昨日書いた日記は、とりあえず未公開にする。
自分の胸のうちが、痛々しく生乾きの場合は、例え見ず知らず、不特定多数にであっても公開するのを躊躇する。
サバサバした、自分で痛みがないもの、クリアしたものしか公開する気にならない。
まだどうなるのかもわからない、未知のことであっても、ワクワクするようなことなら書いて喜びの前倒しを享受する。
悲しいヒドイことでも自分を励ましたり鼓舞するために書くこともある。
一番よくやるのは、こんがらがった自分の気持ちを整理する時。
これはかなり効果がある。
で、上記のどれにも当てはまらない、未解決案件については経過観察のため、書かない。
そこで、お蔵入りにした未処理案件内容の代わりに書こうと思ったことがある。
読んでいる人にとっては、全くどうでもいいと思うプロセスであるが。
ある人、Aさん。
全くわたしと視点が違う。
同じ場にいて気づいたこと、コメントを数時間後にわたしが言うと、全く見てない、気づかなかったという。
では、何を見ていたの?
真っ白い、盲目の人の視界のようなかんじ?
と聞くと、返事に窮していた。
意識してないからわからない、何にも見てない、の一点張り。
目を開けていると何か見えるだろうに。
禅の精神か?
頭とこころを真っ白にする。
意識して無意識にする。
しかし、わたしには見えて、その人Aさんには見えない、というのは、何だろう?
最近見た映画、「さんかく窓の外側は夜」にあるような、幽霊が見えるか見えないか、みたいなものか。
わたしが見えすぎるとしても、見えない人は代わりに何が見えるのだろう?
(幽霊の話ではありません)
真っ暗?真っ白?真っ黄色?木目調?
何が見えるのか、聞きたい。
幼児でも何かしら目に映ると思うのだが。
たぶん、視点が違うのだと思う。
興味、関心があることが全く違うため、見えるものが違うと思われる。
関心のないものは、目にもアタマにも入らないで、無かったかのように、何も起こらなかったかのように素通りするのだろう。
途中、よほどショッキングな出来事でも起こらない限り、記憶には残らない。
例えば、大きな揺れ、物音、叫び声、停電、人が倒れたとか、事故だとか。
それにしても、関心があるか無いかでこんなにも違うということだ。
この人は、会社でも家庭でも実は何にも見てないのではないかと思った。
何も特別なことが起こらない限り、平穏に時は過ぎていく。
幸せな人である。
それと同時に、嫌なものも見えないだろう。
絶対に鬱病にはならないと確信した。
問題点があっても見て見ぬ振りをしてやり過ごしている。
問題点そのものが、大したことがない問題点であるとわたしは捉えている。
人の生死に関わるような重大なことではない。
ぼーっと暮らしても、キリキリ舞いをして暮らしても、退屈してないならそれでいいのではないかと思った。
朝から晩まで漫画に明け暮れても、ずっと飽きることなく興奮できてこころ踊るならそれでよい。
漫画がダメで、古典や文学が良い、なんてことはない。
近年はサブカルチャーも確立されている。
読む一方でアウトプットがないのはつまらない、なんて思う必要もなく、ひたすら楽しい時間ならそれでよい。
わたしは貧乏症かも知れない。
インプットばかりでは面白くない。
自分に取り入れて栄養にしたい。
変化の素にしたい。
そう思ってしまうので、一方的に受け入れる側オンリーで楽しめる人が羨ましい。
考察してもしなくても、結果は同じ、事態が変わらないなら同じだ。
だが、わたしとしては、自分はどういう状態で何をしているのか、何をしようとしているのか、考えて納得したい。
所詮、他人は他人。
自分と関わりがない人はどうでもよいが、自分の身近にいる人には精神的に近寄りすぎることがあるため、距離を取ったほうが良いこともある。
距離を縮めたり離れたり、試行錯誤しながらコミュニケーションを取り、相互に理解していきたい。
理解できないことを理解しようとして、今まで気づかなかったことに遭遇することはある。
気づきを得る。
異種のもの、理解に苦しむような人との出会いは、新しい自分を導き出してくれることもある。
と、良いように解釈しよう。
無理矢理、理屈をこじつけなくても、何も考えなくてもすんなり共感できるほうが理想的だが、理想はあくまでも理想である。