森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

紫色の黄昏に

2008-07-31 23:42:17 | ’08/12/7までの未整理日記

 ツバメ続きでもう一つ、お話させてくださいね。このブログの中に時々登場してくる、以前住んでいた不思議空間M町でのお話です。

 

 私がその町に住んでいたのは、裏が森の一軒家でした。ブロックの門から二歩で玄関と言う狭さでしたが、その狭いポーチの上には引っ越した時からツバメの巣がありました。

 「ツバメの巣がある家は、福来る縁起の良い家」って、思い込んでいませんか。なぜか私は思っていました。いったい誰がそんなことを言い出したんでしょうね。でも昔からやってくる動物は拒まない方が良いと言うみたいですよ。

それは、動物も魅かれるような福がある家だと言う意味なのだと思います。 その家に住んでいた時、猫のピーちゃんもやってきたりしましたが、季節になるとツバメもやって来ました。

だけど、ツバメに関して言えば、先に言った縁起の良い家と言うのは、ツバメ妖怪が流した噂じゃないかと思います。・・・、馬鹿なことを書いてしまいました。そんなものは居ません。が、縁起がいいと家の住人が思っていれば、巣を作り始めたツバメを追い払おうとする人は、よっぽどでなければいないのではないでしょうか。

だけど、ツバメの巣の下は糞だらけ・・・。お掃除が大変です。

 

 我が家のだんなは、糞除けなんか作ってくれるタイプの人ではないのです。加えてちょっとその家のポーチはそういうものを設置しづらいような感じでした。さらに言うと、ツバメの巣自体もしっかり張り付いていなくて、なんとなく脆い感じもしていました。

 

  ある日、危うい巣の予感は当たってしまいました。ルート君を幼稚園まで迎えに行って戻ってくると、ツバメの巣は巣ごと下に落ちてしまっていました。巣の中で子ツバメたちはピーピー鳴いていました。親鳥達はなす術もなく飛び回っていました。

 

  こういう場合どうしたらいいのでしょう。そっと巣ごとブロックの門の上に持ち上げてあげました。でも、巣はもうボロボロです。門の上では猫にも烏にも狙われてしまうでしょう。

仕方がないので家の中に入って、適当な箱を探しました。こういう時に限ってちょうど良い箱がありません。その時閃きました。ああ、そうだ。あの箱を使ってしまおう。そう思って出してきたのは、抹茶用の茶碗が入っている箱です。別に名のある茶碗でもないので、箱は譲ってもらうことにしました。

 

 その箱の側面に穴を開けて新聞やテッシュで上げ底にし、私に襲われていると思って恐怖の悲鳴をあげている子ツバメと、敵意の視線を向けている親ツバメを無視して、その箱の中に巣をそっと入れてあげました。 その時の家の前の住人は、玄関のところにウェルカムボードを掛けるためにフックを付けておいてくれました。私はそこにその巣を入れた箱を掛けてあげました。

 

 酷い巣箱です。でも不器用な私には精一杯です。出来ることしか出来ません。

親ツバメもその変な巣箱を怪しんで近寄らずほとんど一日、子ツバメが放置されていたことが気になりましたが、翌日辺りからまた親鳥が餌を運ぶようになり安心しました。 そこに巣箱を置いたことによって、我が家は天然ドアチャイムが付いたようになりました。ドアを開けるたびに、子ツバメがピーピーと鳴くのです。

」と言う記事に載せた写真のようにです。

 

 余談ですが、あの燕の写真を「可愛い。」と書きましたが、そう思わない人もたくさん居るかも知れませんね。彼らがハンサムに成るにはもう少し時間が掛かるのです。でも、あのとぼけた感じの顔も近くで見ていると、かわいいものなんですが、客観的に見ると不細工かも知れませんね。  

   

     

 そして最初は小さな子ツバメも、あっという間に大きくなり巣箱はギュウギュウになってしまいます。この時の巣箱を見るのも好きです。押し合いへし合い、ツバメがそのまま落ちてきそうになるんですよ。  

 

