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オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説全文 (1)

2009-12-12 13:25:59 | 国政レベルでなすべきこと

 オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説を掲載します。
 朝日新聞の全訳によりました。
 下線、赤字は、小坂による。

****以下、演説****

 国王王妃両陛下、皇太子皇太子妃両殿下、ノルウェーのノーベル委員会のみなさん、米国民のみなさん、そして世界の市民のみなさん。

 この栄誉を、私は深い感謝と非常に謙虚な気持ちで受ける。これは、世界のすべての残酷なことや困難にもかかわらず、我々は単なる運命の囚人ではない、という高い志を示す賞だ。我々の行動には意味があり、歴史を正義の方向へと向けることができる。

 しかし私は、みなさんの寛大な決定が、かなりの論争を生み出したことを認めないわけにはいかない。それはまず、世界の舞台での私の仕事が緒についたばかりで、終わっていないためだ。シュバイツァー氏(医師)やキング氏(牧師)、マーシャル氏(元米国務長官)、マンデラ氏(元南ア大統領)といった、この賞を受けた歴史上の偉人たちに比べて、私が達成したものはきわめて小さい。そして世界には、正義を求めて投獄されたり暴行を受けたりする男女や、人々の苦しみを和らげるために人道組織で苦労しながら働く人々、勇気と思いやりをもった静かなる行動で、最もかたくなな皮肉家の心さえ動かす何百万もの名もなき人々がいる。私は、これらの男女――名が知られた人もいるし、助けている相手にしか知られていない人もいる――が私よりもこの名誉に値すると考える人々に、反論できない。

 しかし恐らく、私の受賞に関する最も深い問題は、私が二つの戦争のただ中にある国の軍最高司令官だという事実だ。これらの戦争の一つは幕を閉じようとしている。もう一つは米国が望んだのではない紛争であり、さらなる攻撃から米国自身、そしてすべての国を守る努力として、ノルウェーを含む他の42カ国が参加している紛争だ。

 我々はなお戦時下にあり、私には、遠い地での戦いに何千人もの米国の若者を送り出している責任がある。その中には、殺すことになる者もいるだろうし、殺されることになる者もいるだろう。だから私は、武力紛争に代償が伴うことを切に感じつつ、ここに来ている。戦争と平和の関係や、戦争を平和に置き換える努力についての難問を抱えて、だ。

 さて、これらの問いは新しいものではない。どんな形であれ、戦争は最初の人類とともに登場した。歴史の始まりにおいては、その道義性は問われなかった。干ばつや疾病のように、単なる事実にすぎなかった。部族、そして後には文明が、お互いに権力を追い求め、不一致を解決するための方法だった。

 やがて、法によって集団内での暴力の制御が模索されるようになり、哲学者や聖職者、政治家らは戦争の破壊的な力を規制しようとした。正しい戦争」という概念が生まれ、一定の条件が満たされる場合にのみ戦争は正当化されるとされた。つまり、最後の手段または自衛として行われ、武力の使用が(目的に)釣り合うものであり、可能な限り、民間人に暴力が及ばないように行われなければならないというものだ

 歴史の大部分において、この「正しい戦争」という概念は、めったに守られなかった。互いに殺し合う新しい方法を考えつく人間の能力は、容姿が違いや信仰の異なる人々に慈悲を示さない能力と同様、尽きることがなかった。軍隊同士の戦争は、国家間の戦争に取って代わられた。戦闘員と民間人との区別があいまいになる全面戦争である。30年の間に、そのような大量殺害が2度、この大陸を席巻した。(ドイツ)第三帝国と枢軸国を倒すこと以上に正当な理由は見いだし難いとはいえ、第2次世界大戦は、戦死した民間人の数が、死亡した兵士の数を上回った戦争だった。

