「秋をあなたに<その3>」は、一人でスクッと立って生きていきたいと言うような言葉でまとめた様に思います。
もう少しだけ、私のエリア公園の、秋の散歩にお付き合いくださいね。
枯葉を踏むって、好きじゃないですか?
カサリと音がして、なんともいえない楽しさみたいなものを感じませんか。私はそんな時、意味もないような「言葉」が浮かんできたりするのですよ。
カサリ
―結局人はいつだって一人なんだ。
生まれてきた時も、死んでいくときも、いつだって一人・・・
風が吹いてきて枯葉がカサカサカサと転がれば、
―だけどお母さん、ぼくはそれでも・・・
と、言葉を紡ぎながら歩いて行きます。
でも、「そうじゃないだろう。」
そんな枯葉の音は、そう私に語りかけるのです。
生まれてくる苦しみは、既に生んでくれている者と共有しています。
苦しみに対して、生む者には言葉と呻きと言う意思伝達の方法を持っていますが、生まれてくる者には、叫びと言う方法しかないのです。だから苦しいかどうかは分からないことですが、あんな狭い通路を通ってくるのですから、その頑張りは母だけのものでないことは、想像できるような気がします。
多くの場合はもっと多くの人の手を煩わせて、生まれてくるのですが、不幸にして、その母親がたった一人で子供を産み落としても、既にその時からひとりではないのですよね。
死ぬ時だって同じです。これもまた、病院などの世話にもならず、見取られもせず孤独に死ぬことがあったとしても、人間の体は死と同時に風にはなりません。誰かの手を煩わせて、この世を去っていくのです。
生きていく途中の道でも同じ。
公園の風景に綺麗だなと感動したとしても、そこには計算された人の感性が存在しているし、朝の一杯の珈琲を飲むにしても、みんな自分以外の人の手によってもたらされた贈り物なんですね。
なんだか分かりきった詰まらないことを言っているなあと、思いましたか?
でもね、秋の日の小春日和の散歩時、あなたは何を思いながら歩きますか。美しい風景や枯葉を踏む音が、あなたに何かを語りかけてきませんか。そっと耳を澄まして会話をする、一人の時間にはそんな楽しさがありますね。
ちょっと蛇足ですが、
寂しいとか、孤独だと感じる心って大切なんですよ。そのマイナーな心がエネルギーになって、あなたのプラスを生み出していくんです。
でも出口が見つからなくて、たまらない閉塞感を感じてしまうと、目の前の事しか見えなくなってしまうじゃない。でも、それは今は見えないだけで、その先に広がる世界があるんですよ。
マイナーな心を決して凶器にはしないでくださいね。人を傷付けるのはもちろんですが 、自分自身にもその刃を使わないでくださいね。
って、誰に向って言っているのだろう、私・・・・
たぶん、周りにいる子供たち・・かな。