森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

なんとなく・・・

2008-03-31 12:43:34 | ’08/12/7までの未整理日記

 タイトルは、別に「無題」と言う感じなのですが、ふと気が付いてみると、病気でもないのに珍しく、更新していませんよね。

今書いているけれど、これは走り書きみたいなもの・・・

 今の気持ちは、やらねばならぬことはやらねばならぬ。

と言うわけで、今日も明日も更新予定はないんです。(今日はこれか・・?)

「なーんだ、せっかく来たのに・・・・」と思われた方は、日記は書いていますのでよろしかったら「梢は歌う」に遊びに来ていただけると嬉しいです。

もしくは更新停止中に一見見える映画ブログ「近未来二番館」の方にお越し下さい。三月はお知らせしませんでしたが記事三つ。(・・・・・まぁいいか。汗)

 

 

 別にこれって、お休みのお知らせではありません。明後日あたりにまた、書いていると思いますが・・・・いつだって予定は未定。

 

 

 

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再びロンドン車窓の旅とウィンザー城

2008-03-27 11:42:29 | イギリス旅行記

 8日の午後、最後の観光地ウィンザー城に行きました。その後は真っ直ぐ空港に向かいますので、ここは時間調節のオマケのような気持ちでいました。ですが、ウィンザー城はオマケの場所ではありませんでした。

 

  写真メインでいってみたいと思います。

 

 

 

 

 

  

 

 

   中庭。花の季節には綺麗だと思います。

 

 

  

 

ラウンドタワーです。上に旗がありますが、・・・・

     

 

この旗のときは女王陛下はいません。平日でしたのでバッキンガムの方でご公務中だったのではと思います。

 

 

  

 

 セントジョージズ・チャペルです。

やっぱりイギリスのお城では、この人たちに会いたいですね。↓

  

   

   

  

 

 ラスト観光地ウィンザーはかなり見応えのある、美しいお城でした。
ただ、クィーンメアリーのドールハウスの前は、信じられないような人だかりで、部屋も狭く見る事が出来ないと嘆く以前に、圧迫されてしまうという恐怖と戦いながら、部屋を抜け出たのが惜しいです。

 

 イギリス人は絶対に並べて飾るのが好きなんだと思ってしまいます。剣の部屋、紋章の部屋、絵画の部屋、お皿の部屋・・・

ここは見学時間もかなりありましたので、最後だからといって慌しくなかったのが良かったです。

 

 再びロンドン車窓の旅です。

  

 

 

  

 

 

  

  

  

 

  バイバイ、ロンドン。

  

 

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「それ、ルーヴルで見たわ。」

2008-03-26 17:02:29 | お出掛け日記

 

 数日前に<「オペラ座の怪人」をロンドンで観る>と言うタイトルの文を書きました。最初、そのタイトルは簡単に<オペラ座の怪人>と打っていましたが、分かりやすいので打ち直しました。

 

  でも、そのタイトルをじぃっと見ていたら、言ってみたくたくなりました 。
「なんかこれ、かっこよくなぃ?!」←ラーメンズ風に・・・・ラーメンズ知っている?    

 

 ところがこの記事、書いた直後に読まれたという「数」だけで見ると、稀に見る少なさ・・・・。

「おや、まあ。」

 

 それで思い出したようなものですが、以前の友人との会話です。

 

その友人は仕事で日々忙しく生活している人で、私に大きな影響を与えてくれた人なんですが、マイペース度が半端ではない。歩いて5分の所に住んではいますが、4年に一度くらいしか会えません。

 

たまに会うと楽しくて時間も忘れてしまうほど、おしゃべりしてしまうのですが、そんな時は近況もそうですが、最近あったトピックスなんかも話したりするでしょう。

 

「そういえば、この前『印象派展』に行ったわ。」

 

 

 最近のことではないですよ。友人相手では私はではありません。本当は気に入っているので、ブタさんでもいいんですが、友人相手ブタさんはちょっと悔しいので可愛くウサギさんでいこうかな。

 

と、変なこだわりを見せたところで本題です。

 

 私は印象派の中ではマネが好きなんです。これはモネの打ち間違いではないですよ。マネは印象派としては微妙な立場なんですよね。女性からの人気度で言ったら、やっぱりモネの睡蓮なんかの方が高いですよね。

 

