北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

シンボルの再建、する・しない

2019-04-16 23:30:03 | Weblog

 【炎上するノートルダム寺院 ロイター】

 

 朝テレビをつけると、ニュースでパリのノートルダム寺院が焼け落ちる様子が映り、衝撃の朝でした。

 全体にゴテゴテとしたゴチック建築の代表建築と言われ、1163年に着工され最終的な竣工は1345年だそう。

 ただ、フランス革命の際に襲撃を受けて一部が破壊され、ファサードの彫刻や屋根の塔など多くが19世紀に改装されて今日に至っていたもの。

 1991年には世界文化遺産に選定されたこともあり、フランスのみならず世界の貴重な財産でしたが、悲しむべき災難でありました。(以上、Wikipediaより)

 フランス政府の威信にかけて修復にとりかかることでしょうし、早速大富豪から修復のための寄付が申しだされているそうです。

 フランスの象徴が再建される日はいつになるでしょう。

 
    ◆


 フランスの象徴がノートルダム寺院であれば、江戸時代の江戸の象徴は江戸城天守閣だったでしょうか。

 江戸城本丸の天守は、徳川家康が改築した後に、慶長(1607年)、元和(1623年)、そして寛永(1623年)と三度築かれましたが、最後に作られた寛永の天守は明暦3(1657年)の明暦の大火によって焼失してしまいました。

 この明暦の大火は火事の多かった江戸時代でも最も大きな火災と言われ、その後のまちづくりにも影響を与えました。

 今も残る「上野広小路」という地名はこのときに火除け地として幅の広い空間づくりを行った名残です。

 さて、明暦の大火のときにも直ちに江戸城天守の再建が計画されました。

 ところがこの時には、幕府の重鎮であった保科正之の「天守は戦のために必要なものであって、もはや無用の長物ではないか」という一言で、再建は中止されました。

 今に残る天守台は高さが6間に縮小されて、加賀藩主の前田綱紀公によって築かれたものですが、そこに天守が建つことはありませんでした。

  【今に残る江戸城天守の天守台】

 当時天守の再建をあきらめた理由は、窮乏する幕府財政を慮ったから、という説もありますが、いずれにしても、当時の江戸幕府には格好をつけている余裕がなかったのだ、ということになるでしょう。

 それにしても、天守閣を「戦いのシンボルだからもういらない」という言い方に、ある意味で平和のありがたみも込められているのではないか、と思います。

 ノートルダム寺院の再建には何年もかかることでしょうが、精神的なシンボルであれば必ず再びあの姿を見られる日が訪れることでしょう。

 再建をする、しないにもいろいろな考え方があるものです。

 

コメント
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