森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

篤姫「嵐の建白書」

2008-06-30 18:32:31 | ドラマ (大河)
す、凄い!!
嵐の建白書だぞって・・・どうもそんな気がしません。

炬燵などに入って、仲良く菓子などを食べているからなのでしょうか。建白書の出た後にしたって、幾島にせっつかれて、言いたくないことをやっとの思いで言ったはいいけれど、家定が不愉快に思うことは分かっていたはず。いいよと返事が戻ってくるわけもないことなのです。

どだいこの大奥は、あまりに慣れ親しんできた大奥とは(別に私が入っていたわけではありませんが、)つまり他局でやっていた大奥の解説とかけ離れていて、それはありえないだろうと思う事多数です。寝ずの番を置くのは、夜伽の女達がおねだりなどをさせない為の見張りだと思っていました。要するに大奥で褥の代償としての政治的介入を阻むため。いち早くそういう者を追い出してしまった篤姫だからこそ、あの場面は成り立つのでしょうが、あそこで立ち去られては惨めもいいとこです。そういう場合、家定は何処に行って寝るんだろうとか、篤姫は取り残されたあの部屋で寝たんだろうかとか、疑問に思った人って他にもいらっしゃいますか?


もっと驚いたのは、家定の方から
「この前はゴメンね、よく考えたら君の立場は分かることなのに、きついこと言っちゃって。」なんて謝ってきたことです。もう、本当に熱いったらありゃしません。はっきり言って羨ましいです。

世間的には「大変の嵐」。だけど、基本的には今回は夫婦の絆の物語だったように思いました。


後、心に残ったのは、やはり小松帯刀誕生ですか。その帯刀ですが、あまりにストレートに斉彬にぶつかっていきます。篤姫を守ると言いながら追い詰めている殿を、信じ切ることが出来なくて苦しんでいますと吠えるのです。さりげないけれど、凄いシーンでした。それは逆にそこまで人を信じることが出来るんだと、私を唸らせました。斉彬は上に立つものとして、家来のそんな気持ちまで受け止めることが出来る人なのだと帯刀は信じきっているのですよ。だから
「信じきることが出来ない。」と、そんな恐ろしいことが言えるのですよ。


次は京での西郷どん。「年長」と言う言葉を何かにねじ込むのはいい作戦でした。何かは何か。よく分かっていません。京でのあれやこれやはめんどくさいのでいい加減に見ていました。「で、結局」と言う所がわかればいいのかと思うのですよね。思うに途中の立案、根回しがどんなに良くても最期の実行者がへボケれば上手くいかない確率が高いと言うことですね。

最期に本寿院。今週も「おのれぇええ」と凄いです。その時だんなが、
「この人、娘にママだけ学芸会みたいって言われているんだってね。」と言いました。
―ワォ。―ちょっと確かに。
でも、私は天邪鬼なのでそういうことを聞くと、イヤイヤ本寿院はこれでいいんだ。頑張れ、突っ走れと応援したくなってしまいます。もちろん応援するのはキャラだけですが。
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「Чайкаーかもめ」

2008-06-29 16:12:51 | 観劇・コンサート日記

 6月28日、赤坂ACTシアターにて藤原竜也×鹿賀丈史の「かもめ」を観て来ました。  

 

 たぶんこの記事に通りすがりでいらっしゃった方は、
「それで、彼はどうだったの?」なんてお気持ちではないですか。
彼―藤原竜也君のことですが。
その彼が、繊細で感受性豊か傷付きやすい青年を演じることに、何の不安があるでしょうか。

 

  才能豊かなものに囲まれて、その中で自分のちっぽけさにコンプレックスを抱きつつ、前衛的な作品を書き、足掻き道を見つけようとしている若きコンスタンチン・トレープレフ(愛称コースチャ)。
大女優の母との愛の葛藤。地元の女優志願のニーナへの愛の想い。そこに絡んでくる著名な作家トリゴーリン。また管理人の妻や娘、医者や教師。
様々な愛が向き合わず片方に流れ苦悩しています。それは田舎の湖畔での物語なのですが、舞台ではその向こうに湖があると感じるだけで、背景に描かれているわけではありません。
だけど絶望を知る前の彼の無邪気さは、まるで湖の上に煌く光のようでした。

 

  この舞台に行こうと決めた時に、原作を読もうか読むまいか少し悩みました。でも、彼らに物語の世界にいざなってもらおうとストーリー知らずに見ることにしました。それは、私にとってですが正解だったかも知れません。知っていたら、私は最初から冷静にはコースチャのセリフを追えなかったかも知れません。

 

 そしてその、彼らにいざなわれた物語の感想です。

 