 ちなみにマネは、こんな絵などを教科書などで見たことがあるのではないでしょうか。

 

  

 

でも、モネの絵も好きなんですよ。光の巨匠、モネ。印象派は馴染みの深い絵画も多くて人気が高いですよね。

 

「とっても良かったよ~。感激したなぁ。まだ数週間●●でやっているみたいよ。」

 

「いいわ、それ、みんなルーヴルで見たわ。」

 

思わず私は

「すみませ~ん。」

と謝ってしまいましたよ。別に何も勝負していたわけではありませんが、なんかもう勝てませんという気持ちになるでしょう。

 

 でも、これは「かます」と会話の手法ですよ。冷静になって考えれば、ルーヴル美術館で印象派の絵を見るなんて、いったい何の絵を見たというのだろうと、絵画に詳しい方も思うところだと思います。

 

「ルーヴルって何でもありなのね。」

「ああ、ルーヴルじゃなかったかも。でも、モネは彼が住んだ家の庭を見たのよね。」

 

それも素敵ですよね。モネの愛した庭を歩く・・・・いいなぁ。
でも、庭を見ることと、絵画を見ることは別の事ですよね。

 

 ちなみにですね、印象派の多くの絵画は、同じパリでも「オルセー美術館」で見ることが出来るんですよ。

そのオルセー美術館のなかなか面白い映像を見つけました。
興味のある方は→コチラ

 

 <モネをパリのオルセーで見たわ。>

と、もし私が言ったら、ちょっとかっこいい感じですが、そりゃあ、自慢ですよね。だって、パリで見ようが上野の西洋美術館で見ようが、モネはモネ。そうは言いながら、なんかそれもいいなぁなんて思ってしまいます。宝くじがあたったら行く事にしましょう。

 

 

  だけど、遠い夢より近くの現実と言う事で、3月22日の土曜日に
「ルーヴル美術館展―フランス宮廷の美」を上野公園にある東京都美術館にて見てまいりました。

 

 東京開花宣言のその日、上野の山もちらほらと桜が咲き始めていて、気の早い人たちは花見をしていました。

 

   

 

 人の波は多くても、人気のあるものそうでないものがはっきりしていて、可笑しく感じました。キラキラ光る宝石などが付いている煙草入れなどの前や、マリー・アントワネットの旅行セットの前などはかなりの人だかりで、ガラスの前にへばりついて動こうとしない人もいたので、よほど魅せられたのだと思います。

 銀製品の前は、どの時代のも比較的すいていました。女性はやはりダイヤと金の煌きに弱いものなのでしょうか。

 

その煌く美しさには確かに魅せられましたが、その時私が感じた感想は、家に帰ったら掃除しようかなと言う思いでした(超現実的)。なんと言うか、自分のいる空間を快適にする、暮らしを楽しいものにするための道具を得る。そういうことの大切さを感じたのです。

 

 例えばキャンディを袋から出して食べないで、気に入った入れ物に入れて食べる。素晴らしいテリーヌ入れはなくても、気に入ったお皿で出すみたいな余裕が、例え自己満足であっても 大切なんだよなぁ、と近頃暮らしに余裕もなく暮らしているので、少し反省などしたりしたわけです。

 

          

 

 お土産にミニファイルを買ってきました。事前にリサーチして欲しいと思っていましたので、衝動買いではありませんよ。

 

 

    チケットとチケットファイルと、一筆箋 。

 

 4月6日(日)までです。 

   

 

 

 

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篤姫「さらば桜島」

2008-03-24 09:27:05 | ドラマ (大河)
 やっぱり、予想通りの涙ポイントありありの12回、「さらば桜島」でしたね。


養女になってお城に上がったときに、次のステージに上がったような気がしましたが、さらに大きな章の終わりという感じがしました。

テンポは緩やかでその緩やかさが、時に私を苛立たせてきましたが、いつか大きなステージで彼女が踏ん張らなければならない場面で、この緩やかな青春時代のシーンが生きてくる日がくるのでしょう。


 印象に残った順に書きますと、それはやはり家族との二回の対面シーンだったと思います。泣けましたよね。涙もろい私なので、やっぱり泣きました。ずっと涙をこらえてきた篤姫が尚五郎の顔を見ることで、堪えて我慢していた想いが、堰を切ったように涙となって溢れる所はきましたね。


