劇中でシェイクスピアの37作品を織り込んで紹介しているこの作品は、蜷川さんの追悼番組として本当にふさわしいものだと思いました。
「もしもシェイクスピアがいなかったら~♪」と頭の中で、その歌が鳴り響き、見終わった後もその余韻に浸りました。
2008年7月、私はこんな記事を書いたのです。
その記事内に、藤原竜也さんの「うわきもの」のシーンを貼らせていただきました。
かなり強烈なインパクトで、しかも4時間ものお芝居、いったいどんな内容なんだろうと、いつか観てみたいものだと思っていましたが、そのささやかな夢が叶いました。
お話が面白くて面白くて、4時間と言う時間はあっという間に過ぎていきました。
それでもやっぱり、見終わってみると長い間見続けたと言う疲れを感じました。演じている役者さんたちも凄いけれど、客席でそれを見続けた観客も凄いと思うのです。またはテレビ前でお茶などを飲みながらでもずっと見続けた視聴者も凄い。
最後に狂言回しだった隊長が挨拶で
「皆様が芝居として成り立たせてくれました。」と言うような事を言ったと思うのですが、まさに舞台と観客でこのお芝居を完成させたと、私は思いました。
だからなのか、さながら客席も舞台であるかのようなオープニングとエンディングには引き付けられました。
このお芝居は、内容的には、いくら私が泣き虫でも泣くようなシーンはほとんどなかったのです。このほとんどと言うのは、ジュリエットの死にあたる元花魁の死の部分だけ、ちょっと泣いてしまったからです。たぶんこれは「ロミオとジュリエット」のそのシーンでは泣くという条件反射のようなものです。
シェイクスピアのお話では死はお友達のようにすぐ傍に寄り添っているのです。でも物語はどんどんドライに進んでいくので涙は皆無に等しい。
それでも私はそのエンディングの
「もしもシェイクスピアがいなかったら~♪」の歌で泣きました。
ボロボロと泣きました。
「シェイクスピアはメシのたね」と言う部分でまた泣きました。
シェイクスピアは大昔のライターさん。
自分の劇団を守るために必死でシナリオを書いていたと思います。
それが時を隔てて、一人の男のライフワークを作った・・・・・・・。
なんだか素晴らしいなと感じました。
そしてエンディングで皆頭に三角の死者の印(あれは、何ていうのでしたっけ。)をつけて、すこぶる陽気に出てきます。
舞台の上でそれぞれの物語を紡ぎながら、そしてなんとも空しく散っていった人々。
一堂に会した陽気な人々からは「生きた、そして死んだ。」と言うような、そんな想いを勝手に感じたのです。これはまさに思い込みで、舞台上の役者さんたちはやり終えた感にどっぷりとつかっていたのかも知れません。
ただ私はやっぱり、あの時にはちゃんとまだみんな役を演じ続けているに違いないと思っていました。
なぜならそこで踊っていたのは、まさしくきじるしの王次に他ならず、いつものカーテンコールの竜也さんではまだないと思ったからなのです。
きじるしの王次はいろいろと本当に面白かったですね。
退場が早かったのでちょっと寂しく思いました。
佐渡の三世次と言う人物は、言葉を巧みに操る恐ろしい男だと思いました。その言葉で人を陥れ殺していき権力を手に入れていくのです。
だけれどしょせんは悪は悪として決着が着く・・・・って、これはひとつ前の「闇の守り人」の中でも書いた言葉。
やっぱりそこは物語的には重要な所なんですよね。(この言葉を巧みに操る男と言うのもユグロとも共通しているかも。)
この恐ろしい男を唐沢さんが見るからに恐ろしく好演していて心に残りました。
物語の感想を語りだすといろいろと出てきそうなのでもう止めますが、あと一つだけ書くとすると、何ていうか、井上センセ、こういうのも書いたんだなあと・・・・
ええと、やっぱりなんて言うか・・・・・全体的にちょっと卑猥?
王次の歌などもそうですが、お里やお文のセリフなど。別にだからと言って、それが嫌だとか言っているわけではありません。むしろだから面白い。
ただおさちさんが清らか~に清純ぽ~っく歌って、隊長のハミングも爽やかなあの歌も、歌詞は意外とな~って思い、騙されちゃいけませんよって、思わずニヤリとしてしまったと言いたかっただけなのです。
あと一つだけ書きたかったことがこれかってなものですが、幸せな4時間でした。
もしもシェイクスピアがいなかったら