 そのような破壊と、核兵器の時代の到来で、勝者と敗者双方にとって、さらなる世界大戦を防ぐための機構が必要だということが明らかになった。そして、ウッドロー・ウィルソン元米大統領がこの賞を受賞したアイデアである国際連盟を米上院が拒否してから四半世紀後、米国は平和を維持するための仕組み作りで世界をリードした。マーシャルプランと国際連合、戦争遂行を統制する機構、人権を守り、集団殺害を防ぎ、最も危険な兵器を制限する諸条約だ。

 さまざまな意味で、この努力は成功した。確かに悲惨な戦争が起こり、残虐行為も行われた。しかし、第三次世界大戦は起きていない。歓喜に満ちた群衆によって壁は倒され、冷戦は終結した。商業によって、世界の大部分がつながれた。何十億人が貧困から脱出した。自由、自己決定、平等、そして法の支配といった考えは、たどたどしくも前進した。私たちは、過去の世代の不屈の精神と先見の明の継承者だ。そしてこれは、私自身の国が誇るに値する遺産だ。

 しかし、新しい世紀に入って10年がたち、この古い構造物は新たな脅威の重みに押しつぶされつつある。世界はもはや二つの核超大国の間での戦争のおそれに震えることはないかもしれないが、核の拡散は、大惨事の危険性を増大させうる。長い間、テロリズムは戦術だったが、現代の科学技術によって、不相応に大きな憎悪に駆られた少数の者たちが、恐るべき規模で罪のない人々を殺害できるようになった

 さらに、国家間の戦争は急速に国家内の戦争に取って代わられつつある。民族や宗派間の紛争の再びの台頭、分離独立運動や反乱、失敗国家の増加。これらはいずれも終わりなき混乱に民間人をどんどん巻き込んでいる。今日の戦争では、兵士より多数の民間人が殺される。将来の紛争の種がまかれ、経済は荒廃し、市民社会はずたずたに引き裂かれ、難民は増加し、子どもたちが傷ついている。

 今日私は、戦争の問題について明確な解決方法を持ち合わせていない。私が知っているのは、これらの困難に立ち向かうには、何十年も前に勇敢に行動した男女が持っていたのと同じ構想力や勤勉さ、粘り強さが必要だということだ。そして、それは私たちに、正しい戦争の観念と、正しい平和をもたらすという急務について、新しい思考を求めるのだ。

 我々は、厳しい真実を認めることから始めなければならない。我々が生きている間には、暴力を伴う紛争を根絶することはできないという真実だ。一国による行動であろうと、複数国の共同行動であろうと、武力行使が必要なだけではなく、道義的に正当化されると国家が考える場合が出てくるだろう

 私はこの発言を、ずいぶん前にマーティン・ルーサー・キング牧師がこの授賞式で語った言葉を胸に行っている。彼は「暴力は決して恒久的な平和をもたらさない。それは社会の問題を何も解決しない。それはただ新たな、より複雑な問題を生み出すだけだ」と言った。キング牧師が生涯をかけた仕事の直接の結果としてここにいる者として、私は非暴力が持つ道義的力の体現者だ。私は、ガンジーとキング牧師の信条と人生には、何ら弱いものはなく、何ら消極的なものはなく、何ら甘い考えのものはないことを知っている。

 しかし、私は、自国を守るために就任した国家元首として、彼らの先例だけに従うわけにはいかない。私はあるがままの世界に立ち向かっている。米国民への脅威に対して、手をこまねいてることはできない。間違ってはいけない。世界に邪悪は存在する。非暴力の運動では、ヒトラーの軍隊をとめることはできなかっただろう。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を置かせることはできない。武力行使がときに必要だと言うことは、冷笑的な態度をとることではない。それは人間の不完全さと、理性の限界という歴史を認めることだ

 多くの国々では、理由はどうであれ、今日軍事行動をめぐって深く相反する感情がある。だから、私はこの点を提起する。時にこれは、唯一の軍事大国である米国への反射的な疑念を伴う。

