森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

「風林火山ー消えた姫」

2007-05-30 01:29:41 | ドラマ (大河)
 「今宵の月は血のように赤い。」
いや、赤くはないか。雪が降っているんだから。


 
 諏訪に移された由布姫は、晴信のみしるし欲しさに逃げ出します。でも、晴信の首が欲しかったのは、逃れることが出来ない恨みの思いからではなく、押さえがたい恋の想いからだったのです。

 今日も由布姫に始まり由布姫に終わったという感じでしたね。途中で村上の計略のシーンもありましたが、次への伏線でどうってこともありませんでした。

 先週、皆様のブログ周りをしていて、ちょっとアチキは驚いたでやんす。
―もうたくさんだ、うんざりだ、飽きた、お腹いっぱいだ、吐きそうだ、ゲー
あっ、ウソです。さすがそんなことは書いてはいませんでしたが、まあそんな感じ。それでは「消えた姫」はどうなってしまうのか・・・
後で、ブログ回りをする楽しみがいつもより期待大かもしれません。姫の話ONLYだった今回、皆様はいかが感じたのでしょうか。


それでは、私はどうだったのかと言うとですね、実はワタクシ、今回のシーンを楽しみに待っていたのですよ。


 得意のはるか昔のお話ですが、近所の二番館映画館で「風林火山」を観たのですよ。それをやっているから、行ったのではなく、行ったらそれをやっていたのです。この期に及んで足掻くわけではありませんが、その時はまだ子供でしたので、この「風林火山」をまったく理解できませんでした。


よく外国文学は名前が覚えられないから苦手だという人がいますが、私は「ラスコーリニコフ」は覚えられても、戦国武将の名前はイマイチです。
映画館でぐっすり寝た思い出の(汗)映画です。それで、この映画は三つの事しか覚えていません。一つは四季折々の自然の描写が素晴らしかったことです。
家に戻って、ちゃんと見てもいないのに「一年かけて撮った大作だった。」と言ったら、父は真面目な顔をしてそのからくりを教えてくれました。
又一つは、ラスト満開の桜の下で萬屋錦之助が
「勘助、大事な所で策を策を・・ほにゃららら。」ネタバレになるので書きませんが、と言ったことですね。それから途中で目を覚ました時に見たのが今回のシーン、三船敏郎が深い雪の中をザクッザクッと歩いている所です。見つけたお姫様と何か言い合っていますが、ここでも私は理解不能。二人の行動も、何を言っているのかも理解できません。「風林火山」は大人の物語だったのです。


 さて充分大人になりすぎるくらい大人になってしまった今となっては、彼らの気持ちが理解できるでしょうか。

 私はこの柴本幸演じる由布姫に、釘づけになって観ていました。共鳴も批判もありません。ただただ驚いて、自分の中で勝手に描いていた由布姫像を叩き壊しながら観ていました。

 「気性が激しい」―だけど普通、そう言う人は、張り詰めてた糸を持っているがゆえに、いつ切れるか分からない危うさも持っていて、ゆえに儚げな美しさを醸し出すというのが、今までの定番。

 でも、この姫の気性の激しさには、真っ直ぐに落ちてきた激しい雨が大地の底まで貫き沁み割ったって行くような強さを感じてしまったのです。ヒロインとしては、あまりお見かけしないタイプなのではないでしょうか。どちらかと言うと敵役。だから、冒頭の三条夫人の場面でも、ヒロインと敵役の行動のパターンが逆転してしまっていると感じても不思議はないですよね。

そしてこの柴本幸さん、この気性の激しい姫に嵌りすぎていてなんと分かりやすい事か。それゆえに好き嫌いがはっきり出てしまいそうな気もします。(ワタクシもムニャムニャ~)

 勘助も良かったですよ。でも、勘助の狼狽振りはあまりにも唐突。うちの人なんかは、
「そりゃ、姫がこのままいなくなれば、勘助もただじゃすまないもんナ。」などとのたまう始末。
「そうではござらぬよ。」と言おうと思いましたが面倒なのでほっとけ~。

思うに、なんでシナリオと演出は、あそこまで三条夫人にこだわったのでしょうか。少し削ってその分、勘助の「揺れる想い」を少しずつでも描いていて欲しかったです。
でも、由布姫への説得の言葉には感動しました。
寿命つき京の月を仰ぎ見る事は出来なかった信玄ですが、それに与した男たちの共通の夢の原点を聞いたような気がしました。「風林火山」ではあまり出てこなかった言葉ですよね。

「お屋形様は天下を取る。そしたら姫の子供は天下人の子供である。」
勘助の説得に応じた姫でしたが、それはそれで勘助の永遠の片恋のスタートでもあったかもしれません。

諏訪湖の御身渡りを眺める姿も切なかったですね。

 


「お前の唇に口づけさせておくれ。」「お前の首が欲しいよ~。」
サロメ・由布姫の山場はとりあえず終わり・・かな。次回は「三国激突」。
ふう、やれやれって言っている人、誰ですか~

 


