蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

何がしたい?

2013-11-17 | 人生
わたしのブログ、あるリアル人の、お友達もご覧になっているそうだ。
面白いですかあ・・・??

リアル人ではあるが、わたしとは人間関係としては一定の距離があるので、
人ごとだから、面白いかも知れない。
おそらく、お互いに面識はあると思われる、このお方。
「あほなこと言ってるなあ、あの人(=スロー)・・・」
そう、お思いだろう。

いいんですよ~。
あほなことばっかり言って、楽しんでいるから。

言っているというか、書いているというか、まあ、つぶやいているわけである。

誰に見られても、読まれてもいいのだ。
開き直り。
「読む」、ということは、興味を示しているっていうことだ。
つまり、それは、不快であろうが、疑問を持とうが、それなりに反応している、ってこと。


わたしは、身内や親族、交流ある方々のことは、信頼しているし、好きなので、悪口は書いていない(はず)。
基本的に、嫌いな人とは、お付き合いしないから。
なので、読まれても大丈夫なのだ(とたぶん、思う・・・)

へんなこと書いていたら、読まなかったこととして、スルーしといてください。
人間、嫌なものは、すぐ記憶から消す、というのは、自己防衛術のひとつですから。

・・・

と言いつつ・・・
ちょっとキーを打つ手が止まってしまっている。
やはり、気になる?

人間だもの。
(このコトバ、楽ですね。なんにでも何回も使える。
相田みつを氏が安っぽく乱用するな、と、怒ってくる?)


・・・

さてさて、今から人をお迎えする準備を。
掃除嫌い、整理整頓嫌い、人嫌いではあるが、怠惰な身体にムチ打って。
ヒトの流れがあるということは、風通しがよくなり、悪くはない。
なにごとも、溜まる、停滞するのは、よろしくない。


・・・

ちなみに・・・チェンジ ザ サブジェクト

テレビで放映されていた、延命治療せずに、癌で自宅で亡くなった62歳男性の話。
他のSNSで話題に上がっていた。

余命宣告されたら、自分ならどうするか。

そのアップされた内容は、ひとそれぞれ様々だった。
書いている内容と、実際に行う内容には開きがあることだろう。
しかし、心構え、準備をしておくことは悪くない。
今の生を濃厚に全うするためにも。

思いっきり、なになにをしたい。
今まで果たせなかった夢をひとつずつクリアしていきたい。
死ぬまで、思いっきり悔いのないよう、思いのままにやっていきたい。
と、希望を皆さん、書いておられた。
(実際には、病気が進行していけば、できなくなるし、要望もなくなることはわかっていても)

まずは、終活ですかねえ・・・。
と、書いている人がいた。
常識人である。
わたしも、それに1票投じたい。
とりあえず、今、出来ることをリストアップ。
宣告されたばかりなら、まだ病魔は、そう進んでいないはずなので、
落ち込んでばかりいたら、その時期を逃してしまう。
だが、とりあえずは、落ち込む時期が必要だ。
落ち込むだけ落ち込んだ後、急いで計画を立てる。
引継ぎ事項の整理で、すべての持ち時間を使い切ってしまうかも知れない。
まあ、それはそれ。それで幸せかも知れない。

テレビの人は、身体のみならず、心のケアをするための専門の人からも、心療治療を受けておられた。
確実な死の到来を、明確な時期を示され、目の前に宣告させて、
安らかにおだやかに、肯定的に、幸福感を感じながら死を受け入れるなど、できるはずもないから、大正解だと思う。
自分で克服できそうもないことは、他人のサポートを受ける。
これは、一人で頑張らないほうが、なにかとベター。
たとえ、事柄が「自分の死」であったとしても。

放映されていた男性は、他にも、栄養士や、看護士、身体や心をケアするプロ、などなどに自宅に通ってもらって、
残りの貴重な時間を過ごされていた。
あのチームの中に、宗教関係の人はいたのだろうか。
いたかも知れないし、いなかったのかも知れない。

・・・

思いっきりやりたいことって、なんだろう?
自問自答。

・・・べつにない。

思いっきり、って、もう、ない。
(したくないことなら、山のように、いっぱいあるが)

子供たちや孫たちが、末まで幸せに暮らしてくれたら、それでいい。
親の介護もしないで、先にいってしまったら、親は、がっかり、義務も果たさずに・・・と恨まれるかも知れないが。
恨まれないためにも、親よりは長生きしなければいけない?
そんなことで、恨むような親ではないから、まあいいが。

・・・

徳田虎雄氏は、すごい。
目しか動かない状態で、すごいと思う。
発病した時からの人生こそ、壮絶。
人には、いろんな人生がある。



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意味不明

2013-11-15 | ブログ
明日の朝は、午前4時20分起きで、自宅出発は5時過ぎ予定なので、ブログ更新は無理。
で、前夜に用意。

ちなみに、わたしのブログを無断で掲載したブログがあるそうだ。
ご親切に、こんなのあるよ、とコメントをいただいた。

のこのこ見に行ってみた。

まあ、なんと変った人もいるものだ。
どこがよくて、なんのために、そんなことするのだろう。

他にも2人ほど、被害者がいるようだが。
著作権侵害というよりは、あまりにもあほらしくて、コトバにならない。


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ピーク

2013-11-15 | 人生
一昨日、蝶ブログの小さな変化を書いたばかりだが、もうはや撤回。
やっぱり前と同じ。
閲覧数に振り回されるのは、おかしいと再認識した。