篤姫にとって、尚五郎は「素」でいられる得難き大切な人なんですよね。

二回目の対面の時、両親は良かったのはもちろんですが、近頃情けない事でイメージ低下中の兄ヤン忠敬も、そのとぼけた感じがとっても良く涙のシーンを和ませてくれました。直接口を利く事ができなくなっていたお付の女中も交えての対面のシーンは斉彬の優しさと言うよりは、幾島の気配りのように感じて、彼女の大きさを感じてしまいました。嬉しそうな篤姫の様子に満足げな幾島・・・・
頼もしいです。


 印象に残った順にと書きましたが、後は順番は同列と言う所なので適当です。

島津久光一家との対面シーンですが、久光がいい人なのかそうでないのか未だにつかめません。頬のあたりと口の端が怪しげで、信用できません。
そういう雰囲気をかもし出しているわけですから山口さんは、大物感が漂ってはいませんが凄い人なんだなと思ってしまいます。このときの囲碁話は、篤姫の人物像を示す大事なポイントだったかと思いますが、ここではパスです(真面目なお話でしたので。)
その時、共にいた久光の姫と息子は何を思っていたのかなんてことが気になりました。
息子は「やっぱり、俺は女を見る目があったんだ。」ぐらいのことは思ってもいいかなと思います。姫は「なにさ、私の方が姫としては上よ。」と思っていたか「良かったわ。私じゃなくて。」と思っていたかなんてあれやこれやと、楽しみポイントがこの家族にはありました。


 涙ぐんだりくだらないことを考えたり、忙しい40分でしたが、くだらない事ついでに書いてしまいますと、泣き崩れてしまった事を斉彬に謝りに行く篤姫でしたが、
「お許し下さい。」と言う篤姫に、言うわけは絶対にないのに、言って欲しかった「ゆるさん」。代わりに言っておきました。

 


 父が倒れてしまいましたが、別れの籠が来た時、無理して笑顔を作っていたのが、切なかったですね。父を夫を気遣っていた忠敬やお幸は、この時何を考えていたのかとても気になりました。
その後、この父に何かあってもそれを篤姫が知ることになるのかは、周りのものの気持ち次第だと思われるわけです。普通に考えたたら、知らせませんよね。
そう思うとあの最後の別れは、篤姫にとって大切なひと時だったと思います。その思い出が、または門の所での父の笑顔が、今生で見る父、母の最後の顔。


 でも、あのような家族だけでの対面といった粋な計らいは、実際にはあり得ないような気もします。だけど、これは「物語」ですものね。
だから、桜島ポイントで篤姫が大きな声で叫ぶというのも、「あり」ということで・・・


 叫ぶ篤姫だからこそ視聴率もいいのでしょう。でも、静かに語らせても別に感動は薄れなかったと思うのですよね。それこそ彼女の成長の証と言うか、もっとジーンと来たような気がしたのですよ。
 だけど、山というものは、なぜか人が手を合わせたくなってしまうものなんだなぁと、ちょっとしみじみしてしまいました。


動かず、常にそこにある「不動」というものに、流転の人の世を生きるものは強く魅かれるものなんだと思います。


ラストの言葉も良かったですよね。
「薩摩を思って泣くのは、これが最後。」

次回は京へ、そして江戸へ。
予告編がどよどよしていました。「大奥」は近い。
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ドラマのお話。「相棒」の最終回視聴率は・・・

2008-03-23 19:22:48 | ドラマ(相棒)

 「相棒」シーズン6の最終回「黙示録」の視聴率は17,8だったそうですね。まあまあといった所でしょうか。なぜ、私がその「黙示録」の感想も書かないで、視聴率のことなんかを書き込んでいるのかと言うとですね・・・・・・

 

その時、お出掛けしていて留守だった私。子供にビデオを撮ってと頼んでいたので、すっかり安心していたわけです。が、しかーし、夜9時ごろ電車の中にいた私に届いたメール。

 

「相棒が8時からだったなんて、俺知らないよー。」

 

なんだって。。。

おい、こりゃ、人の話を聞けー。とは、思いましたが、その時の私の脳内は「身毒丸 復活」で全て埋められていましたので、これといって怒る気にもなれず、微笑みモードで「仕方がないわねえ。」てなものでした。

 

 

