先日、『東海林さだおの味わい方』(東海林さだお著/南伸坊編/2003年12月筑摩書房刊)という本を書店でパラパラ見ていて、買おうと思ったが、結局やめた。
同書は、東海林さだおの膨大な食エッセイの中から、彼のさまざまな食べ物、食材個々に対するユニークな描写・表現をピックアップし、辞典風にまとめたものである。
買おうと思ったのは、わたしが東海林さだおのエッセイの昔からのファンだったからである。
丸かじりシリーズ、ショージ君の男の分別学など、よく読んだものだ。鋭い観察眼、ユニークかつユーモラスな表現、読者の理解の間合いを読んだ絶妙の筆運び、彼は漫画家であるが文の達人でもあったのだ。
実際、このサイトでの拙文の中には東海林さだおの口調(文体)をマネたものもある。
ついでに言うと、これまでわたしが面白いと思って読み、モデルにしたいと思っているエッセイストは、ほかには向田邦子と山本夏彦がある。最近、阿川佐和子、藤原新也、今村葦子もいいなと思っている。
それはともかく、『東海林さだおの味わい方』を買うのをやめたのは、引用箇所が部分的、かつ断片的にすぎると思えたからである。
例えば「大根」の項目である。具体的な表現は手元にその本がないので正確ではないが、要するに大根はだらしがないという。自分はこうなりたい、こう生きたいという目的、方針というものが感じられない。形も凡庸であるというのだ。
例えば蓮根を見てごらんなさい。同じ土の中で生きるものとして、要所要所くびれたり、体の中に穴をたくさん空けたり、個性的であろうと努力している。
それに対して大根はただ地中にのび、ふくらんだだけではないか。白いばかりで、色をつけようという気もない。
同書ではここのところを引用しているのである。
それに対して、以前わたしが「週間朝日」の「あれも食いたいこれも食いたい」で読んだ大根をテーマにした彼のエッセイは、内容にもっとふくらみがあった。
これも手元に原文がないので記憶にたよるしかないが、大根には大人(たいじん)の風格がある、というものであった。
自己の個性を声高に主張することはないが、煮てもいい、漬けてもいい(タクアン、味噌漬け、べったら漬けなど)、干してもいい(切干など)、もちろん生でもいい。大根おろしにしても、なますにしてもいい。融通無碍である。
ブリと煮てもイカと煮ても、おでんにしても、相方の個性(旨み)をいやな顔一つせず吸収し、それでいて自分というものを失わない。
オロシとして焼き魚を引き立て、ツマとして刺身を引き立てる。引き立て役に徹していながら、仲間内ではなくてはならない存在である。
(わたしなど大根のせん切りと酒のない刺身なぞ食べなくてもいいとさえ思う)
東海林さだおがエッセイで描いた大根は、自己主張はないかもしれないが各方面で広く迎えられ、驕らず、まわりを引き立て、しかも包容力がある。控え目ながらなくてはならぬ大きな存在であったのだ。
だらしがないとだけいわれたのではかわいそうである。なによりもショージ君の大根観の全体を伝えていない。
東海林さだおの文章は辞典として読むのもいいだろうが、エッセイで読むほうがより面白く味わい深いと思えた次第である。
2004.2.14
同書は、東海林さだおの膨大な食エッセイの中から、彼のさまざまな食べ物、食材個々に対するユニークな描写・表現をピックアップし、辞典風にまとめたものである。
買おうと思ったのは、わたしが東海林さだおのエッセイの昔からのファンだったからである。
丸かじりシリーズ、ショージ君の男の分別学など、よく読んだものだ。鋭い観察眼、ユニークかつユーモラスな表現、読者の理解の間合いを読んだ絶妙の筆運び、彼は漫画家であるが文の達人でもあったのだ。
実際、このサイトでの拙文の中には東海林さだおの口調(文体)をマネたものもある。
ついでに言うと、これまでわたしが面白いと思って読み、モデルにしたいと思っているエッセイストは、ほかには向田邦子と山本夏彦がある。最近、阿川佐和子、藤原新也、今村葦子もいいなと思っている。
それはともかく、『東海林さだおの味わい方』を買うのをやめたのは、引用箇所が部分的、かつ断片的にすぎると思えたからである。
例えば「大根」の項目である。具体的な表現は手元にその本がないので正確ではないが、要するに大根はだらしがないという。自分はこうなりたい、こう生きたいという目的、方針というものが感じられない。形も凡庸であるというのだ。
例えば蓮根を見てごらんなさい。同じ土の中で生きるものとして、要所要所くびれたり、体の中に穴をたくさん空けたり、個性的であろうと努力している。
それに対して大根はただ地中にのび、ふくらんだだけではないか。白いばかりで、色をつけようという気もない。
同書ではここのところを引用しているのである。
それに対して、以前わたしが「週間朝日」の「あれも食いたいこれも食いたい」で読んだ大根をテーマにした彼のエッセイは、内容にもっとふくらみがあった。
これも手元に原文がないので記憶にたよるしかないが、大根には大人(たいじん)の風格がある、というものであった。
自己の個性を声高に主張することはないが、煮てもいい、漬けてもいい(タクアン、味噌漬け、べったら漬けなど)、干してもいい(切干など)、もちろん生でもいい。大根おろしにしても、なますにしてもいい。融通無碍である。
ブリと煮てもイカと煮ても、おでんにしても、相方の個性(旨み)をいやな顔一つせず吸収し、それでいて自分というものを失わない。
オロシとして焼き魚を引き立て、ツマとして刺身を引き立てる。引き立て役に徹していながら、仲間内ではなくてはならない存在である。
(わたしなど大根のせん切りと酒のない刺身なぞ食べなくてもいいとさえ思う)
東海林さだおがエッセイで描いた大根は、自己主張はないかもしれないが各方面で広く迎えられ、驕らず、まわりを引き立て、しかも包容力がある。控え目ながらなくてはならぬ大きな存在であったのだ。
だらしがないとだけいわれたのではかわいそうである。なによりもショージ君の大根観の全体を伝えていない。
東海林さだおの文章は辞典として読むのもいいだろうが、エッセイで読むほうがより面白く味わい深いと思えた次第である。
2004.2.14