出ると、まるで天国と地獄。

そっと母の部屋を覗きに行くと、母は肩まで布団をかけて寝ていました。だけど幸せそうな顔をして・・・・。

真夜中に家の中を徘徊する(火の元点検)のが日課な母ですが、この日は私たちとたくさんおしゃべりをしたので疲れたのか、ぐっすりモードでした。

 

滅茶苦茶不安な気持ちになりました。

寧ろ真夜中に起きて部屋中を歩き回り、ついでに水とか飲んでくれた方が良いのではと思いました。

だけど普段はその火の元点検のお部屋徘徊の為に、エアコンをつけておいても扇風機を回しておいても、母はすぐに止めてしまうのです。

 

朝になって母が元気に起きて来てホッとしました。

そうするとロクでもないことを考える私。

 

もしも母が真夜中に熱中症になってしまって、最悪死んでしまったら、不審死として警察が入るじゃないですか。

「良かったですね。今日は娘さんたちが皆いらしていたのですね。」と警察の人が言う・・・・

「それで皆さんは、どちらに居たのですか。」ってなる。

で、私たちはエアコンがガンガン効いている部屋に居ました・・・・・・・って、それ言いづらくない ?

 

これって、私的ジョーク。

 

だけど問題はそこじゃなくて、この夏を無事に乗り越えさせると言うところです。

あの羽根のない扇風機を、隣の部屋で回しておくと言うのはどうなのかしらと思いましたが、真夜中にコンセントから抜いてしまいそう・・・。

 

今日、姉からの連絡で、寝室の隣の部屋のエアコンを28度で設定して、ひと夏つけっぱなしにして、リモコンは隠すという作戦にしたと言っていました。

母にとって点いているのが当たり前の日常で、リモコンの存在を忘れてしまえば良いのですよね。なんか上手くいきそうです。いや、上手くいきますように。

 

ちょっと帰っても、いろいろと考えたり感じたり・・・・・というわけで、まだ続く。

 

 

義兄さんの温室。

もっとちゃんと撮ったのですが、そのちゃんとした全部写ってるのを載せたら、逆に悪いかなと上下を切ってしまいました。

なんか「ちゃんとしてる」って感じがして美しい。

ああ、なんか私いろいろといい加減なような気がします。

なんか「チャンとしなきゃ」って、時々思っています。

「時々思う」って言うのもいい加減なのかも(;^_^A

 

 


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母に会いに横浜に。その2

2024-07-28 10:01:56 | 家族スナップ

母に会いに横浜に。その1」の続きです。

トップ画像は記事には関係が無くて、「夏の雲はいろいろなものに見えて、面白いね。」というものです。

あなたは何に見えますか?

私は翼を広げて飛ぶ翼竜に見えたりするのですがどうでしょうか。

 

下の画像は我が家のあんずさんで、一度ツイッターの方でアップしたものなんです。

最後にお薬とミニポーチを入れようとしたら、しっかりあんずさんの休憩場所になっていたという図です。

なぜに1泊2日の実家帰りにそんな大荷物かというと、そのかばんの中にはマイ畑で取れたじゃがいもと自分で作った梅ジュースを、ほんの少しずつですが姉と妹とそして横浜暮らしの息子君へのお土産に入れてあるからなのです。

 

家に帰った私たちは、まるで小さな子供が母親に甘えるように、スリスリベタベタしてきました。

母はとっても嬉しそうで、そして楽しそうでした。

母は、6月7日に91歳になりました。だけど89歳から前には進めず、いつも「もう私は89歳になった。」と言っています。つまり、もう永遠の89歳。うふふ。

 スリスリベタベタしている図。

「私は4人子供を産んだのよね。蝶子さんでしょ、花ちゃんでしょ、名都さん・・・・もう一人いたよね。」

「スノウさんでしょ。」と言うと

「あの子は死んだのね。」と言う母。

その会話は、ちょっと悲しい・・・・

だけど私は「私は4人子供を産んだ。」と言う言葉の方が心に残りました。

なぜならちょっとだけ羨ましいなと思ったからなのでした。

 

早くに寝てしまう母と一緒にご飯を食べるのは、昼食だけ。

夜は、ピアノのお稽古のお孫ちゃんを送る蝶子さんと待ち合わせをして、イオンでお食事することにしました。

 

見かけたスイカ売り場の巨大スイカ。

これはこだまスイカがここまで大きくなったという事なのでしょうか。

卸市場で「オブジェにしたら如何ですか~!」と言われて仕入れてきたのでしょうか。

確かに人の目を引いていて、スイカオブジェはサクセスだったのではないかしら。

 

 

 

久しぶりにイオンに来たというのに、物欲もわかず、結局100均でちょっと買って終わりでした。

で、蝶子さんを待つ間におやつ。

元々お茶を飲みたいなと思ってきたのに、なにげに和のおやつを求めてしまいました。

 