 家に帰ったら、「斉藤さん」の最終回。最後のハイライト、まのちゃんが卒園式のスピーチを抜け出して空港に向かう所。この、「斉藤さん」はかなりの高視聴率で19以上の数字を出したんですよね。この、ドラマを「鹿」の次に楽しみにしていました。(ちなみに「鹿男あをによし」は11,2。鹿が可愛かったですよね。さらに言うと中学生日記みたいだった「金八」の最終回は11,1。微妙な数字ですね。)

 

でも、最終回の涙ポイントも私には涙なし。これはドラマのせいではなく、とにかく頭の中が「身毒丸」以外のものを受け入れる状態ではなかったからです。

 

 「相棒」の後半も明日見ることにしよう。

そう思って、子供に9時から撮ってくれた「相棒」は何処にあるのか聞きました。

すると、なんと、ああ~。

 

「えー、だって、時間間違えちゃったし、途中からなんて意味ないから撮るの止めちゃったよー。」とのたまう彼。

 

意味があるかないのかなんて、私に聞いてくださいよ。

 

「だって、電話に出ないじゃない。」

 

歩いていたので、気が付かなかったんです!!

 

かと言って、怒る気になんかなりはしない。私も丸くなってしまったのでしょうか。肉がすっかり付いて、体がまん丸・・・イヤイヤ違いますよ。心の問題ですよ。

 

 仕方がないので、HPであらすじをチェックして。あらすじなのに本当に詳しくて助かります。あらすじでは分からない面白ポイントは、いつもお世話になっているブログ様で補完してと・・・

 

ああ~、サミシーィ

 

でも、かなり面白かったみたいですね。特にラストが見たかったです。

ぼけちょりんこ、ルートめ

 

でも、まあいいか。再放送の時見る楽しみが出来たというものです。

あと一ヶ月ちょっとで、映画「相棒」ですし。「相棒」ファンの皆様公開までの間も楽しんでいきたいですよね。「裏相棒」なんかを見たりして。

 

劇場版「相棒」のHPは→  コチラ


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「身毒丸」の余韻

2008-03-22 01:11:35 | 観劇・コンサート日記
  




<お姉さまへ>

 昨日は初出勤ごくろうさまです。お仕事はいかがでしたか。ワタクシも今日は仕事や家事は頑張りましたよ。でも、どうして金曜日ってエンジンがかからないんでしょうね。特にこんな風に風の強い日は、クタクタしてしまいます。
 だからと言って、電話をあなたにかけて気持ちを立たせるという裏技は使えないんですよね。なんだか寂しいわ。

 
 ねえ、あたしね、誰かをメチャクチャ好きになったりしなくないなあ、やっぱり。だって疲れてしまうもの。今日の私はそれでやっぱりクタクタになってしまっています。

 ほら、約束のやつ載せて起きますね。でも、コレ半分ですよ。見れば嬉しくて、だけど欲求不満になること間違いなし。


 次は「かもめ」に行こうね。
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「身毒丸  復活」

2008-03-20 21:46:02 | 観劇・コンサート日記

 

 3月19日彩の国さいたま芸術劇場にて、藤原竜也×白石加代子「身毒丸」を観て来ました。

画像はそこで買い求めたパンフレットです。袋が赤ならパンフは青、袋が青ならパンフは赤らしいのですが、私は赤バージョンで。

 

 その中の翻訳家で演劇評論家の松岡和子さんの文章の最初の数行には、まったくの共鳴を持ってしまいました。

― 演出の蜷川さんが、昔から「幕開き三分」が勝負ということを言っておられるが、このこの舞台の冒頭三分がまさにそれ、・・・・・・

また、

― 見終わってもなかなか「今とここ」に帰ってこられず、・・・・・

 

 私はこの「身毒丸」のストーリーなどを敢て知らず、調べずに観に行きました。チラシなどに書いてある
「母を売っている店で母を買い求めて・・・」というぐらいの知識です。

私の涙は風が吹いても、さらりと落ちるというほど軽いので何気なくハンカチを出しておくのですが、だからと言って涙=高い評価と言うわけではないのです。でも、やられました。

 

まさに幕開き三分です。

身毒丸の冒頭のセリフで、涙が溢れてきてしまいました。その後の一時間半は涙の河で溺れながら観ていました。

 