追記:
横道逸れてあまりにも長くなってしまったので、ショックだったことなのに書き忘れました。「まきになるよりは萩野の方がいいや。」と言う文を何処かに入れる予定でした。
萩野はあんなキャラなので、うっかりしてしまいそうですが、本当はもの凄く疑っていたのに、それなのに甘酒を三条夫人から奪って飲んだ、それって凄くないですか。自分の身はただではすまないなと分かっていたのに、由布姫の身代わりになったまき。
一万円札様が「天は人の上に・・・」等とおっしゃったのは、歴史の物差しで計ったら、つい最近のことなのかも知れない・・・
そうは思っても
「三条夫人や由布姫になるよりは、萩野の方がいいや。」と思ってしまう今朝の私です。

コメント (8)
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「アリゾナ・ドリーム」

2007-05-26 10:26:23 | 映画
アリゾナ・ドリーム - goo 映画
ケーブルTV/ムービープラスにて

25日から『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』が公開になった。そのお陰で、ジョニー・デップ特集なんかがケーブルテレビのチャンネルに組まれていた。その中のひとつ。(今週からケーブルテレビを楽しんでいます)


だけど、こんなに字幕の言葉の足りない映画を、私は初めて経験した。最後の方の大事な部分はさすがにあったけれど、最初、まともに話せないと言う設定の人が主人公なのかと思ってしまったくらいだ。言葉の最初の所だけがヒントのように字幕が付く。立て続けに会話が入ると、その人の分の字幕がない。
こんなにも、得意とはいえない英語に耳を澄ました映画は初めてだった。

 画面からはジョニー・デップの優しい美しい声が詩の朗読のように、滑らかに流れてくる。

 映画の表現力というのは、セリフのみにあるのではない。私はこの映画を見て、そのことを改めて知ったのだった。言葉は全て分からなくても、一人の青年の成長の物語が、美しくも詩的に描かれていると言ったら、あまりにもありきたりな言い方だろうか。
「リバティーン」が一人の男の終焉を描いているのなら、この作品は人生のスタートに立った青年の物語かも知れない。

「リバティーン」と比較した書き方をしたので、ついでに言ってしまうと、一つ前の記事なのに、早くも訂正する。
私はその記事の中で「別にジョニーが美しいから好きになったのではない。」と書いたかもしれない。絶対、絶対、訂正する。私は思い出してしまった。
―世の中にこんな美しい男がいるなんて―と思ったから彼を好きになったのだった。
 1992年のこの作品の中のジョニーは、まだ20代。この美しさはどうだろう。この顔で

>どうか私を好きにならないでくれ・・・・。

と言われても、「無理、絶対に好き!!」と、私は言ってしまうかもしれない。ロチェスター卿の本当の年齢にもあっているし。
病気で崩れてしまった顔を優しく、私のふくよかな胸・・ではなかったお腹で包み込んであげる。

などと、又も私のジョニーへのミーハー度の高さを暴露してしまった所で映画の感想・・・・


この映画の監督はエミール・クストリッツァデ、他の作品に「アンダーグランド」「黒猫・白猫」「ライフ・イズ・ミラクル」があるが、知らない作品ばかりだ。だが、いずれの作品も評価が高く天才と謳われている。

この映画の主人公の心象風景をは泳ぐ魚として描いているようにおもわれるのだが、ジョニーが良く組んでいるティム・バートンの「ビック・フィッシュ」を連想してしまった。

 またまた話は横道に逸れるが「ビック・フィッシュ」は2003年に公開された。ユアン・マクレガーで何も文句はないが、その役にジョニーを持っていってはめ込んでしまっても、それはそれで何ともいえない不思議な雰囲気が漂ってくるような気がしてしまう。でも、その頃彼は「パイレーツ・・」なんかで忙しかったから(たぶん)望むことは出来ないことだったかもしれない。

 美しい継母と、美しくないが聡明な娘をフェイ・ダナウェイとリリー・ティラーが演じている。1941年生まれのフェイ・ダナウェイはこの時50歳ぐらい。40か45歳の役だけれど、20代の青年と恋が出来るなんて、こうありたいものだと、又もストーリーからはかけ離れた所で考えてしまった。
だけれども、主人公アクセルは誰が自分にとって大事な人なのかゆっくりと気付いて行く。


 字幕の言葉足らずと書いたけれど、ポイントは抑えている。

―物語の最初に銃が登場したら、それはその後半には必ず使われている。―
なるほど。

美しくない娘グレースは自殺願望を持っている。彼女の夢はカメになること。母の誕生日に、母の夢である空を飛ぶことを飛行機をプレゼントをして叶えてあげた彼女は、
―人生は美しい―と呟く。

