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フォレスト出版 |
・ロバート・H・フランク、(訳)金森重樹
本書の教えるところによれば、財には、「地位財」と「非地位財」の二つの種類があるようだ。私は元々は電気工学が専門だが、経済学関係の本も割と読んでいる。しかし、他書であまりこの概念について書いてあった覚えはない。
ここで、「地位財」はコンテクストの影響を受ける財のことだ。要するに相対的な位置づけが重要だということである。本書に載っている例としては、家の広さがある。他の人が6000平方フィートの家に住んでいる中で、自分だけ4000平方フィートの家に住むのと、他の人が2000平方フィートの家に住んでいる中で、自分だけが3000平方フィートの家に住むのとではどちらが良いかというものだが、絶対値でいえば前者の方が家が広いにも関わらず、ほとんどの人が後者を選ぶという。
これに対して、「非地位財」というのは絶対的な位置づけが重要な財のことだ。これも本書に載っている例だが、他の人が、年間6週間の休暇をもらえる中で、自分だけが4週間の休暇しかもらえないのと、自分は年間2週間の休暇がもらえるのに、他の人は1週間しかないのとどちらが良いかというものだが、これはほとんどの人が絶対数の長い前者を選択したのである。
アメリカでは、近年所得格差がどんどん広がっているという。そして、高所得層は、可処分所得が増えるので、例えば、もっと広い家を持つようになる。この割を食うのが中間所得層以下である。家は、「地位財」だから、高所得層に近接している中間所得層は、その影響で自分たちもより広い家を求めるようになり、それが次々に下位の層に伝搬していく。これでは、少しばかり所得が伸びても、決して生活は豊かにはならない。
考えてみれば、これは日本でも似たようなことはある。例えば勤めている会社の給与水準が、世間一般では平均よりかなり高くても、同期の人間より100円でも給料が安いと、ものすごく不満を持つのではないか。これは、コンテクストの中で、満足、不満足を判断してしまうからだ。
要するに、金をたくさん使えるようになっても、それは、基準が上方にシフトするだけで、決して幸福にはつながらないのだ。本書には面白い例が載っている。経済学者のリチャード・レナードの言葉のようだが、「豊かでない国では、夫の妻への愛情表現は1輪のバラですが、豊かな国ではバラの花束が必要です」(p209)というものである。しかし、いつも花束を贈っていては、それが当たり前になって、ありがたみも薄れるかもしれない(笑)。
著者はアメリカの経済学者なので、アメリカを例に語られているが、これは日本についてもあまり変わりはないように思える。「吾唯足知」、「われただ足るを知る」という禅の言葉がある。京都の竜安寺のつくばいに記されていることでも有名だが、私達はこの言葉をもっと噛みしめなければいけないのではないだろうか。
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※初出は、「風竜胆の書評」です。