東京芸術劇場にて、三谷幸喜生誕50周年感謝祭、その1作目「ろくでなし啄木」を観てまいりました。
ある雨の日、寂れた温泉宿で起きた出来事の真相は・・・
それを三者三様の視点から描き、真実に迫って行く物語。
でもそれは、ある日の出来事をの真相に迫りながら、実は啄木自体の深層にたどり着く物語だったと思います。
三谷幸喜が今年のこれからの作品にどんなものを出してくるのかは分かりませんが、「作家の内面」と言う点で探ると、実はこの作品を1作目に持ってきたのは、何か意味があるのだろうかと、作品もミステリーと謳っているので、そちらの部分も推理してしまいました。
実際にはただ単純に、若き美しい三人だから1作目は華があるものをと言う理由や、スケジュール的なものだったかもしれませんが、だけどその深層心理の部分は、人には分からずという部分だと思います。
行動には理由がある。
三谷幸喜=石川啄木とはどうしても思えませんが、そこには別のミステリーが存在するかも、なんていうのは考えすぎですか・・・・
だけどこの舞台を見たら啄木をもっと知りたいと言う気持ちになる事は間違いがありません。
はたらけど はたらけど猶
わが生活 楽にならざり
ぢつと手を見る
ふるさとの 訛なつかし
停車場の 人ごみの中に
そを聴きにゆく
たはむれに 母を背負ひて
そのあまり 軽きに泣きて
三歩あゆまず
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けごとくに
この作品の中にも登場する啄木の歌(はたらけど・・の歌はさりげなく)。だいたい中学二年生の頃学校で勉強し、知らない者などいない有名な歌ばかりだと思います。「ふるさとの・・」と言う歌では、テストではこの歌は何句切れですかとか、「そ」と言うのはなんですかとかが良く出題されます(余計な事ですが・・)
様々な人がやってくる上野駅の雑踏に、ふるさとの訛の聞きたくて、じっと耳を澄まして立っている。
そんな青年に人々は、朴訥な青年像を抱いても無理もないことだと思います。
だけど女と金にだらしがない破滅型作家と知ってこの歌をまた詠んでみると、では虚構の歌なのかと言うとそうではなく、更に奥の深さを感じたりするから不思議です。そして更に言わせていただくと、この歌を作ったのは、20歳をいくつかしか出ていない若造、私の横で気楽な顔をしてお茶など飲んでいる息子達とさほど年齢の変わらない青年なのだと思うと、更に更に感慨深く感じるのです。
体は弱い。歌は認められない。加えて赤貧。そして更に家族の家計までその薄っぺらな肩が背負わなければならない。
20代のヒヨコだというのに。
そしてまた、この苦痛があってこそ彼の心に残る歌は生まれ、支離滅裂な破滅型だからこそ、また感性が磨かれたと言う、絡み合った必要悪。
一面からは決して分からない行動の真実。そしてそれは多面で考えなければ決して見えてこない人生の真実なのかもしれません。
お芝居は、ミステリーと言えども三谷作品らしくコメディ色強くかなり楽しい展開です。
三人芝居、藤原竜也・中村勘太郎・吹石一恵、この三人の美しさと演技力がぶつかり合って、見ごたえ充分です。
中村勘太郎、コメディ部分でキラキラ光っていて、ちと藤原のたっちゃんが分が悪いんじゃないのって、微かに心の中によぎる不安。だけどラストの彼のあのシーンがなくては、上に書いたような感想は沸いてこないのよね。
だけどこの芝居の中の啄木、本当にろくでなし!
と言うわけで、ちょっとだけネタバレで以下書かせていただきます。
←劇場にあったポスター
トミの目線から語られる一幕目、テツの目線から語られる二幕目。その時に「ろくでなし啄木」と言う文字が鏡文字になっていましたね。裏から語られる真実と言ったところでしょうか。
二幕目は笑いに笑いました。
だけどその後半、死の世界から飛び出てきた啄木が語る本当の真実。
誰もが「あれっ?」と感じたリンゴとみかんの謎は、ナイフの思い込みから生まれた思い込みであった事が分かります。
そして、何年も経ってから、ふと自分達は彼に嵌められていたのだと気が付いても、トミもテツも確かめる事はできません。観客のみがその真実を知ることが出来たのですが、それさえも,最後は「なんちゃってね。」的にぼかされてしまいます。
確かなものなどない人の世の不確かさ。
だけれど、だけど、その時確かに変わらないそれは、昇ってくる朝のひかり・・・
うーん、なかなか良かったなぁ。こう言った後を引く物語が好きです。翌日になると気が付く事があって、また翌日になると「そうか」と見方が変わったりもする・・・
ただでさえ、金の為に愛する女を売ったと言うろくでなしに見えるのに、種を明かせば、自分で死に切れないから殺してもらうと言う、ろくでなし度10倍のろくでなし。このろくでなし度には翌日、ふと気が付きましたよ。なんて鈍い・・・。だって、その後の作家の苦悩の方に頭が言ってしまったからなんですが、だって、その時も啄木は自分の事ばかり考えているのですよね。
崖っぷちの自分の人生を、寂れた温泉宿で、女にもしくは友人に痴情の果てに殺してもらい、かっこ悪く人生を終わらせようと言う作戦。でももしこれが実行されたら、殺してしまった者にも待っているのは地獄。
その地獄に巻き込もうと言うのは、愛する女と何をやっても許してくれる自称親友の男なんですよ。
だけどみんなが彼のようにろくでなしではないものだから、二人は彼を許し、彼の思うようには成らなかったのです。啄木の真意を知らないテツが最低ぶっているけれど、お前なんてぜんぜんで最低な男にすらなっていないというようなことを言うシーンは、目論見に失敗している啄木にとっては二重の痛みがあったと思います。
彼らの優しさゆえに逃げ出し、苦悩にのた打ち回り、そしてその苦悩の中から立ち上がり・・・
その後いけしゃあしゃあと妻と家族を迎えに行き、テツが言っていたように東側に大きな窓のあるうちに住み家族と片寄せあって生きたのでした。
その後トミにもテツにも会う事もなく、「一握の砂」を発行した二年後に、彼は亡くなってしまうのです。満年齢で言ったら26歳だったのです。
若き日の愚かさを笑う日を迎える事もなく・・・・
☆ ★ ☆ ★
「ローマ字日記」はこの舞台がきっかけになって知りましたが、お勉強になりました。
加えて、この芝居には関係ありませんが「一握の砂」から気に入ったものと、このお芝居を連想させて気になったものを合わせて載せておきますね。フムフムと思う方もいらっしゃると思います。
ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな
目になれし 山にはあれど 秋来れば 神や住まむと かしこみて見る
いくたびか 死なむとしては 死なざりし わが来しかたの をかしく悲し
誰そ我に ピストルにても 撃てよかし 伊藤のごとく 死にて見せなむ
己が名を ほのかに呼びて 涙せし 十四の春に かへる術なし
一度でも 我に頭を 下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと
こそこその 話がやがて 高くなり ピストル鳴りて 人生終る
浅草の 凌雲閣の いただきに 腕組みし日の 長き日記かな