森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

「オールド」を見てきました。

2021-09-30 01:28:49 | 映画

M・ナイト・シャマラン監督、不思議な人です。

彼の作品が皆大好きというわけではないのに、何でだか癖になるんですね。

確かに、「このビーチでは一日で人生が終わる。」なんていうストーリーにも興味が湧くけれど、今度のシャマランさんは、何を仕掛けてくるのかなと、とっても気になってしまうのでした。

そうはいってもなかなか予定が立たず、とうとう終わり間近の27日(月)に見に行ってまいりました。

この物語は、監督の三人の娘さんからプレゼントされた「Sandcastle」というお話が原案になっているらしいですね。

その場所の不可解な現象が起きる理由の「なぜ」も、そして彼らがここに連れてこられた理由の「どうして」も、ちゃんと説明されて、そして思わず納得してしまうのですが、冷静に考えてしまえば、「そんなことあるかい!?」となってしまう・・・・人もいるでしょう。(私かも・・・(笑))

 

「そんなことあるかい !?」などと思わずに、なんだかよく分からないまま「そうかそうか」と納得し、「なんと !!」と「どうして」の部分も大真面目に驚いた方が、この映画は10倍は楽しめると思います。

 

ラスト週に見に行ったせいか、観客が私も含めて3人だったせいか、ポテトを食べたりメロンソーダ―を飲んだりしつつ、なんだか家で見ているかのように寛いで見ていて、心おきなく百面相をしていたように思います。

そして、怖く感じたり気持ち悪く感じたりもしましたが、切なさや悲しさも感じまた怒りもと、考えさせられることも多数で、心の方もたくさん動き、まったく飽きない108分でした。

いつも賛否が真っ二つのシャマラン監督作品ですが、この作品は結構イケたのではないでしょうか。

だけどこんなにお勧めしても、劇場公開は、もう終了で、あとはお近くの名画座か、もしくは今は配信が早いので、そちらでご覧になって頂ければと思います。

画像の下はあらすじは書きませんが、ネタバレを意識していないで書いています。

つまりネタバレしています^^

 

子供の役はやはり3人から4人・・・・

ラストに伯母の家に向かう時、

「6歳の甥って50代の男が言っても、驚くだろうね。」と言うようなセリフで終わるじゃないですか。

なんだか一番切なかったです。

「時」を失う事は、かなり大きな悲劇で、彼らはその代償としてどんなにあの製薬会社に賠償してもらっても、償えないと思ってしまいました。命があれば良いってものではないですよね。

最初に少年トレントが、ホテルの宿泊客に職業を聞いて回る遊びが、最後に生きてくるところは好きなシーンになりました。

 

だけど気になる事も少々。

数時間前まで6歳だった少女が、歳を取っていくことを嘆くシーンで

「プロムにも行けなかった。」みたいな事を言うわけですが、そんな事を言うわけないじゃんと、ちょっと違和感を感じたのです。

それに肉体の成長は分別の成長を伴うものなのかという疑問。あの姉と弟、肉体はおばさんとおじさんになってしまっても、その中身は11歳と6歳なんじゃないかと思うわけで・・・・。

そう言えば、最後に彼らも諦めて残された時間を楽しく使おうと、砂の城を作り出すところで、姉が

「私たちが童心を失わないのは、昨日まで子供だったからかしら。」と言うのだけれど、

いや、君たち、心は子供のままだと思うよと、やはり思ってしまったのです。

 

ただこの作品は、画像の上にも書いたことですが、そのような違和感を感じても、シャマラン監督の共犯者になって、細かい事は気にシーナイと見た方が良いって事ですよね。

 

この物語は、家族の愛の物語。あの夫婦が、最後に穏やかに心を通わせることが出来たのは、本当に良かったです。

出口のない閉塞された世界で、起きた異常を受け入れて、そして穏やかに去って行く・・・・

または受け入られずに、狂っていく・・・・

果敢に脱出を試みて、敗れていく・・・・

または理不尽に殺される。

なんだか、これは今の時代の縮図 ?

そんな風に感じたのは、私だけではないのではと思いました。

 

 

 

 


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「向島百花園」から浅草へ

2021-09-28 08:54:32 | お出掛け日記

「向島百花園」に行きました。その2」の続きで、「『向島百花園』に行きました。その3」です。

トップは「ハナシュクシャ」、つまりジンジャ―リリーでしょうか。この百花園にしては珍しく大きな花でした。

 

 

 

「シロバナサクラタデ」と「センニンソウ」↑ ↓ と「イタドリ」でしょうか。ちょっとよく分かりません。

  

馴染みのない花の名前は難しいですね。

まあ、花の名前は分からなくてもいいじゃない。

「可愛いね、綺麗だね。」で癒されればと思います。

白い花、好きです。

 

さて、「向島百花園」もぐるりと回ったので、お別れです。

この江戸の植物園を、かなり楽しんだ私たちでしたが、ザクロの東屋には、「萩の花を詠む」コーナーがありました。下のノートに、短歌やら俳句やらを書いて残すと言う遊びも出来るんですよ。