 FINALと打たれた2002年、その頃始めたばかりの仕事のために、私はコンビニのコピー機の前でその為のコピーをとりながら、そのチケットの申し込みポスターを眺めていました。まだ、藤原竜也をそんなに好きだという自覚もなく、ただ漠然と
「いいな、行ってみたいな。」と思っていましたが、その頃舞台は一年にもしくは二年に一回宝塚を観に行く程度で、行きたいからとせっせと動く行動力も持っていないうちに終わってしまい、私にとっては幻の作品になってしまっていました。

 

 でも、今回の復活で念願だったことを叶える事ができたわけです。

復活のいきさつと、その他の解説などは→コチラで

 

      <以下はネタバレ部分あります。何も知らないで観たい方は要注意。・・・って、そんな人は最初から読まないか・・>

 

ぼやけた画像ですが、なんだか涙に明け暮れた私の目で見たイメージと言う感じで、偶然の傑作です。(自画自賛・・・汗)

 

 幻想的な町のシーンから始まる舞台ですが、遠くで汽笛が聞こえてきます。

 

彷徨いながら出てくる身毒丸は、道行く人に線路はどこかずっと探していると尋ねます。先に亡くなってしまった母に会いに行くための汽車を探しているのだと言うのです。(もちろんセリフはぜんぜん違うものです。)

五七調の調べにのって語られていくそのセリフに、そのパラレルワールドの扉が開いていきます。 

 

 幻想的な町のシーンですが、私は「千と千尋の神隠し」で、河を船が渡って来た時に感じたような摩訶不思議さに酔う心地良さと、不安から来るかすかな恐怖を感じたのです。

―夢か現か、幻の・・・

人の世の人の波、まるでパレードのような人の世界の街並。

 

 ぐいぐいとその世界に引き込まれていくのは、そのような演出だけではなく、舞台美術の素晴らしさにもあると思いました。

 

 仮面売りの細かい部分や、地下社会も心に残りましたが、やはりなんといっても家のセットは凄かったです。すばやく組み立てすばやく解体と言うのは、こういう舞台の場合当たり前のことですが、それが演出であれだけ生きるとは思いませんでした。

 

 母に手を上げてしまった身毒丸が、父に諭される場面。

奥の部屋に彼らとまったく同じ姿が映るのですが、最初、それは映像かと思ってしまいました。でも、

「母さんは亡くなった母さんだけだ~。」と席を立って外に飛び出す身毒丸。

 

その時同時に奥の部屋では、母と身毒丸は互いに求め合い抱き合っていたのです。

 

だけど現実の世界では
「もうだめだー」と嘆く継母の撫子。

その瞬間、セットはどんどん解体され袖に引き上げられていきます。それは次の場面に移るからなのですが、最後に引かれていく、抱き合っている身毒丸と撫子と心の残像が印象的です。

そして、その家のセットの解体は、身毒丸の「家」の崩壊を意味しているような気がしました。

 

こんな風に書くと、身毒丸の父の声が遠くの方から聞こえてきてしまいます。

 

「身毒~、許しておくれ~」

 

でも、私は母を買ったお父さんも哀れでならないのです。

 

「家というものはお父さんがいて、お母さんがいる。子供がいて・・・」と、この父は「家」のあるべき姿を、または理想を押し付けようとしますが、それはその父の考えであるわけですから、それが間違えているわけでも、いけなかったというわけではないと思うのです。

 

ああ、そうでした。「買ったのに・・!!」と叱られてしまいますね。でも、それはこの物語ではあまり意味はないと思うのです。手段選ばず、彼は家のパーツを揃え、その家の中の家族と言うパーツが慈しみあってニコニコ笑っている、そして彼にとって、とっても大切な「世間」で、立派な「家」だと思われていたいだけなのです。

 

「家」というものに縛られていないように感じる現代も、実はこんな父のように一生懸命に家のパーツとして家族を揃えているなんてことはあるんじゃないだろうかなんてことを思ってしまうわけです。

 

 この物語は

母を売る店で買い求められた女・撫子と、その義理の息子・身毒丸。2人の宿命的な禁断の愛を描いた感動の問題作

 なんですが、それについてもあのシーンはこうなんだなとかこのシーンは、こういう意味なんだなと、ずっと頭から離れません。

 

翌日の今日も、何かをやっているときにふと手が止まり、いろいろな場面に引きずり戻されてしまうのです。そして、「世界の中心で愛を叫ぶ」のパクリではありませんが、「気が付くと泣いていた。」みたいな感じで、一日を過ごしてしまいました。