 しかし、世界は思い出さねばならない。第2次大戦後の世界に安定をもたらしたのは、国際機関だけや、条約や宣言だけではないことを。我々は誤りも犯したかもしれないが、事実として、米国は60年以上に及んで自国民の流した血と軍事力によって、世界の安全保障を保証する助けになってきた。米国の男女の兵士による献身と犠牲が、ドイツから韓国に及ぶ平和と繁栄を促し、バルカンのような場所に民主主義が根を下ろすのを可能にしてきた。我々がこうした負担を背負ってきたのは、我々の意思を押しつけたいからではない。我々がそうしてきたのは、見識ある自己利益のためだ。つまり、我々の子孫のためによりよい未来を求めるからだ。他国の子どもや孫たちが自由と繁栄のうちに暮らせたならば、我々の子孫の暮らしもよりよくなるだろうと信じるからだ。

 そう、だから戦争の手段というのは、平和を保つうえで役割を持っている。しかしこの真実は、また別の真実と共存せねばならない――いかに正当化されようとも、戦争は人類に悲劇をもたらすという真実とである。兵士たちの勇気と犠牲は栄光に満ち、国家、大義、戦友への献身を表す。しかし、戦争それ自体は決して輝かしいものではないし、我々は決してそのように持ち上げてはならない。

 したがって、我々の課題の一つは、これら一見矛盾する二つの真実――戦争は時に必要であり、また戦争はあるレベルにおいて人間の愚かさの発露だという真実――を調和させることだ。具体的にいえば、かつてケネディ大統領が呼びかけた課題に努力を振り向けなければならない。彼は語った。「人間の本性の急激な変化に基づくものでなく、人間のつくる制度の段階的な進化に基づいた、より実際的で、より達成可能な平和を目指そう」と。

 人間の作る制度の段階的進化。この進化とはどんなものだろう? これらに向けた実際的なステップは何か?

 まず最初に、私は強い国も弱い国も同じ様に、すべての国は武力行使を規定する基準を厳守しなければならないと信じる。私は、ほかの国の元首と同様、もし自国を守るために必要ならば一国で行動する権利を留保する。しかしながら、基準を厳守するものは強くなり、厳守しないものは孤立し、弱体化すると確信している。

 世界は9・11後、米国のそばに結集した。そして、米国のアフガニスタンにおける取り組みを引き続き支援している。無分別な攻撃への憎悪や広く認識された自衛原則からだ。同様に世界は、サダム・フセインがクウェートに侵攻した時に彼に対決する必要を認めた。それは、侵略の代償についての明確なメッセージを送る世界の総意でもあった

 さらに米国は、いや実際どんな国でも、自らが規則に従うことを拒めば、他国に規則に従うように主張できない。規則を守らなければ、我々の行動は恣意的(しいてき)に映り、正当化されうる場合でも、将来の介入の正当性を損なう

 この点は、軍事行動の目的が、自衛や、侵略を受けた国の防衛の範囲を超える時に、特に重要となる。我々はみな、政府による自国民の虐殺をどう防止するか、暴力や被害が地域全体を巻き込むような内戦をどう食い止めるかといった難問に直面するケースがますます増えている

 私は、バルカンや、戦争で傷ついた他の場所でそうであったように、人道的な見地からの武力行使は正当化できると信じる行動をしないことは我々の良心を引き裂き、後により高くつく介入へとつながりうる。だからすべての責任ある国は、明確な任務を与えられた軍隊が平和を維持するために果たすことができる役割を認める必要がある

 世界の安全保障に対する米国の決意は揺るがない。しかし、脅威が拡散し、やるべきことがより複雑になった世界では、米国だけで平和を確保することはできない。それはアフガニスタンでも同様だ。テロリズムと海賊行為に、飢えや人々の苦境が重なり合ったソマリアのような失敗国家にもあてはまる。悲しいことだが、今後もそれは不安定な地域の現実であり続けるだろう。