なんだか上手く詠めなくて(もともと上手くなんか詠めないくせに)、書いた文字が最後は投げやり。何を書いたのかすぐに忘れたら嫌だと思って、写真を撮ったら、そこには凄く幼稚な文字が・・・(^_^;)(^_^;)

それでも参加してきたことに、意義があると思うタイプです^^

 

入口、もしくは出口のところには、睡蓮鉢がありました。

  

清々しい青と白に見送られて、帰る事にしました。

だけどこのブログでは、最後に、やはり今が盛りの萩のトンネルをもう一度くぐっておきたいと思います。

ハイ、終わりです。

 

その後、せっかくだからと東向島駅の前のお店で、いつもながら遅いランチを頂くことにしました。

 

 

そして私たちは、浅草を通って帰途に就くことにしました。

だけどその前に、お茶など頂いて帰ろうという事になりました。この日は本当に暑くて、飲んでも飲んでも喉の渇きが癒える感じがしませんでした。

星子さんが言いました。

「浅草の喫茶店は2店舗しか知らないわ。そのうち1店舗は、このコロナで閉店になってしまったのよね。」

「あー、そうなんだ~~。だって酷かったもんね~~。無理だった所も出てきちゃうよね。」と、私は悲しくなりました。

7月に用があって訪れた浅草は、本当にほぼシャッター街。

厳しかったと思います。

 

ちょっと話が外れるようですが、9月12日に黒猫の「くろ豆」と言う新しい家族を迎えました。23日の祝日に、わざわざ出かけてきたのは、まだ猫さんたちだけでの長時間の留守番は出来ないと思ったからです。

さすがに祝日で、浅草も少々の人出でしたが、ノーマスクの人なんか見かけませんでしたよ。皆ちゃんと気を付けて楽しんでいたように感じました。

着物を着た女性が多数いて華やいでいましたが、以前と違うのは、その女性たちから聞こえてくるのは日本語だったことです。

つまり以前は、着物を着た女性がたくさん居るなと思うと、その団体から聞こえてくる言葉は中国語だったりする事が多かったのですよね。

他国に行った時に、その国の民族衣装を着る事は凄く楽しい事ですよね。気持ちが分かるので、そういう団体さんを見かけると、いつも微笑ましく見ていました。

いつか近いうちに、また元のように戻って欲しいけれど、今は無理な事だと思います。

ウィズ コロナ と言う言葉は嫌な言葉だなと思うけれど、知恵を絞りながら「今」と時代を生きていくことは凄く大事な事だと思います。

 

ところで今回、ちょっと雷門のところで、いつも表側の風神雷神ばかり見ていて、背面の像をしみじみと見たことがないなとふと思いました。

 

 

ちょっと意識すると、また見えなかったものが見えてくることもあると思います。

最後は、お茶ではなく甘いものを頂いて帰りました。

楽しい一日でした♪

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「向島百花園」に行きました。その2

2021-09-27 00:42:32 | お出掛け日記

「向島百花園」の魅力の一つは、緑とスカイツリーのコラボ風景だと思います。

ただひたすらの写真日記で、「「向島百花園」に行きました。その1」の続きです。

百花園を楽しもうと思ったら、「その日の気分」と言うものが、大事かもしれません。

ある時には、野の花のような花に心惹かれたり

(ミズヒキ)

ある時には、石碑巡りをしたり

 

そして、知らない花や、

知ってる花を楽しんだりすることもできるでしょう。

(ワレモコウ)

 

(ツルボ)

 

山茶花、狂い咲き?

ここのアザミは、ちょっと優し気。

よく河原で見かける外来種のアザミって、葉っぱが怖いですものね。

 

ホトトギスとスズムシソウ

どこかでこっそり映り込むのが、遊びとして好きだけれど、なにげに靴が・・・(^_^;)

 

提灯の文字を読んだり、水琴窟の音を楽しんだり・・・・・

 

ひたすらの写真日記なので、あと1回続きます。

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「向島百花園」に行きました。その1

2021-09-25 00:38:40 | お出掛け日記

「(近所の)公園の萩の花が見頃らしいよ。」と星子さんが言いました。

その時は、「ふーん、そうなんだ。」と思ったのでしたが、「萩の花」と聞いて、心が高まるという事もなかったのでした。

ところが、ちょっと「向島百花園」に行ってみようかとなったら、やはりそこでも見頃らしい萩の花を見る事が楽しみになってきました。

 

考えてみたら、春のお彼岸の時は牡丹に因んでぼた餅、秋には萩の花からおはぎと呼ぶのだと言うじゃないですか。

やっぱり日本の代表的な秋の花なんだなぁとしみじみとしますね。

決して派手ではないけれど、清楚で可愛らしい花ですよね。

トップ画像は、萩のトンネルです。

ここの萩は、皆、大株です。

 

 

話は前後してしまいますが、この「向島百花園」がある「東向島」に降り立ったのは初めての事でした。

駅に隣接して「東武博物館」などと言うものがありました。

なんだかこんなのを見ちゃうと、また日光に行きたくなってしまうな。

この車両の中には、「東武博物館」の中から乗る事が出来るみたいですよ。じっと見ていたら、たくさんの人が乗ってくるのが見えましたから。

 

そしてこの駅から、徒歩7分ぐらいで「向島百花園」には着くのですが、その入り口の写真は人物を入れて撮ってしまい、ブログにはお載せ出来ませんね^^

その入った所の入口には

園内には29の石碑などがあるみたいです。

今、「ええと」とパンフレットに書いてある数を数えたのですが、そう言えば、他にも説明の紙を貰って来たなと開いてみたら、なんと、萩は9種類もあちらこちらに植えてあったようです。

みんな同じかと思ってた !!