  生きていくことは耐え抜く力を持つことなんだ、と私は思いました。すると、終盤でその言葉は登場人物の口からこぼれてきました。混乱し惨めに地を這いながら泥にまみれながら、それでも生きていくんだという「意思」が、頼りなげなか弱いセリフの中からも伝わってきました。

 

何時しか嵐は止む。青春時代の春の嵐に耐えて、耐え抜いたものだけが、夏の落雷に恐れおののき、秋の長雨の冷たさに震え、冬の吹雪にさらされることが出来る。人は悲鳴をあげながら生まれてくる。そしてその人生の終焉に、苦痛を伴わないことはあまりない。

それでは生きていくことが苦しみなのか。
もしそうであるならば、人は苦しみだけの「生」と分かっていて、愛すべきものを産み落とすわけがない。

これは単なる言葉遊び。
春の嵐の去ったその後は大地の乱れも激しいが、負け地と地より蘇ってくる百花繚乱の季節を見るだろう。落雷に自分の悪の心を裁かれそうな思いに打ち震えるが、その後に全て許されたようなツーンと澄んだ空気を感じることが出来るだろう。長雨の止んだその空に七色の虹を見るだろう。吹雪に耐えたその後に、全てを覆い尽くした銀世界の美しさに感嘆の声を上げるだろう。人は歓喜の声をあげながら生まれてくる。そして死に伴う苦痛は生への執着を少しずつ断ち切る薬。

実際に悩みの後に悩みは続き、付き纏う苦悩は絶える事がないが、人は経験を通して何かを得、それらを言葉に還元し乗り越える能力を持っている。

選択の扉はいくつもある。コースチャ、なぜその扉をあけてしまったの。文豪チェーホフに文句を言う輩はいないと思うけれど、そんなラストは今時流行らないぜって、悲しいので言ってみた。

 

 などと言うのが、この物語の見終わったときの感想だったと思います。以下は舞台に沿った感想を少しだけ記しておきたいと思います。(ネタバレはしています)

登場人物は皆それぞれの愛や嘆きをそれぞれの形で持っていますが、なぜだか引き付けられてしまったのは管理人の娘マーシャです。人生は悲劇だからと喪服のように黒い服を着続けて、酒や嗅ぎ煙草を嗜み若さに見合った美しさを求めていません。彼女の嘆きはコースチャへの報われない愛で成り立っています。

想いはどんなに強くても、一瞥もされません。その苦しみから逃れる為に愛のない結婚をし、子供も儲けたと言うのに、その子供よりも仕事にかこつけてコースチャの住む館から帰ろうとしません。それでも、今度は遠く離れて全て忘れてしまおうと望んでいます。自分からは何も求めず、ただじっと想っているだけ。そして想いをじっと飲み込んでいるだけ。

愛を求めて愛に飢えているというのに、あえて気付こうとしない、またはその愛ではダメだと思う、人はなんて贅沢な生き物なのでしょうか。

 

 最初のコーチャの書いた芝居で、ニーナのセリフは澄み切った声で淀みなく美しいけれど薄っぺらだったのに、最後の別れの時に呟いていくそのセリフにはずっしりとした重みがありました。

ニーナが延々と語るその最後の長ゼリフの時、コースチャは微動だにもしないでじっと彼女を見ています。私は時々セリフのない人の方に目がいってしまうことがありますが、気持ちが切々と伝わってきました。

本当の終わりの時を感じながら、それでも手放したくない思いに苦しんでいたと思います。でも、別れを告げる彼女は、愛しているのは裏切られてもあの男だと告げるのです。母の愛をも独占している男。

最初、母はコースチャの男への態度を、「嫉妬」と決め付けて切り捨ててしまいます。確かに才能も名声もある著名な作家、欲しい愛を奪っていってしまう男に、じたばたするコースチャの態度はそうも見えますが、それだけではないように思うのです。青年の前に立ちはだかる父のような壁というものでしょうか。乗り越えたい壁には愛も理解もありません。そこにも違う大人の優しさや理解が存在していますが、やはり違うものでは彼は満足できません。

 

最後の彼のセリフ
「あ~、まずいな。庭を渡っていく彼女を誰かが見て、それを母が知ったら、あの人はどんない不愉快に思うだろう。」と静かに呟くシーンは、美しく切なかったです。

そして書きかけた原稿、書き上げてあった原稿を破り捨てて去っていくとき、もう物語の終わりは決まっていると言うのに、書くことについて分かってきたって言っていたじゃない、耐えよ、乗り越えよと心の中で祈ってしまいました。

意味のないことと知りながら・・・・

 

