蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

田舎モンで、なにが悪い?

2015-03-12 | 暮らし

本日は、アカの他人さまの書かれた感想に接して、勝手にひとりで沸騰しています。
以下、↓聞き流してください。

お洒落して出かける場所が、イオンぐらいしかなくて、なにが悪い?
他人の思惑を気にするのなら、せめて最低限、ホワイトデーのお返しは、アンリシャルパンティエにしたらどう? だって?
シャトレーゼじゃ、なんで、だめ?
私は、好きですが。ね。
コストパフォーマンス。いいですね。

外を知らない、世界を知らない田舎モノで、なにが悪い?

知ったところで、自分のレベルや、立ち位置をより正確に把握するだけだ。
飛躍できるか?
井の中の蛙ぶりを確認、自覚するだけだ。
でも、しないよりはいい?
いや、自覚しないほうが、・・・なにも知らないほうが幸せの場合もある。

へんに目を覚まさせたり、啓蒙したりするのは、余計なお世話であることもある。
本人に能力がない場合は、特に。

なんだ、と惨めになって、がっかりするだけ。
それなら、オレは田舎のプレスリーのほうが、突き抜けていてカッコいいと思うけど。

田舎モンではない、って言っても、世間を知ってる、と言っても、他人の目を気にしすぎはどうかと。

田舎モンのどこが悪い?
都会暮らしがカッコいいなら、都会に暮らせばいい、
あ、もう、そういう人は都会に暮らしていることだろう。

都会暮らしが、順風満帆な場合、不満がない場合、人のことなど気にならないと思うけど。

人は人。
それぞれの育った環境もあるし、それを土台にして、乗り越えるなり、塗り替えるなり、
はたまた、ステップアップするなり、応用させるなり、発展させるなり、つぶすなり、
自分がいいと思うようにするといい。

ただし、「自分の選んだ道は正しい」ことを、より強く確信するために、他を否定するのは、
わたしの嗜好とは、ちょっとズレる。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村 

 


卒婚

2015-03-10 | 人生

わたしは、この手のテーマは書きにくい。

なぜなら、最近、自分のことをあまり書きたくなくなっているからだ。

実際は、とても興味があり、言いたいことは山ほど。
主張の塊、自己チューの権化なのだが。


ホンネを書きすぎると、抗生物質が効きすぎた身体のように、
どうも、自然な流れや、時間、空気感を保つことができなくなりつつある。

農薬をいっさい使わない野菜を作ったり、化学薬品をまったく使わない製品だけで生活するのは、
理論上は理想であっても、実際の生活には不向きで、ギスギスする。

建前とホンネをあまりにも使い分けすぎ、調和がとれにくくなってきている?
両極端に逆ベクトルで、分離していっているのか?
老化の一種?

自分のホンネに自分が壊れそうになるのだろうか。

ほんの少し前は、人を傷つけるから、やめておこう、口に出すのは控えよう、と思っていた。

最近は、自分を傷つける可能性もあるし、
冷静すぎて冷たすぎる、本質だらけの論理は、無機質すぎて、生活者には向かないことをよくよく理解している。


卒婚を語る前に、結婚を語らなければいけない。
語りたくない自分に、無理には語らせない自分がいる。

自分のバランスを崩さないためにも、なにごとも、あんまり追求しないことがよろしいかと。
少々泥のついたままの野菜でも、傷がついていたり、ちょっとくらい腐っていても、
床に、ぽろんと落ちたお菓子でも、お腹を壊さないと思うので、
埃をささっと大まかに払って、気にせず食べたらよいのかなあと。 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村 


Gone with the Wind ~アタシを置いて去ったひと

2015-03-09 | ブログ

今日は、なんだかとても気が抜けた。
(→ブログ村での出来事です)

僻地の田舎に興行に来ていた、(大都会を活動拠点とする)役者一座が、とつぜん、引き上げてしまったような感覚だ。

あと、何週間も興行はあるだろうから、楽しみに、何回観にいこうかと、スケジュールを立てて、わくわくしていたのに。
なんの前触れもなく、風と共に去りぬ。
払い込み済みのチケットの返金をしてもらわなくては・・・ということはないので、よいが。