でも良いや。

花はキレイだなと思えたら、そこまで詳しくなくても良いやと言う所かも。

 

秋の七草コーナーでは、萩の他に桔梗・・・。

 まだ咲いていない葛。

 女郎花。

ススキはあちらこちらにありましたが、敢えて写真を撮りませんでした。

撫子の花もなかったような気がします。

フジバカマはあちらこちらにあったようなのですが、意識してなかったので、気がつかなかったと言う迂闊さ。でも迂闊と言うか、あまり興味もなかったような気がするんです。

なぜなら、暑くって、もうフゥフゥってな感じ。

それで早速、売店で休憩しました。

「夏の終わりのかき氷だね。」と星子さんが言いました。

この売店には、「生姜」と言うメニューもあって、どんな味だったんだろうかと首を傾げていたら、星子さんが「ジンジャーエールみたいな感じじゃないかな。」とヒントを出してくれて、納得しました。それもさっぱりして美味しかったような気がしました。

かき氷を頂いて、元気復活しました。

 

歩いていると「夏の七草」という聞きなれない札とコーナーがあって、何でか「秋の七草」とかぶっているのが気になりました。

そんな訳ないなと、家に帰ってから調べたら、ちゃんとあるんですね。

「葦(よし)、い草、蓮(ハス)、沢瀉(おもだか)、未草(ひつじぐさ)、河骨(かわほね)、鷺草(サギソウ)」なんですって。

この時、星子さんが「じゃあ、冬の七草ってあるのかしら。」と言ったのですが、元気は回復しても頭の中がボーっとしっぱなしだった私は、どうでも良い気分のままでいたので

「冬なんか、花はみんな枯れちゃってないんじゃない。」なんて、いい加減な事を言っていました。

ちゃんとあるんですね。

でも冬の七草、あまり歴史が無いのか、自由度が高く、なんと3パターンもあるのですって。

なんかみんなお野菜が多く、たべたら健康にいいよ的な感じ。

だけどその中で食べられなくて、なんとなく「春を待つ」みたいな感じの、冬の七草を紹介しておきますね。

「ふきのとう、福寿草、節分草、雪割草、カンアオイ、寒菊、水仙」植物学者伊藤篤太郎提案(明治37年新聞掲載)

 

横道にそれましたが、また園内の写真日記です。

 

 ウメモドキ。なんだか最近、私の中ではお馴染みになってきました。

 

芙蓉の花。

オニユリ。

 

花日記、もう少々続きます。

続きは次回に。

 

 

 

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アニメ「MONSTER」を見ていました。

2021-09-24 08:56:22 | テレビ・ラジオ

「GYAO!」 にて、配信中の「MONSTER」を見ていました。

原作は浦沢直樹。

その原作は全巻読んでいました。コミックの最終巻が出版されたのは2002年4月。

このブログを始めたのは、2006年の1月からなので、だいぶそれの前に読了していた事になります。

この作品を読み進めていた頃から、私とラッタさんの間では、彼を「あの天才」みたいな呼び方をするようになっていました。

ある雨の日には、頭部に致命的な銃創を受けた少年と、ショック状態になった双子の妹がテンマのいる病院に運び込まれてきました。テンマは院長の、そんな少年の手術よりも市長の手術を優先するようにと言う指示に逆らって、先に運び込まれてきた少年の手術を成功させるのでした。

ところがその少年は、自らも自分たちの保護者になってくれた夫婦を抹殺するばかりではなく、優し気な言葉で人心を操り破滅へと導くモンスターだったのです。

彼らは何処から来たのか。彼の中のモンスターはどのように誕生してしまったのか。そして彼と彼を取り巻く人々の狙いは何なのか。

サスペンスとしてもヒューマンドラマとしても秀逸の極み。

面白すぎて、やはり作者を「天才」と呼びたくなってしまったのも、間違いのない事だと思います。

ただ難点は、「舞台「プルートゥPLUTO」」

の感想でも書いたことですが、物語が長いし、コミックで読んでいると、早くても6か月の間が空くので、よく分からなくなってくるんですよね。

「こいつは誰だっけ ?」みたいな・・・(^_^;)

それをアニメでしかもネットで見ると、全く間が空いていないので、すこぶる分かりやすく、奥が深くて、いろいろな事を考えてしまいました。

チェコ・プラハの春・東ドイツ崩壊のその後、ネオナチたちの求めるもの・子供たちへの実験、「511キンダー・ハイム」・「赤いバラの屋敷」「名前のない怪物」という名前の絵本、もう雰囲気バッチリです。

