8月に見たのに、ずっと書けなかった映画の感想を書こうと思います。8月3日に見て、最初の数行を書きはじめたのはそれから4日もしてからでした。それでも書く手が止まり今まで放置でした。なぜならツイッターで流れてくるのはひれ伏すような褒め言葉ばっかり。もちろん私もこの映画は好き。そして時間が経てばたつほど好き度が上がります。だけどそれは絶対なる肯定と言うわけではないのです。
ゴジラ愛があるがゆえに否定部分もあったこの映画。
しかし見たばかりのあの時に目にする褒め言葉の流れに抗うには、相当強い言葉力が必要だなと思いました。
こりゃ、あかん。
映画愛+ゴジラ愛にエヴァ愛が加わって、「シン・ゴジラ教」が誕生してんじゃん。
そう思いました。
だけど暑い夏もそろそろ終わったので、ボチボチ書こうかな。
※ ※ ※
早く見たかった「シン・ゴジラ」、8月3日の水曜日に見てまいりました。
その感想を今からゆっくり書くのは、このゴジラがそうとう私のツボにはまり、一気書きが出来ず自己消化していたからに他なりません。
なにげにゴジラLOVEの人なのです、私。
この映画のゴジラは、世間の評判で既に知っていらっしゃるかもしれませんが、相当凄いです。
どのくらいかと言うと、ゴジラ映画を愛してくださっている世界中の映画人に
「ほら、皆さま」←世界の方々の事ね。
「うちんとこのゴジラは、このように凄いザマスの。ホホホホ。」と自慢したくなるレベルです。
と前に書いたのはここまでで、本当に書いてあったのは数行でしたね。
ここに出てくるゴジラは究極の進化を遂げた生物の完全体のような気がしました。
素の人類はもしかしたら猫よりも弱い生き物かも知れませんが、それでも言葉を駆使し道具を使い生き物の頂点に立ってきました。
その人類の先の進化を遂げたものを、いわば弱者になってしまった人類が必死になって抵抗する物語に私は感じました。
ゴジラはある日、唐突に登場し、そしてそこに存在するだけ。
ただ存在しエネルギーを求めてなのか移動するだけの存在。
それでも彼が移動するだけで、街は壊滅され人類の滅亡さえも予感させてしまうのでした。
「ゴジラ」の1作目は、私が生まれる前に作られた古典です。でも古典と言えども、その作品は今見ても褪せることの無い名作の輝きを持っているのです。
ゴジラ映画には長い歴史がありますが、作り手の人たちがリスペクトして、自分の作品を近づけたいと思っているのはその一番最初の作品にだと思うのです。万が一、その長い歴史の方のゴジラに気持ちが引っ張られると、ハリウッド版の「ゴジラ」のように映像的にはOKでも、ゴジラ自体は破壊王でありながら決して悪ではないと言う存在に描いてしまい、どうしても感情的に頷けない存在になってしまうのかも知れません。
もちろん、その頷けない存在と言うのは私の場合はですが。
ゴジラはある日唐突に生まれた。
そしてそれは生きるために自分の糧を求めて歩いていた。
だけど、それだけで彼は人類の敵だった。
物凄い説得力が、そこには存在していました。
日本が空襲に遭った順番にゴジラを出現させて歩かせたと言われる昭和の「ゴジラ」。
今、ゴジラが歩いただけで、街は壊滅し瓦礫の山がそこにあるだけ。
そこに向かって手を合わせる長谷川さん。(役名は何だっけなあ・・・・。)
人々はその光景に、まったく抗う力など皆無だった先の震災を想う人も多かったようです。
ゴジラとは、そう言う存在なのですよね。
ゴジラ愛のある人の胸を高鳴らせた一つの要因は、音楽の入れ方だったと思います。
時めきましたよね。
ゴジラのあの自衛隊のテーマ曲?