もともと、なんの交流もないし、交流する気もないので、差し支えないのだが。

村で一人だけ、わあわあ騒いでいた村娘のわたしは、静まり返った宿舎や、もぬけの空となった楽屋で、、
一座のチラシが風に舞っている中、呆然と立ちすくむ。

勝手に一人で騒いで、一人で盛り上がって、一人で消火、鎮火して、一人でクールダウンすることは、
わたしの人生のルーチンワークのひとつとして、定着しているかも知れない。
本来、人知れず、それをひっそり、こっそり行うのがわたしの鉄則であるが、
ブログには、わかのわからんことを連日、アップしている。
わかる人だけが、わかる、わからない人には皆目わからない、という、じつに、読む人に対して不親切な、素人ブログである。

確実な信者(リピーター)を掴んだから、その目処がたったから、引き上げたのだろうか。
それとも、素人軍団に嫌気がさした?

なんの内情も動向も知らない、素人・村娘は、置き去りにされた、
コアになって動員に貢献したり、役に立つことのできない、末端のファンのようなもの。

ちょっと、がっかりである。
が、見に行こうと思えば、いつでも行ける(はず)。
しかし、おそらく確実に足は遠のくだろう。

去り際に、美学はあるのかも。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ

意外に、ご本人ブロガーさんは、あまり深く考えてないかも。
(あ、じつのところ、わたしも、です)

「アタシ」とか、カタカナで表現するような人は、痛すぎて超NGな、高尚好みの方だったのだが、
わたしは俗人の極みなので、あえてタイトルに使いました。

 


デキる人のブログは、臭う

2015-03-08 | ブログ

しょうもないことを書いて、すみません。
(と、謝る必要はないのだが、しかも、誰に謝っているのかも不明だが。
ひいていえば、しょうもないことを書いていることを自覚しているという、
自分に対する、確信犯的、免罪符のようなものか)

ちなみに、この( )(括弧)は、補足説明に使う場合もあるが、わたしの場合は逆説的に使う場合もある。
あえて、お読みいただいている方に、もっとわかりやすく理解していただこうという、
見上げた立派な親切心ではない場合が、多々多々多々ある。

と、「しょうもないこと」の、内容であるが・・・。


ほんの先ほど、(3月8日午前10時ごろ)発見したことがある。
(これが、「しょうもないこと」なのであり、わざわざブログ記事にすることもないのだが、
素人ブログのお気楽、自由さから、ほいほい記事にする)

それは・・・

(ここにきて、無意味に、もったい、つけている感がある)

いえ、つまらんことなのですが、・・・

ブログ村ランキングは素人に向けてのランキングであることが、わかった。
なぜなら、(記事内で閲覧数を具体的に公開されていたので、実数がわかったのだが)、ものすごく閲覧数が多い、プロ(級)の超人気ブログでも、ランキングポイントは少ないし、
わたしが感じるところでは、無意味で無価値、どこがいいのか、まったく評価にも値しないブログでも、
異常にランキングポイントが連日、高いものがある。

今更ながら、今ごろ気付くのも、あまりにもわたしは幸福モノであるが、
素人を応援するのが、ブログ村だということだ。
だが、時々、プロ的なブログもたま~に登録されていることもある。
わたしが必死で面白がって読んでいるブログもそうだが、
おそらく、幅広い素人さんからの、そのブログへの新たなアクセス誘致の目的があるのかと推測する。

素人(わたし)としては、人気ブログをブログ村で知り、わあっと飛びつくわけである。
が、ブログ村では、村民のみなさんは、比較的し~んとして、静か。
めったに僻地の村にはやって来ない、都会の芝居一団(あるいは、サーカス団)の来訪に、わあわあ騒ぐのは、わたしぐらいか?
村の長老はじめ、住民たちは、一団が興行でそこそこの成果が上がれば通り過ぎることや、
毎度、村の娘が騒ぎを起こすことなどが語り継がれ、そんなことは、とっくに知ってるのかも知れない。


