皆さん、こんばんわ。
今日は昨日に引き続き、「貨物機の牽く客車列車」をお届けします。
総数202輌が製造され、東海道や近畿、首都圏を闊歩していたEF15ですが、昭和60年には全国からほぼ姿を消してしまい、高崎第2機関区に165号と200号の2輌が残るのみとなっていました。両機は、両毛線や吾妻線専用のような運用となってなっていましたが、両線とも既に貨物営業はなくなっており、工臨が主な仕業となっていました。
そんな中、EF15にスポットライトの当たる時が巡ってきました。団体のサロンエクスプレスの入線にあたり、EF15の仕業が組まれたのです。私の記憶では、この時が初めての組み合わせだったと思います。
では、そのときの写真をどうぞ。
撮影は、すべて昭和60年2月9日です。
吾妻線 長野原~川原湯間にて (2枚とも:駅名は当時標記)
吾妻線 小野上~祖母島間にて
この日はあいにく、雨又はみぞれのようなカメラマンにとって一番うっとうしい天気でした。どうせだったら雪のほうが良かったのですが・・・。それでも、このイベント並みの組み合わせは、ファンを集めるには十分すぎるシチュエーションでした。しかも、もう1台の僚機である200号機も工臨として運転されたため、天気の不良にも拘らず、かなりの人手がありました。
これはオマケです。
吾妻線 小野上~祖母島間にて EF15200の牽く工臨。
これは、追っかけで追いつき、サロンエクスプレスを待っていたら、偶然来たので撮りました。(運用があるとは知りませんでした。)
※実物の写真はもう少し明るいのですが、スキャニングの都合で暗くなってしまいすみません。
EF15が牽く客車列車としては、隅田川~汐留間の荷物列車牽引が有名でしたが、EF16改造前の時代の補機や紀勢線の荷物+貨物の混合などの特殊用途を除いては、まず客車を牽く機会のなかったカマでした。この引退間際になってのサロン牽引の運用は、彼らにとっても良き思い出となったことでしょう。そして、両機引退後は、電化区間にも拘らず、ディーゼル機関車であるDD51が務めるようになりました。
今日は昨日に引き続き、「貨物機の牽く客車列車」をお届けします。
総数202輌が製造され、東海道や近畿、首都圏を闊歩していたEF15ですが、昭和60年には全国からほぼ姿を消してしまい、高崎第2機関区に165号と200号の2輌が残るのみとなっていました。両機は、両毛線や吾妻線専用のような運用となってなっていましたが、両線とも既に貨物営業はなくなっており、工臨が主な仕業となっていました。
そんな中、EF15にスポットライトの当たる時が巡ってきました。団体のサロンエクスプレスの入線にあたり、EF15の仕業が組まれたのです。私の記憶では、この時が初めての組み合わせだったと思います。
では、そのときの写真をどうぞ。
撮影は、すべて昭和60年2月9日です。
吾妻線 長野原~川原湯間にて (2枚とも:駅名は当時標記)
吾妻線 小野上~祖母島間にて
この日はあいにく、雨又はみぞれのようなカメラマンにとって一番うっとうしい天気でした。どうせだったら雪のほうが良かったのですが・・・。それでも、このイベント並みの組み合わせは、ファンを集めるには十分すぎるシチュエーションでした。しかも、もう1台の僚機である200号機も工臨として運転されたため、天気の不良にも拘らず、かなりの人手がありました。
これはオマケです。
吾妻線 小野上~祖母島間にて EF15200の牽く工臨。
これは、追っかけで追いつき、サロンエクスプレスを待っていたら、偶然来たので撮りました。(運用があるとは知りませんでした。)
※実物の写真はもう少し明るいのですが、スキャニングの都合で暗くなってしまいすみません。
EF15が牽く客車列車としては、隅田川~汐留間の荷物列車牽引が有名でしたが、EF16改造前の時代の補機や紀勢線の荷物+貨物の混合などの特殊用途を除いては、まず客車を牽く機会のなかったカマでした。この引退間際になってのサロン牽引の運用は、彼らにとっても良き思い出となったことでしょう。そして、両機引退後は、電化区間にも拘らず、ディーゼル機関車であるDD51が務めるようになりました。