自分はなんら変っていないのに、なぜか閲覧数が上下する。
それによって自分が変るのは、本末転倒だ。
「目先の変化を鵜呑みにしてはいけない」という、イソップ物語の教えだ。
(イソップ物語に、そんな教えがあるのか、どうか知らないが)

わたしは、わたしなので、べつに、どおってことないのだが。

わざわざ読みにきてくださる方もいれば、べつにそうでもなく無機質的にクリックされただけの場合もある。
ただ、訪問数というのは、唯一、双方向感を感じるバロメーターなので。
書きっぱなしといっても、そこそこ受け皿的なものが気になるのは、俗人ゆえ。
孤高の仙人になりたいところだが、まだ、山のふもとの御茶屋さんで、お茶。

人里離れた高い山に、ひとり住んでいたとしても、人恋しい。
(高い山というよりは、ぽつんと離れた山というかんじ?)
(といっても、べつに「コメントください!!」と、欲しているわけではありません。
お気遣いなく)


毎日毎日、ほぼ私信に近いものを発信し続けていて、いいのかしら?と思うこともある。
「発信」という概念が、大げさか。
書き捨て?
旅の恥のようなブログか?


・・・

ハナシはいきなり、ころっと変って・・・

・・・

人生のピークは、人によって違う。

乳幼児の時は、誰でもかわいい。
が、小さいときはブサイクでも、大きくなって可愛くなった人もいる。
学生時代は、ぱっとしなくても、社会人になってからメキメキ頭角を現した人もいる。
若いときは、すごいイケメンだったが、中年になって単なる、さえないオジさんになってしまった人もいる。
誰もが振り向く美人が、輝きを失ったギスギスした女性になる人もいる。
年を重ねて、輝く人も、どんどん味の出る人もいる。

これは、決して見かけだけのことではない。見かけは、全体のうちの一部。
しかし、見かけ(目に見える部分)だけしか考えない人もいる。
(これには、驚いたが、先日、そんな人がいることがわかって、ますます驚いた)


小さい頃は不幸続きでも、大人になってから充実した人や、
自分の手で幸せをつかんだ人もいる。
晩年運の人もいる。
親が生きている間は御曹司でも、自分の代で、親の築いたものを潰してしまう人もいる。

癌で余命宣告され、延命治療をせずに、62歳で自宅で家族に見守られて亡くなった人がテレビで放映されていたが、
亡くなった時が幸せのピークだったという。
90歳の詩人、彼女は、今が人生のピーク。ピークは、ますます、どんどん続く。


人によって、どこにピークがあるのか、人それぞれ違う。

年を取っていても、まだピークを迎えていない人も、ピークを迎え続けている人も、
今後、ずっとピークである可能性もある。

もう過ぎてしまった人は、その「ピークの幸せ体験」をおかずに、ごはんを食べるとよいのでは。
これから迎える人は、楽しみにしているといいだろう。
あるいは、日替わり定食のように、おかずが、ころころ変るのも楽しい。

楽しむ方向に、こころを持っていくと、自然と笑顔が出るから不思議だ。

・・・

と、キレイごとを連ねてみた。
しかし、これも真実。キレイごとではすまないことがあるのも、事実。
ものごとには、明暗、清濁が必ずある。

それをひっくるめて、皆、生きていくわけであります。


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普通

2013-11-14 | 人生
ホンモノに触れさせて育てる。
芸術家にさせるには、3代かかる。

・・・

パリの郊外にある美術館では、モネの大作がここ狭しと、ずらり並ぶ。
幼稚園か小学校低学年の子供たちは、課外授業でフロアーに座り込んで、写生したり、感想を書いたり、なにやら描いたり。
まさに、小さい時からホンモノを見る。

去年、神戸市立博物館「マウリッツハイス美術館展」で、フェルメールの絵を見た。
一つの部屋に、知らない人はいないと思われる、超有名な小さな絵、「真珠の耳飾りの少女」。
その絵を見るために、絵の前段階から列をぞろぞろ作る。
その中に、小さな子供もいた。
ご両親は子供にホンモノを見せたくて熱心なのだろうが、子供は、大人たちの腰、ウエスト周辺しか見えない。
列に並んでも、少し進んでも、進んでも進んでも、見えるのはずっと大人の腰ばかり。
むっと蒸せるような人、人、人。
絵の前に来ても、絵がちゃんと見えたのか、心配。
あれで、子供は、美術館嫌いになり、絵が嫌いになったかも。

日本では、美術館に子供が足を向け、ひろびろと鑑賞できる環境は、まだまだ整ってないように思う。
(各地の美術博物館では、子供たちが美に触れられる、様々な企画はされているようだが)
休日の都市、大人がいっぱい、長蛇の列、超人気の特別展に連れてきたからかも知れないが。