その夜、みんなで自分の悲惨な死を予言するたわごとを言い合っているとき、彼女は
―私は死なないの。いつまでも生き続けるわ。―
だけれど、その夜・・・・

嵐の中を出て行くグレースの美しさには目を見張る。


夢破れ、今は居ない叔父さんの店に戻ってきたアクセルは、その叔父さんの夢の残骸であるキャデラックの上で夢を見る。

アラスカで叔父レオと共に釣りをするアクセル。レオは言う。
―乗り越えたな―
―何を?―
―子供と大人の境界で見る悪夢だよ。―

レオは釣り上げたオヒョウの説明をする。
―この魚は大人になると目が片側に移動するんだ。―
―するとどうなるんだ?―
―片側を失って全てを手に入れるんだよ。―


魚は空を飛んでいく。人々の切ない夢の海の中を―。

詳しいあらすじや解説はgoo映画のところでチェックしてくださいね。こんな風に書いているけれど、コメディタッチ。


おっと、いけない。もう10時半ではないですか。今日という名のコメディの幕を開けなくっちゃ。











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「リバティーン」

2007-05-23 22:51:39 | 映画
リバティーン - goo 映画
DVD にて。


 17世紀に実在したロチェスター伯爵ことジョン・ウィルモットの半生をジョニー・デップが演じる。一言で言い切ってしまうならば、溢れる能力を持ちながら、自堕落に酒と女におぼれて死んでいった男の物語だ。

 この映画を見ていて、涙の一滴もこぼれることはないが、嫌いな映画かと言うとそうでもない。確かに、昔こんな男がいた、だからどうしたと言われると、そうねえと思ってしまうのも確かで、そんなことはない、こんなに魅力的なんだと庇う気持ちにもなれないのも事実である。

 じゃあ、どこが好きだったのか考えてみる事にした。

 大好きなジョニー・デップが演じているから?
確かに一番の理由はそれだ。
たぶん私は分けて物事に感想を持たないタイプなんだ。ジョニーが良いなら、まあまあ良い映画ということなのかもしれない。
 

 王政復古の時代のイギリス。だからといってその頃の王は絶対王政の王のように絶大な権力があったのだろうか。何かが同じで何かが違う。王の力も議会に左右される。
―王政復古と言う響き、飲んだくれその手が触れれば女を抱き、愛と芸術を弄ぶ。
そこからは、ツーンとした詩の匂いが漂ってくる。又それは忍び寄ってくる死臭なのかもしれない。

 惜しいかな、この映画の中でジョン・ウィルモットの才を感じさせる詩などは披露されなかった。本当はされていたのに、字幕では理解出来なかったのだろうか?
ネット内でも探してみたけれど、探し方が悪かったのか、見つからなかった。せいぜい分かった事は「ロチェスター郷の猿」と言う本がこの映画のせいで値段が跳ね上がったことぐらいか。一つでも、唸らせてくれるような詩の紹介がされていたら、又違う見方が出来ると思うのだが・・・

 唯一披露された彼が主演の舞台劇。   <この先ネタバレあり>

確かにフランス大使をもてなす作品には相応しくはないし、実際下品な作品として上演禁止になったらしい。だけど、私たちが映画の中で見せ付けられた劇は当時の作品のシナリオなのか。もしそうならば、好みは別にして、何か時代を卓越してないだろうか。いや、そんなものではないと言うのなら、誰もがガッカリして当たり前だ。様々な刺激に慣れてしまった現代を生きる私たちにも、一目でうんざりする作品を見せ付けなければストーリーは進まない。

この映画の中で、唯一見せた彼の傑作は、国王のために議会で名演説をしたことだろうか。いや、そうではない。この映画の冒頭、誰もがこの映画に必要以上の期待を募らせ、そして撃沈させた罪な独白がある。


>初めに断っておく。
諸君は私を好きになるまい。
男は嫉妬し、女は拒絶し、物語が進むにつれてどんどん私を嫌いになる。
淑女たちに警告。私はところ構わず女を抱ける。
紳士諸君も嘆くことなかれ。私はそっちもいけるから気をつけろ。
私はジョン・ウィルモット、第二代ロチェスター伯爵。
どうか私を好きにならないでくれ・・・・。

これこそが、彼の人生をかけて作り上げた詩そのものだったのかもしれない。



上の文で終わらせれば、まとまりも付くかも知れないが、それでは少し言い足りないので付け足しておくと、私はジョニー・デップのファンではあるが、別に彼が美しいから好きなわけではない。この映画では冒頭の彼の美しさを言う人も多いけれど、とても美しいとは思わない。メイクを駆使し、変幻自在な表情を作り上げるジョニーにしては、なんというかナチュラルメイクで、29歳だと言われても、舞台ではないので、なんとなく受け入れがたいものを感じてしまう。

この話の核をなしているはずの、女優エリザベス・バリーを育てるエピソードはいたく退屈だ。又、彼女は美しくない。私はこの映画のメイクが好きではないみたいだ。彼女が生きてくるのは、ジョンが最後に会いに来た時冷たく別れを言う所だと思う。そこにはしたたかで強い女が立っていた。
「君を妻にしたかった。」「せめて子供でもいたら。」と情けない言葉を続ける伯爵とは対照的に
「分からないの?私は誰の妻にもなりたくないのよ。」「子供は産んだわ。」そして、
「私に会いたかったらお金を払って、劇場に来て。」と、彼を切り捨てる。



同じ名前の資産相続人である妻は、献身的にその最期を看取る。その最後の時、妻を略奪した時の話を聞きたがった伯爵にとって、その時が彼にとって一番光り輝いていた時なのかも知れない。