 だけどある日の夕方、外は雨が降っているのかしらとドアを開けた私は、いつものように子ツバメたちが鳴かないことに気がつきました。 パッと横を見ると、子ツバメが一羽クイっと首をこちらに向けて私を見ました。私はそのツバメの真っ直ぐなまなざしにドキリとしました。見ると、他のツバメは居ません。そのツバメは最後の一羽。パッと視線を前の空に移すと、親鳥が上空の電線に止まって、その子ツバメを見守っていました。

 

 思わず私は「ごめん。」と言ってドアを閉めました。そして玄関の内側で息を潜め、しばらくの間じっとしていました。そして間をかなり空けてから、そっとドアを開けてみました。  巣箱の中は空っぽです。全てのツバメが飛び立っていったのです。私は、ツバメは良く晴れた午後飛び立っていくのかと思いこんでいました。こんな夕暮れ時に、しかももうすぐ雨も降りそうだと言うのに飛び立っていくなんてことは思っても見なかったことでした。

 

 空気はひんやりしていました。大気は水分を含みすぎて視力の良い目には、既に雨が降り始めている様にも見えました。

 

 私は道に立ち、空っぽの巣箱を眺めてみました。そして雨が降ったら戻ってくるツバメも居るかもしれないなと思い、巣箱はしばらくは外すのは止めようかななんて、そんな事を思っていました。でもそんな心配は無用でした。ハッと気がつくと今飛び立ったばかりのツバメが私の前や後ろを飛び回っていました。夕闇迫る薄暗さの中で、ツバメの色は保護色になり最初は気がつかなかったのです。そして、電線の上にはやはり親ツバメがそれを見守っていました。

そうして一瞬の薄紫色の時を過ぎ本当の夜が近づいてきた頃、親ツバメも子ツバメも何処かへ飛んでいってしまいました。

湿った空気が私の体を包みます。でも心がスゥッと澄んでいくのは、そのせいばかりではないと私は感じていました。ハンサムだった子ツバメの澄んだ眼差しを忘れられません。

 

                       

 

 翌日ドアを開けても、シーンとしている巣箱が悲しくて、早々に外すことにしました。ふと見上げると、電線の上に親ツバメがその様子をじっと見ていました。

今の私なら

「ツバメが『ありがとう。』と言いにきました。」なんて思ってしまいそうですが、その時の私は違うことを考えて感心していました。

親ツバメはきっと、巣箱に戻ってきてしまったツバメが居ないかどうかを確認をしにきたのだと思ったのです。巣箱を外す私を見届けて、そうして親ツバメも去っていきました。

 

 不思議空間M町での、そんなツバメと私の思い出です。

 

                         

 

 後、何分かで7月も終わりですね。私はどうも夏バテ気味ですよ。

皆様はいかがですか。8月こそが夏本番。何か素敵な夏からのプレゼントはないものかしら。       

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飛び立っていくのは子燕のみにあらず

2008-07-30 11:09:06 | ’08/12/7までの未整理日記
<子供と接するお仕事をしています。>
 
         

少女が言った。
「ねぇ、何か怒っているの?」
「怒っていないよ。」と、私。
「でも、何か怖いんだけど。」
「怒っていないけれど、機嫌が悪いのかもね。
だって、あなたはね、私がずっと傍にいると思っているのだもの。
ある日、気がついたら私はあなたの傍にいないかもしれないでしょ。
それなのに、あなたは私を頼ってばかり。
同じように日々が過ぎていくとは限らないんだよ、分かっているの?」
「私、やめません。だからずっと同じです。」

「そうじゃなくて、・・」と言いかけて私は言葉を失う。

読解力もないが聴解力もない、理解力も乏しくて想像力の欠片も無い。
そんなナイナイ尽くしで依存性だけがある。

決定権は自分にあると思いこんでいる。
ずっと私が傍に居ると信じている。


だけれど・・・
深い溜息をつきながら、私はふと思う。
変わらずにここに居て、ずっと見守って居てあげる、
私はそんなものになりたいと夢見たことはなかったのか。

通り過ぎていく者達が、思い出すこともなく、挙句の果てには酷い言葉で嘲笑しようとも、私は静かに微笑んで変わらぬ場所でそこに居る、そんなものになろうと願った事はなかったのか。


