本書での主張は、「発達障害と才能は表裏一体」ということだろう。しかし、悪い教師にかかると、障害の方ばかりに目がいき、その才能の方を見ない。これまで天才と呼ばれた人を見ると、小さいころは劣等生だったというものが多い。要するに、教師にその子の才能を見抜く目が無かったということだろう。
偉人の多くはハンデをかかえていた。しかし彼らはハンデを克服して偉人になったのではない。ハンデがあったからこそ偉人になったのである。タイトルにあるニューロダイバーシティというのは脳神経系の多様性と思えばいいようである。これに対していわゆる健常者、つまり多数派は、NT(定型脳)を持っていると言われる。要するに、多数派の中で、少数派は障害というレッテルを張られるのである。しかし、それにはっきりした基準があるわけではない。
道尾秀介さんの小説に「片眼の猿」というものがある。元々はヨーロッパの民話のようだが、片眼の猿の国では両眼の猿の方が異常に見えるのである。発達障害というのは多数派とは違うということだ。
本書で紹介されるのはエジソン、坂田三吉、アインシュタイン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、アンデルセン、ベル、ディズニー、モーツアルトといった8人の天才たち。どれも障害を持っていた可能性が高い。例えば、エジソンは注意欠陥障害を疑われるし、坂田三吉は明らかな読み書き障害(ディスレクシア)を持っていた。アインシュタインの場合は脳が保存されていたということだが、大脳の前頭葉に障害が発見されている。その他の人物も障害のあることが推測されるらしい。
ちょっとこの部分は異論がある。昔はクラスの中に一人ふたりは「けったいな」子がおり、著者の同級生にも小学1年のころ、水飲み場でいきなりおしっこを始めた子がいたという。その子は、科目の成績が良くなかったが数学だけはでき、大学まで同じところに通うようになったという。しかし、著者が通ったのは大阪大学だ。いくら数学が良くできたとしても旧帝大にはそれだけでは入れない。他の科目も人並み以上にはできたと考えるのが妥当だろう。あまり良い例とは言えないのではないか。
そして、これは、教育を担当しているお役人に聞かせたい言葉だ。
「この本の原稿を書きつつ、今まで紹介してきた天才と呼ばれる人の人生を改めて振り返ってみると、一つの共通した特徴に気がつく。それは、成功を遂げるにあたり、学校教育が何らかの貢献をしたケースが、どれ一つとして見当たらないということである。」(p221)
これは分かりそうな気がする。学校の教師は、凡人なのだろう。だから、後に天才と呼ばれる人たちの、今できないことばかりに注意が行き、彼らの才能に目を向けることはなかったのだ。これまで幾人の天才が学校教育によりつぶされてきたのだろう。
残念なのは、表紙がイロモノのようなことだ。おそらくこれはモーツアルトなんだろうが、内容までイロモノに見えるのではないか。本自体は、人間とは多様性があり、人と違っていてもいいじゃないかということがよく分かる。金子みすゞさんではないが、「みんな違ってみんないい」なのだ。
☆☆☆☆