愛し尽くしながらも別れていく娼婦も出てくる。彼女は彼を本当に理解していたように思う。
―人生の享楽と言うものを精一杯楽しんでいるように演じている。―
みたいな事を言っていて、頷ける。

だが、ロチェスター郷が梅毒で死んだのなら、彼女達の人生にはこの映画では描かれない壮絶な陰の部分があって、私はその陰からのイメージから抜けきれず心が重くなる。


この映画の中で、彼がインモラルな公園を彷徨うシーンがあるが、さながら自らの心の中を彷徨っているかのようで、印象深い。





―もうすぐ六月で桜桃忌の季節が又来る。
世の中には、自分の魂を喰らいながら、何かを生み出していくそんな人間がいる。―







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「風林火山」ー軍師誕生

2007-05-22 10:20:42 | ドラマ (大河)
 サブタイトルー「軍師誕生」。なにやらパラパッパッラーとか高らかに効果音が入りそうな副題ですが、ちょっと、そんな感じではありませんでした。

それと言うのも、晴信の

「はっきり言おう。褥では・・・・」と言うセリフで、あ~あ、ドボンです。要するに、あの時とこの時と、彼女は態度が違いすぎる。ちょっと気持ちを聞いてきてと言う事だと思うのですが、言い方は偉そうだけど、学生達の放課後トークみたいだななんて思ってしまいました。しかも、多感なお年頃のワタクシは、このへ~んな御セリフのおかげで思考回路が停止して、その後の展開が気が散って感情移入できませんでした。


由布姫には、
「心は渡しはしない。だけれど、あなたとだったら心を通じてもいいわ。」なんてことを言われた勘助。
「解らぬ・・・」とか悩んでいるようでしたが、なんかクラクラしているような・・・
好きだけど素直になれない事を晴信君のお友達にイラつきついでに、相手の気持ちなんか関係なく、なんか適当な事を言ってしまう女子高校生のような由布姫。年齢的にはいいのかな~。

侍女の
「姫様は女になられたのでございますよ。」
と言うセリフは、まさに的を得ていたと思います。

だけれど、世の中には的を得ていても、言ってはならない言葉はありますよね。由布姫の三条夫人への
―あなたは私に子供を生めというけれど、あなたの長男に何かあったら、次男は目が不自由なんだから、そのときどうなるか分かっているの?―と言うもの。

三条夫人の優しさは、持てる者の持たざる者への余裕からきているものかもしれません。またも懐妊している彼女は、正室としての確固たる地位に何も不安がないからこそ出来る行動かも知れません。
ですが、三条夫人の行動の何を攻めることが出来るというのでしょう。結果としての行動が大切なことであって、その心の出所は三条夫人自信の問題であって、由布姫が言うべきことではないことです。しかも的を得た内容もそうですが、見ている私たちには、その後に起きる事を知っているがゆえに、複雑な思いがするシーンでした。

諌める侍女に
「あのお方は自分の幸せを見せ付けに来たのですよ。」と言う由布姫。懐妊している三条夫人に対して出た言葉。そこに由布姫の本心が見えていましたよね。

ラストに由布姫が三条夫人を誘って、父ゆかりの寺に赴きます。そこで、感謝の印として甘酒を振舞うのですが・・・
なんとなく怪しい雰囲気・・・ではあるが~ドキドキ。
そのことを知った男達はどよめき立ちます。スワッ、一大事みたいに。又もうざい

女達は女達で真剣勝負をしているんだよ。放っておいてくだされよと、思ってしまった私でした。   終わり



おっと、いけない。終わりではなかったでした。これじゃあ、又も「大奥」の感想ですね。

長窪城を、又も策で落とした勘助は晴れて軍師になりました。戴いた陣羽織は輝いて見えました。
その長窪城は、大井氏が武田に征服された後は村上氏攻略の拠点になったところですね。今は何もないところですが、その城址は自然豊かな山として残されています。またまた~、行ってきたかのように書いてはいけませんね。行ってみたいとは思いますが、これはネット検索です。こう言うただの森になってしまったような歴史跡は、なんとなく好きですね。

武田信玄を苦しめた村上義清、骨太。真田幸隆もそうですが、相木市兵衛が出てきてなにやら嬉しい。平蔵、ヒサは村上の所に行ってしまって、ずっとその後が気になりますね。

ちょっと気になったのですが、合戦シーンがあるかもと言う時には、視聴率が若干上がるんですね。でも、そうすると今回そういう狙いで見た人には、ちょっとかな~。





―鬱蒼と 森のみやこは 雑兵も 時間も風も  囁き過ぎぬ―
 




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捨てたサマーセーターは・・

2007-05-18 01:55:50 | ’08/12/7までの未整理日記
今朝、要らない服を何枚か捨てた。その中にサマーセーターが二枚あった。もう何年も前から着ていない。着ないけれど、思い出があるから取って置いた服だ。その服を手にとって見たとき、何も心が動かなかった。もう捨ててもいいんだなと思った。


 若い頃、小さなアパレルの会社にいた。私はそこでは、あまり巧くいっていなかったと思う。ストレスは胃を傷つけて、胃潰瘍になんてものにもなってしまった。それでも、止めたら負けだと思って頑張ってしまった。結局私が潰れる前に、会社がいってしまった。今はない会社である。