だけど、この物語は、テンマとシリアルキラーのヨハンとの戦いとか、そう言うものでは全くありません。また悪の組織との戦いとかでもありません。

いかにヨハンは作られてしまったのかー。

またそれに関わってしまった人々の、壮絶は懺悔の物語のような気がします。

最終章の「本当の怪物」は、本当に怖かったです。でもこれはある映画を連想してしまったのですが、それを書くとネタバレになってしまうので、ちょっと我慢かな。

ところが、アニメの方を見ていて、あれっ、こんな終わり方と不思議に思い、最終巻を引っ張り出してきて、読んでみると、このアニメが如何に原作にセリフのひとつひとつまで忠実に作られていたのかが分かりました。そして原作も同じ終わり方でした。

しかし人間の記憶と言うのは、恐ろしいというか、たぶん原作を読んだ時、やはり「ここで終わるのか。」と思った私は、密かに記憶の中でワンシーンを付け加えてしまったみたいなんです。それによって、ちょっと恐ろしいお話になっていました。

だけど今アニメを見て、また原作の最終巻を読み直してみると・・・・・ってやっぱりネタバレになるので、一番下の動画の下に書きますね。

 

時が経つと見方が変わるという事は、ある得る事だと思います。

昔は高慢で嫌な女にしか思えなかったエヴァが、なんとなく愛おしく、これは彼女の成長譚にもなっているのだなと思いました。

そして何よりも音楽がお洒落です。

 

それで、OPとEDの二つを貼っておきますね。みんな素敵なんです。

特に、フジコ・ヘミングの歌。不思議な感じがします。

 

 

 

 

・・・

MONSTER OP 『GRAIN』

 

David Sylvian - For the Love of Life (Monster Ending Theme) LYRICS

 

Fujiko Hemming - Make it Home Monster Soundtrack Ending 2 OST II (Romaji & English Lyrics)

 

最後に上に書けなかった、ラストのネタバレになってしまう可能性のある部分のお話です。

なぜこの最終章に大きな恐怖を感じたのかといえば、それは子供たちを愛している母親の存在が、一番の元凶になっていたというラストになっていたように思えたからです。

彼女は言います。

「私は絶対に彼を許さない。私が死んでも私の中でどんどん大きくなっていく子供たちが、きっとあの男に罰を下す・・・・」

だけどそれは彼女の妄想。なぜなら彼女は子供たちの生死の確認すらできてなかったから。そして、あの時に自分のしたことを、ちゃんと理解していて、そして呟く・・・・

「本当の怪物は・・・・・誰・・・?」

私の中での一番の恐怖映画や物語は、幽霊などが出てこなくても、二人の子供のうちのどちらかの命の選択をしなくてはならないものです。

例えば「ソフィの選択」、マコーレー・カルキンとイライジャ・ウッドの「危険な遊び」など。

そしてこの「MONSTER」。

2002年の私は、まだ大学生と中学生の母親で、見方が今と違っていたのです。

テンマが目覚めないヨハンに、母親の事を告げた後、彼は姿を消してしまいます。

何故か私の脳内では、彼が最後にその母親の元に向かっているのだと思い込んでしまいました。付け加えられたワンシーン。それはベンチに座る彼女のすぐ傍で、優しげな微笑みを讃え、ヨハンが立っていると言うもの。もちろん彼の目的は決まっています。

それが彼の今までの仕事の仕上げだったからです。そして彼はその後本当に姿を消してしまう・・・・

何故そう思ったのかしら。

その頃の私は母親業真っ最中で、この母を私自身が許せなかったか、またはその方が面白いなと単純に思ったか、もしくは、そのシーン自体を、私自身がどこかで見たか・・・・

 

だけど今の私は、やはり見方が違いました。

自分の母親が、自分を愛していたと知って、そして自分の本当の名前を知って、彼は去って行ったのだと明るい方に信じる事が出来たのです。(でもなぁ、彼のやって来た事を思うと、『良かった良かった』では、済まないような…。)

ついでながらの感想ですが、最後に一つの町を巻き込んでのヨハンの自殺計画。

「511キンダーハイム」で実験された子供たちの中には、自分の中に別人格が現れ、得てして凶暴性と暴力性を含み、そして皆自殺してしまったと症例がたくさんあったのです。

ヨハンも実は例外ではなかったという事でしょうか。

グリナーという男も、自殺などせずに生き抜いた人。

彼を失った後、彼を思って悲しむ人は、描かれてはいないけれど、あの施設に居た子供たちだなとしみじみと思いました。

何の運命が彼らをそこに導いてしまったのかー。

人の中の、善の中の悪、悪の中の善。

そんな事をしみじみと考えさせられる作品だったと思います。

 

そう言えば、こういう本もあったのでした。今更ですが、読んでみたいという欲望に駆られています。物語の様相を成している解説本らしいです。

 

 

 

 

 

・・・・


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初秋散歩 その2

2021-09-22 22:38:20 | お散歩&写真日記

9月10日のお散歩の写真日記です。(「初秋散歩 その1」の続きです。)

その日の散歩は、お外ランチを頂いてから、街の中の森「こんぶくろ池」を抜けて帰ってこようと言うものでした。

春に花が咲けば、秋には実ると言うもの。

 