はなしが、ちょっとズレてきている。・・・・

つまり、・・・
ブログ村は、素人集団のモチベーションをアップするためのものだと感じたのである。
まあ、いいんじゃないですか。それで。

・・・・

と、スパイスの効いた記事を読み続けると、スパイスだらけで、舌の感覚はおかしくなるし、
またその一方で、本来の自分の持ち味のようなもの、生まれつきの性質のようなものが、
むくむくと謀反を起こす。

わたしも、皮肉屋で、毒舌で、自分ともども人を斬ってしまい、斬ったのは自分であり加害者のくせに、後味の悪い時もある。
反逆や攻撃を受けたときの対応のしかたで、その人の本質のようなものが出ると思う。
自分のことは自分で守るべきである。これは、百も承知。
わたしは、非難されても、相手を攻撃することはない。
ブロガーさんが反撃しているのをブログコメントで見て、その様子を「窮鼠猫を噛む」、と捉えると、上から目線すぎるが、
わたしは、「負けるが勝ち」戦法を取る。かっこ悪く、すごすご、逃げる。
喧嘩はしない主義。言われっぱなしでも、いい。

「理解力の無いあなたが悪い」とは、さすがにわたしは他人には言えない。
「わたしの言いたいことを正確に読み取るべきだ」などと、そういう姿勢はなぜか持ち合わせない。
だから、ブログが、切れが悪くなるんだろうけれど。
アイスクリームの天ぷら?お花畑に豹柄?
いや、反対か。アイスの中に天ぷら、全面、豹柄コートの裏面は、お花畑?

おそらく全力を出し切っていない(出し切れない)から、相手に攻められても、へらへら笑う余裕があるのだろう。
「あ、やっぱり? わたしの文章、わかりにくいですからね~」、と、ど素人だけに、自分に非があるように感じてしまう。

ばっさばっさと斬っているのは気持ちいいが、自分に軸があるのはいいが、
それ以外は、すべて否定するというのも、いかがなるものか。
驕りがあるように感じる。
せめて、自分と違う価値観が存在するという認識にとどめるわけには、いかないのだろうか。

まあ、わたしの場合、謙虚というよりは、省エネの結果、
「あ、はい、そこ、抜けてます。できてません、いえ、やってません」と、自分を甘やかす材料に利用しているところがある。
そこが、素人なのだろう。自分に甘く、他人に甘い。

と、素人をいい言い訳に、なんでも自分が楽しむ方向に持っていってしまう。
いいじゃないの、素人で。
と思いつつ、まったく理解できない素人軍団もあり、それは、理解を超えるし、今後も理解できないだろう。
あたらず、さわらず、棲み分けして、不可侵で、お互いのテリトリーは守って、楽しく暮らしたいものである。

追記
人は、完璧なんてないと思っている。
良い面があれば、悪い面もある、表裏一体、一長一短。
デキる人間が、自分は「能ある鷹は、爪を隠す」ことを意識した瞬間に、臭ってくる。
デキて、なおかつ臭わない人間は、あんまりブログとか、書かないような気がする。
(書いても、ぜんぜん面白くない可能性がある)

デキないから臭わないか、デキて臭うか、どっちかだ。
あら、わたし、どっちかしらん・・・
自分では前者だと思うが、私の文章は、そうとう臭う、と指摘する人もいる。
この場合、デキないくせに臭うという最悪のパターンであると予測する。

デキて臭わないようになるには、マザー・テレサに弟子入りしないと無理だろう。
もう彼女はいないので、現存の・・・○△□さんに師事し・・・うんぬんかんぬん・・・
その気も無いのに、文字数だけ増やしてみました。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ

 


人気ブログは、やはり面白い

2015-03-07 | ブログ

驚きました。
わたしが、最近、面白くてどんどん読んでいるブログの著者、ブロガーさんが、
なんと、わたしの娘とそう年齢が変わらないことをさきほど、いろんな記事を読んで知った。
40代だと思っていたが、30代のようである。

え、え~?!