 いたのだって4年ぐらいで大したことはないと思う。だけど、今でも時々夢に見る。「私を雇ってください。」と夢の中の私は言っている。
そう、今ならもっと巧くやれる。今なら分かる。甘っちょろい良い会社だった。だから潰れたのかも知れない。

 だけどこの会社、今思い出に浸っていたら、本当に面白い会社だったんだなぁと気が付いた。そのことにぜんぜん気が付かなくて、胃に穴なんてあけてた私は、若かったんだと思う。

 ところで、肝心のサマーセーターの話。アパレルの会社なので、毎年会社のある人たちは、何回もイタリアなんかに行く。そのたびにお土産なんかを買ってきてくれる。もちろんブランド品などではないが、アクセサリーやスカーフや、そのサマーセーターなど。みんななんとなくセンスが良くて気に入っていた。そのサマーセーターは新婚旅行にも持っていったくらいだ。

ある日社長が、あいつの買ってくる土産なんか、その辺の露天で売っている安物だと毒づいた。でも、私はそれを真に受けて、あるときイタリアに旅行に行く義母に、
「イタリアにはその辺に露天が出ていて、安いアクセサリーなんかが買えるらしいよ。私は、出来たらそれが欲しいから、お土産に買ってきて。」とおねだりしてしまった。そんなところはなくて、義母は苦労したらしい。


「若いという字は苦しいと言う字に似てるわ~♪」とかいう歌があるけれど、若いときは愚かさゆえに、苦い思いでいっぱいだ。
何かをしてもらっても、それが当たり前のように感じていた傲慢な自分がそこにはいた。

 会社の男達はみんなおしゃれだったが、中味はよれよれのスーツのようにくたびれ果てていた。そして、いつだって優しさを求めていた。男も女も外で仕事を持つと言うことは大変なことなのだ。

私はその服を見るたびに、その頃のざわめきを思い出していたのかもしれない。

そしてもう一枚。
やはり結婚間近の頃、大学の友人宅にみんなで泊まりに行ってプチ同窓会をやった翌日、池袋をみんなでうろうろした。その時池袋西武のワゴンセールの中にあったもので、ひとめ見て気に入ったもの。今でも、同じ体型だったら着ていたいくらい好きな色だった。だけど、好きだったから着られなくなったのに取って置いたのではない。

その服は、その時の思い出の半券のような物だった。遠い昔に逝ってしまった友人との思い出だった。




そんな服なのに捨ててしまったのかって?
だけど、大丈夫。思い出のチケットはこのページに貼り付けたから。




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バベル

2007-05-17 07:31:03 | 映画

バベル - goo 映画

 日本人女優としては実に35年ぶりという、ゴールデングローブ賞助演女優賞ノミネートの快挙を成し遂げた菊地凛子。

と言う事で、話題を集めた「バベル」を5月9日に観た。モロッコで放たれた銃弾のそのライフルの持ち主は日本人だった、というのは知っていたが、その他の予備知識無しで観に行った。予備知識無しでも、なぜかとんでもない先入観を持っていた。

 

かって神の怒りによって世界はいくつもの言語に分かれ、その意思は通じないものになってしまったと言う、「バベル」の説話。

 

だけど、意思の通じない人たちが何かの事件を通して、その意思を通じさせていく話なのかと、少しだけ思っていた。

 

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の他の作品を知らなかった事や、ブラピが主演だからとか、正月にやったドラマ「相棒」が「バベルの塔」だったからなのか。とにかくそんなどこから来たのかというような先入観を持って、劇場に足を運んでしまったわけだが、それでは、この映画はかなり辛かったかと言うと、そうでもなかった。

 

不思議な余韻が、そこにはあった。

 

「神よ、これが天罰か。
言葉が通じない。心も伝わらない。想いはどこにも届かない。かつて神の怒りに触れ、言語を分かたれた人間たち。我々バベルの末裔は、永遠に分かり合う事ができないのか?モロッコの片隅で偶然放たれた一発の銃弾がアメリカ、メキシコ、日本の孤独な魂をつなぎ合わせてゆく。耳をすませば聴こえてくるはずだ。初めて世界に響く、魂の声が。
2007年、世界はまだ変えられる。」

 

このコピーを書いた人は素晴らしい。だけど、この映画はそんな映画なのだろうか。こんな素晴らしいけれど虚飾の言葉を廃して、この映画と向き合った時、この映画の本当の良さが見えてくる。

 

    

 

 観終わった直後、私が難解だと呟いたら、一緒に観に行った友人が、私が全て理解して観ているのだと思ったと言った。それを褒め言葉と勘違いした私は、何かお礼が言いたくて余計なピースを彼女に渡してしまった。なかなか組み立て辛いジグソーパズルに、その一枚を組み入れると、不思議なくらいに、自分の中で完成していってしまう。

 

 美しく圧巻でありながら不自然さを感じさせるラストシーンも、チエコの出口のない孤独からと言う理由付けが されている異常な行動も、母の突然の自殺も、そのピースをはめ込んでみると形を成していく。

 