・・・

わたしが、美術館に初めて足を運んだのは、中学生の時。
当時の親友(のちに、絶交)に連れられて、神戸の美術館に何回か行った。
ユトリロや、ムンクなどを観た記憶がある。
中学生で、絵を観たい? 
わたしには、まったく興味がなかったが、彼女にはあったようで、そのほうが驚きだった。
(でも、のこのこ着いて行く、わたし)
同じ年齢でも、感性や興味は違うものだと感じた。
観ても、ぴんと来なかった。
だが、同じ絵を、年齢を重ねて観た時、
受け取り方、感受性の違いを発見して楽しむのも、またアジなものかも知れない。

・・・

音楽に関しても、似たようなことが言えそうだ。
わたしは、幼稚園の時からピアノを習っていたが、普通のアップライト・ピアノだった。
よその、音のいいグランドピアノから流れる、響きのよい音には、驚いたものだ。
だからといって、どうってこともなく、普通のピアノを弾き続けていたが。
良いものとの違いを知ってはいるが、普通のものを使っていた。べつに、なんの不満もなかった。
おそらく、音楽に関しては、さほど関心がなかったのだろう。
ただ、違いがわかるに過ぎない。

食もそう。
美味しいものは知っているが、食べるものは、普通のもの、あるいは、手抜きのもの。
まずいものも、食べる。
美味しいものも、食べる。

上質と、普通と、低品質のもの、その違いがわかるには、ある程度、基礎がなければ、わからないと思う。
「普通」のところの基礎があれば、「上質」に感激し、低品質のもの接すると、普通のものに対する喜びが生まれる。
自分は普通の感覚を持っているからこそ、幅の広い喜びを感じることができて、幸せである。

低品質のものだけに長く接していると、他のすべてのものが高品質に感じられて、幅はもっと広いのでは?とも思うが。
そうなると、品質を見極めるベースが確立されていないような気もする。


ただし、その「普通」が、厄介なこともある。
普通にもランクがあるからだ。
自分は普通と思っていても、普通でない場合がある。
これは、「常識」の感覚と同じ。
自分では常識と思っていても、人はそう思っていない場合がある。
地域差や文化の違いなど、複雑な要素も、からみあっている。

・・・

わたしは、服装に関しては、うるさい。
べつにたいしたものを着ているわけでも、凝ったもの、高品質なものを着ているわけでもない。
自分の感性、その時の気持ち、行動・用途、天候・気温に合ったものを、
どんぴしゃり的をはずさず選ぶのが、面倒くさい。
気持ちが乗らなければ、TPOを平気で踏み外すこともしかねない。
場違いな服装をしている自分に、その場での気まずさをひしひしと感じて、自分で落とし前をつけるしかない。
自己責任。

暑さ寒さを無視することは、この年齢になると、しなくなった。
機能性、快適性を重視するようになった。
高価なものを普段着に着る(着つぶす)勇気がない、貧乏性でもある。


平素の、当たり前の、ルーチンワーク的に、眠ったように時を過ごす感覚だけなく、
同時に非日常感も持ち合わせているので、いろんなタイプのものも手にしてしまう。
服装だけではなく、ジャンルは問わない。

人間に関しても、それは言える。
が、ジャンルを問わないだけであって、善悪は問う。
素晴らしい人に対しては絶賛するが、悪人は遠慮する。
ただ、問題は、素晴らしい人は、悪の部分も持っていることである。
(凡人の場合、本人が、そのことに気づいていないことが、最も厄介であったりする)
社会をドロップアウトしてしまったような人に関しては、ここでは言及を避ける。

・・・

「ホンモノに囲まれて暮らしたい」という究極ではなく、「ホンモノの良さが、わかるようになりたい」。
その段階をクリアーすると、今度は、「ホンモノの良さを満喫したい、楽しみたい」になる。
そして、欲が張っているので、
「いつまでも、できる限り、ホンモノの良さを味わっていたい」となる。
さらに、ドあつかましく、「ホンモノを自分流に造りたい」になる。
こうなると、基準は、自分。他人の価値観など、どうでもよくなる。
で・・・「普通」の良いものから離れていったりして、
途中、道を踏みはずなさなければ、一般的な感性の持ち主だったのに、・・・となるのだろうか。

一般的って? 自分流って?
自分なりの「こだわり」ってことだろう。
なあんだ、普通のよくあることか。

・・・

他人に評価されなくても、自分のこだわりの人生を歩けたらいい。

と、ここで、〆れたら楽なのだが・・・
自分のこだわりの人生は、「他人にそこそこ評価され、そして自分も納得がいく」人生なので、ややこしい。
二兎を追う者は、一兎をも得ず。
他人か、自分か。

各人、その配合、比率を調整して、頑張って楽しい人生を送ってください。

(と、いつの間にか、他人事になっている・・・)



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人さまのブログ

2013-11-13 | ブログ
蝶ブログの最近の小さな、ちょこっとした変化。

先月のパリ日記のときに、がくんと閲覧数が減少し、帰国してから回復。
さらにその後、これまでより増えた。
つまり、ブログ開設以来(7年目)、今がピークになっている。
不思議。
(じつに、かわいく、ささやかな数字ですが)