 

 撫子の母として生きたい切ない気持ちや、家族合わせのシーンや、母を求めて彷徨いながら、いつも撫子にたどり着いてしまう身毒丸のことやあれやこれやのシーンです。

 

その中でふと、
~身毒丸は18歳~♪と、歌声が頭の中で響くと、撫子が呪いの杭を打ち込む姿が浮かび上がってきます。苦しむもがく身毒丸。
このシーンは私にとっては圧巻でした。

 

そしてラストの廃墟の家で(崩壊してしまったので家のセットはありません。)一人で家族合わせをしている身毒丸。そこに揃わなかった母札を持って現れる撫子。

 

擬似的「家」が崩壊して、得た愛。

 

二人手を取り合って、冒頭に出てきた同じような幻想的な町に消えていくのです。


 

 私は、いつも何か頭の芯が殴られたような、そんなクラクラさせてくれるものに出合いたいと思っています(本当に殴られては困りますが)。

 

この「身毒丸」は、本、演出、美術、音楽、そして表現する役者が揃っていた凄い作品だったのですね。
私の中の「幻」の作品を、昨日と言う「現」の中で出会えて、幸せでした。

 

 

 昨日の電車の中で、「今とここ」に戻ってくる事ができない私に、子供からのメール。

「相棒は8時からだったなんて、オレ知らないよー」

夢の世界を漂っている私は、「フーン」と寛大です。

でも、夢から醒めてくると
「エッ、ちょっと待って、なんだって?!」

って、この話はつづく・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

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Adventures 5<「オペラ座の怪人」をロンドンで観る>

2008-03-17 11:19:53 | イギリス旅行記

 7日目、ライからロンドンに向かっていた頃はもう夕方。でも、その日はまだイベントがありました。ホテルに戻ってからから、さらに地下鉄に乗ってロンドンに向かい、「オペラ座の怪人」を見ることです。もちろん、ツアーには含まれていないイベントです。これを見る為に、私は頑張ったんですよ。(いろいろな意味で)

 

    とりあえずは感想です。

         <パンフレットの背表紙>

 ミュージカル「オペラ座の怪人」の概要は→コチラ

 私は個人的には、この物語のストーリーは好きではないのですよ。なぜかは前に見た映画のせいだと思うのですが、この「オペラ座の怪人」は何度も映画化されていて、ストーリーもそれぞれに少しずつ違うのですよね。

 

 でも、一番近い2004年の映画は、ミュージカル「オペラ座の怪人」を映画化したもので、それを見た人、または劇団四季のミュージカルを見た人は、みんな涙ながらに良かったと言うでしょう。リピーターも多いのですよね。 たぶん私が思っているようなものではないのかなと思って期待していました。

 

期待通りです。

素晴らしかったのは、全ての歌声です。

それからストーリーも、オペラ座の怪人の切ない気持ちが迫ってきて、最後は本当に泣けました。

 

 私が最初に、この物語が少し苦手と言った部分なのですが、クリスティーヌが「音楽の天使」と憧れていたファントム(オペラ座の怪人)、エリックの本当の姿を知ったときの態度の豹変で、折りしもそこに幼馴染のラウル・シャニュイ伯が現れて、自分だけは日の当たるところへぐいぐいと伸びていくでしょ。また、このラウル伯は若く美しく「光」と言った所。醜く愛を知らずにオペラ座に潜んでいるファントムのような闇に潜むものは、ますます闇に落ちていくと言う感じがしてしまいまって、切なくなってしまうのですよ。姿ばかりでなく心の奥底まで歪んでいっても分かるような気もします。

 

(言葉が思い浮かばないので、そう書きましたが、本当は共鳴できるという分かるではありません。このストーリーは理解できるという意味の分かるです。)

 

つまらない事に拘ってしまいましたが、生まれながらに醜くて、母にさえ愛されなかった男の、愛の飢えを「分かる」と言っても本当は分かるわけがないと思ってしまうのです。きっと、魂を半分地獄の池につけてしまっている様な感じなのでしょうか。

暗い地下水路が出てくるのですが、それが彼の魂の半分の置き場所、そんな感じがしてしまうのです。

実際に彼は、恐ろしい殺人者なのです。事実を思うとクリスティーヌの彼を怖れるような態度も当たり前ですね。

 

