蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

幸せ凪

2020-06-16 | 暮らし
わたしは、シェアハウスに住んでいる。
これは本来の意味のシェアハウスではない。
わたしだけのオリジナル造語活用。

自分以外の人と家、部屋、水回りを共同使用している。
ちなみに、パリに滞在した時のアパルトマンは、持ち主が出張や別の地に長期滞在で留守の期間に間借りしていた。
期間別ルームシェア。

さて、自宅。
今は、夫とルームシェアしている。
お互いに在宅時間が違うため、相手が不在の時は、思いっきり一人だけの自由時間を存分に満喫している。
同じ部屋、同じ空間とは思えない、幸せに満ち溢れている。

別に夫がいると真っ暗な地獄かといえば、そんなことはない。
居ない時とはまるで質が違うだけだ。
上質とか、品質が悪いとかではなく、異なる質。
比べるのは無意味。
例えば、同じ天然素材でも、鉱物と、綿や絹、麻。
使い道も、特徴も違うが、どちらも地球に存在し、敵対しない。

で、お一人様部屋の居心地は、別世界。
10年以上前、インターネットで外国のアパルトマン物件探しをしていたことがあるが、部屋の写真一枚一枚、吟味して楽しんでいた頃を思い出す。

自分好みの空間なので、少々(いや、かなり)掃除や整頓はされていないが、快適で大好きな空間である。
ごろんとソファに寝転び、スマホ遊び。
お天気が良いと、陽光が窓から差し、部屋を益々明るくしてくれる。
どんなにお行儀が悪い格好もまるっきりオッケー。
服装もただただ快適性のみの追求。
カーテンやソファ、椅子のファブリック素材や色、柄も、好みのもので揃えた。
家具や調度品も30年前に選んだもの。
(よく見ると、蜘蛛の巣や虫とも共存共栄。
半お化け屋敷化している?
認知症のおばあさんが毎日、時間の止まった自室で過去の時間に浸っているかのごとく?)
実家から貰った時代ものの漆塗り丸テーブルもある(が、布団部屋でタオルや孫キッズ衣類置きになっている)。

好きな時間に好きなものを食べ、寛ぎの時間を堪能する。
この上なく幸せを感じる。

家族とルームシェアリング。

しかしそれにしても、こんなに気持ち良い時間を満喫できるのは不思議だ。
非生産者なのに、この満足感は何だろう?

実はメリハリがある。
スパイスがよく効いている。
一人以外の時は緊張感があり、一人になると、解きほぐされる。
夫以外にも、チビッ子たちや、娘夫婦も、よい味を出してくれる立役者だ。
それはそれで楽しい賑やかな時間である。
さらにそれだけではない役割がわたしにはある。

今は、何もしない時間を存分に楽しむ人生スケジュールの時間割になっているようだ。
凪。
かつてそんな黄金時間があった。
懐かしい。


わたしが朝食の後、メガネをかけると、前泊していた末孫娘Cが言う。
「おばあちゃん、メガネかけたの?
見えないから?
よく見えた?」

可愛い顔で、可愛い声で言う。

「そうだよ。
オマエの顔がよく見えるようにだよ」

ガブッ。ガォーッ。
おばあちゃんは狼に変身して可愛い女の子を一飲み、丸かじり。

なんだかそういう図が瞬間的に浮かんだ。
本当は怖いグリム童話。
悪いおばあちゃんかも知れない。
何が善で、何が悪か。

話がいきなり飛ぶが、
給付金、政府の丸投げ、孫請け、ひ孫請け、玄孫請け、、、
そういうシステムになって国が回り、国民を潤して(苦しめて)いるのか。
今更、今に始まったことではないが、一事が万事。
このシステムは変わらないようだ。
が、こうもハッキリ見せつけられると、次の選挙はもっと真剣に考えて臨まないと、、、。
て、相変わらず消極的対応だ。




幸せはほんの身近にある

2020-06-14 | 日々のこと
人には人の道がある。
自分には自分の道がある。
それでいいんじゃないかと。

波乱万丈でもなんでもない平坦な人生を送ってきた。
このまま何事もなく行けたらそれでいいなあと。
人の人生は羨ましいわけではない。
なぜなら、自分には自分にとって大切な人生があるから。