ふと思う。この悲劇は母、イリーナのネグレクトに起因していると


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「おせん」最終回&ドラマのお話

2008-06-28 01:28:12 | テレビ・ラジオ

 最終回ラッシュのこの時期、私はドラマの御喋りです。
と、思っていたら過ぎていく日々に「ちょっと待って~♪」と言っても通用するわけもなく・・・・。
でも途中まで書いてあったので、まぁいいかということで、タイムリーではない消化記事です。

 

数回は普通に書いていた「おせん」のドラマ感想ですが、ある時から書けなくなってしまいました。なぜなら、・・・・、いつも半分寝てしまっていたからです   

よし、最終回ぐらいは寝ないでちゃんと見ようと思いましたが、終わってみると、やっぱり半分寝てしまっても別に良かったかなと言うのが・・・本音かな。

 

でも、この「おせん」は好きでした。可愛い着物を見る楽しみもありましたが、ゆったりと時が流れ守るべき物を大切にしている空間が、そこにはありました。ただ、「こういうものは守るべき物だと思う」的な提言がテーマではなく、そこに「時代の選択」のようなものを持ってきてしまったところに、早くから大丈夫かいなと危惧させるものがありました。「美味しんぼ」+「そんなテーマ」では、このキャラでは難しく感じたのです。

 

最終回は、私にしては珍しく辛口感想ですが、製作者側の自己満足ストーリーだったように思いました。

我が家にはこれまでも何度か書きましたが、テレビは一台、見たい番組のチャンネル権はほとんど夫にありますが、私も本当に見たいものは主張します。この「おせん」は、私が見たいと言って、その時間にかかるようになったものでした。薦めた私はグーグー寝ていましたが、夫は私と似たような理由だと思いますが、楽しみにして見ていました。

が、ラスト。「一升庵はまだ残っていました。」で終わってしまいます。

(アッ、このマーク久し振り)「で、なんだって言うんだよ。どうして残ったんだ、説明なしかよ。自分で考えろってやつか~。」

 

私はこのだんなの怒りはもっともだと思いました。まぁ、たかがドラマの話なのでそんなに大袈裟なものではありませんが・・・

分かり辛いのです。

戻ってきたいと言う江崎に、なくなるかも知れないことを示唆し、今の場所で一升庵を繋いでいって欲しいと言うおせん。

でも、時間は経過しているはずなのに、一升庵は存在しているのです。みんな和やかに楽しげに、いつものように。

 

この辺のことはHPのストーリーを追うと理解できます。HP→こちら

「みんな笑顔で、にぎやかな・・・いつもと変わらない一升庵がそこには、今は、まだ、ある・・・。」 

 「・・・。」は、この先は分からない、と言うことなのでしょうか。ラストのみんなの何気ない談笑の中に、このドラマの作者の(原作者にあらず)フォロー的なヒントが隠されていると思いました。残すならうどんと蕎麦とどっちがいいと言う話題。うどんはうどん、蕎麦は蕎麦、選択する必要はなく、便利になった食生活、ゆったりとした一升庵での食事、淘汰される必要があるのでしょうか。

 

千代おかみのお説教は良かったです。
「一升庵のもてなしも、美しさもここが燃えたらなくなるのかい?」
「あんたが一升庵だ。」

繋ぐべきものは形あるものの中にあるのではないのですね。

 

ただ、このシーンで、私は違うことを考えてしまいました。

目の前に火を掛けられたら、何も考えずに必死で消そうとするじゃないか~。もっとなりふり構わず火を消せよ~。と言う感想。

 

ところで出てきたケチャップモンスターを
「いまどきの子供・・・」って言わないでいただきたいですね。ちゃんと育っているいまどきの子供に失礼ですよね。

「あ~ぁ、あんな怪物に育てちゃって・・・。」
珍しく意見が一致しました。

 

子供を見れば、全てではありませんが親の姿勢は分かるものなのかもしれません。おせん最大の敵を最後に、しかも結論出さずは惜しかったかも知れないと、ちょっとだけ思ってしまったのでした。

 

 その他のドラマとしては、実は一番楽しみにしていたのは「Around40」でした。最終回はやはり夫は納得いかなかったみたいです。私もちょっとだけ、仕事も子供もと欲張ってはいけないのかと思ってしまったのでした。離れていたって、夫婦は夫婦と思うのは、やはり何年も夫婦をしてきてしまった私達の感想なんでしょうね。

 

 ついでですが、明日からの「花より男子」の映画公開の宣伝のためか、朝、再放送をしていましたが、宣伝効果はあったようです。最終回だったのですが私はうっかり涙ぐんだりしちゃって、アホかいな。誰か誘って行きたいが、きっと誰も行ってはくれないと思います(涙)