 

 意地悪な言い方をすると、ラストもファントムに捕らえられたラウルを救うための決死の作戦のような気が、微かにしてしまったりしたのです。去り際がすばやい。心の中は違うのかも知れませんが、女は切り替えが早く強いのかも知れません。

 

 ただ、醜い顔に口付けされたエリックは、飢えた魂に一気に水が流れ込んでいくような感じです。その最後の歌声が染み渡ってきました。

 

劇団四季の、「オペラ座の怪人は凄いらしい。」と言うコピーが、頭の中で蘇ってきました。

本当に見ることが出来て幸せでした。

 

 向こうのカーテンコールは、歌いませんね。スタンディング・オベーションを初めて経験しました。よく最後に立ち上がると言う事はあったかもしれませんが、最初から総立ちで拍手です。ファントム役の方が挨拶をしました。

彼の高揚した挨拶を聞いていると、もしかしたらスタンディング・オベーションは毎回と言うわけではないのかも知れません。それは分からない事ですが、もしそうならばさらに私は幸せだったと言う事ですね。

それは幸せな勘違いでも、そういうことにしておきましょうか、私の中では。

 

 ※余韻に浸りたくて、劇団四季のHPを開いてみました。歌も聞けるのですよ。でも、そこで聞いていましたら、姿などには囚われないクリスティーヌの愛の想いが伝わってくるような気がしました。→ココ

 

 

 

  

 

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篤姫「七夕の再会」

2008-03-16 22:26:47 | ドラマ (大河)
 秘密を保つと言う事は難しい事なんですね。江戸でも薩摩でも・・・。

黙っていることが辛くて、君にだけと言ってだんだん広がっていくのが秘密。篤姫の二イヤン忠敬は穴でも掘って言おうと思ったなんて言っていたけれど、変なことが気持ちの中で引っ掛かってしまいました。

私たちが普通、誰にも言えない秘密を穴でも掘ってその中にでも言えという場合、ある物語を思い浮かべながら言うでしょ。そう、「王様の耳はロバの耳」。そうすると二イヤンは「王様の耳はロバの耳」の話を知っていたって言うのかしら。それとも日本でもそれに類似する物語があるとでも言うのか。または、そんな下地がなくても、そういう言葉を言うものなのか・・・・。


と、こんなことに拘っていては、先には進めませんね。だけど、あまり先に進まなかったと言うのが今回のお話。

尚五郎青春物語の続き。
江戸に嫁ぐと知った尚五郎は、篤姫を守るために自分も江戸に行きたいと、師である小松に願い出ます。
そのことも含めて城に呼び出され、斉彬と対面し、優秀な意見書を出した西郷などの下級武士のことを尋ねられる尚五郎でしたが、彼の気持ちに気が付いた斉彬は、二人を再会させるのでした。

なかなか粋なお殿様な訳です。


尚五郎を見ていると、いつも心が洗われます。西郷さんを見ていると、純粋な魂を感じます。大久保さんを見ていると、屈折してしまっているのではと心配になります。

御台所の話を聞いて、ますます遠くに行ってしまうと感じている父と母ですが、
「あの子はしばらくの間、天から預かっていたのかも。」と言うセリフにしみじみとしてしまいましたが、他にあまり書くことがないのですよ。つまらなくはなかったのですが・・・

無理やり探すと、先週より外様の斉彬、篤姫嫁入り計画の狙いが分かりやすくなっていました。それから鼓の音が出ていたなんてところかなあ。それから香遊びって面白そうですね。でも、香木って高いんですよね。

来週は涙ポイントありそう。見逃せませんね。








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ピンポイントで褒める♪

2008-03-15 11:16:08 | ’08/12/7までの未整理日記
 朝、書いていたのですが、途中でいろいろバタバタしていたら、UPが遅くなってしまって、書き出しが変。最後の三行書く前にDVD なんか見始めるなって・・・
 


 またも、ダラララの御喋りです。だってねえ、1時半に寝たのに5時にすっきりと目が覚めてしまったのです。今日は家族で出かけるので、二度寝は不味い。だからと言って、食洗器も洗濯機も回すのは、ちょっと早いですよね。