ブログ村の「エッセイ」カテゴリーで、パリ行きの前は、アップすれば、だいたい人気記事に入っていたが、
今は、ゼロ。
代わりに、「50代の生き方」の人気記事に入るようになった。
不思議。
以前は、50代人気記事からは、見向きもされなかったのに。
(といっても、大勢[たいせい]には全く影響のない、隅っこのところのものですが)


男性に好まれるものと、女性に好まれるものは違うように感じる。
ブログ村「エッセー」は、男性好みのものが上位ランキングに入っている。
年齢はとらわれないが、時間に余裕のあるリタイア年代が主な書き手、読み手だろう。
男性には、社会に開かれた内容のものが好まれるように思う。
政治経済、時事、文化歴史、客観的描写の旅・・・。
当然、例外もあるが。
逆に、心情や愚痴など、自分のことばかり書いている、内向きの私的なものは、女性には読まれる傾向にある。

書き方や表現もさることながら、ブログ内容に左右される。
自分と同じ境遇、同じ思い、みたいな内容か、あるいは、まったく別世界のような内容。
両極端に二分化されるのでは?


ちょっと宗教がかった、カリスマ的なブログもある。
○○教、教祖様。
信者が読む。
わたしは、この手のものは、ニオイが嫌いなので、パス。

書きにくいことをビシバシ・ズバズバ書いているものも、突き抜けていて、ある意味、気持ちいい。
いわゆる、毒吐き。
ただし、人間性や人格を疑われることにもなりかねない。
読み続けると、毒を吐いている人から毒が抜け、知らない間に毒が読み手に溜まってくるのは副作用か。
一時期、私も毒吐き時期があり、読まれる方には解毒剤をオススメしていた。


まともな生活をしていなさそうなブロガーさんのブログは、わたしは読まない。
が、哲学系だとか、悶々と何かを追求しておられるものは、
生活はまともではなくても、内容としては面白い場合がある。
狂気系は、NG。

なかには、意味不明の表現をしているのに、そのほとんどが、理解できてしまうブログもある。
暗号みたいなもの。
暗号の下にある意味は、解読できてしまったりして、それはそれで楽しい。
ブロガーさんとの共通語である。
空気感が伝わる。

・・・

わたしが毎日読んでいるブログ。
ひとつのブログは、ものすごい閲覧数をカウントしている。
(ブログ村ポイントで、容易に閲覧数は推測できる)
これは、同じ境遇にある、子育て真っ最中の人が読んでいると思われる。
また、別のちょっとクセのあるブログは、そこそこ多いカウント数だが、わたしと同世代。
さらに、もうひとつのマニアックなブログは、なぜかカウント数が少ない(らしい)。
そして、その他もろもろ・・・。これらは、毎日ではないが、あと2~3ブログ。

わたしにとって、見に行くブログのカウント数はどうでもいい。
毎日、ご機嫌麗しく(不機嫌でもいいが)、ブログをアップしてくれたらそれでいい。

・・・

わたしがブログを書く理由。
気になることや、自分の思いを書き出すと、スッキリするから。
単にそれだけだ。
書いているうちに、自分なりの答えを見つけることができることもある。

以前は、だらだら書いて、最後に〆、まとめなければ・・・
・・・で、自分は何が言いたいわけ??と、それなりに結論を一生懸命考えていたが、
今は、不思議と書いていると自然に自分なりの結論、答えがすらすら出てきている。

一連の作業に慣れた?
脳の思考回路の流れ作業が定着した?
自分なりの方程式、法則のようなものを確立、見つけた?

あんなにだらだらと、書き続けて、やっとたどり着いた?

いやいや、まだまだ道途中。
だが、ちょっとここらあたりで、一区切りかも知れない。


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ママ友

2013-11-12 | 暮らし
わたしには、ママ友のお付き合いというものが、よくわからない。
世代の相違だろうか。

でも、わたしの子育て中も、同じマンション住民ママ、近隣のママや、自治会ママ、子供会ママ、
幼稚園や学校で同じクラスのママ、PTAママ、同じ塾ママなどがいた。
どの人がママ友かというと・・・
べつに積極的に関わったわけではないが、
やはり主に、住まいがある地縁に基づく縁が多かったように思う。
幼稚園は転勤のため、3つ変わったが、
学校は、地元の公立小学校だったし、自治会、子ども会、PTA、どれも同じ顔を見つけることができる。

ご近所での幼児教育~小学生の塾は、ほんとうに、ご近所の子供たちばかり。

どこに行っても、同じママ、子供たちの顔があり、安心して楽しく違和感なく過ごしていた。
そのママの家にも相互にお邪魔したことがあるけれど、派閥があるとすれば、子供の学年によるものぐらいか。
しかし、一人のママに何人も子供がいるので、派閥も重複するし、結局、たいした派閥ではなくなっている。
情報交換網みたいなかんじ。

わたしとは違い、積極的に近隣からはみ出して、少し離れた住まいのママとお付き合いしていたママがいて、
いろんな情報を持っていたが、わたしは、ぜんぜん興味がなかった。
あまり関心がないってことは、わたしは、ちょっと薄味すぎるママだった。