「何で、そんなの見たい訳?」

「だってこれ、原作は少女漫画だよ。」

「知っているよ。」

「だから、少女の気持ちをくすぐる訳よ。少女魂を萌えさせるっていうか~。確かに大昔の魂だけどさ・・・。だけど、チケット買うのも恥ずかしいな。」

「ネットで予約購入すれば。」

 

・・・・でも、たぶんいつかテレビでやる時まで待っているかもしれません。だけど、その時だってきっとだんなに遠慮して・・・ふん。

こんな時だけ、娘がいたらいいのになと思ってしまう私でした。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

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篤姫「母の愛憎」

2008-06-24 01:38:00 | ドラマ (大河)
 月の光が天空で地上を照らしているその時に、東の国の恋に落ちたキングとクィーンは手を取り合って幸せな気持ちで、眠りにつきました。
同じ光のその下で、いつか歴史に名を残した男が、悔しさの気持ちで心の中を真っ黒にして「鬼になる。」と誓いを立てていました。母はその男の気持ちをしっかり受け止めて
「それなら、私は鬼の母になるだけです。」と微笑むのでした。


昨日の(書いているうちに明後日になってしまいそうですが)「篤姫」は、なんかしみじみと良かったですね。気が付くと、涙がすぅっとこぼれて、ああ泣いていたんだなというシーンがたくさんありました。


 タイトルの「母の愛憎」の母とは本寿院や大久保の母フクのことを指して言っているのでしょうか。子の敵だと思えば母は命を懸けて憎みもし、子を守り支え、その愛で包み込もうとしますが、時にはその愛で、子を翻弄してしまうこともあるのでしょう。

―母よ、ありがとう。だけど、私は大人になったのです。これからは私があなたの心配をいたします。

誰もは正面きっては言わないけれど、この感謝の言葉は嬉しくてそして悲しい、例えばツバメの子供が巣を飛び立っていくときのような寂しさがあるような気がします。

本寿院の言葉で印象に残ったのは、篤姫に家定に会わせて下さい、妻として慕っておりますと泣きつかれた時に
「いやはや、これでは嫁をいじめているようだ。」とうろたえた所です。

まさに嫁いじめじゃないのかと、私は思っていましたが本寿院の意識は違っていたのですね。
大奥に上がるということは普通の婚姻ではなく、御台所と言うポジションに着くという意味なのかも知れません。そうであるならば、意見違えば策を弄して戦うのも必定というものです。ただ、この御台所は恋する妻だったのです。
誰が、自分が愛する者を同じように慕っている者に悪意を抱くことが出来るでしょうか。


 ―妻としてではなく一人のおなごとして、上様をお慕いしているのだ。
と、篤姫に伝える幾島の印象に残ったセリフは、またも私をいらつかせます。
「ただ、我らが使命を考えた時に、それが凶と出るか吉と出るか・・・」

我らが使命―何言ってるのかなと思ってしまいます。「篤姫」の物語の根底から覆すようなことを言ってしまいますが、篤姫の使命と言うのは、斉彬の養女として大奥に上がった段階で果たしたといっていいのではないでしょうか。その先の重責を一介の小娘一人の双肩にかける訳がありません。御台所の娘を持つ斉彬が、表で頑張ると言うのが、普通なのじゃないかなと思うのです。

大奥にいる姫に頑張ってもらわなくては・・のようなセリフを聞くたびに、私は「歴史は夜、作られる。」的な事を斉彬が期待してるかのようで、妙に居心地の悪い感じがするのです。


 だからもう「我らが使命」なんてものはポイっと投げ捨てて、恋の道を行きなされと応援したくなってしまいますね。
「そちが来ぬから、こちらから会いに来た。」

この時二人は駆け寄って抱きあうのでした・・・私のイメージでは。
そうならなかったのは、ちょっと残念ですが、
「久し振りだのう。」
「本当に。」と涙顔で見詰め合うのも良かったですね。


ところで、今回の篤姫で一番吃驚したのは大久保宅で流れた音楽です。篤姫ではないような音楽が流れました。そして、篤姫と家定の二人のシーンでまた音楽が変わりました。

それぞれの青春グラフィティー・・・そんな言葉が浮かんできてしました。

流れ流され人生の河を泳いでいくよ。
あの時私は・・と私は言う。
あの時私は・・と彼は言う。











  










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インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国

2008-06-23 00:27:30 | 映画

「近未来二番館」のお知らせです。

あの音楽を聴くとなんとなく元気が出てくる、そんな人はいませんか。懐かしいけれど、決してそれだけではない、まさに子供から年配の人まで文句なしに楽しめる娯楽作品の王道「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」を見てまいりました。

 

感想はこちらです。→ 

 