森の入口に、マムシグサの実がありました。

色づいてくるのはこれからだと思います。

 

なんかやっぱりこうしてみると、なにげに気持ちが悪い実ですね・・・・・。

色づいてくると、もっと毒々しい。でもなんか癖になるような毒々しさ。

そしてこれ、ホウチャクソウの実ですね。↓

 

 

因みに、今年4月頃のホウチャクソウとマムシグサは・・・。

 

そしてまた、秋の花です。

ムラサキシキブだと思います。

並んだ様が可愛らしいです。

下のは、キンシミズヒキ。

 

下のは、ただのミズヒキ。「ただの」というのは、「ミズヒキ」の前に何もつかないという事です。

 

下のは、「ウメモドキ」。この可愛らしい実を見ると、日光の戦場ヶ原の今頃を思い出します。昨年訪れた時、この実がたくさん生っていました。

下のこれは、ツルヒヨドリでしょうか。

 

で、下のも同じかと思ったら、下のはどうもウドのようです。花の名前は難しいですね。

光と影の森の中。

お散歩をしている時には、やすらぎを感じたり、その美しさに感動したり・・・・

でも後から写真で、じっと見ていると、

光と影の森の中

織りなして

ちょっといろいろなものが隠れているように見えるから不思議です。

やっぱり楽しい散歩道。

 

だけど翌日の腕を見たら、虫刺されの後が腕にムラサキシキブの花のように並んでいました。

あなおそろしや。

秋の森を侮ってはいけませんね。

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初秋散歩 その1

2021-09-21 16:29:58 | お散歩&写真日記

9月は確かに、暦の上では秋かもしれないが、いつも残暑が厳しくて、私の脳内では「夏」の月数にカウントされていました。だけど今年ほど、この9月が暦通りの「秋」に感じる事は、この数年、いや数十年無かったように思うのです。

9月になって、8月の終わりまで

「暑いからいやだ。忙しいから駄目なの。」と言っていた私にも、誘っていただいたお散歩に断る理由など微塵もなく、いそいそと出掛けてきました。

夏中の引き籠りで、足の筋肉がすっかり衰えていたというのに、いきなりの1万歩越え。

バカじゃないかと思いつつ、そんな事は今に始まった事じゃないわと居直る私。

 

8日の日のお散歩。

 

イイギリの実は、まだ寂し気。

春には桜のトンネルの道も、葉をたくさん落としているものの、紅葉前で、ちょっと挽歌と初秋の端境期を感じさせます。

秋薔薇はどうなっているのかと、薔薇園を覗けば整備中でした。

今頃これをやるのか、私はちょっと驚きました。

秋薔薇の薔薇園の季節はどうなっているのでしょうか。ちょっと楽しみです。

大きな公園を抜けて、こんぶくろ池公園の、「トンボ池エリア」に久しぶりに行きました。咲いていたのは、上の花です。そして実です。「クサギ」という木らしいです。

 

そしてトップ画像は、ここで見かけた蝶です。

 

昨年辺りからの事ですが、蝶の写真が撮れると、ちょっと嬉しい私です。

 

そしてまた歩き、お外ランチです。

このお外ランチが気持ちの良い季節になって嬉しいです。

ついでながら、一日開けて10日の日もお散歩。8日の日に久しぶりに歩いて、9日の日は、全身がイテテイテテといった感じだったのに、懲りない私です。

その10日の日のお外ランチは

買ったお店は違いますが、場所も同じ。私はここに何回来てもイイナと思っているのです。

せっかく素敵な所が、行動エリア内のあるのですから。

10日の日のお散歩写真日記は、次回に続きます。

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舞台「プルートゥPLUTO」

2021-09-19 07:10:24 | 観劇・コンサート日記

かなり前に、WOWOWで放送されたものを録画していて、それをようやく9月14日に見る事が出来ました。だから今はどなたさまにもお役には立たない感想かもしれませんが、またの機会に見られることがあったり、または再演の時などのご参考になればと思います。

 

「プルートゥ」は、原作から素晴らしいんですよね。

原作者の浦沢直樹、大好きです。

だけど彼の難点は、物語が長いんです。で、エピソードが増えてくると、前の繋がりが時々分からなくなってくることも多いと思うのは、私だけでしょうか。

その長い物語をどう描くのかと思ったら、寧ろ、様々な細かい部分をざっくりと切って、テーマに沿った部分だけスッキリとまとめ上げ、非常に分かりやすくなっていました。

演出も、ロボットたちの背後にダンサーを据えて、舞台にはたくさんの人が居ると言うのに、かえって無機質にさえ感じさせたのは素晴らしいと思いました。

加えて、キャストさんたちの演技が、本当に素晴らしいと思いました。

アトム役の森山未來のシャープな演技が素晴らしいのはもちろんですが、ゲジヒトの妻のヘレナとウランの二役を演じた土屋太鳳には、改めて脱帽しました。

特にゲジヒトを失った後の辛い時に、天馬博士から泣いてみると良いと言われ、初めて泣いてみると言うシーンは、鳥肌ものでした。最初はマネでいいんだと言われ、「あーーーー」「うーーーー」と声を出していき、そしてその大きく見開かれた瞳が、真っ赤に染まって行き涙がこぼれていくのです。

