3月19日彩の国さいたま芸術劇場にて、藤原竜也×白石加代子「身毒丸」を観て来ました。
画像はそこで買い求めたパンフレットです。袋が赤ならパンフは青、袋が青ならパンフは赤らしいのですが、私は赤バージョンで。
その中の翻訳家で演劇評論家の松岡和子さんの文章の最初の数行には、まったくの共鳴を持ってしまいました。
― 演出の蜷川さんが、昔から「幕開き三分」が勝負ということを言っておられるが、このこの舞台の冒頭三分がまさにそれ、・・・・・・
また、
― 見終わってもなかなか「今とここ」に帰ってこられず、・・・・・
私はこの「身毒丸」のストーリーなどを敢て知らず、調べずに観に行きました。チラシなどに書いてある
「母を売っている店で母を買い求めて・・・」というぐらいの知識です。
私の涙は風が吹いても、さらりと落ちるというほど軽いので何気なくハンカチを出しておくのですが、だからと言って涙=高い評価と言うわけではないのです。でも、やられました。
まさに幕開き三分です。
身毒丸の冒頭のセリフで、涙が溢れてきてしまいました。その後の一時間半は涙の河で溺れながら観ていました。
FINALと打たれた2002年、その頃始めたばかりの仕事のために、私はコンビニのコピー機の前でその為のコピーをとりながら、そのチケットの申し込みポスターを眺めていました。まだ、藤原竜也をそんなに好きだという自覚もなく、ただ漠然と
「いいな、行ってみたいな。」と思っていましたが、その頃舞台は一年にもしくは二年に一回宝塚を観に行く程度で、行きたいからとせっせと動く行動力も持っていないうちに終わってしまい、私にとっては幻の作品になってしまっていました。
でも、今回の復活で念願だったことを叶える事ができたわけです。
復活のいきさつと、その他の解説などは→コチラで
<以下はネタバレ部分あります。何も知らないで観たい方は要注意。・・・って、そんな人は最初から読まないか・・>
ぼやけた画像ですが、なんだか涙に明け暮れた私の目で見たイメージと言う感じで、偶然の傑作です。(自画自賛・・・汗)
幻想的な町のシーンから始まる舞台ですが、遠くで汽笛が聞こえてきます。
彷徨いながら出てくる身毒丸は、道行く人に線路はどこかずっと探していると尋ねます。先に亡くなってしまった母に会いに行くための汽車を探しているのだと言うのです。(もちろんセリフはぜんぜん違うものです。)
五七調の調べにのって語られていくそのセリフに、そのパラレルワールドの扉が開いていきます。
幻想的な町のシーンですが、私は「千と千尋の神隠し」で、河を船が渡って来た時に感じたような摩訶不思議さに酔う心地良さと、不安から来るかすかな恐怖を感じたのです。
―夢か現か、幻の・・・
人の世の人の波、まるでパレードのような人の世界の街並。
ぐいぐいとその世界に引き込まれていくのは、そのような演出だけではなく、舞台美術の素晴らしさにもあると思いました。
仮面売りの細かい部分や、地下社会も心に残りましたが、やはりなんといっても家のセットは凄かったです。すばやく組み立てすばやく解体と言うのは、こういう舞台の場合当たり前のことですが、それが演出であれだけ生きるとは思いませんでした。
母に手を上げてしまった身毒丸が、父に諭される場面。
奥の部屋に彼らとまったく同じ姿が映るのですが、最初、それは映像かと思ってしまいました。でも、
「母さんは亡くなった母さんだけだ~。」と席を立って外に飛び出す身毒丸。
その時同時に奥の部屋では、母と身毒丸は互いに求め合い抱き合っていたのです。
だけど現実の世界では
「もうだめだー」と嘆く継母の撫子。
その瞬間、セットはどんどん解体され袖に引き上げられていきます。それは次の場面に移るからなのですが、最後に引かれていく、抱き合っている身毒丸と撫子と心の残像が印象的です。
そして、その家のセットの解体は、身毒丸の「家」の崩壊を意味しているような気がしました。
こんな風に書くと、身毒丸の父の声が遠くの方から聞こえてきてしまいます。
「身毒~、許しておくれ~」
でも、私は母を買ったお父さんも哀れでならないのです。
「家というものはお父さんがいて、お母さんがいる。子供がいて・・・」と、この父は「家」のあるべき姿を、または理想を押し付けようとしますが、それはその父の考えであるわけですから、それが間違えているわけでも、いけなかったというわけではないと思うのです。
ああ、そうでした。「買ったのに・・!!」と叱られてしまいますね。でも、それはこの物語ではあまり意味はないと思うのです。手段選ばず、彼は家のパーツを揃え、その家の中の家族と言うパーツが慈しみあってニコニコ笑っている、そして彼にとって、とっても大切な「世間」で、立派な「家」だと思われていたいだけなのです。
「家」というものに縛られていないように感じる現代も、実はこんな父のように一生懸命に家のパーツとして家族を揃えているなんてことはあるんじゃないだろうかなんてことを思ってしまうわけです。
この物語は
母を売る店で買い求められた女・撫子と、その義理の息子・身毒丸。2人の宿命的な禁断の愛を描いた感動の問題作
なんですが、それについてもあのシーンはこうなんだなとかこのシーンは、こういう意味なんだなと、ずっと頭から離れません。
翌日の今日も、何かをやっているときにふと手が止まり、いろいろな場面に引きずり戻されてしまうのです。そして、「世界の中心で愛を叫ぶ」のパクリではありませんが、「気が付くと泣いていた。」みたいな感じで、一日を過ごしてしまいました。
撫子の母として生きたい切ない気持ちや、家族合わせのシーンや、母を求めて彷徨いながら、いつも撫子にたどり着いてしまう身毒丸のことやあれやこれやのシーンです。
その中でふと、
~身毒丸は18歳~♪と、歌声が頭の中で響くと、撫子が呪いの杭を打ち込む姿が浮かび上がってきます。苦しむもがく身毒丸。
このシーンは私にとっては圧巻でした。
そしてラストの廃墟の家で(崩壊してしまったので家のセットはありません。)一人で家族合わせをしている身毒丸。そこに揃わなかった母札を持って現れる撫子。
擬似的「家」が崩壊して、得た愛。
二人手を取り合って、冒頭に出てきた同じような幻想的な町に消えていくのです。
私は、いつも何か頭の芯が殴られたような、そんなクラクラさせてくれるものに出合いたいと思っています(本当に殴られては困りますが)。
この「身毒丸」は、本、演出、美術、音楽、そして表現する役者が揃っていた凄い作品だったのですね。
私の中の「幻」の作品を、昨日と言う「現」の中で出会えて、幸せでした。
昨日の電車の中で、「今とここ」に戻ってくる事ができない私に、子供からのメール。
「相棒は8時からだったなんて、オレ知らないよー」
夢の世界を漂っている私は、「フーン」と寛大です。
でも、夢から醒めてくると
「エッ、ちょっと待って、なんだって?!」
って、この話はつづく・・・