 北大西洋条約機構(NATO)の指導者たちと兵士たち、そしてその他の友好国と同盟国は、アフガンで発揮した能力と勇気を通じて、その事実を明らかにした。だが、多くの国で、こうした任務に当たる人々の努力と、一般市民の相反する感情の間に、溝が存在する。戦争がなぜ不人気なのかは分かっている。だが私は同時に、平和が望ましいという信念だけで平和が達成できることはめったにないことを知っている。平和には責任が必要だ。平和は犠牲を伴う。だからこそ、NATOは不可欠なのだ。だからこそ、我々は国連と地域の平和維持活動を強化せねばならないし、その役割を限られた国に任せてはいけない。だからこそ、我々はオスロやローマ、オタワやシドニー、ダッカやキガリへと、国外での平和維持活動や訓練から帰還した者をたたえるのだ。戦争を起こす者としてではなく、平和を請け負う人たちとしてたたえるのだ。

 武力行使について、最後に1点強調させて欲しい。戦争を始めるという難しい決断をする時も、我々は常にどう戦うかについて明確な考えを持たねばならない。ノーベル賞委員会はこの事実を認識し、赤十字の創設者でジュネーブ諸条約(制定)の原動力となったアンリ・デュナンに最初の平和賞を与えたのだ。

 武力が必要なところでは、我々は一定の行動規範を守ることに道徳的で戦略的な利益を見いだす。ルールに従わない悪質な敵と立ち向かう時も、米国は戦争遂行上の(規範を守る)旗手であり続けなければならない。それが我々と戦う相手との違いだ。それが我々の強さの源泉だ。だから、私は拷問を禁じた。(キューバの)グアンタナモ米軍基地の対テロ戦収容所の閉鎖を命じた。そして、私は米国がジュネーブ諸条約を順守することを再確認したのだ。まさにそうした理想について妥協してしまえば、我々は自分自身を見失ってしまうことになる。そして、それを守るのが困難な時にこそ、我々は理想を守り、敬意を払うのだ。

 戦争の遂行を選ぶ際、我々の頭や心に重くのしかかる問題について、私は時間を割いて話してきた。しかし、そのような悲劇的な選択を避けるための我々の努力に話を移し、正義として持続する平和を築く三つの方法について話したい。

 一つ目は、ルールや法を破る国々に対応する際、暴力ではない形で(その国の)ふるまいを変えさせねばならないということだ。もし持続的な平和を求めるなら、国際社会の言葉は、何らかの意味のあるものでなければならない。ルールを破る政権は責任をとらなければならない。制裁は、真の代償を払わせるものでなければならない。非妥協的な態度にはより強い圧力で対応せねばならない。そして、そのような圧力は、世界が一つにまとまった時にのみ、存在するのだ。

 喫緊の例として、核兵器の拡散を防ぎ、核なき世界を求める努力が挙げられる。前世紀の半ば、各国はある条約に拘束されることに同意した。その内容は明確だ。すべての国は平和的な原子力を利用できる。核兵器を持たない国は所有をあきらめ、核兵器を持つ国は軍縮に向かうということだ。私はこの条約への支持を明言する。それは私の外交政策の中心項目であり、メドベージェフ・ロシア大統領とともに米ロの核保有量を減らそうと努力している。

 一方でまた、イラン北朝鮮などの国がこのシステムをごまかさないよう主張することが、すべての国にとって必要だ。国際法を尊重するという国は、法が守られない状況から目を背けてはならない。自国の安全を大切にする国は、中東や東アジアの軍備競争の危険を無視するわけにはいかない。平和を求める国は、核戦争のためにほかの国が武装するのをただ傍観するわけにはいかない。