映像なら、まだ分かります。

だけどこれを、毎回舞台の上でやるんですよ。

 

思わず、太鳳ちゃん、「まれ」の後、しばらく嫌いだったことを許してと、心の中で言ってしまいました^^

 

またそれから、世界最高峰の頭脳を持つ科学者アブラーが天馬博士の口から、自分の本当の正体を知らされた時の吹越満(アブラ―)も凄く良かったです。

まるで本当にロボットが混乱して壊れていくように見えました。

それから、今までほとんど知らなかったゲジヒト役の大東俊介という人を知る事が出来て、嬉しかったです。

 

原作もラスト8巻は最大のクライマックスで、涙無くしては読み切れませんでした。

この物語も、一体一体のロボットのエピソードを省いていますが、この舞台のクライマックスはその8巻の内容がメインになっていて、同じように終息していきます。

アトムがお茶の水博士に言います。

「憎しみが消える時はありますか。」

 

憎しみは連鎖するー。

 

大量破壊兵器があると、世界中のトップのロボットが投入されて、その戦いは終わったけれど、大量破壊兵器など無く、その国の人々に大きな被害があっただけ。

誤解された元になったものは、砂漠を緑化しようとする最強のロボットを生み出すために、その失敗作の山が出来、それが誤解の元だったという皮肉。

どこかでその憎しみは断ち切らなくては、その連鎖は止まらないと思います。

過去の憎しみを、わざわざ教育に組み込んでいる近隣の国の事を思うと、暗い気持ちにもなります。またこの舞台を、9.11過ぎに見る事が出来て良かったと思いました。

 

この物語には3組の親と子の物語があって、国を選ばず人間である事さえも選ばずの普遍の愛に、涙しない人は居ないと思いました。

素晴らしい舞台です。

いつかの機会があれば、是非是非ご覧になって頂きたい舞台だと思いました。

 

因みに、私の漫画の感想は→「プルートウ8」

なんでも書いておくことは良い事だなと思いました。この舞台が、原作の良さをまったく損なっていなくて、しかも分かりやすくなっていることがよく分かりましたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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「シャン・チー テン・リングスの伝説」を見てきました。

2021-09-17 22:24:27 | 映画

9月11日に見てまいりました。

私、ハンサムなのに哀愁を帯びているトニー・レオンの顔が凄く好きで、まあ、つまり好きな俳優さんなのです。ある意味彼狙いで映画館で足を運んだようなもの。

前に映画館で流れた予告編を見たら、なんとなく彼の方が悪役 !?

「息子よ。」とか言ってるから、お父ちゃんと息子の戦い ?

だけどレオンさんの顔を見ていると、やっぱり、そんなわけないじゃんと思えちゃう落ち読みの危うさが(笑)

しかしトニー・レオン(ウェンウー)とファラ・チャン(イン・リー)の子供が、シム・リウ(シャン・チー)になるわけですが、私は少々失礼ながら遺伝子と言うものを考えてしまいました。

更に加えて、またまた失礼な事を言うと、オークワフィナを、すぐに消えてしまう脇キャラなのかと思ってしまったのですが、実は彼女がヒロインで、時代は変わったなぁとしみじみとしました。

だけどこれは、私が彼女を知らなかっただけで、今いろいろな映画でメインキャラを務めている売れっ子女優さんだったのでしたね。

この一見、冴えないと言うか、普通のお姉ちゃんとお兄ちゃん。(だから、ごめんねって(^_^;))

これが映画終盤になると、もうカッコイイにしか見えなくなるんですよ。

すべてのシーンが面白かったです。

カンフー&ファンタジー。

そのジャンルが好きで、お気楽で楽しく、そして時々しみじみ&大作。そんな映画で素敵な時間を持ちたい方にお勧めできます。

画像の下は、ほんの少しのネタバレ感想です。

そのトニー・レオン(ウェンウー)とファラ・チャン(イン・リー)の戦いのシーンは、本当に美しかったですね。最強の男の上を行くイン・リー。これは惚れてしまっても無理からぬことだといます。そして彼女と暮らすために、彼女は村を捨て、そして彼はテンリングスを外し、一家4人の幸せな生活を送っていたのでしたが。

妻を失った男は、テンリングスを外した結果、そうなったと思い込み、元の闇の世界に舞い戻って行きます。この後、息子を最強の男に育てるわけですが、息子は母から優しい心を受け継いでいて、父が思ったような男には育たなかったのです。

その時父は、妻を思い出すからと娘を遠ざけた。だけど娘はそれを寂しく思い、ひとりで自分を鍛えていたのです。最後を思うと、父の遺伝子を強く受け継いだのは、逆に娘の方だったのではないかしら。

1000年も生きた最強の男でも、偽りの妻の声に欺かれて頭の中は、それだけで一杯になってしまいました。

これは家族の物語。

だからどんなに派手でも、なんとなくしっとりした物語に感じたのかも知れません。

 