なので、これという選択もせずに、特色も出さずに、
ふつうに地域で暮らしていたら、ふつうのお付き合いが、そこにはあった。
今思えば、あまり子供にシャカリキにならない、その薄味が、マイカラーだったのかも知れない。


あえて、自らが選択したとすれば、塾。
小学校高学年の塾は、近隣から半径5~15キロ広がったところの子供たちが通っていた。
しばらく10年近く、1年に1度、ママだけの同窓会は続いていた。

進学先での中学以降の新ママたちとは、まったくお付き合いなし。
一人の顔すら覚えていない。
行くのは、個人面談のみ。(まれに参観にも行ったことがある・・・)
仕事にかまけて、手抜き甚だしかった。


・・・

つい先日、うちに、ひょいっと遊びに来てくれたご近所の人も、ママ友の一人と言える。
年齢的には「ババ友」か。

ご近所の元ママ友たちの子供たち(つまり、我々の子供の同級生など)の消息、ニュースを教えてくれた。


○○クンが、結婚した。今、どこどこに住んでいる。
あの子は、どここどこ、その子は、どこどこに住んでいる。
△△ちゃんが、今度、里帰り出産。お姉さんと同時、里帰り出産で、今、実家をリフォーム中。
◇◇クンが、今度結婚するので、結納を見に来て欲しいと頼まれて、行ってきた。
などなど・・・

以前は、だれだれは、どこの学校に入学した、どこに就職した、というニュースを運んできてくれていたが、
今は、子供の結婚、出産、転勤、引越しのニュース。
いずれ、入院、ホーム入所、死亡、・・・になるのだろう。

学校、就職先、進んだ道は違っても、それぞれに自分の道を歩いている。
さほどトラブルもなく、今日まで来ている。
おそらく、あまり深く首を突っ込まないお付き合いだからだろう。

我々より少し世代が上のママたちは、子供たちも少し上。
それはそれで、ひとつのカタマリを形成している。
が、ゆるいカタマリである。
彼らとは自治会もいっしょ。ご主人の顔もちらほら見かける。

引越して出て行く家族もあり、また、越してくる若い家族もある。
親元に帰ってくる娘さんや、お嫁さんを連れて子供とともに帰ってくる息子さんもいる。
年老いたお母さんを引き取る娘さんもいる。
ゆるやかに変動している。
新しく家族構成が再編成される。

スパンが長い。


基本的には、わたしは、あまりお付き合いをしない。
最低限度のことしかしない。
なので、仲間はずれにされていても、知らない。
悪口を言われても、自分に知らせてくれる人がいない。

自治会の掃除で顔を合わせると、にこっと会釈するのみ。

いたって平和な空間に自分はいる。
「鈍感」という宝物を神様がくれたようだ。


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ブサイク

2013-11-11 | 日々のこと
昨日と、一週間前にデジカメで撮られた、自分の写真を見た。
う、、、。

なんで、こんな顔?

昨日は、豪華な結婚式にお招きいただき、ドレスで出席。
ところが、このドレス、ウエストが、ぴちぴち、ぶにゅ~。
ボディースーツを着用したぐらいでは、肉のほうが俄然強くて、なんのそので余裕で跳ね返す。

新しいドレスを買うのもなんだし、着物はもっとめんどくさいし。
で、苦肉の策は・・・
とっておきの強力ボディースーツの登場。
普通のいつものボディースーツに加え、その秘密兵器を重ね着した。

ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅぎゅぎゅっ。

おっ。

ぶるんぶるんのウエストの肉が上下に、ぺっちゃんこに、
アスファルトの上に大型ローラーを転がしたみたいに、
どこかに行っていた。

これは、いい。
さすがだ。

と、喜んで出席した。

が・・・

式に加え、披露宴は延々と続き、・・

宴もたけなわ、
フォアグラのまた大きいこと。ふにゅぶにゅは、共食い感覚。
せっかくの、豪勢な、日ごろお目にかかれない素晴らしいお料理の数々・・・
次から次へと、これでもか、と、目を見張るメニューが運ばれる。

見た目も立派、ゲイジュツ的。
なのに、フィレステーキ、ベイクドチーズケーキ・・・
皆さんは、ぺろりとたいらげておられたが、わたしは、最後の二皿は泣く泣くギブアップ。


着用後6時間を経過して、やっと、更衣室でドレスを脱ぐ。
このときは、たんにロングドレスから、着てきた服に着替えただけ。
他の出席された皆々様も、着替えておられるので、武装武器下着を脱いでいるところは見られたくない。
涼しい顔で、ささっとドレスを脱いで、終い仕度をすませ、
その後、トイレにいって、ぐいっと力いっぱい、一番下に着ていた強力な方を引っぱり脱いだ。
やっと、拷問無理やりウエスト締め上げボディースーツから開放された一瞬である。


やはり、自然の摂理に反したことをするのは、よくない。
ウエストの肉は、消滅したわけではなく、上下に分散されただけで、
かわりに、時間が経つにつれ、徐々に分散されたものが、反乱を起こして、ウエストの中央めがけて、
内臓もろとも、締め上げにかかったのだろう。
胃から腸にかけてのあたりが、ちょうど、その負荷が最高に達しているところ。

大好きな美味メニューも入らないほど、道路中断、器官が中途で圧迫されたのか?


