仕事のことは、ブログではあまり書かなかった。
とても恥ずかしくて人に言えない。
本人は一生懸命なのだが、仲間の足を引っ張っていた(と思う)。
先日、元・仕事仲間の一人が亡くなった。
まだ60歳(ぐらい)。
お子さんもおられないので、ご主人だけが家族。
彼女は長年、シリーズものを手掛けていて、まだシリーズは続いていた。
わたしは、彼女の足元にも及ばない。
彼女が独立する前の会社には、更にすごく有能な人がいた。
プロ軍団である。
が、おそらく日本にはもっともっと優秀な人がゴマンといることだろう。
彼らが手がける仕事は、ややこしい、めんどくさい、難解なものばかり。
中でも忘れられないのが、某企業の仕事。
担当者に手渡された資料は手書きの、悪筆、ミミズが這ったような文字。
さっぱり読めない、解読出来ない。
渡された人は、自分の仕事にかかる前に、あの字に取り組むが、ストレスの山が束になって襲って来る。
(古代エジプト文字の研究者で、解読こそが仕事という専門家ならいざ知らず)
解読困難文字と格闘しなければならない。
書く方も、いくら発注側だと言っても、もっと読める字を書くべきだ。
でなければ、潤滑に進まない。
立場が弱い者に対するイジメだ。
が、発注される側、受ける側は辛い。
よく脳が爆発、破裂しないものだと感心する。
読破。やらねばならない。
大変なのは、この仕事に限ったことではない。
皆んな、歯を食いしばって頑張る。
わたしは、結局、自立出来ずに負け犬となっている。
子供、孫、夫ありの負け犬。
負け犬ではあるものの、のんびりした落ち着いた日々。
自立して食べていかねばならぬ、まして、子供を育て、、、という状況ではなかったので、凄まじいエネルギーが枯渇した。
あったのは、個としての自己実現へのチャレンジ精神。
だが、そんなものは理想で甘い夢に過ぎない。
毎日のパンがなくては、闘えない。
まず、パンを得ることが大事。
そんな中、退路はしっかり確保しているわたしに不足しているのは、崖っぷち、後がない切迫感。真剣さ。
余裕がありすぎ、ぬるい。
周りのやる気を削ぐ。
今、書いていても恥ずかしい。
ではあるが、社会構造、社会の厳しさや、仕事の仕組みは少しわかった。
わたしの仕事は、社会全般を見渡す社会勉強程度のものである。
だから、堂々と書けなかった。
今も書けない。
戦争経験者のお年寄りが、体験を語らないのと似ている?
口を開きたくない。重い。
だが、下請け、孫請け、、、と、何重にも経て仕事が行われる社会システムは、揺らがないと感じた。
1番下で仕事を請け負う人々がいることを知った。
そして、雑誌やTV番組などで紹介されている内容は、制作側、発信者のフィルターを通しての意図が含まれている。
構成、演出を通して、想いを伝えることがある。
嘘ではなくても、誤解を招く場合もある。
見る側は、自分の目で真実を見極めなければならない。