わたしは、この人には説明しても、わかってもらえないだろうなあと思うと、自分の思いをぶつけない。
自分の価値観を押し付けたくない。
というか、価値観は、人それぞれなので、自分が良いと思っても、人が良いと思わないことは多々ある。
自分にとって、核となるぐらいの大事なことであっても、
その価値観を形成してきたバックグランドやプロセス、努力の方向が違うと、同じ価値観は育たない。
たとえ、愛する人であろうが、理解してもらうのは無理だと思っている。
自分は、これが最高だ!!なぜかと言うと・・・と、延々、長い時間をかけて説得しても、
それが、どうした?
骨折り損は、わたしのポリシーである省エネ人生に反するから、というわけでもないが。
不利益を被ったり、いわれなき嫌疑をかけられたりしたら、必死で清廉潔白を主張するだろう。
が、自分が良い(ひいては、厚かましくも、優れている)と思っている価値観を、
「あなたも良い(優れている)と思って欲しい」と感じるのは、感じるだけに留め、
実際には手をつけない。
口にするのも、おこがましい。恥ずかしい。みっともない。
やがて、わかってくれる時が来るかも、などとも思わない。
わかってくれなくてもいい。
そういうことは、口にした時点で、いや、自覚した時点で、青い鳥は黒い鳥になる。
二重線、平行線で歩くと、涼しい風景が見える。
交わらないということ、解り合えないということが、わかっていることは、それだけでも省エネだ。
それは、「負」の解り合えないことの場合は、明確すっきりだが、「正」の部門のほうが、ややこしい。
わたしの美点を理解せよ、なんて、僭越すぎる。
と、わたしは思うので、恥ずかしくて、そんなこと、口が裂けてもプッシュできない。
が、世の中には、攻めのパターンの人もいて、能動的に自分の長所をアピールする。
会社の面接試験などでも、
「わたしは、○○できます」とか言う人がいるが、実際のところは、「○○できるよう、努力します」だったりする。
信念ということも、人と違う信念であるのは、ごく普通だ。
信念は、価値観とも共通する。
いくつもの分野に広がる価値観のうち、一つや二つ、違う価値観があっても、しかたない。
自分と違う価値観を認められないからといって、無理に認めようとするとストレスになるので、
別の価値観が存在することを認識することにしている。
ただし、あまりにも、不快な場合は、距離を置く。
物理的に距離を置けない場合は、できる限り、近寄らないように工夫する。
宗教的なものや、地域的なもの、土壌が培ったもの、バックグランド、家庭環境・・・
そういうものは、同じ環境で生まれ育たないと、絶対にシェアできない。
というか、シェアしないで、いいと思う。
同じグループで、固まって(例えば年代くくり、学校くくり)、士気を高め合うなり、愚痴り合うなりすれば、よろしいかと。
別の世界で生きている人とは、難の無い常識的なお付き合いをするのが、省エネ・ショートカットと感じる。