で・・・
写真・・・。

その写真は、まだ、披露宴に入っていない、涼しい顔の頃のはず。
なのに、髪は少しバラっと乱れ、崩れた不自然な姿勢で椅子に座り、とてもへんな顔。
なんだ~。
せっかくの苦痛に堪えて頑張った苦労も、最初からあんな顔、姿勢なら、
きっと最後まであんなかんじ、いや、もっとひどいことになっていただろう。
げんなり。

ついでに見た、先週、撮られた写真。
これまたへんな顔。
めちゃめちゃヘン。
髪の毛が、ざんばら乱れすぎ。
わたしの髪って、なんであんなに乱れる???
写真を撮るときは、それなりに整えることが必要。
突然撮る人も悪い。(逆切れ)

カメラの画面に映し出された、醜悪でブサイクで無様で、およそ美人とはかけ離れた自分の顔を
まじまじと見て、とてもとても、がっかりした。
均整のとれてない、アンバランスな顔のパーツ配分は、不美人の動かぬ要素であると、
美容整形外科医が言っていた。
これは、どんなに高額費用を投じて、美容整形の手術をしても修正不可能なんだそうだ。
顔の左右も、まったく対称でないし、目や眉毛の大きさや角度もまるで、ばらばら。
ああ、これが現実なのね。
この顔で残された人生も過ごさないといけないのか・・・。


でも、その前に撮られた夏や春の写真は悪くなかったけれど。
なぜ、こんなに違うのだろう?


結婚式のドレス写真は、たったの1枚。
髪の毛乱れの先週のへんな写真は、10枚ぐらい、どれもブサイク。
一瞬一瞬のシャッターチャンスが最悪ってことにしておこう。
責任転嫁、罪のなすりつけは、自分を救う。


それにしても、ショック。
現実から目を背けたい心境だ。
とはいっても、おそらく、自意識過剰の一環だろうとは思うが。
他人は、自分で思っているほど、わたしの顔など見ていない・・・(はず)・・・

その存在すら、気にもかけていないことだろう。

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ハードル

2013-11-10 | 日々のこと
ひょっとして、わたしの母は幸せかも知れない。
けっこう高齢であるにもかかわらず、致命的な病気にもならず、日常生活を送っている。
最近、足が痛いようだが、それ以外はまあ大丈夫。
時間もお金も人も、そこそこ自由に使える。


先日、母の手術に関する説明が、主治医から行われた。
狭い診察室に、ぞろぞろぞろと、大の大人が何人も詰め掛ける。
母の子供たち(=わたしたち、きょうだい)と、その配偶者。
隣の隣の遠い県から、はるばる駆けつけた子供夫婦(=わたしたち)もいる。
たかが、手術の説明にである。
それも、心臓とか、脳とか、カラダの中心、要(かなめ)となる部位ではなく、末端である足。(片足)
整形外科系。

一瞬、葬式か? はたまた危篤の知らせに駆けつけたのか? 
というぐらいの、一同集合の息の合いっぷり。
これは、なにパワー? 求心力は、なに?
人徳??とも違う、一種のカリスマ性? それとも違うような・・・??
みんな心配して、口先だけでなく、行動に移すところが偉いと思う。
(というか、知らないうちに重症になってから、慌てて困るのは、世話をする側の我々だから?)
ひょっとして、親孝行の一種なのかも知れない。

と言いつつ、大人がいっぱいで、診察室からはみ出そうになると、
自分が最前列に座っていた母が、「どうぞ、どうぞ」と家族たちに席を譲ろうとする。

「なに言ってんの。自分のことでしょ。
おかあさんが一番前にいて、一番よく聞いてないとダメじゃないの」
と、姉に、たしなめられる。

・・・

母は、お花を活けるのが、とても上手である。
そこらへんの庭の花や、畑の花をちょいちょいと切って、すいすいと、手際よく活ける。
義理姉もキレイに花を活けるが、時間がかかるらしい。が、母はスピーディ。
いつも花が活けてある。

先日、宿泊した大きな旅館は、温泉も素晴らしく、気持ちよい時間を過ごした。
旅館のあちこちに、花が活けてある。
部屋にもメインの床の間に、大きな花瓶に花が活けてあった。
廊下や、浴場の休憩室、コーナー、その他、目に見えるところどころに、花を見た。
が、センスがまるでよくない。
すべての花のセンスが悪いと感じたのは、あの時が始めてだった。

若女将が、美しい笑顔でご挨拶してくれた。
彼女が旅館の顔、広告塔、広報トップということだろう。
・・・端正な顔立ちの上品な笑顔からあふれる気品はさておいて、
残念なことに、お花を活けるセンスのある人物が、あの旅館には、いないようだ。
「センスがない」ということに気づいていないのか、
人材を補う余裕がないので、目をつぶっているのか、
あるいは、花のボリューム、花への経費が限られているのか。
はたまた、わたしのセンスがおかしいのか。


