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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

黒歴史〜仕事編

2023-10-10 | 仕事
仕事のことは、ブログではあまり書かなかった。
とても恥ずかしくて人に言えない。
本人は一生懸命なのだが、仲間の足を引っ張っていた(と思う)。

先日、元・仕事仲間の一人が亡くなった。
まだ60歳(ぐらい)。
お子さんもおられないので、ご主人だけが家族。
彼女は長年、シリーズものを手掛けていて、まだシリーズは続いていた。
わたしは、彼女の足元にも及ばない。
彼女が独立する前の会社には、更にすごく有能な人がいた。
プロ軍団である。
が、おそらく日本にはもっともっと優秀な人がゴマンといることだろう。


彼らが手がける仕事は、ややこしい、めんどくさい、難解なものばかり。
中でも忘れられないのが、某企業の仕事。
担当者に手渡された資料は手書きの、悪筆、ミミズが這ったような文字。
さっぱり読めない、解読出来ない。
渡された人は、自分の仕事にかかる前に、あの字に取り組むが、ストレスの山が束になって襲って来る。
(古代エジプト文字の研究者で、解読こそが仕事という専門家ならいざ知らず)
解読困難文字と格闘しなければならない。
書く方も、いくら発注側だと言っても、もっと読める字を書くべきだ。
でなければ、潤滑に進まない。
立場が弱い者に対するイジメだ。
が、発注される側、受ける側は辛い。
よく脳が爆発、破裂しないものだと感心する。
読破。やらねばならない。
大変なのは、この仕事に限ったことではない。
皆んな、歯を食いしばって頑張る。


わたしは、結局、自立出来ずに負け犬となっている。
子供、孫、夫ありの負け犬。
負け犬ではあるものの、のんびりした落ち着いた日々。

自立して食べていかねばならぬ、まして、子供を育て、、、という状況ではなかったので、凄まじいエネルギーが枯渇した。
あったのは、個としての自己実現へのチャレンジ精神。
だが、そんなものは理想で甘い夢に過ぎない。
毎日のパンがなくては、闘えない。
まず、パンを得ることが大事。

そんな中、退路はしっかり確保しているわたしに不足しているのは、崖っぷち、後がない切迫感。真剣さ。
余裕がありすぎ、ぬるい。
周りのやる気を削ぐ。
今、書いていても恥ずかしい。

ではあるが、社会構造、社会の厳しさや、仕事の仕組みは少しわかった。
わたしの仕事は、社会全般を見渡す社会勉強程度のものである。
だから、堂々と書けなかった。
今も書けない。
戦争経験者のお年寄りが、体験を語らないのと似ている?
口を開きたくない。重い。

だが、下請け、孫請け、、、と、何重にも経て仕事が行われる社会システムは、揺らがないと感じた。
1番下で仕事を請け負う人々がいることを知った。

そして、雑誌やTV番組などで紹介されている内容は、制作側、発信者のフィルターを通しての意図が含まれている。
構成、演出を通して、想いを伝えることがある。
嘘ではなくても、誤解を招く場合もある。
見る側は、自分の目で真実を見極めなければならない。



あがくことが、生きること

2023-10-10 | わたし
わたしはこれまで、自分の理想と現実の乖離に対して、目標変更と妥協で、うやむやに切り抜けてきた。
理想を下げて、実現可能な目標に設定し直す。
第一希望から、第二希望、第三希望へと移り、あるいは、がらっと分野の変更をしたりした。
価値観は(たぶん)同じでありながら、尺度、方法、表現を変更、修正した。

なんだい、あんなの、たいしたことないじゃない。
その分、別の他のことが出来ないではないか。
と、自分に都合よく解釈を変える。
いつまでも叶えられない理想にしがみついて、不毛な時を過ごして、達成できないまま挫折感だけを味わうのは嫌だった。
性格が捻じ曲がり、卑屈にひねくれてしまうのは避けたい。

例えば、表裏一体のものであれば、裏側の逆の方向から見たりして、諸説あることを逆手に取り、卑怯で姑息な手段で、自分は負けているわけではない、と、自分に言い聞かせ、納得させた。
全ての面で完璧、優れている人はいない。
いるとすれば、大谷翔平ぐらいか??
でも身体を壊したり寿命を縮めたりしたら、それは望んだことか?
命と引き換えに、目標を達する人もいる。
超難易度の高い山で命を落とす人は、勇気があるとみなされるのか?
残された家族は?