 近頃、せっせと生きています。晴れの日雨の日風の日があるように、日々の暮らしにも、晴れたような日もあれば、雨の様な日もあるでしょう。今の私の毎日が、どんな感じなのかは自分でも掴めませんが、とにかく日々、フーフー言いながらお仕事頑張っています。その隙間をぬって、遊びまわっています。遊ぶといっても、家族で映画に行ったり、DVDを見続けたり、お友だちとお茶したり、長電話したり、本を読んだり・・・
可愛いものでしょう。


 でも、三月は遣りすぎだって、もう四月は何もしないでじっーとしていよう(予定は未定。桜の花も咲いちゃうしねえ。)


 ところが、そんな風に日々を過ごしていると、ブログ記事ってなかなか書けませんね。書くことがいっぱいでてくるのに逆に書けない・・・、これもストレスです、意外と。でも、ブログでストレスを感じたら、こんなばかな事はないですよね。だから、もうタイムリーには書かない宣言しちゃいます。書けない宣言かな。

 だけど、皆様のブログは結構読んでいるんですよ。でも、読み逃げでごめんなさい。それでルーブル展いいな、風邪ひいているんだな、同じ映画見たんだな、テンプレ変えたんだな、カラー診断やってみたとか(以外にもウィンタータイプでした)、絵が相変わらず上手いよな、卒業式の季節だよなとか、いろいろ思ってはいるのですが、記事を書かないのと同様に、読むばかりです。読むって受身。書くって能動(もっと綺麗な言葉ってないかしら。アタック行為とか・・・思いつきません。)

 今の私は、そういう時期なのかしら。いっぱい見たり、いっぱい読んだり器に入れておく時期・・・と言う事にしておきましょう。


 
  
            


 今、働いてきてしまいました。台所を片付けて、シャワーを浴びて、洗濯もして、お食事もして、身支度もして・・・
でも、まだ一人。家族は誰も起きてこない。だけど、この一人の時間が私にはたまりません。起きてこなくていいよ、ずーっと。って言うわけにはいきませんが


 ところで、このタイトルなんですが、先日の仕事関係で聞いたお話出思ったことです。そのときの話。
「先生と名のつくものは、『千の褒め言葉を持っていなくてはならない。』」
今、思わず頷きませんでしたか?

素晴らしい言葉ですよね。でもね、その人はその後に笑い話として
「ある人は、今週の褒め言葉の一覧表を作って・・・・」と言ったのですね。もちろん冗談ですよ。だけど、私、思ってしまいました。中にはそういう人もいるんじゃないかなって。


 私は綺麗でインパクトのある言葉が好きなので、実はこの言葉は気に入りました。千の子供がいたら千の褒め言葉で褒めてあげる。バリエーションを変えるって言う事ではないんじゃないかしら。

「今日は頑張ったねえ。」同じ言葉でも、聞く子供と分かり合っていれば、子供にはどういう意味で言ったのか分かるはず。難しかったのに頑張った。途中でいやだと騒いでいたのに、とうとう最後はやって帰った。いっぱいやらなければいけないことがあったのに全部終わらせる事が出来た。叱られて涙ぐんでも、瞬きしないで涙を落とさなかったなんていうのも。


 珍しくお仕事ネタみたいですが、実は私はあることを思い出しました。
私は子供のような 字を書いてしまうので、ちょっとコンプレックスがあるのですが、昔姉が私が書いた「猫」と言う文字を見て、
「この文字、凄くバランスが取れていて、とっても上手だねえ。」

私はそのときから「猫」と言う文字が大好きになりました。この話を姉にすると、姉も小学生の調理の時間にセンキャベツの切り方を、さりげなく先生に褒められたと言う話をしてくれました。いつもなら皿洗いばかりしていて、誰かに注目なんかされた事がないのに、凄いと言って男子も見に来たと言うのです。
褒めた人には忘れてしまう事でも、その時のことを、言われた人は忘れないものなんですよね。

これって、良くひどいことを言った人は忘れてしまうが、言われた方は忘れないと言うでしょう。酷いことだけではなく良い事も同じなんだと思います。それならば良い事を多く言って、人の記憶に残りたいものですよね。もちろん、わざとらしい事はだめですよ。すぐにばれて、いやな印象になること間違いなしですよ。


昨日、家にやってくる子にピンポイントで、全員褒めてあげようと思いました。が、いざとなってみると嵐のような6時間。意外と難しい。せめて気持ちを忘れないようにしようと思いました。


コメント (4)
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