皆さま大掃除などの年末の御用は進んでいますか。
大河の感想を書くことは長年の習慣で、私にはヤルべきことの一つのような気もするので、諸々の合間に書かせていただきました。遅くなってしまいましたが、これを書くとひとつ終わったという感じがします。
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このドラマの感想を書こうとするならば、やはり視聴率のことを避けて通ってはいけないような気がするのです。最終回の視聴率が一桁・・・・・。
このことについては、私も思うことが若干あります。いつもなら、視聴率と作品のクオリティは関係ないし良作は良作だと言い切るところですが、この作品に関しては、少々微妙に思うこともあるのですね。でも、それをつらつらと書いていると、本編感想に辿り着けないので、今回はそれに関しては棚の上に上げておいて、後でゆっくり棚から降ろしてしげしげと眺めながら考えてみたいと思います。
視聴率の数字を思うと私は大河「平清盛」を毎回楽しみに見ていた少数派と言えるかも知れません。かなり楽しみに待ち、見ていました。
この作品がどのように流れていくか否かより、もとより私は平家・源氏の物語には心惹かれてそれもテーマにブログの記事を書いていたものですから、最初から見続けると言うのは自分の中の約束事のようなものだったように思います。ゆえに最初からこの作品を見る私の目は、違った意味で曇っていたのかも知れません。目が曇っているというと、良い意味には取れないと思うのですが、どんな展開が来てもこのドラマを悪く見ることが出来なかったと言う意味と取っていただければと思います。
「平家物語」の冒頭は、私が子供の時から中学国語の時間で暗記せねばならないと言う授業があったはずで、ほとんどの大人が知っているという、なんて言うか凄いお話なのですよね。
その冒頭文。
「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、 ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ。」
凄いですよね。この冒頭文。特に一行目、読むと頭の中に「カ~ン」と高く澄んだ、だけど切ないような音が頭の中に響きませんか。琵琶法師によって伝えられたこの「平家物語」ですが、誰が一番初めにこの文を綴ったというのでしょうか。その人はこんなにも長き時代を経ても人々に伝えられていると、その時思うことが出来たでしょうか。
ドラマ「平清盛」では「武士の世」という言葉を連発し、時代の画期的変換をなそうとした、いや、なした男の物語で、「平家物語」の冒頭に漂うような無常観は、そうそうはなかったと思います。ゆえにこの冒頭文は最終回でかつて平家の禿だった女の口から語られるという演出がされていました。こんなに早くからあったのかという違和感が若干したものの、サービスだったのかなと良く解釈しました。
だけど無常観はなくてもその根底には「遊びをせんとて生まれけん」という、仏教的思想が流れていたと思います。この歌は今様じゃないのかと反論されそうですが、私は「衆生所遊楽」という経文の言葉から、この歌が来ているのだとごく自然に解釈しました。ただ、宗教に関わることなので、それはどういうことなのかと書いて、解釈に誤ちがあるととんでもない不敬になるので、詳しくは書けませんが、中の解釈を省いて書くと「夢中で生きる」となるわけで、清盛の生きた道を思うと納得ができるものがあったのでした。
死ぬのかと生霊になった清盛がたじろぐと、西行がこの歌を用いて諭すシーンは、やっぱり死者に引導を渡すのは僧侶の仕事なんだなと微妙なところでも納得してしまったのでした。
でももちろん、それは私の自然に感じた解釈で、NHKのHPの「よくある質問」によれば
「詞は「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや 生まれけむ 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ ゆるがるれ」です。
意味についてはいくつかの解釈がありますが、このドラマでは「子どもが遊ぶときは、時の経つのも忘れて、夢中になる。子どもが遊ぶみたいに、夢中で生きたい」という意味で歌っております。 」
あややっ、同じでしたね・・・。要するに最終的な部分は同じで「夢中で生きる」がこのドラマのテーマだったんですよね。
登る坂道下る坂道、とにかく人生の道を一身に進んだ清盛。
このドラマの底辺に流れるテーマに共鳴して、ずっと彼を見続けてきたわけです。
だけれどどうも正直な感想を言うと、あるがままの清盛を愛し続けてきたかという訳にはいかない展開だったと思います。特に晩年の彼の行動には、なにか理由があるのかと期待してみたけれど、何のことはなく、ただの傲慢と真の父親譲りの残酷な性格であったのだと思うばかりで感情移入がしにくいエピソードが多かったと思いました。