 

 

その後、蝶子さんと合流した私たちは、スシローで夕食を頂きました。

なんかその看板を見たら、入りたくなってしまったからなんです。

待ち時間もかなりあったけれど、三人でおしゃべりしていたらあっという間に感じました。

スシローでも食べたものを全部写真に撮ったのですが、別に載せる必要もないですよね(笑)

だけどお会計の時、やっぱり「安いなぁ」と思わず口に出てしまいました。

けっこう食べたのですよ。

珈琲だって、ここで飲んでしまったのですよ。

それでも蝶子さんが、お昼のマックより安いと言っていました。

ここに若い人が一人でも紛れてしまったら、こういう感想にはならないと思います。

 

今回の実家帰りの時に、街を歩いていて驚いたのは交番が無くなっていたことなんです。近くに移転かなと思いましたが、そうじゃなくて無くなってしまったらしいです。

交番が無くなるって、なにげにショックじゃないですか。

 

 

子供の時、10円とか拾ったら、ちゃんと交番に届けたよね。

近くに交番があったから。

入り口にお巡りさんが座ってるだけでも、なんか安心したよね。

我が家でもちょっとお世話になったこともあってって、なんか怪しい書き方(笑)

犯罪がらみではないから安心してくださいね。

 

でも昨今では、事件などの急増に伴って警官も駆り出されることも多く、空き交番問題もあったと思います。

これは「県警が20年度から10年間で進める交番の統合再編計画の一環」なのですね。

「交番の閉鎖」で検索したら、神奈川県警ピンポイントでいくつか記事が出てきました。

今頃知るなんて、やはり横浜は故郷であっても、もうわが町ではなくなってしまったのだなと思いました。

 

 

 

まだ続きます。


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99歳の義母と私の誕生日会

2024-02-08 00:32:32 | 家族スナップ

そりゃ、あなたね、自分の母親にだって言いたいことはいっぱいあるのですから、ましては元は他人で、言っては何だけれど、うちの母より数倍気が強くて自分中心で、自分偉いの(言いたい放題(笑))姑には、いろいろ心の中では思っていることもあるわけです。

だけどですね、99歳まで元気でボケもせずに、お洒落に生きてきたとなれば、もう私になどは全く勝てる気がしません。

なのでいつも「ははぁ」と言って傅いてしまうのです(笑)

言いたい放題冒頭に書きましたが、一応仲良しなので安心してくださいね。

 

義母と私の誕生日は、ほんの数日しか離れていないのです。

このことに関しても、私の闇の扉の中ではうごめく感情が、実はずっとあったのです。

だけど「99」と言う数字‥‥とてもスルー出来ません。

99歳でするお祝いが「白寿」だと知ったばかり。

きっと本当の100歳(百寿)になったら、義兄が何か企画をするのだと私は思っているのですが、昨年転んで骨折し長く入院した後、今は家の中で前よりも元気もなく過ごしている姑に、今この時に何かしたいなと思いました。

 

で、家族で「誕生日会」という名の「お食事会」をすることにしました。ここに「義母と私の」にしたのは、私の闇の扉の中の感情を説得しなだめるためです(笑)

どうせ企画しリサーチして予約したり、はたまたブラックなお仕事のルート君に「この日曜日に仕事を入れるんじゃないよ。」と脅かしたり、横浜にいるラッタさんに連絡を取ったりと、ふぅふぅと働くのは私なのですから。

 

私的にはラッタさんも横浜からやって来て、家族そろってお食事と言う、ただそれだけでも幸せ。

 

しかもですよ、彼は私と義母にプレゼントも用意してきてくれたのです。

義母のものは大きくて、彼女を迎えに行く時に渡したので、車で待っていた私は見ることが出来ませんでしたが、枕だったのですって。

ラッタさんは、中身が何かと言うことを私には伝えてなかったけれど、店員さんが言った事だけは教えてくれました。

だから私はその言葉を義母に伝えました。

「それ、10年は使えるそうですよ。」と。

 

お食事の後買い物をして、彼女を送っていきました。別れ際に子供たちに手を振る義母はとっても幸せそうないい顔をしていました。

その顔を見て、「あーー、やって良かったなぁ。」と心からしみじみと思った私でした。

 

私へのプレゼントは

お洒落なフルーティなお酒です。

「じゃあ、お母さん、夜な夜なちびちび飲んで楽しもう。あっ、キッチンドリンカーになっちゃうかも。」

なんか余計な事、言ったか、私 ?