『それは違うわ。』と、私の中の思慮という名前の影が語りかける。
『燕が飛び立った後、そこには空っぽの巣が残っているだけ。親燕も子燕も去っていくのよ。見守っているということはそこに留まっているということではないわ。』
辛らつな彼女は、だけど冷静に語り続ける。
『未来ばかり見つめる者に、過去と言う場所から想いを送り続けても意味のないことだと思うわ。』


フムなるほどと、私は自分の言葉に頷いてみたりする。
変わらずにそこに居て見守ると言うことは、空の巣箱に成ることではない。
飛び立った子燕が、古巣を懐かしんだり思い出すことがあったとしても、戻ってその羽を休めることは良いことではないのだ。


子供から見れば、自分の人生の3倍は生きてしまっている者は、もう旅するものではなく、そこに留まっている者に見えるだろう。
かつての私がそうだった。
私も昔は思っていた。
その年代になってしまった者たちは、もうそこにたどり着いてしまった者なのだ、そして、残りの人生の川をゆっくりと流れ流されてゆく者達なのだと。

でもそれは違かった。

空の巣箱になんかになってはいけないんだ。
飛び立っていくのは子燕ばかりではない。
飛び立った子燕には子燕の空があり、親燕には親燕の空がある。

・・・・



「-16+5=+21」少女のプリント。
「な、なんで~、ど、どうして~・・・」
「じゃあ、-21」
「『じゃあ』って何?『じゃあ』って。ちょっと待ってよ。少し考えようよ。脳を使おうよ。脳に皺をつくろうよ。顔に皺を作ってはダメだけれど、脳に皺がたくさんあるほうが美人に成れるんだよ。お肌はピンピン、だけど脳もツルツルじゃどうするの。」
「いやだ~、笑える~、だから考えられない~。」
「ああ、そ―・・・・・。」

―『だから』と言うのは、この場合間違えているだろう。

だけれど・・・、
深い溜息をつきながら、私はふと思う。


以下延々とメビウスの輪の如く自己対話は続く・・・・・



          


<子供と接するお仕事をしていました。>
と、来年の今頃は書く予定。


・・・・・予定通り、行くのか~。
なんか、微妙。



















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2008-07-28 08:59:46 | ’08/12/7までの未整理日記

   

 

 

   

 

 

 

   

 

  足利インターの女子トイレにいたツバメ。

  なんか可愛いでしょ。三枚続けてみていると、なんとなく笑えます。 

 

 

   


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篤姫「将軍の母」

2008-07-27 23:25:19 | ドラマ (大河)
 「母上」
家茂がそう言った時、私は不覚にもまた泣いてしまいました。
どうもここの所、毎回「篤姫」を見てはウルウルと泣いてしまいます。泣くと言うことは心を洗い流す意味でもいい事なんですよ。でも、それはうつつの世界では遠慮したいこと。このように物語の世界でハラハラ涙を流し、明日への英気を養いましょう。

 
 こうなってみると、慶福こと家茂が将軍になったことは、家定の
「慶福が未だ若年ゆえに、見識備えた篤姫がその後見になれる。」と思い残した以上のものを、夫は妻に残していったのだと思いました。


 家族―処女妻篤姫には望むことも叶わなかった「母」と言う名前。

ハラハラと涙する篤姫を優しく見守る幾島の目にも涙が滲みます。


だけれど、こうなって良かったのだと思ってしまう自分が許せないのだと、幾島は大奥を去ることを篤姫に伝えます。


 家定を失って篤姫は、生きていくための希望が必要なのだと幾島に語っていました。
自分の役割を果たせなかった挫折感を抱えて、幾島にも、その後の生きていく希望が必要なのでしょう。その希望は篤姫の希望とはイコールではないのかも知れません。

何時だって傍にいてくれる、どんな時だって去っては行かない、そう篤姫は信じきっていたと思います。そのような者が去っていこうとする時、心の中はきっと大きな風穴が開いてしまうような、そんな気持ちになるかもしれません。