 同じ原則は、自国民を残虐に扱うことで国際法を犯している者にも当てはまる。(スーダンの)ダルフールでの集団殺害、コンゴ(旧ザイール)での組織的なレイプ、ビルマ(ミャンマー)での抑圧などは、必ず重大な結果が伴うべきだ。もちろん、対話や外交も行われるだろう。だが、そうした営みが失敗したときには重大な帰結を招くべきなのだ。我々が団結を強めればそれだけ、軍事介入と抑圧の共謀者となるという二者択一に直面しなくても済むだろう。

 そこで私は二つ目の点我々が求める平和の本質について語りたい。なぜなら、平和は単に目に見える紛争がないということではない。すべての個人の持つ尊厳と生来の権利に基づく公正な平和だけが、本当に持続することができるのだ

 この知見こそが、第2次世界大戦後に世界人権宣言の起草者たちを後押しした。荒廃の中にあって、人権が保護されないのなら平和はうわべだけの約束にすぎないと、彼らは悟ったのだ。

 それなのにあまりにも頻繁に、これらの言葉は無視されている。一部の国では、人権はいわば西洋の原則であって固有の文化や自国の発展段階の中では異質のものである、という間違った主張をもとに人権を維持しない口実にしている。そして米国では、自らを現実主義者と称する人々と、理想主義者と称する人々との間の緊張が長く続いてきた。その緊張が示すのは、狭い国益を追求するべきか、世界中で我々の価値を押しつける終わりのない運動をするべきなのか、という厳しい選択だ。

 私はこうした選択肢を拒絶する。自由に話したり、好きなように礼拝したり、自分たちの指導者を選んだり、恐れず集会を開くといった権利が否定されている場所では、平和は不安定なものになると信じる。抑圧された不満が募り、部族や宗教に根ざしたアイデンティティを抑えれば暴力につながりうる。我々はその逆も真実であることを知っている。欧州は自由になった時、やっと平和が訪れた。米国は民主主義国家に対する戦争は一度もしたことがなく、我々と最も密接に関係がある諸国の政府は、彼らの市民の権利を守る。いかに冷静に定義しようとも、人類の希望を否定することは、米国の利益にも世界の利益にもつながらない。

 米国は、様々な国の独自の文化と伝統を尊重しながらも、普遍的な希望のためにいつでも声をあげる。我々は、静かに威厳を保っている(ミャンマーの)アウン・サン・スー・チーのような改革者の証人となる。暴力にさらされながらも票を投じるジンバブエ人の勇気や、イランの通りを静かに行進した何十万の人々についても証人になる。これら政府の指導者は他のいかなる国家の力よりも、自国民の希望を恐れるということがわかる。そして、希望と歴史に根ざしたこれらの運動に対して、我々が味方であることを明らかにするのは、すべての自由な国民と自由主義諸国の責任だ

 もう一つ言わせてほしい。人権の促進は、言葉で熱心に説くだけでのことではない。時には、困難な外交と組み合わせなければならない。抑圧的な政権と対話すれば、憤りの純粋さという満足感に欠けることは私も分かっている。しかし、相手に手を差し伸べずに制裁を科すことや、議論を経ないままの非難が、ひどい現状を継続するだけになりうることもわかっている。開かれた扉という選択肢がなければ、どんな抑圧的な体制も新しい道を進むことはできない

 文化大革命の戦慄(せんりつ)を考えると、ニクソン(元米大統領)が毛沢東(元中国主席)と会ったことは弁解の余地がなかったように見える。だがその会談が、何百万人もの中国国民を貧困状態から引き上げ、中国を開かれた社会とつながる道に乗せる助けになったのは確かだ。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世がポーランドと対話したことは、カトリック教会だけでなく、レフ・ワレサ(元大統領)のような労働指導者にも(活動の)場を作った。ロナルド・レーガン(元米大統領)が軍縮に取り組み、ペレストロイカ(改革)を受け入れたことは、ソ連との関係を改善しただけではなく、東欧全体の反体制派に力を与えた。ここに単純な公式はない。しかし我々は、孤立と関与、圧力と報奨のバランスをとるよう最善の努力をして、時をへて人権と尊厳が前進していくようにしなければならない