で、義母へのプレゼントにルート君も乗ってきたので、その会話からその枕の値段を知ってしまった私と夫は、驚いて思わず

「ラッタさん、自分のために貯金してね。」と水差す私。

 

夕食は、久しぶりに我が家で4人で鍋を囲みました。

いつも3人でお鍋をするとき、ラッタさんは横浜で何を食べているのかなと思う私でした。

お鍋って、家族団らんの象徴のような食べ物だと思っているからです。

だから久しぶりの寄せ鍋は、それを4人で食べたと言うだけで、私は嬉しかったのでした。

 

 

ラッタさんを駅に送りに行った時に、私は声を掛けました。

「今日はそれなりに楽しかったね。」と。

「うん。」と答える二人。

 

2月4日は、そんなささやかな幸せの1日でした。

 

御料理。

  

  

  

 

 

 

 


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負けてはいられない その5

2023-08-31 03:03:10 | 家族スナップ

負けてはいられない

負けてはいられない その2

負けてはいられない その3 

負けてはいられない その4

 

6月13日、自宅で転倒し手首・腰と骨折してしまった義母。

7月6日にリハビリ病院に転院したけれど、本当に飽き飽きしてしまったみたいで、退院を心待ちしていました。

ようやくその許可が下りて、9月2日に退院が決まりました。

「お盆のころに帰って、みんなと過ごしたい。」などと一度は思ってしまったので、そこからが本当に長く辛かったと思います。

 

私は本当は今回の件があって、彼女は施設に行くことなどを自分から考えるんじゃないかと、最初は思っていました。多分それはあながち間違えてはいなかったと思います。

ところが今回の経験を通して、今の時代ではそういう所への入所は、いかに自分の自由を奪うかと言うことを感じたみたいで、たぶんしばらくはそれはないことになるだろうなと思いました。

「そりゃ、今まで以上に、みんなの力を借りることも多くなると思うけれど家に帰りたいわ。」と義母は言いました。

この「みんなの力」と言うのは主に公的支援の事を言っていますが、それでも帰ってくるまでに、義兄は家の中をプチリフォームしバリアフリーに直しました。

義母は、かかったお金はみな自分で払うつもりでいるみたいですが、たぶん義兄は受け取らないのでは。

こんな時に、経済的に恵まれた息子を持っているということは、かなり幸せなことだと思います。

 

いやいや、「負けてはいられない」と言うのは、そこではありません。そこだと言うと、今から私はラッタさんやルート君の尻を叩き、そして嫌われて将来は本当に孤独な人になってしまいそうですから。

 

ある時、義母からお使いを頼みたいと言う電話がかかってきました。

「はいはい」と、もちろん2つ返事で答えましたが、・・・・・って、「はい」を2回繰り返したら2つ返事にならないって ?!

まあ、ともかくお使いはお菓子かなぐらいに思って、耳を澄ますと、何やら病院でのシャンプーは男の人も使えるようなもので、髪がパサパサになるのでトリートメントが欲しいと言うものでした。

98歳になっても髪のパサつきを気にするんだと感心しましたが、さらに驚いたことにはそれは行きつけの美容院でいつも購入している製品限定で、お使いはその美容院に行って、その指定のトリートメントを買ってくると言うものだったのです。

翌日、その美容院に行って事情を話して間違えのないように製品を買おうとしましたら、

「××さまですね。ご用意できています。」と、そのトリートメントの入っている袋を渡されました。

「彼女から電話があったんですか ?」と、私はちょっとだけ驚いたふりをして見せて確認しました。

本当は別に驚きはしませんでした。

ただ感心はしました。義母はそのレベルの人だったのだと再確認したからです。

出来る人だなと思いました。

 

脳の病気であるアルツハイマー型認知症になってしまったら、その人の今までの生活または能力などは関係のないことです。

だけど98歳でもしっかりとしている義母などを見ていると、老人性のボケならばある程度の心構えで気をつけることが出来るのではと思ってしまいます。

例えばいくつになっても女性としての楽しみを捨てないとか。

身なりに気を使ったり、友人とおしゃべりや長いメールを送りあったり、美味しいものを食べたり・・・・・。

そして他者に対しても気づかいを忘れないとか。

 

それでもやはり98歳ともなれば、記憶のすり替えや思い違い、健忘などは多少は普通にありますよ。

ただ家族だと、そんなことは普通のことだとスルーする力を持っているのです。

問題がなければ「うんうん」と相槌を打ち、それは嫌だなと思ったら、その記憶のすり替えをやんわりと訂正したりします。何の問題もないことです。

だけど病院では、ちょっとしたミスがあれば年齢だけで判断されしまうようなこともあったみたいで、プライドの高い義母は、不愉快になることも多かったみたいです。

 

そのせいで言葉が多少きつくなり、不機嫌になることも多かったと聞こえてきました。

高年齢の人の長期入院の怖さは、実はそんなところにもあるのかもしれません。

ボケていなかった人がボケるというそれです。

でも、まあ義母はたぶん大丈夫でしょう(願望 !!)

 

今週末、退院です💛

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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