でも、さよならだけが人生さと言っては寂しすぎますが、その別れを乗り越えた時に篤姫は本当の意味でひとり歩いていける道に立てるのかもしれません。
ちょっと思うことあって、感情移入度大です。


 今回は男達の幕末物語も熱かったのですが、いつも一時間ぐらいすると、もうあまり心に残っていないのです。困ったものです。

西郷の悲劇は斉彬の手足となって働いていたからばかりではなく、下級武士ゆえに斉彬と言う直属上司を失ってしまったからと言う、土台の脆さみたいなものを感じてしまいました。

「安政の大獄」
ポンポコタヌキの井伊よ、おっみぇはやり過ぎなんだよ、とテレビと会話をしてしまいました。

こんな書き方しているからなのでしょうか。gooのブログ通信簿で、私の性別は「男」になっていました。まっ、いいけどね。
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ドラマのお話ー医者・弁護士・刑事と虐げられる中学生

2008-07-27 03:04:52 | テレビ・ラジオ
 ドラマ「ROOKIES」は最終回でしたね。
毎週は見ていなかったのに、朝10時からの再放送で嵌って、すっかりニコガク野球部の虜です。

 それで、先程最終回の感想と言うか我が家のドラマの反応日記と言うべきか、そんな記事を書いてアップしようとしたら、飛んでいってしまった私の記事・・・・
消えてしまうと、なぜだか二度と書きたくなくなるドラマの感想記事なんですよね。・・・大した事書いていなかったし、まあいいか。
でも、費やした時間のことを思うと、バカらしくなってしまいます。

 でも「ROOKIES」は良かったですね。突っ込みたくなる所や首を傾げるところも多数あるのですが、川藤先生のようににっこり微笑みたくなります。

「大丈夫」と言って微笑まられると、本当に大丈夫って言う気に成るから不思議ですね。秋のスペシャルも楽しみです。

映画化も決定なんですってね。それは凄いですね。


映画化といえば「相棒」のスピンオフ「鑑識米沢守の事件簿」も映画化なんですよね。脇も長年頑張っていれば主役になれる。日陰に咲く花もいつかきっと日が当たる、そんな感じがしてこれも凄いですね。

ただ私が映画館まで足を運ぶかは、今のところ未定です。

その「相棒」も今年も10月からシーズン7が決定です。初回は2時間スペシャル、それは今から楽しみです。


 そうは言っても、今やっている「ゴンゾウ」も面白いですよ。「篤姫」は別にして、今一番楽しみにしているのはこれかな。
その後意外と単純に楽しめる「正義の味方」なんかも見ています。
木曜日は「コード・ブルー」金曜日は「魔王」そういえば火曜日には「モンスターペアレント」なんて言うのも見ています。転寝タイムなので、しっかり見ていないで見た気になっているものも結構ありますが。
そうだ、日曜日の「Tomorrow」もありましたね。

こうやって書くと、見過ぎといえば見過ぎかもしれませんね。でも私は夜は家事はやらない主義なので(今はね)、夜はドラマや映画を見たりブログを読んだり転寝したりしています。この夏のドラマはどれも面白そうですね。見始めてだんだん見るのを辞めていくというパターンが多いのですが、たぶんどうでも良くなっていくのは、「正義の味方」ではなくて「モンスターペアレント」なんじゃないかなと思います。


この夏、皆さんのお勧めドラマはなんですか。




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「コロー展」に行きました。

2008-07-23 17:44:47 | お出掛け日記

 以前書いた「それ、ルーヴルで見たわ。」と言う記事に、ネットのお友だちのまーこ♪さんが下さったコメントに「コローが好き。」と言う一言がありました。

 それまで私はコローと言う画家に何の興味がありませんでした。なかったがゆえに突然興味が湧きました。調べてみると、この夏上野の西洋美術館で「光と追憶の変奏曲 コロー」と称してコロー展が開かれることが分かりました。これは行かないわけにはいきません。

 