 (下のブログにつづく)

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オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説全文 (2)

2009-12-12 12:38:38 | 国政レベルでなすべきこと

 三つ目に、正義としての平和とは、市民的・政治的権利だけではなく、経済的な安全と機会を含まなければならない。というのも、真の平和とは恐怖からの解放だけでなく、欠乏からの自由でもあるからだ

 開発は、安全なしには根付かないということは疑いようのない真実だ。生きるのに必要な食糧やきれいな水、医薬品や寝場所が手に入らないところに安全は存在しないのも事実だ。子どもたちがまっとうな教育や、家族を養える仕事を望めないところにも安全は存在しない。希望の欠如は、社会を内側から腐らせうる。

 だからこそ、農民による食糧供給や、国家による子どもの教育、病人への医療を支援することは、ただの慈善事業ではないのだ。同様に、だからこそ、世界が一緒に気候変動に立ち向かわなければならない。もし我々が何もしないなら、この後何十年にもわたって一層の紛争の原因となるような、干ばつや飢饉、大規模な避難民の発生に直面することになるいうことには、科学的にはほとんど争いがない。科学者や運動家たちだけが迅速で力のある行動を求めているのではない。わが国や他国の軍指導者も、これに共通の安全保障がかかっていることを理解している。

 国家間の合意強い組織人権への支持開発への投資。これらすべてが、ケネディ大統領が言及した進化をもたらすのに不可欠な材料だ。とはいえ、さらなる何かがなければ、我々がこの仕事を成し遂げるための意志や持久力を持つとは思わない。それは、我々が倫理的な想像力の広げること。そして、我々みんなが共有し、奪い得ないものがある、ということへのこだわりだ。

 世界がより小さくなるにつれ、人類はいかに似通っているかということが認識しやすくなるだろうと思うかもしれない。我々は基本的に同じものを求めていること、すなわち、自分と家族にとっての幾ばくかの幸福と満足感をもって人生を送る機会をみんなが望んでいることが理解しやすくなると思うかもしれない。

 だが、めまいがするようなペースでグローバル化し、近代という文化的な平準化が進んでいることを考えると、人々が、自らが慈しむ特定のアイデンティティ――自らの人種、部族、そして一番強いであろう宗教――を失うのではないかと恐れることは驚きではない。その恐怖が紛争につながった場所もある。時には、我々は昔に逆戻りしているのでないかとさえ感じることもある。それは、中東では、アラブ人とユダヤ人の間の紛争が激化する中に見られる。部族の境界で引き裂かれている国家にも、そうしたことが見られる。

 そして最も危険なことに、イスラム教という偉大な宗教をねじまげ、汚してきた者たち、アフガニスタンから私の国を攻撃した者たちによる罪のない人々の殺害の正当化に、宗教が使われるというやり方にもそれが見られる。この過激主義者たちは、神の名の下に殺人を犯した最初の者たちではない。十字軍の残虐ぶりは十分記録に残っている。だが、それらは、聖戦は正義の戦争にはなり得ないということを思い出させてくれる。というのも、もしも神聖な神の意志を実行していると本当に信じているならば、抑制の必要がないからだ。(神の意志ならば)妊婦や医者、あるいは赤十字社の職員、さらには自分と同じ信仰を持つ人に対しては危害を加えないとする必要もない。そうしたゆがんだ宗教の見方は、平和の概念と相いれないだけではなく、信仰の目的自体とも矛盾すると私は信じる。というのも、すべての主な宗教の中核にある法則は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということであるからだ。

 この愛の法則に従おうとすることは、常に人間にとって本質的な闘いであった。我々は誤りに陥る。間違いを犯し、自尊心、権力、時には邪悪の誘惑に屈する。最も善意を持った人びとも、目の前の悪をただすことができないときはある。