すると友は言った。

「そうよ、絶対!」

―絶対―と言われて私はたじろいだ。

見ていて普通に感じたことだが、セリフによるヒントは皆無だからだ。私は珍しく情報を求めてプログラムを買い求めた。ブログや解説なども読んでみた。上映中を配慮してか欲しい言葉はなかなか見つけることが出来なかったが、諦めかけて読んだ最後のブログに私の欲しい言葉があった・・・

 

この物語は全ての心がやがて一つになって絡まりあって行く話ではなく、一つの出来事から四方に、糸が放たれていく。だから、分かれてしまった言語など何もテーマになっていない。なぜ、「バベル」なのか。テーマは、留まることのない罪であり罰なのか。

 

     <ネタバレなのかも?>

 

だから、私は友人に

「この親子はね・・・」と呟いたのだった。

 

見渡す限り視界を遮るものもないモロッコの山岳に住みながら、接するのはほとんどは、羊と家族のみと言う閉塞的な世界の少年達。この少年達に世界は見えない。

 

予期せぬ悲劇に陥ってしまうメキシコ人の家政婦アメリアの悲劇には、一番同情してしまう。

 

又、車と言う文明の箱から放り出されると遭難の危機にあうなんて・・・
まるで、大海に漂う船に乗っているようなもの。

 

アメリカ人の旅行客。手を伸ばせばそこにはお互いの手がある。だけど心は通じない。我が身を血に染めてようやく繋がりあう心。

 

人と光は溢れかえっているが、静寂の世界がそこにある。溢れかえっているのにからっぽだ。手に抱えきれないほどの物を持っているのに、心は埋まらない。閉じ込められた思いは出口を探す。問題になってしまったシーンは痛いアクシデントだ。音・光・静寂・その繰り返しにチエコの孤独の心が伝染してくる。

 

これらはこの監督の罠なのだろうか。

 

チエコの手紙は明かされない。涙する子供の姿は見せてもその後は登場させない。少年の兄はどうなったのか、誰にも分からない。失いかけた想像力の欠片を使えと言うことなのだろうか。

 

 

ヘリコプターに乗り込む時の、ブラピと村人との別れのシーンには感激した。

私は一人呟いてみる・・・

―何も罰する事なかれ、奪うことなかれ。
砂粒よりさらにちっぽけな存在である我らは、それでも魂の限りもがいている、叫んでいる。そして愛している―

   

 

 

 

 

 


 

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「風林火山」―呪いの笛

2007-05-15 07:49:33 | ドラマ (大河)
 タイトルはおどろおどろと言う感じでしたので、期待しすぎてしまいました。
もう少しどよよ~んとした、恐ろしげな内容もちょっぴり見たかったなどと言ったら、萩野に「無礼である。」などと叱られてしまいますね。

今回、主役は三条夫人です。勘助は完全に脇役ですし、今度は勘助ファンの叱られそうですが、・・・うざかったです。
あのうざさは、実はなりふり構わず姫を守っていると言う現われなんでしょうね。

でも、お方様が来たといえば急いで出て行って、その道を塞ぎ、置いていった笛を振って確認してみたり(毒が塗ってあったら、どうするの、勘助?)。
晴信に仕えるならば、少しはその妻にも敬意を払えよと思ってしまった私です。


今の時代とは、風習やそれに伴った教育も違うゆえ、自分の感覚だけで物事を見てはいけないのは分かっていますが、三条夫人の由布姫との対面シーンには、私は涙が出てしまいました。私はとりあえずは妻と言う立場の者なので、このようなシーンには弱いのです。側室と言うのは愛人ではなく、公然浮気でもない。でも、現代を生きる私には、どうしても同じだと言う感覚から逃れられず、口の中が苦くなるのです。

自分の心を押し殺して、正室としての勤めを果たそうとする三条夫人は、聡明な方だったと思います。

このシーンでちょっと笑ってしまったのは、三条夫人の
「おやかた様は、はっきり言って、見目麗しい方ではありません。」
この後
―お会いした時ガッカリするかも知れないけれど、ガッカリする必要はない。おやかた様の良さはその内面にある―のような晴信を褒め称える言葉が続くのですが、このさりげない言葉には笑えましたね。

三条夫人は、嫁いできて晴信に対面した時
―え~、この人~!?―とか、ちょっと思ったのかも知れないなぁ、なんてね。

(私も5ヶ月、本当は言ってみたかった事を、三条夫人がセリフで言ってくれたので、なんかスッキリ~!