わたしは、娘ほどの年齢の女性の説法をこころから納得して、頷いて読んでいたのか、
その驚き。

そりゃあ、すべての記事に対して納得したわけでもないが、
真理を突いていると感じるものも結構あった。
そういえば、記事中、会話では、おかあさんと彼女の設定が多かった。
なるほど、・・・わたしと、娘か・・・。

どうりで、男女のことや、美容やカラダのことなど、わたしも若い頃は興味があったが、
今は、あまり関心がなかったり、むしろ、どぎつくて拒絶反応を示したりするはずだ。
子供の話はまったくテーマに出てこないので、おそらく、彼女にはお子さんはおられないのだろう。

20代が女性としてのピークで、それを過ぎると「年増」ということになるらしい。
自分を中心にモノゴトを見るのはあたりまえなので、
そうすると50代というのは、もはや、膝など当然、見せない、女であることを隠しまくるべき年齢ということなのだろう。
膝は、わたしも見せないが、自分が、女であることを押し殺すべき年齢であったとは、知らなかった。
わあ、明日から、いや、今日から、男物のズボンをはいて、おっさんとして生きるか、
あるいは、おばあさんとして、縁側でお茶をすするか、だ。

30代の女性にとって、50代の女性は、女性としての任務は完全に過ぎ去り、お払い箱なんだろう。
(彼女のまわりには、素敵なシニアはいないようだ)
そういう考えが見え隠れする記事を読むと、なんだか笑えてくる。
美魔女とか、美しい女であることに囚われ、振り回されているのは、若いなあ、と感じる。
若作りの女性を、実際に現在、若い女性の目から見ると、痛いと感じるらしいが、
実際に若くない女性(わたし)の目から見た場合、
見た目、ルックスに自分が振り回されている女性は、主客逆転しているように見える。
自分が、自分の外見に惑わされている。
「自分が、どう見えるか」ではなく、「自分は、どうか」、だと自分では思っておられるようだが、
傍目から見ると、「他人から見た自分の美」「他人と比べた自分の美」、そればかり。
なにごとも、モチベーション・アップには基準が必要なんだろうけれど。

重ねてきた年齢を誇りに思い、肯定している年長者は、身近なところでは、母親であるはず。
母親は、身近な女性の見本として、素敵な歳の重ね方をされていないのだろうか。
身近すぎて、親としての権限や影響もあったりして、冷静に距離を置いて見ることができないのかも。


恋愛に関する感想(映画や著書を通じて)も多く記事に取り扱われている。
彼女の年代ならでこその意見、感想であると、しみじみ思った。
答え合わせをしたような感覚だ。

あなたも、わたしの年齢になると、いずれ、わかりますよ。
若者を非難することなかれ、自分も通ってきた道だもの。

それにしても、娘ぐらいの年代の人の書いた記事に、ハマるというのも、
彼女の見識や文章力もさることながら、わたしも気が若いって、ことだろうか。ね。


大金持ちと結婚する話を題材に、羨ましがるだけではなく、
自分にも得るものがあるのでは、と、賢者の知恵として活用法を見出すという切り口。
これは、おおいに結構だ。
しかしながら、わたしは、皇室や王室に嫁ぐ気にはならない。(いったい、どの口が言う?)
ゴーンさんのお奥さんにもなりたいとは思わない。
(例え、なりたくても、第一次審査で、即、はねられる。ニッサンの社員にすらなれない)

まあ、これから子供を育て、老齢者の年金や医療費を下支えし、社会で、ばりばりやっていく世代と、
子育ても終了し、リタイア世代とでは、考えも見える風景もまったく違って当然。

が、自分たちグループに凝り固まらず、ちょっと別の世界の人の視線や考えを感じてみるのも、刺激があり、面白い。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ


無駄にエネルギーを使わない

2015-03-06 | 日々のこと

わたしは、この人には説明しても、わかってもらえないだろうなあと思うと、自分の思いをぶつけない。
自分の価値観を押し付けたくない。

というか、価値観は、人それぞれなので、自分が良いと思っても、人が良いと思わないことは多々ある。

自分にとって、核となるぐらいの大事なことであっても、
その価値観を形成してきたバックグランドやプロセス、努力の方向が違うと、同じ価値観は育たない。
たとえ、愛する人であろうが、理解してもらうのは無理だと思っている。

