本書を一言で表せば天野為之と言う人の伝記である。私は寡聞にして天野為之と言う人を知らなかったのだが、表紙カバーには「日本で最初の経済学者」とある。
私は電気工学が主専攻だが、放送大学で色々と勉強している。経済学についても副専攻くらいには勉強しており、有名どころの名前くらいは、一応押さえていると思う。しかし、どれだけ頭の中をひっくり返してみても天野為之という名前は出てこないのだ。だからどんな人だろうと興味が湧いたというわけである。
天野は佐賀県は唐津の人である。ただし生まれたのは江戸。つまり東京生まれという訳である。父が、唐津小笠原藩の藩医だったからだ。しかし、その後明治維新の頃に、父が病死したので、一家で唐津に引き上げ、その後東京大学(その前身を含む)へ入学するために再び上京することとなる。
天野は、東京大学の文学部に進んだ。当時は経済学部というのはなかったようだ。明治の初め頃の大学教育に活躍したのは、いわゆるお雇い外国人だ。天野もお雇い外国人から教わり、教科書には英語の本を使った。そのようなお雇い外国人の一人にあの有名なフェノロサがいる。フェノロサというと、私の記憶には、岡倉天心とともに、狩野芳崖の悲母観音を描く話くらいしかない。でも天野がフェノロサから学んだのは経済学。
そして、彼の学位は法学博士。経済学博士でないのは、当時は経済学と言う学問が独立していなかったためだろう。彼の文筆活動などが評価され、博士推薦会で博士に推薦されたようだ。これについては、現在の博士論文を出してそれにもとづいて学位が与えられるというシステムと大分違うと思ったが、近代日本の黎明期はそんなものかもしれない。
その他彼は教育の分野でも活躍した。東京専門学校(のちの早稲田大学)の設立に尽力し、初代商科長を務めている。
巻末には年表もあるので、いつ天野が何をしたのかが分かりやすい。
ここで持論を一つ披露したい。
博士、修士、学士などの学位は、各大学もしくは学位授与機構が与える。
教授、准教授、助教などの職位は各大学等で与える。
それでは学者という二つ名は誰が与えるものなのだろう。学位があるから学者なのだろうか。大学等で教えているから学者なのだろうか。どちらも満たしていなくても、あの人は学者だと言えるような人がいる。例えば、地方の非常にミクロな歴史などは、ほとんど注目されないが、地道に研究している人はいるのだ。要するに学者とはその人の生きざまにも大きく関わってくるのではないだろうか。もっとも、政治や経済に関するような社会科学の場合は、その判定はなかなか難しいのではあるが。ただそういった意味からは、天野は経済人・教育者かもしれないが「学者」と呼ぶことには「?」が頭の周りを飛び交ってしまう。
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