今日は小学一年生の孫A、お預かりの日。
なので、早めに、さささとブログをアップしなければならない。
と同時に、お菓子を隠さなければいけない。
緊急の必要性もないのに、冷凍していたストロベリーショートケーキまで解凍して胃袋に収めようとしているわたし。
孫Aの食意地が張っているのは、わたしの隔世遺伝かしらん。
孫Aが一番最初に口から出た言葉は、「パン!」。
彼はもっと小さい乳幼児の頃、満腹中枢が故障していたのかも知れないと思われるが、食器に食べ物の残りが少なくなり、カリカリとスプーンの音がし始めると泣き出した。
これで食事、終わりは、最大の悲しみ。
いつまでも、いつまでも食べていたい。
次に喋ったのは、「デンシャ〜!」。
小さい頃から今も電車オタクである。
日本中の鉄道や駅名、電車名を並べて教えてくれるのだが、地理音痴のわたしには、聞く端からアタマから抜けていく。
今では、こんな教え甲斐のないばあちゃんには、あまり教える気にもならないのではないかと、、、。
言葉は不思議。
わたしの長女が初めて喋ったのは、幼児テレビ番組「ひらけポンキッキ」の視聴者向け募集要項だった。
いきなり、長い説明をベラベラ話し始めた。丸暗記。
毎日聞いて、ある日、突然、脳と口から溢れ出たのだろう。
今、末子孫が、同じ状態。
幼児言葉を全く話さない。
関西語も標準語も話す。
女の子は、口が早いと、よく言われる。
これで、オシメをしているとは思えない。
本人に、そう言うと、「オシメじゃない。オムツ!」と反論される。
いやはや、、、
最近の紙オシメは、性能が良くて快適だから、なかなかオシメ離れが出来ない。
2歳ぐらいで、自分の子供はオシメが取れていたと思うのだが。
子供の年齢が重なる時期は、3人分、全て布オシメを家で洗って干していた。
手がガサガサ、アカギレ、ヒビ割れがすごかった。
隔世の感がある。
まあ良い。いずれ、高齢になるとまたオシメだし。
と、これは前置き。
今日、書きたかったのは、孫のことではない。
姑のこと。
色々、思い出す。
戦中派なので、戦後派のわたしとは当然、時代的価値観は違う。
育った家庭環境も違うし、地域も違う。
旧態の家意識そのものの人だった。
女性が自立していない時代。
悔しい思いもたくさんしている。
家や夫への依存(権力を盾にする)から、子供への依存に移行する。
経済力がないから生きる術は、経済的には依存しかない。
だが、ものは考えよう。
依存しているのではない。
家族を経済面以外で支えている、大黒柱である。
経済が立ち行かなくなると、そんなことは言えなくなるが。たんなる理想になる。
大奥のお女中や、お姫様は、経済力無し。
武士も無し。いや、雇われの身だったから、お給料は貰えたかも知れない。
給料は、庶民からの税金。国民は統治料金を取られる。
統治料金の歳入の中には敵国からの戦利品や略奪金品も含まれているのだろう。
商人が経済力があった。
エリザベス女王だって、自らが、無から稼ぐお金は?
だから専業主婦だった姑も堂々としていればよい。
が、姑は理知的でもあり、経済構図が見えていたのだろう。
開き直ることはしなかった。
昔の女性は、みんなあんな感じ。
わたしの母は、姑と年齢は1歳しか違わないのに、全然、違った。
地域的なものや、生まれつきの性質、性格が違うのだろう。
2人の人生の先輩女性を身近に見て、色々思う。
2人とも幸せな人生だったんじゃないかと。
て、まだ生きているが、晩年である。
最近、苦難に直面したり、克服したりしている人の話しに接すると、涙が溢れる。
気の毒な悲惨な人に対しても。
以前は自分のことばかり。
自分で精一杯。
自分しか見えなかった。
谷に張られた綱を必死で渡って、他を見る余裕はなかった。
最近は歳のせいか、他人の境遇にも、自分のことのように感情移入するようになった。
だが、あまりやりすぎると自分の幸せを壊す可能性があるので、ほどほどに。
これまでが、あまりにも他人を見なさすぎた。
自分も年を取り、高齢枠で弱者に移行する可能性を感じ始めると、次に行く場所を整えようとするのだろう。
ちょっと前のお年寄りたちは、自分が次に行く先(あの世)に向かって、準備をしていたとわたしは捉えている。
毎日、お線香をあげたり、お経を読んだり、宗教行事に精を出したりしていた。
何もすることがない、自分は役に立ってないと感じるよりは、ずっと素晴らしい。
皆の健康や幸せを祈る役。
今は仏壇もミニマムだったり、なかったり、墓もなかったり、随分、様変わりしている。
お年寄りのこころの支えを見失う場合もある。
長生きしすぎると、プラン通りには行かない。
自分の健康を維持するだけが精一杯、生きるために生きることになる。
生き甲斐は、自分の健康?
健康オタク。それもまあよし。
では、健康に翳りが見えたら?
生き甲斐も失い、老人鬱になるのか。
心身が、ワンセット。
身体はガタがきて、頭脳も少々緩んでも、生き甲斐は維持したい。
でもセットになっているので、分離、切り離しは難しい。
信仰心であったり、強烈な趣味であったり、なんらかのこころの支え、生き甲斐が無いと、健康を無くした時に自分の精神を持ち堪える自信がない。
今から考えても仕方ないが、ほんの少しでも健康を害すると一気に不安の泥沼に落ち込むだろう。
健康や知力は絶対的なものではない。
無常。
そういうこと。
一昨日、夫との冷戦中に、般若心経の本を読んだら、退屈で居眠りばかり。
読む→居眠り→読む→居眠り
これの繰り返しで、最初のページから一向に進まない。
わたしには、やっぱり向いてない。
明日のことは、明日考えよう。
て、今日に引き続き、明日も孫Aをお預かりだ。