蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

そういう時代

2020-06-17 | 映画
ブログ村エッセイの自分コーナー、「幸せ」という文字が入ったタイトル3つ続けて並ぶ。
どうも良くない。

わたしは、どこへ行っても同じだ。
パリのアパルトマンに長く滞在していても、部屋っ子だし。
一人でいると、なんであんなに落ち着くのか。
じゃあ、コロナ自粛はもってこいだったのか。
No.
わたしにはメリハリは必須。
全く微動だにしない時間と、活動する時間。
この時間比率や、濃度比率は、人とは多少違うかも知れないが。

一生のうち、ほとんど動き回っていて、一瞬でも止まると死ぬという、マグロみたいな特徴を持つ人もいる。
わたしが知る、あるリアル人もそういうタイプで、年がら年じゅう、仕事と遊びに東奔西走している。
とっくに還暦は過ぎているのに、リタイアも全然出来ずに、いつまでも忙しく立ち回っている。
本人が選んだ道。
ひーひーいいながらまんざらでもなさそうなので、M系傾向もあるのだろうか。
周りに多大な迷惑をかけないなら、自分がよければそれでいい。

ただし、人にも自分の道を押し付けなければ。
人には押し付けないものの、承認欲求が鼻につくのが、タマにキズだが。

「いいよな、何もしなくて。
退屈じゃない?
つまらないだろう?
ひょっとして、何もしないのではなくて、何もできないの?
能力がないの?」

ちょっとこちらが優位な発言をすると、途端に
「そう!!よかったね!!」とイヤミったらしい逆の表現で、明らかに面白くなさげ。
自分を承認するために、人を下に見ようとするが、逆転の分野があると一転して認めたくなくて、卑屈になる。

わたしから発する、絶賛とまでいかないクールな反応でよければ、いくらでも、ひーひーいってくれたらよい。

わたしは、あれした、これした、あれ出来る、これ出来る、と、あまり言わない。
言いたくない。
なぜなら、きっと、嫌な臭いがするだろうと想像するから。
人に自分を知ってもらっても、さして喜びを感じない。
自分が自分を知っているから、満足。十分。
自分を通り越して、人にまで承認欲求が及ばない。
たぶん、内向的な性格から来るものだろう。
それと、変な自意識過剰。
砂糖と塩の混ぜ方を間違えているかんじか。
隠し味の砂糖は料理を引き立てるが、甘さが出過ぎると逆効果。
ほどほど出すのは、バランス感覚が必要だ。
やり過ぎと、やらなさ過ぎの、中間が良い。


ちなみに話はごろっと変わるが、
ドキュメントやニュースで、誰にも知られず最期を迎えた人のことを知る。
不幸の連鎖により、誰にも知られなくなった経緯、いきさつは気の毒である。
ドキュメンタリーは、伝える側の気持ちが反映されている。
本人は本当にそう思っていたのかどうか、わからない。
事実だけを淡々と伝えると、見る側は客観的事実からその奥にあるものを想像する。
不幸な人々や、喜びに満ちた人々、色々いる。
一人の人にも喜怒哀楽がある。
一つ一つのドラマは人の数だけある。

才能や作品に恵まれた有名俳優も、病魔に冒されたりする。
華やかな光の部分を世界中の人が知っているだけに、明暗の落差は周知の事実となる。
一般の人々は、色んな想いを抱く。
人の想いに蓋をするわけにはいかない。
有名人は特別枠だとしても。

しかし、あんまり人の思惑ばかりに囚われると、自分の幸せを逃す。
だが承認欲求は、自分が得たい幸せのために、承認されることを渇望する。
ぐるぐるそういう矛盾と闘うことになるのだろう。

その代わりと言ってはなんだが、人に承認されなくても、自分に承認されたい欲求がわたしにはある。
つまり、自分が課した理想像。
これを目指して走るのだが、公表していないので、実現できなくても何の問題もない。
途中で変更も大いにあり。

内容も、なにも前向きの素晴らしいものでなくてもよい。
人に見せるためのものではないので。
自分を喜ばせるためなので、さじ加減ひとつで、どうにでもなる。
これは、じつは、楽しい、、、。

今、コーヒーを飲んで一息ついたら、ブログ書きかけ途中で嫌になっていたのに、意味も理由もなく、ポジティブシンキングに変化していた。
なんて単純なわたし。

全ての具象、森羅万象には人間の頭では解明できるようなものはなく、それを超えた意味がある。
つまり人間が考えることはたかが知れていて、意味はないのかも知れない。
AIは人間を超える?
人間を超えるものがAIだとは思いたくない。
SFの世界は現実の延長。


ちなみに、、、やっとまともな具体的な話に移る。
遅い!もう誰も読んでいない、、、。
前半、カットすべきか、、、。








先週観た、「わたしの若草物語」のファッションが素晴らしかった。
特に色使い。色の組み合わせ。
原作は、1868年ごろに発表されたものらしい。
物語では父親は、南北戦争に行っていた。(後半には帰還)
映画のなかでは、電気も車もなかった。
長女は女優、次女は小説家、三女はピア二スト、四女は画家を夢見る四姉妹。
全部、文系、芸術系なところが興味深い。
生産的、実務的な職業ではない。
社会の上層部は全て男性が牛耳っていた?
女性でも農業や職人、奉仕人などの仕事もあるのに、四姉妹の社会的属性が白人、中産階級だったからなのか?
年配の住み込みメイドさんが一人いたが、母親と年頃の女性四人の世話は大変。
若いパワーモリモリ、バリバリの女性たちが大勢寄って集って、年配女性を平気でこころ痛めることなくこき使うとすると、時代なんだなあと。
メイドさん(使用人)が若くパワフルで何人もいて、雇主サイドの家族が少人数ならともかく。
金持ちの当たり前の特権だと思っている金持ちもいるようだ。
(別の電子コミックにもそういう誇張描写があり、笑いを誘う作者の意図が見える)

(※話は横道に逸れるけれど、若草ならぬ道草、、、
ストーリーでは、近所の貧しい子沢山のシングルマザー家庭に、四姉妹は母親の提案でチャリティー精神によって朝食を施すシーンがあったが、、、
赤ちゃんや幼児にお菓子ばかり与えてるのは現代ならちょっと的外れ。
持っていけるものがお菓子しかなかったのなら仕方ないが。
今の子育て家庭に、お菓子をどっさり持ち運んだら、嫌がられると思う。
子供がお菓子ばかり食べて、バランスを配した食事を用意しているのに栄養が偏るとクレームをつけられかねない)

話は戻り、そう言えば、学生時代の親友Yちゃんの家も、父親は長期不在、元気盛りの母親とYちゃんがいるにもかかわらず、お手伝いさんとして、幼児がいる若いママが育児の合間に忙しい時間をやりくりして一部の家事労働を担っていたなあと記憶する。
お互いの労働時間を売買、ビジネス成立である。

カフェブレイクの後、やたら書きたいことが次々ムクムク出てきたが、今日はこの辺りで終了。
書き溜めて冷凍保存しない主義なので。(自分にしか意味のないこだわりです)