蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

専業主婦の引きこもり

2019-12-19 | 時事&世の中
専業主婦の引きこもりは結構多いそうだ。
ニュースで、特集されていた。
昔と今では価値観が違う。

花嫁修行中のお嬢様は、すねかじりのニート。
家事手伝いなんて優待枠は絶滅種に近い。
(家業手伝いは、あり)

今は、仕事をしていない専業主婦は肩身が狭い。
美容院で、「お仕事は、何されてるんですか?」と聞かれると深く落ち込む、と、取材された専業主婦引きこもり女性が言っていた。
わたしは、若い頃はお遊びのバイト程度で、無職だった。
幼稚園児の頃から、
「将来、何になりたいの?お父さんと同じ職業?」と聞かれると、迷うことなく、誰に教えられたわけでも洗脳されたわけでもないのに、「お嫁さん!」と即答していた。
あれは、いったい、何だったのだろう。
きっと、サボり根性の発芽だったに違いない。
自己防衛本能の芽生えか。
だとすると、恐ろしい幼児である。

仕事をし始めた当時、非常に平凡で、なおかつ贅沢な思い上がった動機ではあったが、○○家のお嫁さん、○○さんの奥さん、○○ちゃんのお母さん、以外の顔を持つ自分を確立したくなった。
よくよく考えると、わたしはお嫁さんになる努力しかしてこなかったくせに。
矛盾のかたまり。
常にわたしの原動力は、「矛盾」との闘い。

精神的自立を目指して仕事をするようになっても、所詮、給料は端金。僅かな収入。
経済的自立を伴わないものは、自立と言えるのか?

だが、仕事をするということは、どういうことか、を思い知った。
社会の仕組みを実感した。
ほとんど仕事をした経験がなかったら、気がつかなかったことも多い。

いや、しかし、今、思えば、小さい頃から、家業の仕事はしていたのだ。
家業の丁稚奉公のようなもの。
お勉強一本槍の兄は特別枠で、家業も家事も課されず、無罪放免。
だが、それも実はかわいそうだった。
勉強以外は、許されないなんて地獄だ。
しかも、秀才ならともかく、脳みそレベルは、わたしと似たり寄ったり。
今なら事件の種だろう。
まあ、家庭内企業のようなもので、家父長制のもと、父は恐ろしいほど仕事の激務に耐え、母は馬車馬のごとく馬力のある(この表現、明らかにおかしいって、、、)ハードワーカー、かつ、お山の大将、裸の王様で君臨していた。
外部から見える風景と、中から見る景色は大きく違い、わたしは、1日も早く、お嫁に行きたかった。
過激労働はノーサンキューのサボりなんだろう。

話は脱線するが、、、
姑が嫁に来た時は、実家から女中さんを連れて来ていた。
しかし、姑は、女中さんが羨ましかったと、こぼしていた。
女中さんは、やめて帰ってしまったから。
やめたくても、やめられない、自分の身を嘆いた。
江戸時代じゃあるまいし、命まで取られないんだから、やめたければ、やめたらいいではないか、と、今なら思う。
プライドだけで生きていたのだろう。
もともとIQの高いDNAを持つと思われる姑は、知恵を別のやり方で、付けていった。
わたしの目から見ると、姑が贅沢だと感じた。
アンチ・エコをモットーに、誇りを支えていくことが、彼女の人生の使命だと思っているように見えた。
わたしも若かったし、なにしろ、「将来の希望=お嫁さん」であったわたしが、偉そうなことは言えない。
まあ、直属の上司=姑は、そういう人だったが、上司の上にまた上司がいた。
姑の姑だ。
これまたこの人は、賢いお方で、才媛であったにもかかわらず、エコ派。拍手!
洗濯の仕方ひとつとっても、姑と、姑の姑は、方針が正反対だった。
赤勝て、白勝て、の世界。

蛇足ながら、姑はアンチ・エコ、その夫は、きっちりした人、
姑の姑は、きっちりした人、その夫は、きっちりしてない人、
現在の嫁(わたし)は、へんに節約家、そして悲しいかな、わたしの夫は、きっちりしてない人、
ついでに言うと、息子は、今風、エコ・ミニマリスト。
順番順番に、交替で組み合わされ、面白い。
必然的にそうなったのかも知れない。
どの代にも言えることは、男たちは、おぼっちゃま。
わたしの息子は、アンチおぼっちゃまで、家を出て行った、とわたしは推測している。
ファミリーヒストリー的に言うと、江戸時代の跡取りたちは、おぼっちゃま兼、働き手、兼、家父長リーダーだったのだろう。
時代は大きく変わる。
わたしは、現在のおぼっちゃま(夫)を時代の隙間に落っこちて、崖の木の枝に引っかかっている人だと見なしている。
(自分はどうなの?は、得意技の棚の上)
息子は、おぼっちゃま枠はもういいから、また別の方向性を見い出して歩んでほしい。


と、延々と話が脱線した。
ぐわぁ〜んと、130度、角度を変える。
専業主婦で、一度も社会に出たことがない人は、わからないことがある。
いつでもやめられる、帰り道切符のある、ちょっとバイトとかは、働いた経験とは言い難いと、わたしは捉える。
ぬくぬく、あるいは、しかたなく、家庭の外には出られない。
家庭と社会の間にある厚い皮、着ぐるみを被っているような感じだろう。

でも、夫も子供もいて、国のお世話にもならず、経済的には働きに出なくてよくて、最悪ではないはず。
そういうところは、先進国の明暗かなと。

わたしは、雑巾を縫いながら、おんぼろラジオ、ガーガーでも、楽しい。
この延長でいけば、月に支出、10万円以内でも十分楽しく暮らしていけそう。(計算してないけれど)
外貨を稼ぐ必要がなくて、やれやれだ。

健康で、自分に誇りが持てたら、それで充分。
よく、老後の黄金の3要素、健康、お金、友達、と謳われる。
が、わたしは友達がいなくても家族が有ればいいと思う。
家族が無ければ、、、ラジオがあればいいかも。
それと、ブログ。

そんな事態にはまだなっていないが、やはり、人恋しいと思う。
人一倍寂しがりだから。
 
今日のブログ、テーマは、専業主婦の引きこもり。
なんだか、まとまらない。

わたしは、引き込もっていても、固定引きこもりではないから、楽しいのだろう。
内側、小さな針の穴から外を見ている。
楽しいこと、いっぱいある。
仕事しなくてもいい優待席にいるのなら、そんなに悲観したりしなくてもいいと思う。

が、年齢が若いと、そうでもないだろう。
まだまだ自分のポテンシャルを試したい年齢。
承認欲求や達成感、自立実感を味わったことがなく、そのまま歳を取るのは、咲かない花のまま枯れるかのごとく。
しかし、咲く花ならまだいい。
バラの蕾のまま何万何千万本ものバラをエッセンスにした香水もある。
咲かなくても、何千万分の一で、良い香りを醸し出すのも素晴らしい。
なんか、スマップの曲で、ベストワンではなく、オンリーワンを讃える、そんな曲があったような、、、。
色々、あり、色々、人は抱える。

自分は、楽しいけれど、他人さんは楽しくないかも知れない。
無責任に、自分のことだけ言ってられない。
まあ、人はどうあれ、わたしは楽しい。

自分は自分の道を歩み、子供たちは自立してくれた。
自分の仕事で成功を収めるよりも、自分自身のささやかな世界の幸せに浸っている。

それがどうした?の話でありますが。