 だが、人間の性質は完全であると考えなくても、人類が置かれる環境を完全にしうると信じることはできる。世界をより良い場所にする理想を追求するために、理想化された世界に住む必要はない。ガンジーやキング牧師のような人々がとった非暴力は、いかなる状況でも現実的で可能なことだとは言えなかったかもしれない。しかし、彼らが説いた愛――人間の進化に関する彼らの根源的な確信、それこそが、常に我々を導く北極星であるべきなのだ。

 なぜなら、もし我々がこの信念を失ったら――それをばかなもの、幼稚なものとして退け、戦争と平和の問題について下す決断とは無縁だとしてしまえば、その時我々は、人類にとって最善のものを失ってしまう。我々は可能性への意識を失う。我々は倫理の羅針盤を失う。

 我々の先人の幾世代もがそうだったように、我々はそんな未来は拒否しなければならない。何年も前に、キング牧師がノーベル平和賞授賞式で語った。「私は歴史のあいまいさに対する最終回答として絶望を受け入れることを拒む。『いまこうあること』が人間の今の状態だから、人間の前に永遠に立ちはだかる『こうあらねばならない』というものに達することは道徳的に不可能だとする考え方は受け入れない」。こうあるべき世界を目指そうではないか。我々の魂をなお揺り動かすあの神の輝きに到達しようではないか。

 今日もどこかで、武器の数で圧倒的に不利な状態にあっても平和を保つため踏みとどまっている兵士がいる。今日もこの世界のどこかで、政府の残忍さを知りながら抗議のデモ行進をする勇気を持つ若い女性がいる。今日もどこかで、貧困に打ちのめされながらも、それでも自分の子どもに教える時間を作り、なけなしの小銭をはたいて学校に行かせる母親がいる。こんな残酷な世界であっても、子どもが夢見る余地は残っていると信じているからだ

 そんな彼らを見習っていこうではないか。常に抑圧はあることを認めながらも、正義を追求することはできる。手に負えない欠乏があることを認めながらも、尊厳を追求することはできる。曇りなき目で見れば、これからも戦争があるだろうことを理解しつつ、平和を追求することはできる。

 我々にはできる。なぜなら、それこそが人間の進歩の物語であるからだ。それこそが全世界の希望だ。この挑戦の時、それこそが、この地球で我々がやらなければならない仕事なのだ。