しかしながら、今回、はじめて思った。
今までなら、ちょくちょく滞在するホテルや旅館、ホール、店舗では、
「まあ、お花が美しいこと」と、、、豪華なお花や、さりげないお花に、こころ惹かれていた。

・・・

で、思った。
あ、そうだ。
今まで見てきたお花が、素晴らしいものばかりだったのだ、と。
特に、母のお花。
大作も小作も、わたしのこころに響いていた。
目をなごませてくれた。
素材によっては、凛とした佇まいを見せ、部屋の雰囲気をきりりと引き締めてくれたり、
柔和になごませてくれたり、華やかにしてくれたり。
空間に華をもたせる、とは、まさにこのこと。

どうも、母のおばさんもお花が上手だったらしく、遺伝かも知れない。
こういう遺伝なら、とても嬉しい。
が、その遺伝、今のところ、誰もまだ表面に現れていない。
わたしたちの甥や姪に現れるのだろうか。

ひょっとして、わたしが・・・???
ありえない。へた。
見るのは好き。感動もする。
せっかく活けてある花が、おかしいと感じたのは、今回が初めてだが、
たいがいは、美しさにうっとりしたり、こころ癒される。

ああ、めんどくさいことになった。
わたしは、お花を見る目が確立されてしまったようだ。
どれを見ても無条件に素晴らしい、と感動できなくなってしまったようだ。
一種の知りすぎた故の弊害かも知れない。

なにごとも、小さなことでも感謝し、幸せを感じるためには、経験は、ほどほどがよいのだろうか。
幸せの感受性ハードルを、自分で低くしなければいけないこともあるようだ。


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負傷兵

2013-11-08 | 趣味
趣味のことをここ、蝶ブログで書かなくなった理由。
それは別の、趣味に特化したSNSで、書いているから。
趣味リアル世界でブリッコしている自分の裏側を吐露している。
ここ蝶ブログに書いても、読み手はおもしろくもなんともない。
趣味の世界のことは、同じ趣味、同好の人のほうが、実情や内情は、手に取るようにわかっていただける。

リアル趣味社会では、自分でも胸が悪くなるほど、わたしは、いい人を演じていて、げげげっとなる。
なにしろ、社交ダンスなもので、男性と女性の世界。
男性優位らしいので。

まあ、立てる立てる。男性を立てまくる。ゴマも、すり放題。
なにわの商人(あきんど)名物か。
それって、自分に実力がないからである。

その鬱憤を、趣味SNSで、ぶちまける。
すると、どう?
男性は、すすすすすす~と、気持ちいいぐらいに、潮が引くように去っていく。
女性は、やたら元気になる。
そうだ、そうだ、もっとやれ!!みたいな。
自分の手は汚さず、人にやらせる。
わたしは汚れ役か?!

オフ会とか、リアル社会には絶対に顔を出さない、
もし仮に出しても、今のハンドルを消滅させてからしか出ない、という強い思いで、
本音をぶちまけている。

パーティ主催者の方とかは、お客さんに来ていただかないといけないので、
たとえ、本音があっても、すべてを出すことはできない。
その人の発言を読んでいると、それが、ようくわかる。

男性は、かわいい女性がお好みだ。
自分が優位になれる女性。
しかも、若くてキレイでスタイルがよく、気立てがよい女性。
ダンスは自分のほうが少し上手で、というオマケつき。
それが、痛いほどわかっていて、かわいこブリッコしていたら、円形脱毛症になりそうになる。

コップに「不満」という名の液体は、徐々に、日に日に溜まり、増え、
ある日、コップからあふれ出した。
キレた。


・・・

いま、わたしは、レッスンは受けているが、パーティには顔を出していない。
しばらく、治癒するまでお休み。休養タイム。
パリも、自分と向き合う、いい自分時間となった。

やはり人間、無理はよくない。
かといって、あからさまに闘志むき出しで、牙をむいて突進するのも、いかがなるものか。
闘牛の牛なら、適職かも知れないが。

ちなみに闘牛の牛は、闘う牛なので、筋肉もしっかりしているし、闘ったその瞬間、壮絶な最後を迎えるため、
体の硬直状態がよく、テール(尻尾)は美味として絶賛される。
普通の牛ではなく、「闘牛のテール」として、煮込み料理にされていたが、スペインで賞味した。

人間であれば「闘う女性」のテールは、美味か?
人間は食肉としては不適合だろうから、パス。
では、闘う女性の何が、美点として評価されるか?
わたしごとき、裏(自分のブログ)で、ぶちぶち言って、
闘いに負けて、負傷して、きゃいんきゃいんと屋根裏部屋で傷が治るのを待っているような、
そんな女性は、ちっとも闘う女性でもなんでもない。
強いていうなら、「負ける女性」だ。

それを尻目で見て、
男性は、「ふん、男に逆らうとそうなるんだ!」と反逆者を二度と光の当たる場には出られないように痛めつけ、
女性は、「男性に逆らうと、ああなるのね」と怯えた目で遠巻きに見る。
遊郭から逃げ出した遊女への見せしめみたいだ。
最近、週刊誌で読んだ記事にあった、売られた女性が逃げた挙句のお仕置きのごとく。
そこに、男前の救世主が颯爽と現れ、救い出だしてくれると、かっこいいのだが。
日の当たらない屋根裏部屋で、パチパチ、キーを打ちながら、
時折、いたたた、と、痛む傷に、顔をしかめる。

