北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

大事なことは放課後に~子供は遊べ

2012-03-15 23:12:20 | Weblog
 子供の頃は転校生活の私でしたが、小学校4年生から中学校1年までは、札幌に住んでいました。

 親が公務員だったために二階建て一棟四戸の官舎群に住んで、同じ世代の子供らを集めて放課後は本当に良く遊んだものです。

 年上の子供とは一緒に遊んだ記憶が全くなくて、自分より年下の子供たちとばかり遊んでいたので、いわゆるガキ大将だったのだと思います。

 それでもドラえもんに出てくるジャイアンのようなガキ大将ではなく、まあみんなが楽しく遊べるようなルールに調整したりするような形だったので、調整型のガキ大将といったところでしょうか。

 
 その当時、近所の子供たちの中で流行っていたのがビー玉とパッチ(=メンコ)でした。

 ビー玉の方は、互いにぶつけ合って当てた方が当てられた側のビー玉をもらうという、ホンコ(=本気の意味)の勝負。

 ビー玉を狙うときには、自分のビー玉のある位置から踏み出してはいけないため、一歩を大きく取る「一歩だし」という技を繰り出すのですが、これが玉離れより先に足がついたかどうかはいつも互いにもめる微妙な判定の山。

 また「一歩だし」よりさらに遠くのビー玉を狙う際は、ダイビングしながら空中で狙い投げる「原爆」という技もあって、服はいつも泥だらけ。

 玉がかすったのかどうかもこれまた微妙な判定でしたが、私の裁定では皆の合議制で判定を下していました。

 ちゃんと民主的なやり方で遊んでいましたが、なかには判定に納得できず泣き出すのもいたりして、これをまたなだめるのもガキ大将の仕事。なんだか最後はみんな笑って収めるのが得意でした。





    ※     ※     ※     ※     ※


 「パッチ」の方は、50センチ四方の板の上で、丸い紙のパッチを相手のパッチに投げ当てて外へ飛ばしだすか、ふわりとひっくり返せばもらえる、というルール。

 パッチには黄金バットや鉄人28号、鉄腕アトム、怪傑ハリマオーなどのヒーローがあしらわれていて綺麗だったし、中にはやられてばかりいる強いパッチがあって、「くっそー、鉄人は強いなあ」などと興奮していました。


  【北海道は丸型が多かったけどね】


 
 小学校5年生から6年生にかけては、学校から帰るやいなやランドセルを家の玄関に放り投げて、すぐに近くの子供らと集合するとビー玉やパッチに明け暮れました。

 こちらもまあ勉強もせず、本当によく遊んだもので、やがて子供たちから巻き上げたパッチがミカン箱一箱くらいになり、意気揚々としていました。 


 しかしある日、あまりに勉強もせずに遊びほうけている私の態度に業を煮やした父が、パッチで勝負を挑んできました。

「どら、一枚よこしな。勝負だ」

 こちらも腕に自信があったので、面白がって何枚かあげて父とのパッチ勝負です。

 ところが父の強いこと強いこと!その強さ比類なし。

 こちらは角をぶつけて出す戦法で子供たちから勝っていたのでそれで挑むのですが、父の方はふわりとひっくり返す技に長けていて、こちらの番に失敗すると、ことごとくひっくり返されて取られてしまいます。

 数週間で、ミカン箱一箱あったパッチは全部父親に持って行かれてしまいました。


「はい、これは全部私のもので良いな。じゃ燃やすから」


 そういって父は私から巻き上げたパッチを全部燃やしてしまい、それまで肩が痛くなるくらいやり続けた私のパッチ熱は一気に冷めることとなりました。

 小学校六年生の時に何を習ったかはほとんど覚えていなくても、取られたパッチを全部燃やされたことはいつまでも覚えていて、そのころからビー玉もやらなくなりました。

 思えば、あれが子供からの脱皮のきっかけだったのかもしれません。

 今、当時の官舎はもう壊されていて姿が変わってしまいましたがそのころの風景は今でも脳裏に浮かびます。

 大事なことは案外放課後に学んでいる。

 少なくとも私にとってはそうでした。
コメント
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