面白かったですよ。


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今の私なら

2008-06-20 02:14:36 | ’08/12/7までの未整理日記
<タイトルはこれと言った物を思い浮かべる事が出来なくて、適当>
 時々無性に何かを書きたくなる時がある。心の発露と言うのだろうか。この「森の中の一本の木」の編集画面の記事一覧には、思いついた書きかけの文が放置されてたくさんある。気が向いた時に続きを書くのだ。だからシリーズで書いているはずなのに、かなり不定期な続きの記事がたくさんあるのも、そんな気まぐれな書き方のせいなのだ。

 でも、さっき何かストーリーのあるものが良いなと下書き記事を拾っていたら、こんなのがあって・・・

「タイトル : 秋の枯葉のように
 あのね、私は本当にあの時あなたを愛していたんだよ。本当に切ないほどにさ、泣きたいほどにさ、あなたを愛していたんだよ。だから、私はあなたを失いたくはなかった。

 片恋の想いに喪失なんかあるわけはないと、思う人もいるかしら。そんな人は恋の想いと言うものを知らない、阿呆な人だよね。

片恋の想いは、きっとはらはらと降り続ける秋の枯葉のようだよね。はらはらとまたはらはらと雪のように降り続ける枯葉。好き、愛してる、好き、愛している・・・・
だけれど、季節が変わればその枯葉も落ちる事を止めて、何時しか新緑の緑の時代が来る。

 
 だから私はあなたを失いたくはなかった。
私はあなたに微笑まず、冷たい態度をとった。一番悲しい恋のやり方。私の全てがあなたを見ているのに、目だけはあなたを追わない。私の全てがあなたに恋の想いの語りかけているのに、開く口から出る言葉は冷たい侮蔑の言葉。

あなたが他の誰かと付き合っても、私は傷つく事はない。私の想いに気付く人はいない。想いはぎゅっと凝縮させて、心の奥底のカプセルの中に閉じ込めてしまったから。」


そうそう、これは新緑の木々を見ていて、心突き動かされて書き始めた珍しく恋愛ショート。ああ、なんか気持ち分かるなあ・・・って、自分で書いているんだから当たり前だよなあ・・・・で、アレ、もしもし私、この続きはどうなっているんだ。・・・・部分的記憶喪失 ・・・?


そうだった。お茶を飲んで冷静になったら思い出した。恋愛ショートショートなんかじゃなかった。テーマは「想いの自己消化」だったかも。赤や茶色の降り注ぐ枯葉の秋の景色のような 心象風景が、新緑の緑にぱあっと変わっていくところを書きたかったんだと思うのだけれど、間が開きすぎて、ストーリーを忘れてしまったみたいだ。あ~あ。

こういうことは前にもあった。
以前大掃除していたら、高校時代に書いていた小説もどきの書きかけを見つけた。漫画みたいなSFストーリーで、面白くて(考えてみたらかなりの自画自賛だけれど、文章の下手さはこの際関係なくて、自分の好きな物語が書いてあるのだから、自分で読む分には本当に面白く感じるんだよね、これが。)掃除を放置して読んでいたら、突然途中で終わっていた。書くことに行き詰ったか、きった飽きたんだと思う 。私らしい。その時も思ったものだ。書いたのは私だ。だから冷静になればストーリーは思い出せるはずだと。でも頭の中は白紙。失われた記憶は戻らない。物語は途中で終わったまま。

 親友だと思っていた少年に、本当は憎んでいたと言われた少年。二人は崖の上で目隠しをして止まるというチキンレースをするけれど、崖のふちギリギリで止まった元親友の勝ちだった。だけど、その時足ががふらついた元親友は、少年の胸元を掴んで共に崖下に転落していってしまう。だけれど、少年はその時、ここ数日夢の中で聞き続けていた少女の声を聞く。
「カール、あなたを愛していたわ。」
その時、落下するその空間に光が走って彼らは異次元の空間に落ちていってしまう、と言うようなストーリーだったかな。いかにも高校生らしい物語だと思うけれど、だからこの続きはどうなんだとやっぱり思ってしまうわけだ。


 だけどこれも真夜中にその事だけ考えて居ると、なんとなく思い出してきた。異次元の隙間に落ちていくのではなく、これは最後に崖の上から地上に叩きつけられるまでに少年が見た前世の記憶の夢だったと分かる話だったんだ。

きっと前世の記憶の物語が作れなくてやめたんだと思う。だから、記憶にないんだ。
だけど、この話を書き始めたきっかけは覚えている。
靴箱の奥にあった、母の若き日のピンヒールを見ていて、この靴は凶器になると思ったのだった。それから昔からいろいろな夢を見る私だったが、ある日私は自分が死んでいるという夢を見た。アウシュビッツから大量の死体がトラックで運ばれている。大きな石の上をトラックが乗り上げると、私と言うか僕はゴロリとトラックの上から道端に落ちて、その道端でずっと日々がどんどん過ぎていくのにただ死んでいるという夢。