 開催を楽しみにしていましたが、なかなか思い立って出かけていくことが出来ませんでした。三連休実家に帰ったついでですが、その帰り道に上野に降り立って見てくることにしました。

 

    

 

 絵葉書も数枚買って来ました。

 

 私がやはり一番気に入ったのは彼の代表作でもある「モルトフォンテーヌの思い出」や「幸福の島」などで、またヴィル=ダヴレーの森を描いた風景画の全ては、私の心を捉えて止みませんでした。人が森の木々と向き合い、森の息遣いが伝わってくる作品を私は拒むことが出来ません。

そして何枚の絵かに同じ構図の女性が描かれていたように思います。手を高く上げて木の実を収穫している女性。道の真ん中で片手を上げている女性。

 それはまるで森の中に立つ人が木と同じように腕を広げ、枝のように天に向かって伸びている、つまり森の中で人は自然に同化しているというか、そんな感じがしました。

 

 一番上の画像はコロー展のお知らせチラシですが、「真珠の女」と言う作品です。その構図、また神秘な表情から19世紀のモナリザ、またはコローのモナリザと言われています。

私はこの絵が見たくて出かけたようなものだったのですが、この絵はちゃんと見るのに少し苦労しました。混んでいたからと言うのではありません。この絵は不思議なことに光ってしまうのです。片方の目がちゃんと見えなかったり、少し割れた髪の部分が金粉を散らしたようにキラキラしてしまったりで、人の頭を避けながら、ぴったりちゃんと見える場所を探すのに苦労しました。

コローはこの絵を愛して生涯手放すことはしませんでした。当初は胸の所もこんな風には肌蹴ていなかったものを、後に手を加えたと言われています。意志の強そうな唇と瞳、確かにこの絵の女性はドラマチックな神秘の香りを放っていると思いました。

 

 その他の女性達の絵なども、その衣服の素材が伝わってくるようでした。

 

19世紀の写実主義といわれた彼の絵は、その後の印象派の画家達に大きな影響を与えました。この作品展にはコロー以外の作品としてモネやシスレーがその比較として展示されています。面白い企画だと思いました。

  コローの詳しい解説や他の絵などは、こちらのサイトで見ることが出来ます。→こちら

 

8月31日まで

 

 

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篤姫「天璋院篤姫」

2008-07-23 11:11:40 | ドラマ (大河)
 思えば篤姫は実の父の死もすぐには知らせてもらえなかったのですよね。愛する者が既に亡くなっていた事を知る悲しみを痛いほど分かっていた篤姫は、母の本寿院、側室お志賀の方にも家定の死を伝えようとします。

 先週は「おのれ~」と本寿院を怨みましたが、今週は彼女に泣かされました。
「家定殿、なぜ母より先に逝く~」

やり場の無い悲しみを篤姫にぶつける本寿院ですが、理不尽な怒りと分かっていても彼女の気持ちと行動は分かるような気がしてしまいます。会わせない様にするなんて言うことには、絶対に共鳴できないのですが、この愚かな母の行動は私もやりかねないよなと寛大になってしまいます。
「よもや毒殺したのではあるまいな。」
この姫の後ろには政治的な策力が控えていると思ったら、全てが信じられなくなるのもムリもないことです。
「子を失うことの悲しみを思うならば、それはいかばかりのものか。」と言う篤姫の言葉に、物を投げつけていた本寿院の手も止まります。

いつか篤姫の前から去っていく彼女は、その時は冷静になって共に同じ者を愛した物どおしとして、手を取り合える日が来るのではないかと思います。


 側室お志賀の方も篤姫を責めます。無理をさせて寿命を縮めたのだ。傍にいて体のご様子に気がつかなかったのか。痛いセリフばかりです。
「お怨みいたします。」


NHKなので、なにやら格調も高かったのですが、もの凄い大奥絵巻でした。もの凄いセリフを丁寧語でズバズバ語る側室。御台に上座から物を投げつける母。何でもありなんだなと心の片隅では思いながらも、そこはそっと蓋をして、涙ぐんだりしていたりしました。

もともとお志賀の方は気が強い方だったようで、そんなご様子が表れていましたが、去り行くときに
「愛されていたのは御台様だけでした。」と切ないことを告げて行きました。