なんて言うか、あれ、昔から時めくのですよね。
「終」のロゴにも時めいちゃった。
だったら、何であれを入れないのって、私は思いました。
あれと言うのは鉄塔の上で最後まで仕事に殉じていった報道マンたちのエピソードです。
だけれど家に帰ってから気が付きました。
私は3.11のあの震災で、最後まで避難放送を流していた女性の話を聞いた時に、子供の時に見た「ゴジラ」のそのシーンがシンクロしました。そして泣きました。
もしもそのシーンを思わせるような場面を入れたならば、逆に人々はその女性の事を思い出すと思います。それが良い事なのかいけない事なのかは見た人の感覚によるものなので、もしかしたら敢えて省いたのかも知れません。
敢えて省いたのかと思えたのは・・・・
って、これ以上はネタバレになる可能性がありますので、画像の下に書きます。
ただ友人はまったく楽しめずに寝てしまったと言い、私と同じ回で見ていた小学生は楽しめたのかなと耳を澄ましてみたら、そのお母さんが
「じゃあ、ご飯を食べたら午後からはお前の好きな映画をもう一本見て帰ろう。それで良いよね。」となだめていたのです。
そう言う面だってある映画なのは事実なのです。
因みに
ゴジララブな私のゴジラ映画の感想は、意外とこの感想とも重なっている部分がありました。
良かったら、後で読んでね。
上にリンクした感想の中に
>野戦病院と化してしまう街の中のビル。母を殺されて孤児になってしまう少女。祈るしか道がなくなってしまう人々。以前にも書きましたが仕事に殉じてしまう報道マンたち。こういう部分なくして心に食い込むような名作にはならないのですね。
と、私は書きました。もしもそれが私の名作と感じる定義と言うのなら、私はこの映画を否定するべきなんじゃないかなと思うのです。
なぜなら、人間ドラマは皆無です。
いやいや、ありましたね。
官僚たちの暑い夏ってドラマが。
それはそれでなかなか良かったし面白かったんです。
でも・・・・やっぱり、「でも」と思ってしまうんです。
これが私の
>ゴジラ愛があるがゆえに否定部分もあったこの映画。
であり、もしかしたら、廣野監督が敢えて省いた挑戦だったのかもしれません。
言うなれば、リアリティの追及と言う挑戦。
実際にあのような巨大生物が出現したら、それと向き合うのは政府と自衛隊と・・・・って感じですよね。
向き合う者でドラマ部分を作ったと言うか、そんな感じでしょうか。
でもそれが私には物足りなくて、やっぱり市井の人の目線と言うものが欲しかったなと感じたのでした。
そこの部分は結構大きい部分ではあるのですが、でもそれ以外は褒めたくなることばかりなんです。
褒める言葉は他のブログでもたくさんあると思うので、もうイイかなと思えてきました。
それでも後ちょっとだけ書かせていただくと、日本にもう原爆は落とさせないと奮闘する政府と長谷川さんのチームの(だから役名は何だって!?)熱い想いに打たれました。
感動もしました。
でもあれですよね。
あれと言うのは、ゴジラに神の火は効き目がないよんって思いませんでしたか。
こうやって書きだすと、あのシーンもこのシーンも好きだったなと思えるのですが、1か月以上もたってから感想を書くと、一番印象に残っているシーンが思い浮かぶのですね。
川を遡ってくる異様な姿のゴジラにも吃驚しましたが、陸に上がったまだ未完全なゴジラが、逃げ遅れた人がいたために攻撃が中止になって、帰っていく爆撃機をじっと見ているシーンです。
爆撃機が何もしなかったから、ゴジラも何もしません。ただ真ん丸オメメで不思議そうな顔をしてきょとんとじーっと見ているのです。
廣野監督は、あの時ゴジラに何を思わせていたのでしょうか。
その顔を思い出すたびに、私は言ってみたくなるのです。
―あんなひどい殺され方をしちゃったけれど、ゴジラ、お前は本当は何にも悪くなかったんだよ。
ただ存在自体が、人類の敵なんだ。
<思いついちゃったので、でもまったく関係のない話です。>
そう言えば、
存在自体が人類の敵って言うのが、まったく違う大きさのもので居ましたね。
そいつも同じ「G」。
キャー、
手のひらに乗るほど小さいのになんであいつはあんなに怖いの?
いや、手のひらなんかに乗ったら、そのまま泡吹いて倒れちゃうわ、私。