出来れば最後に、父と母が嬉しそうに楽し気に、並んで立っている幻のシーンか何かを見たかったです。

この映画で物足りなかったと言ったら、それだけです。

 

しかし、テンリングスに就職する人って、どんな経緯を辿ってするんだろうな。

これ、子供の時に「忍者舞台月光」というテレビドラマを見ていて、悪の秘密結社「M」というのが、出てくるんだけれど、やはりどのようにその「M」という結社に入るのかが不思議で、母に「何でなんで」と聞いて煩がれていました。

実はこの映画の最後は同じ事を考えていました。

私はあまり子供の時から成長していないみたいです。


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「鳩の撃退法」を見ました

2021-09-16 15:02:50 | 映画

9月2日に見てまいりました。ひとつ前の記事は、少々この記事の前振りにもなっています。読んで下さると嬉しく思います。→「自己紹介で拍手される」

まるで本のページを一枚一枚めくっていくような映画だなと感じました。

この物語、見る人によっていろいろと考察し、結末のイメージが変わるらしい・・・・。

おっと、失敗したかなぁ。

私は、見たままその流れによって、何の疑いも持たずに自分が信じたように物語を紡いでしまいました。

その紡いだ物語でも、そうとう面白く感じました。

 

※    

 

私は家に帰り、手を叩いてみた。思わず誰かが振り向くようなそんな拍手が出来るものだろうか。

どうしようもなくなった事態を、手を叩くことで救う事の出来る、そんな拍手。

パチパチパチ・・・

いや、ダメだ。こんな叩き方じゃ。

あの喫茶店で津田が出会った男、秀吉のように叩くのだ。

パンパンパン・・・・

そうだ、これだよ。

私のような小さな手でも、手のひらに空気をちょっと残し叩けば、そんな音が出る拍手が出来るんだー。

いつか、こんな事も役に立つこともあるかもしれない。

この映画に涙は不要。

だけどセリフの何か一つ、またはワンシーンにでも、自分のリアルとリンクして、不用意に涙が落ちる事があると思います。もしそれがあるのなら、それだけでその映画を見た事はサクセスな事だと思います。

深夜の喫茶店で、津田が出会った幸地秀吉と語り合った「ピータパンとウェンディ」の一節を知っただけでも、私には引き込まれるものがあったのでした。

この本の原作を読んでみようと思いました。そして「ピータパンとウェンディ」も読んでみたいと思いました。

 

画像の下は、あらすじは書いていませんがネタバレしています。

 

この物語の中で、古本屋から100円で買った「ピータパンとウェンディ」の本が、あっちこっちに移動しますが、その「なぜ」の部分が面白いと思いました。

元々薄汚れた本でしたが、それが津田の元に帰って来た時には、更に汚れていて、何かのシミもついていたように思うのです。そのシミって何だろうかぐらいは思いました。

私の見たまんまの物語。

3003万と自分が持っていたはずの本が、スーツケースの中に入っていたら、もう少し考えようよと、ちょっとイライラした気持ちで見ていました。本がスーツケースに入っていた謎は、語られるまで分からない事ですが・・・・・・これをこうなんじゃないかと推理できる人っているわけがないと思っていましたが、何かを推理する気満々で来ている人には、よく見ていれば、容易だったかも知れないと、たった今、思いました。

しかし返してもらった3万を本の栞代わりに挟んで、それが後から見当たらなかったら、もっと探しなさいよと、3万もなんだからと私は思う・・・・^^

 

3万を検証してそれがニセモノだと分かって、3000万を偽札と思うこと自体も、ドキドキしてしまいました。

だってこのお金の出どころは、人の話を聞いていれば、分かるじゃんと。古本屋から流れて来たと言う大きな事実があるわけですから。

つまり彼は人の話をちゃんと聞くタイプではないのかもしれませんが、それよりも、彼はお金に執着するタイプではないのだなと思いました。

3万にも頓着せず、3003万円が入って来ても、とりあえず散髪に行くぐらいですものね。

ああ。3000万、勿体ない~。

と、私は思いましたが、それって、結局は私がお金に執着があるって事かしら。

まあ、今ちょっと、物入りなものですから、お金に目が行ってしまうのかも(笑)

 

女にだらしがなくて、簡単にボコボコにされて、ヒーヒーと喚く。ちっともカッコよくありません。

だけど何か彼には裏がある?

彼は筆力を武器にしているから。

映画のストーリー自体が、彼の物語なら、私は彼の物語に引き込まれていたのでした。

 

単純な物語。

深夜の喫茶店で津田は、秀吉と出会う。

いつかその「ピータパン・・」の本を貸そうと約束する。

だけどその日を境に、秀吉家族は神隠しのように失踪してしまう。

津田は古本屋の親父から、デリヘルの女が困っているのを見かねて3万を借りて渡しているが、借りっぱなしになっている。

秀吉家族に有った出来事、3万の流れは見たまま。

みんなの考察が分かれるのは、あの雨の日の秀吉家族と郵便配達の男に起こった出来事に関してだと思う。

倉田と秀吉は同じ施設育ち。断ち難い関係で繋がっていた。その絆は家族以上であることを周りの者は知っているのか知らないのかは分からない。

だから倉田は秀吉の望み通り、彼のどうしようもない妻も助け郵便配達員も助けたと思う。ただけじめはつけて行かなくてはいけない。で、彼らは町から姿を消したのだ。

じゃあ、新聞に載っていた男女の水死体は誰なのか。

それはここに登場してきていない誰かじゃないのか。

どうも秀吉の妻を秀吉が得るために、ひとり死んでいるらしい。だけど津田はそこは語らない部分だと語る。余計な部分を語らないという事だ。その余計な部分の物語に、男女の死体があるのではないのか。