短い夫婦の時代でしたが、その「愛」が篤姫の残りの人生を支えるのかと思うと胸がいっぱいになってしまいます。
その「愛」に応えようと家定が残していったとおりに、慶福の後見として生きようと歩み始めます。

新たなる敵は、一筋縄ではいかない井伊か。




 新たなる生きる道を探していたのは篤姫ばかりではなく、西郷も斉彬を失って道を失っていました。その彼に命を預けろと言う月照とのシーンも良かったですね。新しき使命を受けて西郷も動き出します。
 帯刀も忠教の信任を受け、動き出します。


23歳の若さで落飾し、篤姫は天璋院になりました。
「上様は温恭院、わたくしは天璋院。なにやら近づけたような気がします。」と言う篤姫にも、涙を誘われてしまいました。
落飾の日まで、自らの手で篤姫の世話をする幾島。
「そなただけはずっと傍にいてくれるのでしょう。」と言う篤姫の問いかけにも言葉を濁す幾島。井伊に毅然とした態度を取る篤姫を優しく見守る幾島。

また、新たな別れの時が近づいているのでしょうか。
 
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キラキラ夏休み

2008-07-18 10:52:18 | ’08/12/7までの未整理日記

 週末から夏休み最初は、予定やしなければならないことがたくさんあります。ドラマの話とか楽しいおしゃべりもしたいところですが、しばらくは無理みたいです。「篤姫」の記事で放置と言うのも嫌なので、お知らせ気分で書いています。

 でも、「梢は歌う」の方は、日記なのでなにげに頻繁に書いています。良かったら遊びに来てくださいね。

 

 毎日暑いですね~。でも暑い毎日、お体を大切に悔いのない夏休みの40数日を送りたいですね。大人も夏休み気分を楽しみましょう。

夏の光にも負けないキラキラした思い出を作りましょう。


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篤姫「二つの遺言」

2008-07-16 01:05:41 | ドラマ (大河)
 みなさん、やっぱり泣いてしまいましたか?

 私もやっぱりハラハラ泣いてしまいましたが、思っていたほどではなかったですよ。予定量に達せずと言う所です。用意万端でみていたのがいけなかったのでしょうか。
 涙が余っていたせいか、さすがにその後見た「イッテQ」のイモトの頑張りにちょっと感動したりしても涙は関係なかったのですが、その後の「TOMORROW」 の菅野美穂に涙ぐんだりしてしまいましたよ。(予定量達成です・・


 号泣モードになれなかったのは、やはり斉彬の死によって気持ちが分散してしまったのと、時々感じてしまった怒りが、涙にストップを掛けてしまったのだと思います。

 家定の病気のことを篤姫には伏せるように言った本寿院には、ムカついてしまいました。

「おのれ~、本・寿・イン~」と言ってやりたくなりましたよ。

本寿院には本寿院なりの家定への深い愛情があったかもしれませんが、私から言わせれば、半端な愛ですよ。
― あんたは、なーんにもわかちゃぁいないよ。
とか言ってやりたくなりました。息子のことを思うなら、その気持ちを思いやってやればいいものをと思ってしまいます。
が、彼女も家定の病が死に至るものとは思っていなかったからこそ、そんなことをしてしまったのでしょう。
母の気持ちは分かりますが、許しがたい邪魔者でした。

 病気で臥せっていると分かれば、本寿院の思ったとおり篤姫はきっと会おうとしたでしょう。もう一度会わせてあげたかったですね。


 前にも「篤姫」の音楽の事を少し書きましたが、その時だったのかHPのトピックスで音楽の事が取り上げられていました。今回ハミング付きの音楽が流れることは知っていましたが、家定と篤姫がお互いに相手を思って切なさに涙するシーンにぴったりでしたね。


 悪意無いのに、邪魔だったのは幾島でした。せっかく滝山が篤姫に打ち明けに来たのに、バッドタイミングで現れたりしてイラついてしまいました。でも、彼女が悪いわけではないのです。幾島は抜け殻のようになっていましたね。無理も無いことです。

