こんばんわ。
この時間も霧雨が降っています。
関東は晴れることになっているんですが、どうでしょうか?外回りなので、雨は勘弁してもらいたいです。
さて、今日は近々ネタがないので、久し振りに旧型国電を引っ張り出しました。
飯田線の中でも後期では珍車中の珍車であるクモハユニ64です。
モハユニ61として誕生した郵便・荷物・客車の合造車。計3両が誕生しますが、折りしも第二次世界大戦の物資不足によりモーターを搭載することが出来ず、モハユニを名乗りながら「クハユニ」としての人生を歩みます。
戦後も物資不足が祟り、3両中の2両は電装化されないまま正式にクハユニとなり、クハユニ56010番代として最後まで人生を送ることになります。
一方、残された1両は幸運にも電装化されることになり、モハユニ61として本来の姿でありながら特異な道を歩むことになります。
昭和34年の称号改正によりクモハユニ44100番代に編入されますが、昭和36年に後位に運転台を増設、その際にクモハユニ64の唯1両の称号が与えられます。
大糸線などで活躍しましたが、晩年は飯田線に転入。転入時はぶどう色2号の塗装で異彩を放っていましたが、スカ色に改められています。
昭和56年11月22日 東上~江島間にて
昭和56年11月23日 不明
昭和58年4月17日 向市場~城西間にて
昭和58年6月28日 田切駅にて
唯1両の特殊な車両の割りに、出逢う機会は多かったようです。
戦争の混乱の中で数奇な運命を辿ることになってしまったモハユニ61ですが、最後は兄弟のクハユニ56010番代と飯田線で再会し、晩年を3兄弟で共に生き抜くことができました。
この時間も霧雨が降っています。
関東は晴れることになっているんですが、どうでしょうか?外回りなので、雨は勘弁してもらいたいです。
さて、今日は近々ネタがないので、久し振りに旧型国電を引っ張り出しました。
飯田線の中でも後期では珍車中の珍車であるクモハユニ64です。
モハユニ61として誕生した郵便・荷物・客車の合造車。計3両が誕生しますが、折りしも第二次世界大戦の物資不足によりモーターを搭載することが出来ず、モハユニを名乗りながら「クハユニ」としての人生を歩みます。
戦後も物資不足が祟り、3両中の2両は電装化されないまま正式にクハユニとなり、クハユニ56010番代として最後まで人生を送ることになります。
一方、残された1両は幸運にも電装化されることになり、モハユニ61として本来の姿でありながら特異な道を歩むことになります。
昭和34年の称号改正によりクモハユニ44100番代に編入されますが、昭和36年に後位に運転台を増設、その際にクモハユニ64の唯1両の称号が与えられます。
大糸線などで活躍しましたが、晩年は飯田線に転入。転入時はぶどう色2号の塗装で異彩を放っていましたが、スカ色に改められています。
昭和56年11月22日 東上~江島間にて
昭和56年11月23日 不明
昭和58年4月17日 向市場~城西間にて
昭和58年6月28日 田切駅にて
唯1両の特殊な車両の割りに、出逢う機会は多かったようです。
戦争の混乱の中で数奇な運命を辿ることになってしまったモハユニ61ですが、最後は兄弟のクハユニ56010番代と飯田線で再会し、晩年を3兄弟で共に生き抜くことができました。
写真だと思いますよ。
今では考えられない光景でしょうねぇ。
両運転台フェチな私には、運転台後ろの戸袋窓がツボかも。w
この車両を見てたら、地元の指宿枕崎線を走ってた珍車
「キハ25-654・655」を思い出しましたよ。
・キハ25の車内前部に簡易荷物車用のアコーディオンカーテン装備。
・基本的には枕崎直通運用担当。
乗車する機会も少なかったし、キハ47に置き換えられてから、
しばらくして志布志に移ったようです。
カメラに写しておけば…と後悔の車両でしたね。
思い出せないのですが、確かに職員が居たのは知っていますけど、こんな駅員も居ない駅になんでこの人が居たんだろう?服装からして検査係(軽微な電車の不具合を走行中に治す)じゃないかと思うので、治ったからこの駅で下車し、戻る列車の合間にファンと話をしていたのかも。このときは私も国鉄職員でしたけど(笑)。
キハの600番代ってありましたね。私は北海道で見ましたが、旧型キハユニ等が一気に廃車となり、付け焼刃的に600番代で対応していたんだと思います。私も北海道でキハ22600を1枚だけ撮ってましたね。