ここ、ブログ村エッセイは、同人誌のノリではなかろうか。
そんな気がする。
自分も走りながら(機関車トーマス風)、隣の線路で走っている電車をちらりと見る。
仲間がいっぱい。
今日も皆んな、元気に走っている。
そんな感じかなと。
小学一年生の孫をまる一日、預かった。
学校行事の振り替え休日。
朝7時15分頃から夜7時50分頃まで。
ワークブックを母親(わたしの長女)に持たされ、○ページから○ページまで、お勉強するんやで、とのこと。
最初の5分でお勉強は終了。
たし算を4つか、5つ、やったのみ。
問題数、少ないなあ、、、時間、短いなあ、、、
だが、6+7のような、10以上に繰り上がる計算法を学校で教えられていて、ほぅ〜、なるほど〜〜と面白い。
いちいち意識して考えたこともない、単なるたし算だが、やり方があるのだ。
10➖6=4
6は、10にはいくつ足りないか。
6の近くに「4」と書いて丸で囲む。
7➖4=3
10に足りなかった分「4」を持っていくと、いくつ残るか
10+3=13
で、答えは、13
ものすごく難しいような気になった。
無意識暗算のほうが、楽だ。
しかし、基本的理論、理屈をちゃんと教わってステップを踏んで計算するのは、大事なことだと感じた。
で、孫。ほんの数個、たし算をやって、オワリ。
あとは、先週、自分で我が家のストックルームから引っ張り出して冷蔵庫に冷やしたグレープジュースを飲み、持ってきたお菓子を食べ、勉強タイムは完全に終わった様子。
トランプしよう!ことわざカルタしよう!と、言ってくる。
相変わらずちょっとズルをして、孫Aは強引に勝ちを取ったが、二人だけではつまらない。
たくさん、たくさん放映されたものを撮りためている「機関車トーマス」をずーっと飽きずに、いつも同じ箇所で笑い、見ていた。
一日中だと退屈するだろうからと、母親に、近所の駄菓子屋に行って買うお菓子代を持たされていた。
駄菓子屋は、カフェに併設されていて、近隣の子供達は小さな駄菓子をそこで買う。
長女が昔使っていた、ビーズで形取られた魚模様の可愛いサイフには、駄菓子代50円と、おばあちゃんとカフェで2人分のお茶代として1000円札が一枚入っていた。
「これ、1万円?」
孫Aが聞く。
「違うよ。千円札。ゼロが、3つ、ついてるでしょ」
あらま、この子、1万円も千円も違いがわからないのかぁ、、、
行ってみるとカフェがお休みだったので、行き先をコンビニへと方向チェンジした。
少し歩く。
コンビニには、50円で買えるお菓子があまりない。
孫Aは、あれこれ、一生懸命、お菓子を選ぶ。
気に入ったお菓子は100円のもの。それに、30円ぐらいのお菓子を追加しようとする。
「これで、お金、いける?」
駄菓子予算は50円。
千円は、あくまでもカフェでのお茶代だ。
「はじめに100円のお菓子を選んでいる段階で、もう予算オーバーよ。予算は50円」
とわたしは答えるが、何回も何回も、どう見ても予算オーバーな組み合わせをして、「これで、いける?」と聞いてくる。
「予算は50円だから無理」
と答えるが、彼はサイフの千円があるから、予算は1050円だと言う。
「おばあちゃんも、好きなもの買ってもいいよ」
と、気前がいい。
予算1050円派と、予算50円派に分かれ、あれこれお菓子の棚の前で、選ぶ時間がどんどん増えていく。
なかなか決着がつかないから、とりあえず、最初に1個目のお菓子に100円のものを選んではダメ、明らかに予算オーバーだから、という方針をわたしは、貫く。
結局、50円ぐらいのラムネと40円のチョコで、話はついた。
それでも、予算50円には、オーバーしているのだが。
「公園で食べよ〜」と孫Aが言うので、そのラムネとチョコを彼の小さな小さな可愛い布製手提げバッグに入れて、コンビニ近くの公園に行った。
住宅街にある小さな公園は、最近、草が刈られてなく、遊具も少し壊れたままになっていた。
誰もいない草の生えた公園で、遊具で遊んだり、ベンチに座ってお菓子を食べたり、、、。
公園の背景、隙間から見える家々。
このエリアは比較的最近、造成されたので新しい家ばかりである。
だから、子供達も年齢が低く、たくさん住んでいる。
(我々の住んでいるエリアは若くない家族構成の住民がほとんどなので、小さな子供はあまりいない)
そのミニ公園からすぐの、もう一つのミニ公園に行った。
男の子たちが、仲良く元気にサッカーをしていた。
そのうちの一人の男の子が、大きな声でこちらに向かって呼びかけた。
「A!」
その男の子は、孫Aの保育所同級生らしい。
とても男の子らしい、ハツラツとした動きで、仲間5〜6人とボールを追いかけていた。
ややもすると、元気が余って、(微笑ましい範囲内の)乱暴、粗雑?
孫Aは、その輪に入るでもなく、幼児や女の子たちがいる遊具で遊んだりしていた。
二人のやり取りを見ていると、孫Aは、家で見るほど外では活発ではない、おとなしげな子供のようだ。
内弁慶?
長女と娘婿の間の子供だから、納得できたりする。
ママたちも二人三人と、遊具で遊ぶ小さな子供を見守りに出てきていた。
「ママ友、公園デビュー」なんて、懐かしい言葉が脳裏をよぎった。
幸い、わたしはママではないし、ほんのスポット的な一日だったので、気楽なものだ。
同じ住まいエリアの公園内でのママ友なんていうのは、疲れそうだ。
エリアも色々、形態や特徴が微妙に分かれている。
帰り道、色んな家を見ながら、夕暮れを楽しんだ。
家にはそれぞれ特徴がある。
ある豪邸の隣に並ぶ、ある家。
荒れ放題の空き家かと思いきや、むこうのほうに、灯りが見える。
住んでおられるようだ。
都市と地方、山の手と下町など、エリアでの格差ではなく、隣同士の格差。
背景、現状、家族関係、経済状態、精神状態、、、いろんなものが見える。
住まいは服装、身なりのようなもの、と評する建築家がいる。
予算が足りなくなると、玄関から客間までを豪華、高品質にして、日常部を質を下げる内装にする人もいるそうだ。
いろんな価値観、いろんな住まい手。
家の内部はともかく、外側は、服装、身なりに当たると感じた。
家の中も、ハード面、設備面だけでなく、ミニマリストに見られるような風潮や、価値観の変化、また、家族の中味そのものが、反映される。
幸せは家に現れる場合と、全然現れない場合もあるだろう。
一人住まいの、幸せの現れ方は?
住み方、棲家、棲息の仕方、、、
色々な家族が住む家を一軒一軒見て歩くと、それぞれの家族の明暗、泣き笑い、喜怒哀楽、温度、空気感、アップダウンや息遣いまでが感じられるような気がする。
マンションなどの場合は、中の様子が全く見えないから、安心なような、不安なような。
鉄の扉で隔離され、孤独死しても発見されない。
が、プライバシーの匂いが遮断されるため、人付き合いしたくない場合は、良いかも知れない。
しかし、中に居る人々の温度が伝わらないのは、良いのか良くないのか。
最近の家庭内虐待や職場虐めなど、風通しが良くないと、発覚が遅れる。
いろいろ、いろいろ、雑感は永遠にまとまりなく続く、、、