それでも先に書いた通り、どうしても悪く見ることが出来なかったのは、役者さんたちの素晴らしい演技合戦に心酔していたからに他ならなかったからかも知れません。どの人がというのでなく本当にどの人もその演技は輝いていました。ただ確かに、これはみなさんもおっしゃっていたことですが、頼朝の頼りなさげは、全く新しい解釈で驚かされました。しかもこのライターさんは頼朝を描く時に「今日が明日でも明日が今日でも変わらない毎日」というような内容のセリフを毎回言わせて、よほど気に入っていたのだなと思いますが、1回目は素敵に感じても繰り返されるのはいかがなものかと思ってしまったのでした。なんとなく彼が出てくると、伊坂幸太郎の時代劇(そんなものなどないが)のような気がして仕方がありませんでした。
頼朝には源氏の御曹司という名前のみのカリスマ性しか無く、これじゃ陰で東国武士に虎視眈々とやられちゃうよなと、妙な説得力が出て、それはそれで良かったような気もしたのでした(なんでも良く解釈)
ところでこのドラマはメイクが凄かったですね。特に晩年の清盛の老人メイク。何たる醜悪。
若き日の浅くて薄っぺら感が漂っていながら、それでいて清々しい真っ直ぐな清盛は何処に行ってしまったのかという感じです。
老いると言うのは、なんと悲しいことかと思わず思ってしまったほどです。見た目が醜いからではなく、彼の清さは失われ傲慢であることが全面に出ていたからです。 松ケン、凄いっていつも思っていました。
と、思わず役者さんの名前を出すと、あれやこれやとたっくさん書きたくなってしまうのですが・・・・・
このように気に入って毎回見ていたものは、初回と最終回に書くということはムリなことなんだとしみじみと思いました。
なぜなら書き出すとあのシーンこのシーンと好きだったシーンが沢山思い出されるからです。やっぱりこのドラマ、面白かったですよ。ああ、なんで視聴率が悪かったんだろう・・・って、nhkの人も思ってるだろうなあ、今頃。今、もう次のことしか考えていないのかな。
最後に最終回のみの感想を少々。
ドラマタイトルが「平清盛」なので死んだ後はどうするんだろうと思っていたら、やってくれましたね。ぎゅうぎゅうとだけどかなり纏まっていましたよ。
西行が清盛の遺言を持ってくるシーン。伊達に生霊にはならずあの後も西行に伝言を頼んでいたのかと感心しました。西行はそれをふむふむとメモにでも取っていて、みんなでそれを読むのかと思いきや、なんと西行の体を借りて清盛降臨。
もうなんでもやっちゃって下さい。
最終回なんだから。
でも意外と良いシーンでしたよ。なんたって私はこの一族の団結力が好きだったのですから。
清盛亡き後の後日譚は無常感漂いまくりでした。
栄華繁栄を誇ったのに、それは皆懐かしき過去。
初回感想にもリンクさせていただきましたが
「泣けと言われたら泣けるのか」 という記事で、私が壇ノ浦のシーンで泣かないわけないよなと思っていたら、やっぱりハラハラと泣いてしまいました。
後日譚なんだから、ページをパラパラ捲るような感じでしたが、今思うと、一ノ谷とか壇ノ浦とか諸々、普通視聴率を稼げる場面がここには登場することが出来なかった訳で、企画の段階で早々厳しいものがあるって分かっていたんじゃないのかなと、普通なら思うよねって、ちょっと心の声・・・。
貴族の世から武士の世への転換を果たした男清盛。だけどそれは個人に与えられた使命であり平家のものではなかったのかも知れません。歴史の必然は、ゆえに平家を排除した。だけどそれは源氏にも言えたことであって、平家を倒した源氏は結局は弟を殺し、そして三代続いたといっても、長男から次男へという横の相続で、しかも二人ともろくな死に方ではなく、とても続いたといえるものかは疑問です。
歴史の必然が選んだのは、地方の一武士の家系北条だったのですから。
彼らは平家も源氏も歴史の中の通過点でしかなかったのかも知れません。だけど絶対に必要なポイントであったことだけは確かです。
彼らは一心に生き歴史を作っていったのですよね。
最後の最後ですが、弁慶、凄い。流石に私の後藤様。すなわち青木様。たったあれだけのシーンなのに全力投球。すごく印象に残りました。私はあまり彼のことをチェック入れたりしていないんです。だけど観たドラマや映画に彼が出てくるとテンションが上ります。大好きです。青木崇高さん。
あっ、最後の最後ではありませんでした。今度はほんとうに最後の最後の最後です。
ラストシーン、良かったですねえ。
水の底の都。
共に生きた平家の面々が一堂に会して清盛を迎えます。
ジーンとしました。
でもここでも私、ちょっと思ってしまったことが・・・。
先の妻、明子はここにはいないのかとか、時忠はしぶとく生き抜いてまだここにはいないんじゃないのかとか・・・
まっ、いいか、そこは。
そして夢の塊だった若き日のつやつやな若さの清盛の姿で終わったのでした。
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「平清盛」1回目の感想は→こちら