自分は、これが最高だ!!なぜかと言うと・・・と、延々、長い時間をかけて説得しても、
それが、どうした?
骨折り損は、わたしのポリシーである省エネ人生に反するから、というわけでもないが。

不利益を被ったり、いわれなき嫌疑をかけられたりしたら、必死で清廉潔白を主張するだろう。
が、自分が良い(ひいては、厚かましくも、優れている)と思っている価値観を、
「あなたも良い(優れている)と思って欲しい」と感じるのは、感じるだけに留め、
実際には手をつけない。
口にするのも、おこがましい。恥ずかしい。みっともない。
やがて、わかってくれる時が来るかも、などとも思わない。
わかってくれなくてもいい。
そういうことは、口にした時点で、いや、自覚した時点で、青い鳥は黒い鳥になる。

二重線、平行線で歩くと、涼しい風景が見える。
交わらないということ、解り合えないということが、わかっていることは、それだけでも省エネだ。
それは、「負」の解り合えないことの場合は、明確すっきりだが、「正」の部門のほうが、ややこしい。

わたしの美点を理解せよ、なんて、僭越すぎる。
と、わたしは思うので、恥ずかしくて、そんなこと、口が裂けてもプッシュできない。

が、世の中には、攻めのパターンの人もいて、能動的に自分の長所をアピールする。
会社の面接試験などでも、
「わたしは、○○できます」とか言う人がいるが、実際のところは、「○○できるよう、努力します」だったりする。

信念ということも、人と違う信念であるのは、ごく普通だ。
信念は、価値観とも共通する。
いくつもの分野に広がる価値観のうち、一つや二つ、違う価値観があっても、しかたない。
自分と違う価値観を認められないからといって、無理に認めようとするとストレスになるので、
別の価値観が存在することを認識することにしている。
ただし、あまりにも、不快な場合は、距離を置く。
物理的に距離を置けない場合は、できる限り、近寄らないように工夫する。

宗教的なものや、地域的なもの、土壌が培ったもの、バックグランド、家庭環境・・・
そういうものは、同じ環境で生まれ育たないと、絶対にシェアできない。
というか、シェアしないで、いいと思う。

同じグループで、固まって(例えば年代くくり、学校くくり)、士気を高め合うなり、愚痴り合うなりすれば、よろしいかと。
別の世界で生きている人とは、難の無い常識的なお付き合いをするのが、省エネ・ショートカットと感じる。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

 

 


他のブログでの気付きが、新たな悩みに

2015-03-05 | ブログ

やはり、お気楽に、ド素人が、「あんなことがあった」、「こんなものを見た」、と、
小学生日記のように自分チョイスで書き垂らしても、
読む人は、為になるか?

答えは・・・ぜんぜん!!

書いている人だけが、楽しい。
自分さえ楽しければ、それでよければ、それでよい。
誰の迷惑にもならない。
閲覧数は、「迷惑にならない程度」の状況を如実に反映している。
迷惑にならない、というのは、おもしろくない、ってことだ。

人におもしろがらせるために、必死で頑張る人もいる。
無償の愛ならぬ、無償のブログ。汗とアイデアの結晶。
そんなにボランティア精神が旺盛なら、日ごろ、ご無沙汰している老親にでも、優しいことばの一つもかけるべき。
(これは、自分に言ってます。決して、お読みになっている人に向って言っていません)

お金儲けではない、ウケも狙わない、ターゲットも絞らない、
タネも仕掛けもなく、知恵も絞らず、たんに遊んでいるだけ。
そんなブログって・・・??
おもしろいわけがなく、自己満足も到底得られない。

人のブログの閲覧数は、ブ○グ村のポイントで最小限の閲覧数は、予想できる。
あやふやな基準のポイント制度のブ○グ村のポイントだけが、モチベーションだなんて、寂しすぎる。
(あ、これも、自分に向けて言ってます)
得たポイント数から、格段に多い閲覧数だろうと予想できるブログの真価を発見できないでいると、
ブログを見に来る人が求めていることは、表面上のブログだけではない可能性がある。
そこで、自分のブログの閲覧数の意味を探っている。
が、いったい、なにがしたい?自分!?