ちなみに、
挫折を味わったことがない人はいるのだろうか。
いるとすると、脳みそが、ちょっとふやけているだけで、挫折だと気付かない、自覚がないのかも知れない。
それはそれで、一方からだけしか見えないというのは、明るく天真爛漫で結構なことだが。

ピーク、絶頂、頂上の先は、下山が待っている。
それが嫌なら、絶頂期を自分で見極め、その瞬間に引退すると良い。
だが、バブルが弾けた時のように、それが絶頂だったというのは、弾けて初めてわかる。
が、だいたいは予兆がある。
予兆を敏感に嗅ぎ取る、察知する。
あと少し頂上まであるのに、その分を見越して(残っているのに)、可能性やエネルギーを使い切らずに下山する。
後ろ髪を引かれる思いが残る。
ではあるが、勝ち逃げだ。
燃焼して幕を引く人もいる。
スッキリやり切った感があるそうだ。
(出し惜しみ気質のわたしは、おそらく経験出来ないだろう)

頂上に行ける能力はたっぷりあり、邁進中に、道途中で不慮の事態で断念せざるを得ないことがある。
悔しいことだろう。
それもまたそういう運命。
気を取り直して、また、再スタートすることもあるし、すっぱり止めることもある。

自分は何がしたいのか、何が出来るのか、何をすべきなのか。
選択肢がありすぎると迷う。
自分が選んだ道に確信が持てない。
幸せになりそこねる。

「何がしたい」と、「何が出来る」では、なりたい自分になれる場合と、なれない場合がある。
仕事を選ぶ場合、かなり重要である。
したいことと、出来ることのギャップがあると、能力に問題があり、その仕事が出来ない。
優しい言い方をすると「向いていない」。
(周りの状況で、能力はあるのに出来ない場合もある)

好きか、嫌いか、というのも重要だ。
いくら出来ても、嫌いな仕事で人生を過ごすのは悲しい。
だが、生活のために割り切る、という方法もある。

「好きこそものの上手なれ」
「ヘタの横好き」
真逆の例え。
諸説あるということだ。
しかし、「好き」は結構だが、「嫌い」は厄介だ。

お金を稼ぐのは、大変だ。
収入や拘束時間にとらわれなければ、選択肢はある。
楽して稼ごうという発想は、甘いと思う。
宝くじでも、なかなか当たらない。
買わなければ当たらないからと、買い続ける人もいる。

まとまったお金があれば、嫌な仕事をしなくてもいい。
のではあるが、、、
「幸せ」や「喜び」は、得ることを目的、目標にするのではなく、全く別の何かをしていて、その過程で偶然、得ることがある。
幸せを得よう、得ようと、がむしゃらになっている時は、幸せは案外、遠くにある。

ああ今日も仕事か、あの嫌な人の顔をまた見なければいけない、あーあ、、、
と鬱陶しさ満載でいたら、意図しない、あるふとした瞬間に、何かが開けるキッカケに触れることがある。
そのキッカケに出逢うのは、長い長い歳月がかかる場合もあるし、意外に、すぐだったりもする。
誰もわからない。予想できない。
一つの方向からだけを攻めるのではなく、上手くいかない時は、手を止めて、別の方向を見るか、あるいは、ちょっと引き下がって、もう一度、戻ってやってみる。
方法は一つだけではない。
回り道をすることもある。
一生、ぐるぐる回っていたとしても、退屈はしない。
諦めかけた時に幸運はやってくる。
諦めてしまうと、生きる輝きを失う。
原動力がなくなる。
なので、少し休憩してから、また初めからやり直すのも悪くない。

具体性に欠ける中身で、面白くもなんともない話になってしまった。

そんな思いはとっくに卒業した人にとっては、つまらない、どうでもよい内容になった。


※補足です。
日仏文化比較論、楽しみにしています。