蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

探しモノは、何なのか

2020-03-05 | 無題
新着ドイツエッセイ記事を読んだ。

おや?なんだろう?
ドイツ製の万年筆!
それを手にした青年は、、、

孫たちに読み聞かせていた絵本にあるような寓話。
さて、青年はこれからどうなるのだろう、、、

前に見たテレビで紹介されていた、ある風俗嬢。
1000万円、とりあえず貯めるのだそうだ。
使い道、何に使うのかは1000万円を手にしてから考えるらしい。
そういう順番もある。
貯める手段は、人それぞれ。

ひたすら宝クジを買う人、、、当たったら、あれに使おう、これをしよう、、、夢が膨らむ。
先に夢。
夢を買うのが宝クジだから。

とりあえず、キッカケが欲しい。
自分の人生を変えるキッカケ。
キッカケを探していると、キッカケが見つかることもある。
探していないと見落とす。

ただし、あくまでもキッカケである。
幸運の女神の前髪を掴んだ、その後は、実践。
中身を詰めていく。
チャンスに恵まれるか、恵まれないか。
チャンスがあっても、一発屋なんてこともあり、持続、継続は苦しい。
真価を問われるのは、チャンスを活かせる実質的な中身。
運だけで乗り越えてきたものには、なにかしらメンテや補充、補填が必要。

こころを打つもの、衝撃が走るもの、そういうものに出会っても、それは入り口で、まだ具体的なことが見えない場合もある。
広く深い海の中をむやみやたらに泳ぎ回って探し回っても、効率が悪い。
思いを具体的なカタチにするには、アンテナに引っかかるものを傍受し、立体的に組み立てていく。
抽象的なもの、頭で描いたものを実際に動いて総合的に作り上げる。
ただ、ぼーっとしているだけでは、できない。

ザルの目を少しずつ細かくしていくと、ザルに残るものの精度もアップする。
大きな目のザルだと、最初は良いが、必要なものも溢れて落ちてしまう。
かといって、最初から細かい目のザルだと、目詰まりしてしまう。
ザルの目を少しずつ小さくしていって、精選すると、求めているものがはっきり見えやすくなる。
なんて、わざわざ書くようなことでもないけど。


最初はドイツ製の万年筆!
それに、インスピレーションを受ける。
それがドイツなのか、万年筆なのか。
たんに、たまたま万年筆なだけであり、ドイツに惹かれたのか。
現状が嫌で、現実から逃げ出すための出口、突破口だけを探していたのか。
ドイツに来れるだけのお金を貯めることが出来た、その青年は、自力で第1ステップはクリアした。
問題は次に繋がらないことだ。
さあ、、、

ちなみに、
ドイツで広がりを見せたシュタイナー教育に共鳴し、日本の大学で教鞭をとるドイツ人教授と結婚した日本人女性に、ご自宅でお話をお伺いしたことがある。
お子さんは小学生低学年ぐらいの女の子二人、レトロな昭和初期の日本家屋に暮らす、金髪ヨーロピアン顔の少女たちがバリバリの関西弁、しかもズバズバ辛口だったのがミスマッチで面白かったが。
憧れた教育、自分でしたかったんだなあ、、、と思った。
元々、ドイツ的なものに惹かれたとおっしゃっていた。
女性の場合、手っ取り早い。
好きなものを全部つなげると、ああなるんだ、、、と感じた。
夢と理想と、暮らしと現実をドッキング。
内装や家具を好きなブランドで揃えたかの如く、ドイツ的なものに囲まれた家庭ではあるが、元々、シュタイナー教育に端を発したとのこと、スピリットがメインなら、上部や見かけだけの憧れではないと思いたい。(見かけだけでも別に結構。それも、個人の好き好き)。
(理想通りには行かない)色んな現実に直面されていることもあるだろうが、対岸から応援するのみ。

また、別のある方。
一昨年行った旅行先のメキシコで、万年筆青年と似たような経験をした日本人男性がいた。
船乗りになって外国に行きたい!
漠然と外国に憧れていた男性は、そう思って、船乗りになった。
(当時の高校受験事情もあったそうだが)
しかし、19歳の時に商船会社が倒産。
倒産時、行った先の外国で職を失った。
今まで一度も頼ったことがない親に、初めて電話をした。
そこでお父さんは電話口で息子にこう言った。
「お前、今、目の前に見えるのはどんな景色だ?」

「公園や」
「そうか、公園があるんやな。
身の危険が迫る場所ではない、その公園のある地で、職を探せ」

当面の生活費、せめて帰国費用でも工面してくれるのかと思いきや、しっかり突き放された、と。
あの時の言葉は今でも忘れられないが、それがなかったら今の自分はない、その男性の原点だそうだ。
その地は、たまたまメキシコだった。
地球では、日本のちょうど反対の位置。
フライト時間の長い、まあ遠いこと、遠いこと。

色々紆余曲折を経て、小さいながら現地会社の社長さんになっておられた。
リズムのあるトークが面白い、明るくユニークで元気な人だった。

とまあ、話は逸れた。

何がなんでも、へばりついて頑張れば、どうにか道は見える。
道は拓けるかどうかは別にして。
見えた段階で、拓ける方向を探すなり、掴むなりすればよい。
だが、見えるまでは、なかなかだろう。

一生、見えない人もいる。
見ない、見る気がない。
そのほうが、楽である場合もある。
わたしは、見えても見えなくても、見ても見なくても、どっちでもいいと思っている。

悔いのない人生をシャカリキになって、送らなくてもいい。
悔いがあるのが、人生。
なにも、悲観主義ではない。
ありのままを受け止めたいと思うだけだ。
頑張りたいのもよし、頑張れないのも最悪ではない。
ガムシャラに頑張って、結果として、希望する、第2か、第3希望が果たせたら良い。
探し回ったが、探していたものは無かった、なんていうのでも、最悪ではない。
答えなんて、有って無いようなもの。
出た答えに対して、自分がどう思うか、だ。
ただ、自分がその時点で何歳かで、思いは違うだろう。
年齢に制限や区別、差別はない、といっても、明らかにポテンシャルが違うし。
年齢だけではなく、個体差、個人差はあるが。

C'est la vie
これは、意味が広く深い。