 今の私なら、この二つからどんな物語を考えるのだろう。少なくともSF じゃないな。だけれど、放置された物語たちは記憶の底で埋もれていくばかり。別に誰かに望まれているわけではないが、望まれなくても生まれたがっているだろうになあなんて、擬人法で考えてみる。
 少なくても清閑寺きりさんぐらいは生んであげたいなと真夜中に思ってみたりして・・・高奏ななさんも。



 

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これで痩せよう~♪「やきとりじいさん体操」

2008-06-17 01:16:53 | ’08/12/7までの未整理日記




 普通の人は夏が近づいて来るとうんざりするのかもしれませんが、私は気温が上がってくると、俄然ヤル気が起きてくるタイプです。とても真冬生まれには思えません。
 それで、日々掃除に勤しんでいます。洗濯と掃除はやはり連動していますよね。マットもクロスもクッションもカーテンもガンガン洗います。その間に窓を拭いたりとかしています。やっぱり大掃除は冬より今の方がやりやすいです。だからと言って、真夏はちょっと出来ませんが・・。

 掃除をしだすと、無駄な物をごっそり捨てたくなります。捨てる物をチェックしだすと、如何にもろもろの雑用や、やらねばならない仕事を溜めていたのかも見えてきました。近頃PC、時間も減っています。(ちょっと不義理気味・・汗)
でも、やらねばならないことは片付けなくちゃ!!

無駄な物は捨てまくるぞー!!

って、お腹の脂肪ですか~?!


そんなに太っていない人が体重落とすのって大変だけれど、大デブな人が5キロぐらい落とすのって簡単なことじゃない、ってあなた、思っていませんか?
私は昔、そう思っていましたよ。
ところがそーじゃないのよ、ああた。←誰かの真似?

ま、いいや。私のダイエットの話なんか、敢てしたくないし、とにかくこれだ!
運動不足解消に良いと思いませんか。
何より歌も楽しそうだけれど、踊っている彼女が良いですよね。

「やきとり、やきとりじいさん~♪ふんふんふふん♪」

明日からやりましょう。その「明日」と言うのがいけないんだ、今からやれと言われても真夜中ですよね。
せめて今日の朝日が昇ったら・・・・
「まあ、朝にぴったり。」という歌でもないかも知れないが・・・。

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篤姫「許すまじ、篤姫」

2008-06-16 00:50:12 | ドラマ (大河)
 今日のタイトル、なんか気恥ずかしい・・・

姑と言う者は、嫁が良く出来ていても、ろくでなしでも、とにかく気に入らないらしい。そんな風に聞いても
「そうかなあ~。」と疑問符が頭の中に飛び交ってしまうけれど、確かに私の周りで、早くも嫁なるものが来ている人は、その嫁のことを話すとき、みんな微妙な顔をする。でも、仲が悪いと言うわけではない。来たら来たで気に入らず、来なきゃ来ないで困ってしまう、嫁姑というものは微妙な関係らしい。

いや、本寿院は最初は上手くいっていたじゃないかと言うかも知れないが、遅かれ早かれ、何か引き金があればそうなったんだと、私は思ってしまう。その引き金は後継者問題だけではないはずだ。
自分の気持ちに正直な本寿院は、篤姫の胸倉なんかを掴んだりして、超過劇だ。高畑さんがやっているから、なんとなく笑ってしまうが、本当はあり得ない恐ろしいシーンだ。なぜなら、女の人で姑でなくても胸倉なんか掴まれて文句を言われたことのある人は、世の中にどれだけいると言うのだろう。篤姫でなくても落ち込む。と言うより、そんな事をされたら、その関係は修復できないのが普通だ。それが現実だ。

「篤姫」に限らず、「大河」は「あり得ない」がいっぱいだ。だけど、主人公が光秀の最後の時に立ち合っていようが、西の海に行こうとしたのに亡霊に妨げられようが笑って許せても、こういうさりげない場面の「あり得ない」は、つまらないので好きになれない。

こういうのは、やはり野際陽子さんのように鼓を打ったり三味線かき鳴らしたりで「バカ嫁が~。」と叫んでいるほうが現実味がよほどある。まあ、これは好みの問題。



篤姫と家定が、本当にいい雰囲気になってきた。
ハリスとの謁見に畳のアイデアが面白かった。その報告を嬉しそうにする家定。
「だけど、またやってしもうた。」
「うつけのまねじゃぁ。」
そのマネをやってしまったのも、報告している姿も楽しそうな家定だった。家定はきっとその話を、篤姫に早く話したかったに違いない。うつけのマネも、篤姫が笑えるような行動を選んだに違いない。