気持ちは分かりますが、間の悪い邪魔者でした。



斉彬の臨終シーンも良かったですね。ただ、私は久光が「思わず笑ってしまった」と言う表情をしているような気がして困ってしまいました。あれは悲しみを堪えているといった表情だったのでしょうか。山口さんの顔の演技は複雑です。
斉彬の手紙については先週書きましたので、書きませんが、やはり彼は類なき名君と謳われた人だったのだとしみじみ思いました。


斉彬の死を知らされても、篤姫にはその悲しみだけに浸っているわけには行きませんでした。愛する夫の死を一ヶ月も知らされないことも驚きですが、葬儀の準備のために費やす時間にも驚きです。

夏の盛り、セミなどの鳴き声も煩くて、篤姫が家定のところに向かう時、いったいどうするんだろうと思ってしまいました。永眠する家定との対面など叶うわけもないのですよね。ああ、あのときが最後だったのかと思うと悲しみも増していってしまいます。


 帯刀の別れには青と赤のお守りが生きていましたが、今度は黒と白の碁石が悲しみを誘いました。小さなアイテムの使い方が、上手ですね。

次週は新しい幕が開く・・・「天璋院篤姫」。
今回の視聴率も気になります。
(追記;26.2でした。)




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チェーホフ・・名前からして

2008-07-14 12:58:41 | 観劇・コンサート日記

 なんとなく「かもめ」の劇評なんかをブログで拾って読んでいました。どの方も良いようなことが書いてありましたが、その合間に一部では意識がとんだ、ちょっと寝たという文を見つけて、ちょっとニマ~っと笑ってしまいました。

 一緒に行った姉も休憩でトイレに立った時に、「ありえないことだけど、意識がとんでしまったわ。」と言いました。

 一部の終わりのほうで、トリゴーリンがニーナに有名になっても付き纏う作家としての苦しみを語るところは、作家チェーホフの作家としての本音だと思います。なるほど~としみじみ思う所でもありますが、本音を言えばちょっと退屈で、ちょっと長い。それともニーナの棒読み芝居の所かしら。  

 

 私はどうだったのかと言うと、実は最初から覚悟して行ったのです。だいたい「チェーホフ」と言う名前からして格調高い感じがしてしまいますよね。いえ、別に格調高そうな名前だから覚悟して行ったわけではなくて、昔、文学座でチェーホフの「ワーニャ叔父さん」と言うお芝居を見たことがあったからです。

 

 若き日の私は、「チェーホフのお芝居」と聞いただけで緊張しましたよ。ロシアの人のお名前って、それだけで緊張させる何かがないですか。イワンぐらいだったら別にどうって事ないのですが、ラスコーリニコフとか、ドフトエフスキーとか・・・

 そして、劇場から頂いたチラシの裏側に書いてあったあらすじを読んだ時、私はさらに場違いな所に来てしまったような気持ちになってしまいました。あらすじを読んでも、そのストーリーに何の魅力も感じないのです。

 

  これは、「チェーホフが・・」と言う問題ではなくて「私が・・」と言う問題なんです。今回の「かもめ」についてだったか、ちょっと忘れてしまって不確かなことですが、藤原竜也君も一回目に本を読んだ時にその良さが分からなくて、二度三度読むうちにどんどん好きになって言った作品だ。だけどそのことを蜷川さんに言ったら、本を読み込む力が無いからだと叱られたということを何処かで言っていたように思うのです。

 

若き日の私の理解力は、まさにその読む力不足そのものだったと思います。その頃の知識の引き出しは、ピカピカで滑りは良いのですが、意外やその中味はスカスカしていたりするものです。

 

 お芝居が始まってみても、登場してくるのは俗物ばかりで感情移入がしにくいのです。チェーホフの群像劇は辛口コメディだと思うのですが、日本人が感じるユーモアと外国人が感じるユーモアとでは、違うことは良く言われることですが、もともと理解力不足の私には、やっぱり何処が面白いのかさっぱり分かりませんでした。

 