適材適所に、自分の興味やニーズに応じたブログを読みこなすのが、読者としては賢い省エネ読者かと思う。
読み手は、それでよい。
では、自己満足の、書き手は?
どこに自己満足の基準なり、手ごたえセンサーなりを設けるか。

などなど、書いていて、また時間切れ。
素人はこんな記事でもヘーキでアップするから、恐ろしい。
(あ、これも、自虐表現ですから。
誰に言ってるの?・・・いちいち面倒だ、と、もうひとりの、わたし)

ほんの一握りの少人数とだけ、ほのぼのとした交流(一方的でもいいじゃないですか)、
それができたら、いいじゃない。
と、思えなくなってきている、別の自分が台頭していて、わたしを困らせる。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ 


 


ブログ依存症??

2015-03-04 | 日々のこと

わたしは、いつも、生時間で投稿している。
予約投稿はしない。
なので、まったく気が抜けて、やる気がない時や、友人に長い長いメールを送った後や、
時間がない忙しない余裕のない時にでも、なぜか、無理やり投稿している。
一種の変わり者か?

通常、ばりばりに気力をたたえ、気の緩みのない、どこに出しても恥ずかしくない力作をお届けするのが好ましいかと、考える。
が、自分のブログは、素人ブログであるし、家賃も月216円しか払っていないので、
(わずかとはいうものの、一応、有料です)
お客さんの入りや、収支状態も気にせず、道楽・殿様商売に徹することができる。
ああ、幸せ。わたしは、ブログが、大好きなのだ。

とは言え、去年下半期あたりから、しばらく、休んだり書いたり、詰まったり開通したり、の不定期状態が続いていた。
安モノの機械(わたしのアタマ)でも、多少、故障したり、感情があったりするようだ。

自分にとって、損得がないので、他人にとっても損得がない(だろう)。
そう思うと、なんだか肩の力がすっと抜け、同時にアタマの中身も急に薄く軽くなってきたように思う。

最近、自覚のある認知症状が多すぎて、今では、通常モードの基準を、認知モード基準にスライドしている。
基準を甘くしている。
すると、けっこう、健全な毎日を過ごせる。
あら、不思議。
どっちが健全なんだか。


(おふざけ認知表現は、深刻な認知症の方や、ご家族にとっては、禁句ですね)

次第次第に自分も、暗闇の世界に突入か・・・などと書いたとしても、
これまた、書いた本人もやたら暗いし、読む人も、まったく出口のない重々しさを共有させられることになるし、
やめます。今日のところは。

ということで、オチなく結論なく締めなく、今日は終了です。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

 


ど素人は、気楽

2015-03-03 | ブログ

最近、面白くてどんどん読んでいるブログがある。
で、今日もそのブログを読んでいたら、自分のブログを書く時間が著しく削られた・・・という、アホなわたし。


(あ、自分から聞かれもしないのに、「アホ」と語るのは、激イタ・超NGらしいです)

その人のブログには、気付きがある。
それは、わたしがいつも何気なくヘーキでやっていることを、糾弾しておられる。
「これこれする人、大嫌いです」と。
リアル社会でもしお会いすることがあれば、ぜったいに、この人に嫌われる。
というか、お付き合いすること自体は、ないだろうけれど。


へえ・・・そんなふうに思う人もいるのか・・・と、目からウロコが落ちる気分。
自分の行動に対して、はっとする。
一瞬、そう自覚するが、人は人、そう思う人がいたとしても、自分は自分。
あなた(そのブロガーさん)に嫌われても、
まったく一生涯、いかなるところでも交差しない人物なので、なんの問題もないのです。


ただ、気付きという点では、おもしろい、と感じる。
人には、いろんな不快ポイントがあるんだなあと。
そう思いつつ、ついつい、そのマイナス評価の行動を控えようとする、わたしがいる。
わたしは、わたしだ・・・と言いつつ、気が小さいのか、人のウケを気にするのか。
かといって、おそらく、しばらくすると、また、もとのわたしに戻っているかも知れない。