二人を見ていると微笑ましい。
昔から
「人の恋路を邪魔するやつは・・・」と言うが、蹴りたい背中になってきているのは、本寿院より幾島だ。幾島は自分の仕事に忠実真面目。でもちょっとうざい。


家定の慶喜に対しての「勘」、薩摩で娘の生きる力を信じている母の言葉、西郷の今後の働きなど細かい所がなかなか面白いと感じた、今回の「許すまじ、篤姫」。って、ヤッパリこのタイトルは微妙・・・・


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ふわふわと

2008-06-14 02:08:52 | 梢は歌う(日記)

火曜日の夜、「おせん」の感想を書こうかなと思いパソコンの前に座ったのでしたが、どうしてもそんな気持ちになれませんでした。だって、あんな恐ろしいことがあったのに、素通りしてはいけないような気持ちになってしまいました。
何か言いたい、そんな気持ちになったとき、私は気が付きました。少し前に起きた、土浦「荒川沖」の通り魔事件が、私の中では既に風化しつつあったことを。風化などさせている場合ではありませんでした。

(2022/8/13追記 更に風化しているのでその事件、土浦連続殺傷事件の事は「土浦連続殺傷事件」を参考にしてください。この記事は「秋葉原無差別殺傷事件」の時の事を書いていて、加藤被告もこの土浦の事件に影響を受け、この土浦の事件の犯人も秋葉原の被害者の方が数が勝っていることを聞くとうらやましいなどと言ったそうです。なぜかwikiでは犯人kになっています。名前がそんなにあるものではないので、加害者家族を守る為でしょうか。だったら悲惨なその後を迎えた加藤死刑囚の家族はどうなのかって思ってしまいますよね。)

 

※                  ※

日曜日、私は一日中出掛けていて、夜7時くらいに家に戻りました。
「ただいま~。」と声をかけると、「お帰り」の声も掛からず
「今日のアキバは、酷かったね。」と言われました。何のことか分かりません。
その時掛かっていたテレビから、そのニュースが流れてきました。何かしら、この映像は・・と思いました。何かのテロで倒れているような人たちの映像が映っていたからでした。7人死亡、通り魔、犯人確保の様子、そんな言葉や映像で何があったのか分かりました。
その時、私は思わず分かっているのに確認してしまいました。
「今日、子供達は家にいたのよね。」

 家族スナップの「ブラザー・ビート♪」の中にも書きましたが、我が家の次男は兄から「アキバ先生」とからかわれ、うっかり私も「アキバ博士」と呼んでしまうと言う、秋葉原は彼にとって近所のエリアです。からかっている「おうち大好き人間」の兄も、「ちょっと出かけてくる。」と言う場所は、近所の本屋や電気屋ではなく秋葉原。そういう私も「つくばTX」と言う新しい路線が出来てから、実家の横浜から戻ってくる時、秋葉原まで来ると、「ああ、帰ってきた~。」とホッとした感覚を感じるようになっていました。その街は、私たちにとってそんな街なのですよ。


 その日、家にいない自分の子供の携帯に電話を入れた母親は、いっぱいいただろうなと思いました。


その日に私と一緒にいた友人も、事件の事は夕方まで知るよしもないことだと思っていました。でも、実は彼女は知っていました。子供から電話が入ったのです。彼女の子供は秋葉原のコンビニでバイトをしていたのです。
「みんなの所には、バンバン家族から電話が来ているよ。母さんも心配していると思ってさ。」
事件の事は知らなかったので、実は心配はしていなかったわけですが。でも、その子が言うには、お店から一歩外に出ると街は血の匂いが漂っていたそうです。


時計代わりにかけているテレビは、朝かけた番組からずっとチャンネルを変える事はありません。「2っ時チャオ」と言う番組のニュース解説は、とっても分かりやすいので好きなのですが、そこで今回の事件は「ライブ型」だと言っていました。犯人の男が携帯の掲示板に、実況のように自分の行動を逐一書き込んでいたことと、その事件を目撃した人たちが、ブログや掲示板などにその様子をすぐにアップすることを予想して秋葉原を選んだのではないかといっていました。
そうならば、私がこの事件のことを取り上げる事も、犯人の希望の欠片の一部を叶えてしまっている事になるのでしょうか。
彼の「ワイドショー独占」と言う願望が、皮肉にもその通りになってしまっているように。