後半の山場は、由布姫が晴信に短剣を振りかざす所だと思うのですが、
「そなたに討たれてやるわけにはいかぬ。」
と言う、このシーンはどこかで見たことがあるので、原作にもあるような大切な場面だったのだと思います。どちらかと言うとこちらが見せ場だったんだと思うのですが、どうでしょうか。
「我らはひとりであってひとりではない・・・」以下、長台詞なので忘れましたが、説得力ありました。
このお話は、丸め込むようなセルフのオンパレードですが、聞いていて、仕方ないやーと丸め込まれてしまいました 

 短剣振りかざした由布姫の負けですね、いろんな意味で。


笛の音が止んだ時・・・・
なんてことを、三条夫人はそんなことまでは考えないで、笛を贈ったのだと思うのですが(たぶん)、一つ屋根の下って、嫌ですね 


最後に、御付の者に笛を吹かせたのは晴信の優しさだと思うのですが、三条夫人には通用しませんでしたね。


だけど、ラストのシーン。冷静になって考えてみれば、笛を吹いている侍女と障子が映っているだけなのに~。障子がなまめかしい。

「今宵の笛の音が・・・」
って、「大奥」のナレーションが入るかと思ってしまった私でした 

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搦め手

2007-05-12 16:20:46 | 新米パソコン生活

 「搦め手」の意味は
「(1)城の裏門。敵の背後。また、そこを攻める軍勢。 ⇔大手(おおて)
(2)相手の弱点。また、相手があまり注意していないところ。「―から論破する」」
というものなので、このタイトルが合っているかは微妙な所なのだが・・・

 

<久し振りの「新米パソコン生活」レポートです>
         ―下の方に、お知らせがあります―

 

 ある日、自分のブログを読み返して、また同じだなと思ったことがあった。20代の頃、中学の時書き続けていた日記帳を見つけて、読み直したことがある。

「今日、私は・・・と思った。」と言う内容のその中学生日記は、20代の私を唸らせた。

―昔の私はこんな事も、あんな事も考えていたのか。いつから何も考えない人になったのだろう。

 

 まるで自分が書いたのではないような、面白さがそこにはあった。

だけど、その日記には大きなマイナスもあった。その頃の私は一体何をしていたのか、その日記から知る事は出来ない。その日自分は何をしたのかと言う事は、本当に極稀にしか書いていない。

中学生の毎日なんか主婦の生活と大差なく、きわめてパターン化していたと思う。だから、たぶんその頃の私は、その日何をしたのかと言う事あまり意味がなかったのに違いない。

 

だけど、過去の私のつまらない様な日常を、10数年の後の私は知りたかった。過ぎてしまった日々の記録。

 

 

実は私は、パソコンなんて何も知らないんですよ~と 卑屈っぽい言い方しておきながら、ブログを開いたしょっぱなから、二個持ちたいと大いなる無謀な野望を抱いていた。

 

 その最初思っていた二個目のブログの内容は、教育情報と児童文学読書感想やその情報、(過去の)子育て日記のようなもの。初めから掲示板つきの「楽天」なんかがいいんじゃないかとさえ思っていた。ブログタイトルさえ、なんとなく決まっていたような気がする。でも、これは私には出来ないことだなとすぐに分かった。

 なぜなら、私は遅筆である。又コメント返しが素早くない。なぜ、それが無理な理由かというと、「教育」という旗を振る以上いい加減に自分の心に任せて、または半分聞いただけのことに何かを乗せて書いてしまうわけにはいかない。たぶんブログとしては成り立たない。それで、体験談なんかの記事が多くなったりする。だけれど、そのブログの中では私はきっと本音を何も語れないのではないかと思うのだ。

 

 「なぜ本音を語れないかと言うと、」と、作りもしなかったブログの話を延々と続けても意味がない。そんなわけで、私の無謀な野望は終了。

 

 それなのに、私は二個目を作った。最初に書いたことが、その理由。だから、そのブログは主に「行った、やった、見た、聞いた」という行動記録。普通の主婦の毎日なんて、そんな大きなトピックスもないので 、「掃除した、ランチした、電話した。」みたいなつまらないことが並ぶ。

 

そんなものはノートに書けよと言う内容なので、 普通の日記が長続きしないのと同様に、書いたり書かなかったり、二週間分を遡って書いていたりで、好き勝手。だからと言って止めもせず、気が付けばもうすぐ一年だ。

 

どんなものにも「継続」には意味があるのかもしれない。その流れの中に、私の気持ちの変化があり、出会いがあった。

 

今も継続中であり、トキドキ大真面目に書いている。(トキドキかよ~、

 

 でも、私はこの二個目のブログを開くことによって、分かったことがたくさんあった。本当に何も分からなかった一年前だったが、物事は何事も正面からのみならず、裏門に回って見てみると言うことが大切なのだと思ったものある。

 

 大したことは書ける訳はないが、次回の<新米パソコン生活>では、ブログ比較なんかしてみたいとか思っている。だけど、何時になることやら。

 

ところで、お知らせ。

ブックマークなんていうのを今頃活用することにしました。一人ひとりの方に御挨拶は無しですが、何か不都合のある方はお知らせください。

 

 

 

 

 

 

 

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「風林火山」―生か死か

2007-05-10 08:07:28 | ドラマ (大河)
 先週見逃した「姫の涙」を土曜日の再放送の時に見ました。その時やはり感じてしまったのは、なんだかんだと言ってもいても由布姫の強さと禰々の儚さです。それはなぜか。「生き地獄じゃ」とか言っていても、それは「この先は」と言う自分の人生の予告編であって、今このときの現実ではないからで、禰々の地獄は今この時だからなのかと思ったのでした。