 どうもありがとう。

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『ブッシュからオバマヘ アメリカ変革のゆくえ』

2009-12-12 04:13:51 | 国政レベルでなすべきこと
 2009年1月20日、厳寒のワシントンにおいて、初のアフリカ系大統領オバマ氏の就任演説がなされた。建国の理念を、歴史の被害者たる黒人による抗議としてではなく、白人有権者も同調可能な言葉として正面から掲げ、国民統合(多元的統合)を米国民に訴えたのであった。多元的統合とは、具体的には、公共的討議空間には個々の文化的選好間の優劣問題を極力持ち込まないことを提案している。
 私も、日本時間深夜、固唾を呑んで、オバマ氏のスピーチを聞き入った。その日の日記には、「演説を聴いていて、オバマ氏の言霊がジーンと伝わってきました。私は、米国人ではありませんが、もし米国人なら、オバマ氏と、経済の難局をともに乗り切って行きたいという思いを抱きました。そして、命がけで、米国の改革に取り組む姿に対し、厚く敬意を表します。」と感想を述べ、オバマ氏が述べたことは、二語でいうと、CHANGE(変革)とUNITY(団結)であったと書きおいていた。
 現代史は、第二次世界大戦、ベトナム戦争、冷戦の終焉に匹敵する構造的変容の季節を迎えている。また、金融・経済危機も文明史的な規模と深さとなり、世界のいたるところで信用が崩壊し、投資意欲が地を這う状況の中で、保護主義に陥ることなく国内経済をたて直し、諸外国と強調しつつ経済復興をはかってゆくのかが、問われている。
 このような人類史の一大転換期に世界的な期待感に押し上げるようにして誕生したオバマ政権の課題は、対外的には、個別具体的な政策目標をブッシュ政権時代の単独主義によらずに、多国間協働主義に則って追及していくと同時に、アフガンーイラク戦争と米国発の金融危機とによって地に落ちた米国の道義性、信頼性を回復して行くことにあろう。当面は、それら金融経済危機とイラク戦争の終結が最優先の課題であるが、それ以外にも、地域環境問題、核拡散・核軍拡の防止、国際司法制度の確立による戦争犯罪の防止などの諸課題が重要かつ切迫している。
 米国内では、長期の戦争と経済破綻が生み出した国内社会の亀裂を修復しなくてはならない。米国の限界をいかに認識し、自国の「自由と民主主義」をいかに再定義・再構築していくかという課題が問われている。
 就任後、オバマ大統領は、当面する政治問題を、1)その背景やその解決に伴う困難も含めて正確に、正直にわかりやすく国民に伝え、2)決定システムを透明にし、3)大統領令や党派的投票など政策手段の迅速かつ的確な選択により政策展開のスピード感をもたせる現実主義的リーダーシップを生かして来た。まさしく、日本の政治でもリーダーに求められる資質であるが、近くの政治を見る限り、1)情報は、伝えられず、2)決定のプロセスも明かされず、3)政策展開のスピード感も感じられない。
 対外的には、4月5日プラハにおける演説では、人類史上唯一の核兵器使用国としてのアメリカに言及しつつ核廃絶を訴え、さらに6月4日には訪問先のカイロにおいて、イスラム世界全体に対話と強調を呼びかける画期的な演説を行うなどし、可能な限り多極的な対話のネットワークを構築しようとしてきた。
 今後、オバマ氏の目指す変革を頑強に阻むアメリカ現代史に深く根ざす三つの難題が存在する。
 難題の第一は、対外関係に関わるもので、冷戦時代の遺産、信じがたい規模まで膨れ上がった軍産複合体の存在である。軍産複合体は、アメリカ国家を内側から後押しする勢力であり、治外法権的権力となっており、どこまで民主的統制下におくことができるであろうか。
 難題の第二は、金融・経済危機に対する政策に対して、執拗な抵抗をする議会のレーガン主義者や市場の新自由主義者たちの存在と、さらには、アメリカ文明に深く根ざす消費重視型の経済構造である。この生活様式の克服は、国民生活に一種の文化大革命を迫るに等しい。
 第三の難題は、共和党右派と民主党リベラル派との党派間抗争に起源をもつ政党対立で、この激しい党派対立は、建設的な政治的討議をともなっていない。だからこそ、就任演説で、「政府が大きい、小さい」が問題なのではなく、「政府が機能するかどうか」が問題であるという趣旨を述べたのであろう。
 オバマ政権は、これら難題と対峙して前途はまことに多事多難というほかはない。
 一方、日本も今、政権交代という自国史においてごくまれな政治的チャンスと同時期にあたっている。議員ひとりひとりが、今、政治の現場で起きていることを、ITも利用しながら、国民に伝えていくことの積み重ねで、日本の政治にも「変革」がもたらされると信じる。教会やタウンミーティングなどの自発的組織を通して地域の福祉や貧困問題に取り組む点に、アメリカの民主主義の強さがあるというが、私も地域で勉強会の開催をするなどし、自発的に地域の問題を考えるきっかけ作りをすることを心がけ、それが民主主義の宿る土壌作りの一躍を担えればと考える。
 遂には、日本の民主政治が是非、西太平洋から東アジア全体にわたる広域的秩序構築計画を含む創造的な外交プランをもってオバマ政権に働きかける日が近く来ることを望む。


参考文献:
『ブッシュからオバマヘ アメリカ変革のゆくえ』古矢旬 著、岩波書店、2009年7月30日第1刷発行
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