・・・などという図。
ああ、かわいそうで、ぶざまで、マヌケなわたし。

(いちいち説明するのもナンなんですが、生真面目な方がお読みになると誤解を招くので、
・・・これ、心象風景です)

・・・

しかしまあ、ブログは、自分を救う。
救世主は現れなくても、自分で自分を救う。
だってぇ~、誰も救ってくれないし~。
人はアテにできない。

自分のことは自分でする。
自分で落とし前をつける。
人を頼っていては、救われないってことだ。

屋根裏部屋で始まる、自立の第一歩。
まだまだ先は遠い。



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2013-11-07 | 日々のこと
今日もあちこちネット散歩をしていたら、そっちのほうに膨大な時間を費やしてしまった。
気が緩むと、どうもいけません。

人の書いておられるものを読んだり、コメントしたりするのは、気楽でよろしい。
むふふ、と、いつもにんまり笑っているのだが、コメントはまったくしないブログもある。
(ほとんど、そう)
完全、完璧、パーフェクトに読み逃げ常習犯。
気楽、気楽、めちゃくちゃ気楽。

その一方、自分のブログといえば、中途半端に気分次第でほったらかして、
非常に真摯でない姿勢。
本来なら、書きかけであるなら、途中で草稿中として保存して、続きを完成させてからアップすべきもの。
でも、そんなマジメなことをしていたら、即、「ブログなんてヤダ」、となってしまう。
すみません。品質が、いたって良くないものを放出してしまっています。
というか、品質以前の問題である。


と、いつもいつもいつも助走が長い。

ちょっとした出来事を話そうとすると、娘にもよく言われる。
「おかあさん、長い長い長い前置きは、もういいから」
そう、せっつかれると、
ハナシを要領よくテキパキと、コンパクトにまとめられないわたしは、よけいに焦って、
もぐもぐ、ふがふが、えっと・・・だから、その、えっとぉ・・・となってしまう。

リレーでバトンを受け取る姿勢のまま、走っているかんじか。
受け取らないで、そのまま、じわじわ、ずっと、ちびちび走っているかんじ?
バトンを受け取り、さあ、ダッシュ、本気走り!!となった頃には、もう、ゴール。
ああ、これは、わたしのいつもの定着してしまったパターン。

と、この上記の文、これ自体が助走、序文、前置き、なのだから、
ほんとうに、困ったものである。

「序文の書き方」「プロローグの書き方」というブログを立ち上げようかしらん。

・・・
このあたりで、もう次のブログにお進みになっておられる方、多数、続出、間違いなし。
・・・

じつは、他のSNSで、「日記」と位置づけられている記事をアップした。
(ブログと同じようなもの)
で、今朝の時点での思いや、もやもやは、書いた瞬間に吹っ飛んでしまったのだ。
いま、もぬけの殻。

趣味・同好の他の人の日記へのコメント欄にも、思いを書いた。
なんか、すっきりしてしまっている。


・・・

昨日、夢を見た。

広い蔵の中。
「クラシックス」という酒造会社が経営しているレストラン&ショップに、
先日、行った、その影響だろう。
蔵を利用した店舗。
この酒造りは歴史を重ね、創業は300年以上前から。

夢では、
広い蔵の中に、戦争か災害かで大勢の人が避難してきているシーン。
そして騒動がひと段落して、彼らがいったん引き上げた後。
蔵の中は、飛行機から乗客が降りたあとのような、少し、モノが散らかっていた。
蔵の中には、美術品がいっぱい。
見たことのない、宝飾品や装飾品もずらり。
ひとつひとつは、箱の中に収められていた。
箱から、出されたような形跡もあった。

この酒造会社は、美術博物館も運営しているので、これまたその影響か。

直近に体験、見聞きしたものから連想される単純な夢だが、
ちょっと、あれこれプラスアルファのストーリー展開があった。


夢には、無意識の自分の気持ち、思いが隠されている。
自覚していないだけであって、夢を見て、はっとすることがある。
自分の深層心理のようなものに触れ、とても複雑な心境になる。

・・・

日ごろ意識していない気持ちとは言いつつ、
実際のところ、はっきりくっきり、自分で思っていることであり、
あからさまに、それを夢で確認作業を行っているようなかんじか。
自分の腹の中、こんなのです・・・あああ、と、苦笑する。

気にしていることが、浮き彫りにされる。
迷っていたり、悩んでいたり、懺悔に近いものだったり、
そういうことが夢に出る。

・・・

ひやりとすることもある。
人生の幸運、幸せは、不運、不幸と紙一重。
隣り合わせであり、ある日、オセロゲームのように逆転するのではないかと、
生きた心地がしないこともある。
恐怖であり、その恐怖を紛らわせるために、
人によっては、酒やクスリ、宗教にしがみつくこともあるだろう。

日々、マジメに生きていくしか手がない。

マジメに生きるのが、これまた至難の業である。



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