まるで幽霊のような生気のない禰々の言葉には思わず涙が溢れました。


 その禰々は、今回逝ってしまいましたね。寅王丸の未来を暗示させる言葉を言って。思わずこう来たかと思いました。諏訪を継がせないでと言うのが、禰々の願いであって遺言でもあったということで、寅王丸問題は、これと言って晴信にダークなイメージを与えることなく終了ですね。

 巧くやったじゃんと思ったら、今頃作家様が気になりました。遅い私です。「大森寿美男」と言う人は「寝ずの番」「花田少年史」「クライマーズ・ハイ」「星になった少年」を書いている人でした。(いろいろ思ったけれど、ここでは省略。果てしなく横道に行きそうなので。)

 そんなこんなで(何が・・)、禰々は往ってしまいましたが、大事な言葉を言った後はナレーションだけ。だからなのか、撮った順番は違うのかも知れませんが、ナレーションが入ったとき、桜井さんが寝床から、「ふう、やれやれ」とか言って起き上がり、花束貰って去っていく姿が思い浮かんでしまいました。ごくろうさま~


ただ、うちのだんなの呟きを聞いていると、最初に諏訪が裏切っておきながら、武田のことを怨み責めている禰々と由布姫は、かなり自分勝手なことを言っている様に感じていたみたいです。

 だけれど、兄が何とかしてくれる、兄はそういう人ではないと信じていた禰々の絶望と、由布姫の怨みは同列ではないと思います。片や死に至る絶望ではありましたが、由布姫は生きると決めた時から、自分の中でその大儀を探しまくっていたはずです。「生き地獄であっても、この先を見たい。」と言うようなセリフの繰り返しでは納得できません。この先を見たいと言うのは、ただ生きたいと言うのとあまりかわりがないような気がしてしまうからです。


 「姫の涙」の回で見せた嘆きは本音でも、甲斐にきてしまってからの態度は姫の戦いのように思えました。

ああ、そう言えば「功名が辻」でも、そんなシーンとセリフがありましたね。茶々の事を寧々様が「あの姫はたった一人で闘っているのだ。」と言っていましたね。

見つけた大儀は一つであっても、そこに行きつく出口が、勘助の説得や晴信のわざとへたに作られた和歌では出るに出られません。

その出口を作ってしまったのが、甘利のおじ様と三条夫人の訪問だったと思います。

「みんなが斬られにきているのに、私だけが無傷でいるわけにはいかない。」と言うような事を言っていましたが、ここも流れのままに流れて行き、収まるべき所に巧く収まったという感じがしました。



ですが、ワタクシ・・・あのようにうまいこと言わせるなあと思いつつ、みんなを丸め込むような物言いは、あまり好きではありません。作家様は男なので、同じ女としてというのは間違いですが、ああ言うのを、無意識がなせる計算と言うのだとと感じてしまうからです。

このような事を書くと、由布姫に顔をしかめられて、「世にも浅ましきことを言う。」とか叱られてしまうかも知れませんが、別に私はそれを責めているわけではありません。

 

 たぶんですが、多くの方が「じゃあ、どうしたいんだよ。」と由布姫のことを見守っていたと思うのです。闘った分、姫は勘助の忠義の心や晴信の興味、家臣たちへの存在感を高めたと思います。そして、姫自信も、周りを特に晴信をしっかり見てみると言うきっかけを得たのではないでしょうか。

 この姫は、甘利の言うように賢い姫であり、そして強い姫だと思いました。




なので、私は強くない人の味方です。三条夫人の斬られ方は、見ていても痛かったです。浅田さんのお気楽発言が救いでした。
でも、あのシーン、不自然に感じました。眼科検診のような短冊チェックの所もそうですが、対峙した場所に引っ掛かってしまいました。まだ、側室ではないので正室だからと言うのは当てはまらないかも知れませんが、晴信夫人が庭で、庇護されている亡国の姫が上から物申すとは、これ如何に?

と言うどうでもいいことに疑問を抱きながら、又来週。
あ~あ、又木曜日だ~

さらにどうでもいいことをもう一つ。
一週間の始まりは月曜日、それとも日曜日? どちらでしょうか。
どうしても月曜日からに感じてしまう、私の感覚は古いのでしょうか?






コメント (14)
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連休明け

2007-05-07 08:27:14 | ’08/12/7までの未整理日記
 連休明けの今朝・・・・
疲れているのかボケているのか、朝から大失敗してしまいました。いつも勝手に起きて勝手に学校に行く、心配要らずのルート君。寝坊しているのに起こし忘れ、30分の遅刻みたいです。あ~あ、落ち込みますよ、母としては。

まだ一人、部屋で平和に寝ているラッタさんがいるけれど、お休み気分を切り替えて、バット目を覚まして頑張りましょう。

とは言いながら、本当はずっと体調不良・・・
誰にも言っていないけれど、やたらクタクタしているのにも理由はあり・・・
やめた言った所で始まらない。

連休明け、家の中のあちらこちらの部屋がざわついています。体がどよよ~んとしている時こそ、家の中のざわつきとはきちんと向き合って行きたいですね。
「シーン」と成るまで頑張ろうと思います。


新緑散歩の写真が載っていたら、私はお掃除を頑張っているんだと思ってくださいね。

とは言いながら、「風林火山」は執筆中。今週もテレテレやっています。

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