楽しくない娯楽性のないウォーキングではあるが、良い面もある。
それは、、、休日に寛ぐ家族連れや恋人、友人たちが秋の気候に誘われて、賑やかに繰り出してきている場面に出会うこと。
日常には顔を合わさない人々と同空間、同時間を共にする。
しかも美しい景色、爽やかな季節。
そして、1人で公園を無計画にぶらぶら散歩するのもいいかも知れないが、1人なら面倒になり、わざわざ電車を乗り継ぎ都会や遠方にまで足を延ばさないだろう。
家の近所、近場で済ましそうだ。
参加者は全員おひとり様なので、なんだか寂しくなく、団体戦的パワーを生み出す。
(歩く距離は離れていても)
悪くない。
問題は、さあ参加するぞ!と、自分の背中を押せるかどうか。
自由参加であるし、予約も要らないので、自由意思に任せた気ままな決断となる。
「いつでも行ける」は、「いつでも行かない」になり、かえって制限があるほうが、行動のモチベーションになる。
「最後の一個」だとか、「今月限り」だとか「先着〇〇名限り」だとか、そういうのに弱い。
販売促進の場合はその心理を利用して、あまりその気でなくても、購買意欲を喚起させる。
べつにモノを買うわけではないので、しかも、ご褒美がもらえるわけでもない、承認欲求も満たされない、となると、なかなか潜在欲求そのものもが薄いところを更に呼び起こすには、それなりの強い動機付けが必要だ。
誰にでも出来る、特殊技能や能力は要らない。
(病気や怪我の人、どうしても時間が取れない人、それどころではない緊急事態の人もいるが)
ただ単純に自分の足で歩くだけ。
それに意義を感じるには、考え方そのものを変えなければならない。
「健康」だけでは、ぼんやりしすぎて、重いお尻を上げるには、ぼやけてしまう。
そこに付加価値を付ける。
美しい景色だの季節感だの、明るい人々や街並みの光景だのと。
だが、若い人には全く魅力を感じないように思う。
わかる。
エネルギーの発露の仕方が違う。
方法も違う。
同じお一人様なら、1人で登山、マラソン、キャンプなど、もっと高みを目指すことだろう。
三浦雄一郎さんじゃあるまいし、若い頃からスキーをやってないと、老年になっていきなりスキーでは、骨でも折ったら大変。
リタイアして、あり余る時間をどう使うか。
行きの電車の中で、競艇だか競馬だかの新聞を広げて熱心に予想している男性がいた。
わたしの昔のイメージでは、先入観で特定の層を当てはめる。
耳に鉛筆を挟み、野球帽、グレーの緩い超普段着の中高年男性。
「矍鑠(かくしゃく)とした」の真逆イメージ。
それはそれで、好きなことに熱を入れ上げるのだから、他人がどうこうと口を出すものではない。
そういう使い方もあるわけで。
生活や家庭が破綻しない範囲内で楽しむには結構なことである。
(わたしの身近にはいないだけで)
話を元に戻す。
今回の160人超えの「歩く会」参加者。
季節、天候、場所、コースに、人が集まる原因があり、人々の参加意欲を促したのだろう。
この数は、盛況な時の社交ダンスパーティと参加人数が似ている。
年齢層もほぼ似たり寄ったり。(ダンスのほうが少しだけ若い)
だが、社交ダンスは、三浦雄一郎ではないが、ある程度、キャリアを必要とする。
70歳から始めても絶望的である。
習得するのに時間がかかる。
今から社交ダンスを始めようとしている方には申し訳ないが、雪を見たことがない南国生まれの人が、70歳から初めてスキーをするようなものだ。
この独特なカースト的偏重、閉鎖感が、社交ダンスをまた敷居の高いものにしている。
社交ダンスではなく、社交ダンス的ダンス、社交ダンス的軽体操、フォークダンスのようなものであるなら、なんの問題もない。
老人ホームなどで音楽に合わせて楽しみながら体を動かすには最適である。
と、話は相変わらず逸れている。
カラオケ同様、誰にでも気軽に幅広く参加出来るものは、重宝して有り難い。
そこから派生して、レベルアップしたりする必要もない(中には歌謡教室に通う人や主宰する人、歌手目指す人、自称歌手、とりあえず歌手もいるが)、いつも毎回完結が気楽で良い。
最初のスタート門戸が広い。
だが、その気楽さはかえって、特別なモチベーションを引き起こさない。
パラドックス。
ではあるものの、プライドの高い人、負けん気の強い人がありがちな、誰でも出来ることを軽く低く見る、そういう変な自意識は捨てるのも、ひとつの自分の殻を破ることになる。
「誰でも出来るのに、自分は出来ない」についての解釈。
「しようと思えば出来るが、そんな程度の低いことは、ばかばかしくて出来ない」と自分で高めから見て選択しているつもりでも、実際は、「しようと思っても能力が追いつかず出来ない」という、選択肢がない状態に陥っていることがある。
出来ないことを本人は気づかない。
「出来るが、しないだけだ」と思っている。
そうやって、どんどん歳をとって行く。
少しでも自覚しているなら、自分の行動を見直すチャンスでもある。
見直してそのまま、の場合は、自分の効能書き、性能も書き換えた方がいい。
「しないのは、能力的に出来ないから」
「プライドが邪魔して恥ずかしくて出来ない」という局面から、「実際に出来ない」と移行していることがある。
「やったら出来るがしない」から「やっても出来ない」へ。
ではあるものの、しなくてもいい、出来なくてもいい。
別に命まで取っていかない。
自分はどうしたいかは、自分が決める。
わたしに関して言えば、今までの自分よりランクを落とすことを受け入れている。
有名な高僧のように生きながら成仏はできない。
(なんて、高くなったり、低くなったり、例えが極端)
今まで価値を見出さなかったことをもう一度見てみる。
新しい自分に、新しい景色が広がる。