だいたい3万円の偽札はどのように生まれて来たのか。

そこが全く語られない。ゆえにそこに見えていない物語が存在すると思う。

街から姿を消しても、秀吉と倉田の絆は固いものだから、もちろんその後も彼らは離れるわけがない。そして最後に余計な事は書くなよと言う脅しもかねて、あの雨の日の最終的な物語を紡ぐヒントを与えた津田に興味を持った倉田と共に、秀吉は本を返しに来たのだと思った。

倉田たちも3000万円の出どころをちゃんとは知らなかったに違いない。

3万の偽札が戻ってくるかと思ったら、3000万円のおまけつき。プラス本。

それを倉田は支援している施設に、津田の名前で寄付したのだった。

結局は、そのお金はちゃんと孤児の為にと良い風に使われて、そして津田の命も助けたのではないだろうか。

きっと秀吉はどこかの街で、家族四人で幸せな家族ごっこを続け、いや、あの雨の日からスタートをはじめ、いつか本当に自分の家族になっていくのではないだろうか。そしてその妻は、前よりは少々元気もなくしおらしくなってはいるが、それでもしたたかに生きていくのではないだろうか。

郵便配達の男はもまた、何処かの街角で、女たちをたらしこんで生きていくに違いない。倉田の影におびえながら。

結局、才能があるのに少しも書こうとしない津田に

「見てろよ。書かずにはいられない所まで追い込んでやる。」とその先を見届ける事は出来ないのに、3000万を彼に残した古本屋の男の思惑だけが叶ったのだ。

しかし私的、一番の謎は、あの床屋の男だよ。

なんで、あの男、あんなに口も堅いし、堂々としてるし、なんだか表も裏も詳しい感じ・・・・。

あの男が、本当はもしかして~ !!!!?

いやいやそれは無いか。

 

という、単純な物語。

感想を書く前に他の人の感想は出来るだけ読まないようにしています。

でも今回は、そんなにみんなと違うのかなと二つほど拾い読みしました。どこの誰かが、既にわからなくなってしまったので、申し訳ないのですが、あの編集者の髪型と何度も出てくるクリーンセンタ―という言葉に、「なるほど~。」と思いました。

それについての、私の思った事は更に画像の下です。

 

 

確かに、検証に来た編集者の鳥飼の髪型が違うんですよね。

でも私、映画を見ていた時、あまり不自然にも思わなかったんです。彼女は津田を信用しては居ない。つまりこの話が現実とリンクしていたら、かなりヤバい事もあるかもしれないので、さりげなく変装をして行ったのだと、普通に思ってしまいました。

だけど家に帰って、その髪型のところを読んだ時、「ああ、もしかしたら」と思いました。

つまり、鳥飼が検証に行ったことが、小説の中の出来事なのではないかしら。

そう言えば喫茶店での沼本の登場の仕方や、デリヘルの社長の登場の仕方も、余りにもドラマっぽく、不自然でしたものね。

でももしここが小説ならば、あの施設の職員の堀之内はどうなのかしら。本当に存在した人間なのか?

 

だから、こうも考えられる。

女にだらしがない津田。喫茶店に馴染みの女性店員、沼本は居たかもしれません。寧ろ居て欲しい。

だけど雨の日の深夜、津田は幸地秀吉と出会い、そこで語り合い本を貸す。だけどその後その家族の失踪を知る。デリヘリの女から却って来た3万は、もう古本屋の店主が居ないので、津田は散髪に使うが偽物だった。ただ3000万円なんかなかった。だいたいなんで古本屋が津田にお金を残す?

 

ただ、あのビデオの中のファイルは、津田は見ていた。

 

偽札の問題か、または女の問題か、津田はその街から逃れてバーでバーテンとして働くが、そこに秀吉が本を返しにやってくる。倉田を連れて。

水死体であがった男女はやはり秀吉の妻と郵便配達の男だったかもしれない。3万の偽札事件の真相は闇の中。津田は知りたくもない。

彼は倉田たちを見て、「タイトル、決めた。『鳩の撃退法』だ。」と言う。

津田の武器は書くことだから!!

 

あと、死体さえ置いておけば、何でも燃やしてくれるクリーンセンターが何度も出てくるのは、津田の心理的心象風景なのではないかと思いました。

 

考察がと言うより妄想が暴走してるかもしれませんが、それはそれで面白いかも知れません。

とにかくも、読みたい本が増えて、しかし読書が進まず困った状態に陥っています(^_^;)

 

 

 

 

 

 

 

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