その人は、不快な面の気付きポイントはたくさん書かれているが、
リアルに知っている人々のプラス評価の面はあまり書かれていない。
きっと、キレイごと、プラス評価面は、人のこころを上滑りするということを、この業界のプロである彼女はよくご存知なのだろう。


あたりまえのことを書いても、読んでもらえないというツボをよく押さえておられる。
読み手ありきのブログである。


しかも、自分の娘ぐらいの読者をターゲットにしておられるそうだ。(ブロガーさんにとっては、姪ぐらい?)
わたしは、絶対に無理。
なぜなら、読書量や、リサーチ不足が甚だしいから。
自分の娘たちや、その友達ぐらいしか、実際にはリアルな実情を知らない。研究不足。
そもそも、わたしのブログなんぞは、ぜんぜん、ターゲットなどいないし、定めてもいないし、そんな気もないし、
ターゲットを決めたところで絞り込んだ記事を書く能力もないし、
もともとのブログコンセプトが違う。

というか、娘たち世代の興味のあることに対して、世代の違うわたしは、興味がないのだ。
広告収入を得るには、ターゲットを絞ることは鉄則、当たり前なのだけれど。


いやはや、ほんと、モノを売るには、切り口というのは、要である。


素人のわたしは、プロの手法を傍らで眺め、ふむふむ、プロはそうだろうなあ、そうあるべき、と思いつつ、
わたしは、わたし、と、ど素人街道をまっしぐら。
お金に振り回されない気楽さに心地よさを感じ、今日もブログを書いている。



にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


人気ブログと閲覧数の関係

2015-03-02 | ブログ

ブログ村は、いろんなカテゴリー分けされている。
なかでも、「ライフスタイル」は、けっこう、大枠。

わたしは、自分が興味ないカテゴリーのブログは、いっさい読まない。
たとえば、「ギャンブル」や、「趣味関連」のもの。

ものすごい数の閲覧数のあるカテゴリーXがあり、不思議で不思議でならない。
ブロガーさんは、普通の人。書いている内容も、普通のこと。
でも、この分野は、近寄らないほうがいい、と、わたしの少ない経験から思っている。

わたしの参加している「50代」カテゴリーに登録されているブログも、けっこうそれぞれのブログの閲覧数が多い。
わたしのブログにも、「50代」カテゴリーから、飛んできて見にきてくださる方の数が一定数あるのだが、
「50代」は、皆さん、どのブログにも、せっせせっせと足を運んでおられる傾向にあるようだ。
大繁盛。
別の、近寄らないほうが無難のカテゴリーXと同じく、賑わっている。

そこで、ふと思う。

賑わっているブログは、カテゴリーとして賑わっているように感じる。
人には言えないような、恥や、不幸や、悪口や愚痴・・・
前向きなキレイごとばかりを連ねるブログなど、読んでいて面白いと感じる人は、少ないだろう。
数は少なくても、純文学系だったり、さわやかな人間像だったりする。
よほど崇高で高尚な感性を持つ人以外、多くの大衆(こんな表現、いまどき、死語だけど)を惹きつけるかどうか。

あるいは、自分の上っ面の美しい面ばかりを書いて、悦に入っておられる人もあるだろう。
それもブログ効果。一種の精神衛生向上。自己カウンセリング癒し効果あり。
読者が読んで楽しいとか、そんなことは二の次で、書いているブロガーさん本人が、自分を救う。

わたしも、ほんの少し前まで、そうだった。
しかし、好み、嗜好がちょっと変化しつつある。
ただいま、取り組み中なので、相変わらず、自己チュー、自分本位のブログではあるが。

お金系でもない、嘘っぽいものなら、小説ブログに登録するとよい。
が、なぜか、嘘っぽいものを書く人は、小説にはしないようだ。
小説は、けっこうしんどく、タフでないと書けないので、わたしは、おそらく書けないだろう。
憧れを持ち続け、胸の中で小さな小さな情熱の炎を消さずに、静かに温めるのみ。(うぇ、カッコつけてます)

とかなんとか、同人誌みたいなつもりで、エッセーに登録されているブログをたま~に読んでいる。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村