北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「この親にしてこの子あり」の因果応報

2012-03-13 23:16:03 | Weblog
 「この親にしてこの子あり」と言いますが、この諺には二つの意味があります。

 一つは、「立派な親だから子供も立派だ」という褒める意味で、もう一つはそれとは正反対に、「親がダメだから子供もダメなわけだ」という戒めに使っているものです。

 こういう事を書くと、天に唾するようで常に自分の子育ての結果が問われることになりますが、この諺を使えば自分の子供達の出来が悪くても「せいぜい自分もその程度だから仕方がない」という諦めの理由にもなったりします。 


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 教育では、学校と家庭と地域が大切とよく言われますが、先日釧路で講演をしてくださった、NPO法人教育支援協会代表理事の吉田博彦さんは、「家庭と学校は地域社会の中にある。地域社会が崩壊すれば、学校も家庭も崩壊してしまうのだ」とおっしゃいます。

「家庭で子供が本を読まないがどうすればよいか」と相談に来る母親によく聞くと、母親も本は読まないという。親がテレビを見ている横で黙々と本を読む子はいない」

「子供は学校教育だけではなく放課後に育つのです。子供の意欲や感心、自立の問題は家庭や地域社会の問題であって学校の問題ではありません。親が連携して『みんなでこうしようね』と決め、学校支援に取り組むべきです」

 なるほど、私自身、学校と家庭と地域は三角形で描かれる役割分担のイメージをもっていましたが、これからは「学校と家庭は地域の上に乗っている部分で、地域の力こそを改めて問うと共に、地域の力を高め結集して、教育問題に当たらなくてはならない」という意見も重みを増しているようです。


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 さて、良い地域があればこそ、良い教育も成立して良い子供たちが育つのであって、良い子供たちがいるから良い地域になるわけではありません。

 
 わが心の師匠、二宮尊徳は「元と末を取り違えてはならぬ」と言っています。始まりと終わり、つまり因果の関係を取り違えてはいけないというのです。

 別な言い方では、「善因には善果があり、悪因は悪果を結ぶ」とも言っています。

 ものごとが思い通りにならないのは、因果が正しく結ばれていないから。つまり「瓜を植えてナスを求めているからだ」と尊徳先生は言います。当たり前のことではありませんか。





 報徳には戯れ歌があって、この因果をよく伝えています。

 「米まけば 米の草生え 米の花
     咲きつつ 米の実る世の中」

 「麦まけば 麦の草生え 麦の花
     咲きつつ 麦の実る世の中」

 この米や麦のところには何を入れてもよろしい。例えば、

 「善まけば 善の草生え 善の花
     咲きつつ 善の実る世の中」というわけ。


 しかし、しばしば具合の悪いことには、「今日まく種の結果は、目前に萌さず、目前に現れないで、十年、二十年、四十年、五十年の後に現れるものだから、人々は迷い恐ろしさを感じない。嘆かわしいことではないか」(夜話100段)


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 いかがでしょう、冒頭の「この親にしてこの子あり」は究極の因果の関係ではありませんか。

 良い子を育てるには良い親を育てること。まずは自分自身が良い親になることが長い目で見た時の因果の「因」なのです。
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