世間では酷評の嵐だが、それでもずっと見に行きたかった「ゲド戦記」、友人とのスケジュール合わせでとうとう25日まで待ってしまった。前に予告編でテルーの唄とゲドの語りを聞いてぜひ大画面で見てみたかったのだ。
なんて素敵な歌だったのだろう。私は思いを募らせていた。調べてみると作曲は谷山浩子ではないか。歌の声も素敵だが、それだけじゃないじゃない。この歌がいいのはそこに谷山浩子の世界があるからだ。最初は隣町に住んでいた、ただそれだけで彼女を応援していた。だけどそのうち彼女の音楽の世界に引きずり込まれてしまっていた。
猫の森には帰れない、帰る道だって覚えてない
谷山浩子の音楽には、いつも心を透明にするなにかがある。
そして、期待を裏切らなかったテルーの唄。すべての音は止まり風だけが吹いている。唐突に始まりフルで聞かせるそれは、たぶん、この映画の一番の見せ場なのだ。私は、そのためにここに来たのだと私は本当にそう思い、主人公アレンのように涙がこぼれたのだった。
テルーの唄
夕闇迫る雲の上 いつも一羽で飛んでいる
鷹はきっと悲しかろう
音も途絶えた風の中 空を掴んだその翼
休める事はできなくて
心を何にたとえよう 鷹のようなこの心
心を何にたとえよう 空を舞うような悲しさを
作詞は宮崎吾朗だ。この詩を書けるこの人の感性は素晴らしい。
が、しかしなぜこの素晴らしい感性の持ち主を、いきなりこの畑違いの土俵に引きずり出してしまったのだろう。
この映画は、ひたひたとまじめさが伝わってくる。「生」と「死」というテーマ。親殺し子殺しという世相の反映。素晴らしいではないか。だけど面白くない。信じられないくらい面白くない。何時面白くなるのだろう。最初は只管待っていた私だが、アレンとゲドがホート・タウンに着いたあたりからだんだん分かってきてしまった。この映画はずっと同じ感じで進むのだと。
素晴らしい雲が過ぎていく・・・
大真面目で語られていく美しく壮大な絵物語。そして物語はたんたんと、たんたんと、そしてたんたんと・・・・・・・あぁ。
又はべらべらとべらべらとべらべらと、みんなで語りつくして進んでいく。
う~ん。。。
ジブリではおなじみっぽいキャラの古着屋の女主人も、ハジアという怪しげな薬を売る男も、そしてウサギという敵の男もみんな弾けていなくて元気不足だ。だから、愛すべき小悪党という感じではなくて、ただのブータレタおばさんや、胡散臭い嫌な男にしか見えなくて消化不足になってしまっている。
ただ、クモはいい。田中裕子の声はぴったりだ。クモの周辺は怪しげで映画の「クレヨンシンちゃん」の世界みたいだ。
夏休みだからこその公開は、子供たちを狙ってのものだとも思うのだが、、狙いどおり多くの子供たちで、映画館は満たされていた。淡々と続く美しい絵物語は、子供たちにとって、拷問のようなものではなかったのだろうか。
だからアレンがクモと対峙し抜けなかった剣を抜いた時、子供たちから歓声が起こった。「やったー」「かっこいい」
―お待たせしました、子供たち。これでいいですか。―
おいおい、ネタバレしてますの注意もなくていきなり書くなよって・・・いやいや、剣の事は最初から誰でも予想はつくことなので。ただ、この先はとりあえず書かないことにする。
なんだかだんだん長くなってしまったが、まだ書いておきたいことは三つある。その一つは、タイトルについてだ。「子供たち」という言葉を書いて、ふと気がついた。頭の中で起きた連想ゲーム。「子供ー期待ーストーリーーイメージータイトル」
「ゲ・ド・セ・ン・キ」この音の響きはどうだろう。なんていうか、少年達の心にワクワクさせるものがないだろうか。少なくても私の中の少年の欠片は、そのタイトルに反応した。書きながら気がついたけれど、映画館で感じていた違和感は、タイトルと内容との微妙な違和感かもしれない。
長く壮大な原作からのチョイスした切取り部分が、そこだったからというのは分かる。ただ、観たものが原作を読む義理はないわけなので、この映画にはサブタイトルがあった方が良かったような気がする。・・・「指輪物語―王の帰還」みたいな。
「セ・ン・キ」というので、違うイメージがあった。アレンが鎖で繋がれてしまっている予告編をみた時、捕虜だと思い、テルーが言う
「命を大切にしない奴なんか大嫌いだ!」というセリフにも共鳴する何かがあった。
が、しかしである。
特に、そのテルーのセリフは、この映画のテーマを担う大切な良いセリフだと思うが、何せ、唐突に出てくる。唐突過ぎて、説得力がない。
パンフレットの中に、「後半はシナリオなんてなくて」と宮崎吾朗が嬉しそうに語っていたが、だからなのかなあとか思ってしまった。
それでなのか二つ目は、ラスト。〈ああ、そうだ。次のセリフはネタバレ〉
「僕は国に帰って、自分の罪を償うよ。」軽い、軽すぎるよ。父親殺しの、しかも国王殺しの大罪だよ。
私は思う。なぜ、この話にわざわざ原作にもないこの父殺しの大罪をアレンに背負わせたのだろう。そういえば原作者もこのことを批判しているらしいが、どのような内容で言っているのか分からないので、同じ意見ではないかもしれないが、最後まで「なぜ」が引きずられてしまう。王は民を思う善き王で、その必然性が理解できない。
私の中では父殺しの重さと立ち直りの軽さのバランスが悪すぎて、ラストの穏やかな生活を映し出すエンディングが白々しく映ってしまう。
せめてクモとの戦いが終わった後、アレンに深い悪夢の淵から目覚めた人のように、父のようなまなざしのゲドにすがりつき泣き、叫び、許しを請うて欲しかった。
このシーンを「いける」と褒めている人もいる。「ゲド戦記」翻訳者の清水真砂子さんだ。
「若い人たちが生きにくく、呼吸困難になっている原因は、精神的な父親殺しができにくいことにあるような気がします。」
「精神的な父親殺し」というのは、わかる。またこの話を広げるとさらに長くなるのでやめるけれど、映画の映像というのは夕べ見た夢とは違うと思う。
私は、この原作にない部分が、巧くいっていると思った人には良い映画、未消化だなと感じたものには、少し残念な映画という風に印象が残ってしまったのではないだろうかと思った。
なんだか、世間の酷評の嵐の中の一筋の風を担ってしまったようなレビューになってしまったが、思ったことを映画に準じて淡々と語ってみた。
そして、最後三つ目。私は、この映画を見ている途中、ある想いにふと囚われてしまった。そして今も、願望として心の奥でそっと思っている。
ゲドのような大人でありたいな・・・・という想い ゲドはとっても素敵な大人だった。