 ただ、演劇と言うのは映画を見るのとは同じではないなと、しみじみ思った場面があったのです。それはそれまでぜんぜん感情移入できないで、好きになれないワーニャ叔父さんが真夜中に居間で報われない愛の想いを、一人切々と語るシーンでした。素晴らしい熱演でした。私は鳥肌が立ちました。そのシーンが終わった時嵐のような拍手が起きました。もちろん、私も惜しみの無い拍手を送りました。そのシーンは何時までも心に残りました。今思うとどなたが演じていたのでしょうか。

 

 このお芝居の事は、他の登場人物のことをチラチラとは覚えていますが、全体的にどんなお話だったのか忘れてしまいました。その時は最後まで、そのお芝居の良さが私には分からなくて、いつもは饒舌な私が、その後はしばらく静かなことだったでしょう。

 

 でも~、でもなんですよ。そのあらすじを下の方に載せておきますね。goo映画から映画のストーリーをお借りしてきました。映画と演出の違う演劇とは見せるところが違うとは思いますが、あらすじとしては分かりやすかったのでお借りしたのです。

 

それを今読むと・・・・。
なんか結構面白いじゃないですか。

 

 私の知識の引き出しは、もうガタガタ言ってスムーズには開かなくなってしまったけれど、昔よりはいろいろなものが詰め込まれたのかも知れません。自分の事ばかり考えている男や女の俗物たちを嫌悪するばかりではなく、優しい目で見ることが出来るようになったと言うことでしょうか。

 

この夏、本で読んでみるというのもいいかもしれませんね。

 

 

<あらすじ>goo映画

 一九世紀の末のロシア、限りなく寂しい灰色の空虚感にみちみちた時代。義兄滋兄の老教授セレブリャコフ(W・ゼリージン)が大学を退職して、若く美しい後妻のエレーナ(E・ミロシニチェンコ)を連れて田舎の邸に帰ってきてからは、それまで規則正しかったこの邸の生活は一変してしまった。昼顔に起きだしたり、突拍子もなく夜中にベルを鳴して召使を呼んだりする教授の気ままな生活態度を見続けているうちに、ワーニャ(I・スモクトゥノフスキー)は今まで義兄のためと思い領地の経営に専念してきた自分の生き方に疑問を抱き始めていた。ワーニャの知的生活の光明であるはずの老数授への不信が、生きる目的の喪失を招いたのである。この暗然たる気分からのがれるためにワーニャは酒を飲み続けるようになった。今この領地で働いているのは姪のソーニャ(E・クプチェンコ)だけであった。ワーニャの古くからの友人の医師のアーストロフが老教授の診察を兼ねてこの邸を訪れた。貧しい人々の病気をなおしながら乱伐の続くロシヤの森の将来を気づかうアーストロフもまた酒で気をまぎらわす日々を送っていた。このアーストロフを尊敬し、ひそかに恋しているソーニャは喜々として彼をむかえるのだった。しかしアーストロフの気持は、老教授の後妻エレーナに向いていた。一方ワーニャもエレーナにひかれていた。アーストロフへの愛を胸に秘めて若しみ悩んでいるソーニャは彼の自分に対する気持を聞いてくれるように頼んだ。しかしその結果をソーニャに伝えることはできなかった。ある日、突然老教授が家族全員に集合を命じた。集った人々を前にして、彼はこの土地を売却して、その金で別荘を買い、都会にもどって生活することを提案した。借金だらけだったこの家の財政を、自分の青春をも、才能をも犠牲にして立て直し、二十五年もの間にわたってせっせと教授に金を送り続けていたワーニャの努力は完全に老数授に無視された。今こそ、セレブリャコフの俗物ぶりに気がつき怒り狂ったワーニャは彼を射殺しようとピストルを乱射した。数時間後、騒ぎはおさまった。教授はエレーナと一緒に、都会へ帰っていった。アーストロフも帰り、以前の静けさがもどってきた。残された人生をじっと堪え忍んで生きていかなければならないワーニャ伯父さんを、失恋の痛手に悩むソーニャがそっとなぐさめる。

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)
チェーホフ,神西 清
新潮社

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