蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

2020-06-29 | 
旅の記事を目にすると、何かがわたしに訴えてくる。
わぁ〜っとだったり、じわ〜っとだったり、しっとり、しんみりだったり、、、。

旅情というには畏れ多すぎる、わたしの感想。
わたしの思いは小学生日記のほうがぴったりくる。
理由を推測してみると、知識不足に尽きる。
小学生の時から社会科が不得意だった。
特に地理は無人島に一人で住んでいるかのように悲惨。
今では地理はすでに鉄道マニアの小学2年孫Aに追い越されそうな勢い。

地理や歴史にうとくて旅をすると、
わあキレイ、だの、あらスゴイだの、感嘆詞ばかりが目に映りこころに焼きつく。
客観的に説明が出来ない。
3D映像に自分がドッキングしている体感体験。
現地の自然と一体化しているような気になって、わーわー言っているだけ。

それに加えて、夫。
彼は旅の全てを人まかせにする。
個人旅行にせよ団体旅行にせよ、旅行業者に、行き先の国と日程だけから選んであとは丸投げ。
有名な景勝地や、美術館に絵画を見に行っても、知識と現物の「チェック」をするに過ぎない。
なんて言っているわたしは、どうなんだ?
場所、地名すらもわかっていない。
これは旅と言えるのか?
テレビを見ているかの如く。
与えられ用意されたレールに乗るだけの参加型?

でも、学校の教科書やテレビ、映画などで見る地に自分がいることは、脳を直撃する何かがある。
だが、自分の心身に消化、吸収、昇華され、仮に記事にしたとしてもお粗末なものになる。
ぜひ行ってみたいと思える旅の記事を書く人は素晴らしい。

旅記事には二通りあると思う。
行き方、ノウハウ、役立つ生情報がぎっしり詰まったものと、かたや主観色が強いもの。
読む側としては情報が知りたいのは山々だが、行った気にさせてくれるというのも重要な要素かと思ったりする。

元仕事仲間Fさん。
(直近の蝶ブログ記事に登場する人物ではない)
この人は、バックパッカー。
旅は手作りでないと旅ではない主義。
飛行機や電車を降りた後の移動は徒歩。
なので、歩く距離も半端ない。
宿の部屋に戻った瞬間、疲れ果ててリュックを背負ったまま、ベッドに仰向けに寝てしまった亀の甲羅返し経験を持つ。
靴ももちろん履いたまま。

彼女は去年の秋にイタリア、シチリア島に行き感激していた。
ご主人も同時に旅行したが、現地、ナポリ?で一瞬合流しただけで、あとは、二人バラバラ行動。
それも「せっかく旅行に行ってるんだからご主人とどこかで落ち合ったら?」と知人の言葉を受けてのことらしい。
いかにも彼女流。

息子さんも旅行好きで、アクシデントもいっぱい。
旅先で通過国での地で集団スリに遭いパスポートを盗られ入国困難になった事件はちょっと困ったようだ。
また、その時は日本への帰国時間がずれ込み、帰国後、海外出張同行を予定していた上司が日程が確約出来ずヤキモキしていたとか。
去年末も飛行場での手荷物検査で別国青年がリュックを取り間違えてお互い別人のリュックを持ったまま、それぞれの目的国に降り立った。
手元に戻るのは帰国日に近かったらしく、リュックには衣類全てを詰めていたので旅先では不便だったようだ。
衣類ぐらいはなくてもどうにかなると息子さんは言うものの、下着をはじめ一から買い直さないといけないし、防寒着も必要だろう。
だが、あんまり細かいことには拘らない様子。
若い人は身軽で羨ましい。

ちなみに、、、
観光資源の豊富な観光立国は、環境維持と観光収入のバランスが難しいと思われる。
重要文化財指定地区になると、周りと調和しない勝手な建築は許されないだろうし、補助金は出ると推測するが修復もかなり費用がかかる。
だが、何世紀もの間、保存維持されている街や景観は、自然災害や戦争から難を逃れた幸運と努力の賜物。
古いヨーロッパの街並みには、無意識下で醸成されたわたしの憧れが詰まっていると感じる。
が、待てよ、、、とよくよく考えると、若い頃と今では多少、憧れの質が変化している。
視野を広げ、自分の住む地、周辺を見てみると、快適な暮らしを支えるために税金が投入され整備されている。
こんな風に書くと、市役所の広報部の人間のように思われそうだが、、、。

さらに、夫の実家のある歴史地区においては、身近過ぎて日常過ぎて、憧れは詰まっていないが、風情ある趣のあるものではないか。
外国人の目で見たと仮定すると、なかなか渋い。
アジアの人々は同じ仏教なので珍しくないが、西洋の人にとっては興味深いものであるようだ。
多くの欧米人が訪れている。

日本各地、景勝地や名所はたくさんある。
とりあえず心身健康で足腰が動くうちにと、優先順序として遠くの地から旅しているが、日本国内にも目を移すと、刺激を受け、見識に深みを増し、こころ和ませてくれる所がいっぱいあると感じる。
コロナ禍が終息したら、これから先、訪れたい候補地をポケットにいっぱい詰め込んでおきたい。
たとえ実現しなくても、ポケットが膨らんでいるのを感じるだけでも楽しい。

と言いつつ、やはりまずはバイタリティがあるうちにしか行けない所から先に行きたい。
そう思うだけで、なんだか身体から元気が湧いてくる。
だが、世界中が元気にならないと、自分だけではどうにも出来ない。
その上で、自分の心身の健康と、心配事を抱えていない状態が合致して初めて実現の運びとなる。
いつでも出来ると思っていても、いつでも出来るわけではない。
自分を喜ばせるには受け身ではなく頑張って能動的にならないと、チャンスは知らないうちに逃してしまう。
知らなければ知らないで、それも良いのだが。
(どっちなん!?)

つらつら書いていたら、ちっともまとまらなくなってきた。
小学生日記のほうがずっと潔い。