既に一週間が経ってしまいました。
「今日はもう『相棒』ですね。」と書こうとしたら、そうでした。今日29日はお休みですよ~。
なーんかがっかり。
夜9時から何を見たらいいんだって言ったら、テレビ見るしか能が無いのかと言われちゃいそうです。と言うか、今は水曜日は「相棒」しか見ていないので、お休みされると、やっぱり寂しかったりもするのですよね。
この「寂しい」という感覚は、なんとも言えない不思議な感覚だと思いませんか。
「今日は『相棒』がなくて、寂しいわ。」と思っても、だからといって孤独であるというわけではないでしょう。
でも孤独だと感じる時、それを別の言葉に置き換えるとしたら「寂しい」となるような気がします。
要するに「寂しい」とは心に空いた穴を指すのかもしれません。その穴の大きさによって「孤独」という言葉が生じてくるのでしょうか。
って、おいおい。
私が「孤独の研究」をしてどーするんだって。
でもね、後一つだけいいですか。
その穴からヒビが入っていけば心が砕ける、孤独は危険なもの。だけど人はその穴を埋めようと必死になってエネルギーを出すことも出来るんですよね。
毒島さんの生活だって、生活設計の部分は結構厳しい部分はあるけれど、その孤独ゆえに生活ぶりは決して悪くなかったと私には思えてなりません。
古いアパートを自分の土足で歩くというライフスタイルで暮らし、壁には絵や絵皿を飾り、書斎には目いっぱいの好きな本。しかも趣味の評論には多くのマニアのファンが居る。
紅茶だけが楽しみだからと、ティーセットはアンティークでその紅茶の入っている扉を開ければ、コレクションの数々が並んでいる。
すごく素敵じゃないですか。
テレビ前の紅茶好きさんには、あの扉を開けたシーンなどワクワクのところだったのではないかと思います。私もブルーの缶のウエッジウッドだけは分かりましたよ。
なかなか本編の感想にたどり着けませんが、だけどいろいろ素敵だなあと思った所は「ミスグリーンの秘密」にも匹敵してると思えたものですから。
壁の絵なのですが、私が推理するには〈外れているかもしれませんが〉あれは額絵という、要するにポスターだと思うのですね。あそこに本物の絵が飾ってあったら、逆にちょっとがっかりです。
ワンちゃんの写真が入っていた写真立て、似たようなものを持っているのですが、あれは百均のやつですよね。
貧しく豊かな毒島氏の生活は決してクズみたいな男の生活ではなかったと思いました。
ところで私の記憶が確かなら、今回のライターさんの真野勝成さんは「相棒」のシナリオは初めての方ですよね。
この方、よく研究されているか、元々「相棒」のディープファンなのかと思いました。
過去の「相棒」の中にすっぽりと入り込んだ、今回の「相棒」でした。
都民ジャーナルに載った和製シャーロック・ホームズという記事の件や、中学生の時に書いた右京さんの小説ネタ。
これはみんなあのシーズン4の8話の「監禁」ネタ。
何となく嬉しく感じたりしませんでしたか。
毒島氏はカイトをワトソンと呼びます。
そしてファーストネームで呼べばと提案するのでした。
カイトが「右京さんなんて・・・」と言うと
「そう呼ばれていた時もあるんですがねえ。」とちょっと懐かしそうにいうところも良かったですよね。
薫ちゃんはいないけれどずっと「相棒」の中に存在する人なんだと思いました。
事件そのものは、なんか寂しくなるようなお話でした。
だけどラストのあのセリフ、
「孤高と孤独は違う。あなたはその能力の高さゆえに孤高なのでしょう。」と毒島に言わせたところ、ライターさんの快心の一撃と言うところじゃないですか。
そしてこの回のタイトルを「孤独の研究」にしなかった所が、ライターさんのうふふの部分だと、私思いました。
最後は綺麗にまとめましたよね。
頭の悪そうな刑事二人〈つまりイタミンたち〉に、彼を「誰ですか。」と問わせ、
k君に「右京さんの友達です。」と言わせる。
右京と毒島はちょっと顔を見合わせる。
毒島の顔に微かに浮かんだ幸せの表情。
ああやっぱり尾美としのりさんは上手いね。
ところで私このシーンで、映画の「20世紀少年」の、何度見ても泣いてしまうラストシーンを思い出してしまいました。
「その日、僕に友達ができた。」
という訳で、「相棒」はまた来週です。
ああ、そうそう、あれちょっと行きたいです。「相棒コンサート」。だけどいろいろあって、なかなか予定が定まりません・・・・