この犯人に思うことはたくさんあります。何が人生に疲れたなんだ、まだ25歳の癖にとか、思うことはきっと皆様と同じですよ。

ただ先日、いつものように夜ソファで転寝をしていました。その時、ふと目をあけたら犯人の両親が謝罪をしていました。母親は立っていられなくなってしゃがみこんでしまいました。
私は吃驚しました。確かに親と子は切り離しては考える事は出来ないものです。だけど、成人男子の犯罪に親が謝罪のためにカメラの前に立つなんて、しかも、直後で被害に遭われた方の親族の心情の配慮はあるのだろうかとも思ってしまったのです。その謝罪は、マスコミによる近所迷惑を避けるためとか、いろいろ理由はあったようです。

だからなのか父親の話は、転寝している私の耳にはとっても事務的に聞こえてきて、奇妙な違和感を感じました。(真実は知りませんよ。)
その時私はあることを思い出しました。家族を失って気丈に葬式にに臨んでいる人に、友人が声をかけたところ、その方が
「今、俺何が起きているのかわかっていないんだよ。」と答えられたと言うのです。ふわふわと足が地に着かない気持ち。醒めない悪夢の続きを見ているような気持ち・・・・・

街には献花が絶えず、悲しみに溢れています。でも、この悲しみは時が立っていった頃、静かに心の器から溢れだしていくのかもしれません。


「誰かに止めてもらいたかった。」―この言葉一つでも思うことも怒りもいっぱいです。いろいろ考えさせられる事件です。でも、何よりも時がたっても自分の中で風化させてはいけないと、恐ろしいけれどそんな風に思っているのです。


―被害に遭われた方の一刻も早いご回復を願っています。
お亡くなりになられた方のご冥福を心より祈っています。―






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篤姫「器くらべ」

2008-06-09 12:03:07 | ドラマ (大河)
 映画の番宣かねて、朝10時から「花より男子」の再放送中ですね。なんとなくぼんやりと、だけど楽しんで毎日見ている私です。この頃、松田翔太にさほどオーラも感じません。

 だけど、時が過ぎて何処で修行したのか(やっぱりうそつきゲームかな)、オーラバッチリの慶福さまでしたね。

この「器くらべ」、一見アイドル性の高い慶福様が、見た目ですでにかなりのポイントを稼いでいるようにも思います。
この時彼は十代前半?


真っ直ぐな澄んだ瞳も若さゆえと言う事はなかろうか・・・

だけど、ワタクシ、この方を見ていると
「この菓子は傷んでおりまする。皆様も召し上がりませぬように・・。」
―本当に傷んでいるのか~。
毒味役に残りを毒味させて、厳しく詮議せねばと言う滝山に
「食べられぬと知りつつ、それを試せと強いるは人の上に立つ者の心得ではない。」と諭します。
そこにいた、大奥の女達、一同に「おお~!!」と名君の器ありとばかりにどよめき、トキメキますが、どうも今日のKiriyさんには素直な心という者に縁がありません。

―本当~!!!???

「ふっ、あの時俺は滝山と示し合わせて、大奥の女達の心を鷲摑みにすると言う作戦に出たわけさ。」というような「・・・だったのさ。」という種明かしはこの先もないのでしょうか。


 「片方聞いて、沙汰するな。」でしたっけ。
なので、慶喜様のことも少々。(オマケのようですが)
この覇気もなく掴みどころのないことばかり言っている男と言えども、その真実はあの程度では分からない事ではないでしょうか。

時代の真実を読んでいる男だったかも知れないじゃないですか。その器にあらずと自ら言っているのは、「時代の重み」と「自分の器」が釣り合っていない事の自覚があったか、迷っていたのかも知れません。

ただこの先、篤姫とはあまり良い関係にはなって行かないような事実があったような・・・不確かなのではっきりとは書けませんが、歴史上の人物像は描かれ方一つでどうにも捉えることもできますし、見るものの視点によっても変わるものです。


ただ、そう思うと大奥の女達も斉彬も、その人物を知っていて将軍に押しているわけではないのですよね。いずれの傘の下に入るのか、というより、いずれの傘を自分達で開くのかが政治的ポイント。だけど傘に指名されているものも、その傘を後押しせよと駒のように使われている者にも、心はあるわけで悩むのは当然ですね。
本来「駒」は悩む必要はなく覚悟さえあればいいのですが(幾島のように)、斉彬が選んでしまった駒は「考える駒」だったのです。


二組の夫婦の歩み・・・・
五目並べで心を通わせて、夫婦の会話も弾みます。大切な話も心のうちも語る家定に、篤姫はしばしの幸せを感じています。

年上女房に叱られて、尚五郎さんは愚痴から悟りまでのスピードが速いです。


次回は嫁姑バトルが勃発!?



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