わたしは、モノが持つ因縁をわりと気にする。
例えば、、、
大きなところでは、家。
住んでいた人が不幸な最期を遂げた物件は売れにくい。
不動産屋は説明義務がある。
同じ場所で開店してしても、次から次へと閉店に追い込まれる地もある。
建物だけでなく、その地にまつわる、解明できない因縁のようなものがあるようだ。
素晴らしい大邸宅も、競売物件だと、なんだかなー、と気が乗らない。
ウォーキング途中でよく売り物件を目にする。
長く売れない物件もある。
昨日まで生き生き生活していたであろう、趣向を凝らしたお宅もあり、手入れの行き届いた花などを見ると、急に手放すことになったのだと想像する。
密かに前々から売ろうしている家は、草ボウボウで、植木屋さんも入っていないから周りは変化に気づく。
家だけでない。
宝石や絵画も。
オークションを見たりすると、歴代の持ち主は錚々たるメンバーだったりする。
が、幸せのあげく手放す経緯は少ない。
悲劇や不幸が詰まっていることがある。
なので、所有せず見る専門が気楽でよい。(第一買えない)
盗難の心配もないし、頭の中身や目に映るスクリーンまで泥棒は盗っていかないから。
立派な芸術品や美術品は家ごと寄付するという手もある。
パリで観た邸宅美術館はそうだった。
だが、あの邸宅美術館は、19世紀の貴族の館を模倣して20世紀に建てられたものだったので、古い伝統的建物ではあるが、やや微妙な時代のズレがある。
と、こんな話はたぶん誰も興味ない。
書いて楽しんでいるだけ。
さて。
今日は、また新しいブログと遭遇した。
なかなか新鮮だった。
社会性がないせいもあり(ご本人の弁)、月5万円で生活しているというブロガーさん。
貧困労働者による受給者バッシングがテーマだった。
ブログによると、カツカツ暮らしの受給者を贅沢だとバッシングをしていたのは、ブランドで固めた女性らしい。
そこで、ブランドで固める?について考えてみた。
わたしは、ユニ○ロが大好き。
家族もかなりユニ○ロ愛好者である。
だが、ユニ○ロで固めるわけではない。
しま○らもある。青○もある。
ダー○ァンはない。(この度は閉業残念だった)
伏せ字にするとわかりにくいが、まあよい。
ユニ○ロは、エアリズムなど、品種品質改良に余念がないのと、宣伝が上手。
だが、一つ難点がある。
街や、町内、そこかしこでユニ○ロユーザーを見かけることだ。
自分はその時、着てなくても持っている服だったり、ダブる。
買うときに商品を吟味しているせいで、商品には精通している。
なので、ユニ○ロ製品は、一発でわかる。
お主もそうか、、、(にまっ)
で、良いのだが、、、
定価1980円を1280円で買った人も、定価2980円を1980円で買った人も、同じ製品を着ている。
製品は全く同じ。
なんだか面白い。ミニ不平等感。
そして、品質の良さはよくわかるが、値段もよくわかる。
知らない家の冷蔵庫の中を見てしまうようなもの。
まあ、別に、冷蔵庫の中に鹿肉が入っていようが、豆腐が入っていようが関係ないが。
その、前述したバッシングのブランド主義の人は「値段」にこだわるのだろう。
「ユニ○ロ主義です」では、誰もが頑張らなくても手に入るものなので、自分の価値を高められないのだろう。
頑張らなくて快適なものが手に入るのなら有難いことだが、そういう考え方はしないようだ。
なぜ?
うーーん、、、
人より秀でていたいから?
では、努力すれば?
努力しても無理だから。
じゃあ諦めたら?
諦めるのは負けたことと同じだから。
負けるのは嫌?誰に負けるの?
世間の人、全てに負ける?
全てって、何億人?
わたしは、最低だ、、、
と仮に思ったとしても、自分比では?
身近にいるリアル人と比べてなのだろうけれど。
小さな世界で勝った負けたと一喜一憂して毎日を過ごすのもメリハリのある活気と言えばそうだが。
わたしには、つまらないことに思える。
人は人。
自分軸は?
と、またまた独り言。
ユニ○ロに久々ぶりに行って、なんだか感激して、ユニ○ロ開業当時を思い出した。
世の中に初めて出た、ユニ○ロブレイク第1号のフリースも、わたしのワードローブではまだ第1線で毎冬活躍している。
わたしはこんなのだから、モノを大切にし過ぎて、大量生産、大量消費の時代にはマイノリティだったが、省エネの時代が来て、やっと居場所が確保できた。
話はころころ変わり、下手な運転手が運転するバスのよう。
カーブや急停車、急発進、ブレーキとアクセルの踏み方が悪いので、乗客は振り回される。
それに似ている。(ああ長い説明。しかも的を得てない)
思考バラバラでとりとめなく、まとまりなく、今日は、お終い。
まあそんな日もあるということで、、、。