他人が着ているステキな服があっても、自分に似合うかどうか。
服なら着ないでコレクションするのも一つの方法だが。
だが、テイストを取り入れたり、ヒントを得たりして、自分の人生をさらに充実したものにすることは出来る。
まるまる真似は出来ないが、雰囲気を楽しむとか。
疑似体験だとは思わない。
自分に加味させる。
いい味になっていくと思う。

逆に嫌いなものは見ない。
あえて目をつぶる。
現実逃避する。
その現実から逃げたからといっても大して人生の大筋では影響はない。

なんだか、楽しい気分になってきた。
これから益々、満たされていくように思う。
今日は楽しいリアル充実の日。

女性の幸せは結婚にある?!

2020-06-13 | 人生
ああどうしよう、、、
結婚の話、、、
飛びつかないわけがない。

わたしへの縁談であるわけがなく、ミュンヘンブロガーさんの昨日の結婚話を読んで、だ。

いいなあ、、、
相思相愛の期間があって、、、
羨ましい。
しかも、ドロドロなし。
更に結婚よりもっと興味深いものへの出会い。

ちなみに、今、お笑い芸人、アンジャッシュの渡部がボコボコに叩かれている。
15歳も年下の超超超美人の若い初婚の女優妻との間に可愛い盛りの幼児あり。
これはあれこれ書くと長すぎるので、カット。

結婚は顔ではないようだ。
美醜ではない見本。

話を戻す。
いいないいな、相思相愛。
わたしにはほぼ経験がない。
悲しい、、、
好きになるか、好かれるか、どちらか。
つまり、一方通行。
これは明らかに欠陥がある。
本人は重々承知している。
理想と現実の乖離だと思われる。
自分の目に映る相手と、相手の目に映る自分が合致しない。
ギャップ調整が難航。
書き始めると何年もかかるので、これまた割愛。

さて、結婚してしばらくしてから矢の催促が始まった。
姑からのお伺い。

新婚2ヶ月目。
「まだ?」
3ヶ月目。
「まだ?」

妊娠の兆候を聞かれる。

「まだです」

何回も答えるうちに、妊娠できる女性は素晴らしい、どんな人であれ、と思った。
4ヶ月目に懐妊。
皇室での雅子様の気持ちはよくわかる。
子供を産む道具じゃないよ、わたし。

さて、出産したらしたで大騒ぎ。
遠方から県を二つもまたいで、姑が大勢の親戚たちを引き連れ、出産入院病室にお祝いに押し寄せた。
その日、わたしは熱が出た。

さらに夫。
出産後に赴任地から入院病室に駆けつけた。
なぜかわたしは、産後間もない身体を押し押し、医院が用意してくれた食事を夫に給仕したり、病室に泊まるための布団を敷いたりした。
今、思えば、夫!!
自分でしろ!!
なんで、初産、産後間もないわたしが、若い元気そのものの夫のサポートをせにゃならん!?
あの頃は、今思えば、わたしの頭はクレージーそのものだった。
思い出すだけで瞬間湯沸かしポットのように頭が沸騰する。
煮えたぎる思い。

夫は、顔さえ見せると無条件に皆んなが喜ぶと思っている。
単に訪問されても受け入れ側はしんどいということは、わからないようだ。
手助けをするどころか、自分で自分のこともしないような、そんな人は全然ウェルカムではない。

子供たちが小さい頃、夫が帰宅すると憂鬱だった。
夫に手間を取らされ、子供にかける手が減る。
夫が子育てする、なんて、とんでもないことだった。
隔世の感。
時代の流れとは言え、自分自身を嫌悪する。
なんであんな行動を取ったのだろう。
気持ちを表現しなかったわたしが悪い。
まあ過去のこと。

その過去の上に今がある。
良かったことは、一つある。
子供たちは、たまたま、ちゃんとうまく育った。 
その結果、今、わたしは孫の成長を身近に肌感覚で楽しませてもらっている。
そして、割と好きなようにしている。
子供たちは、わたしを反面教師とし、自立の道を歩んでいる。
母親みたいになりたくなかったのだろう。
だが、結果良ければ全て良し。
時々、ブログで過去の忌々しい出来後をぶちまけ、ガス抜きをする。
自業自得の責任は自分で取らないといけない。
なので、それなりにやっている。  どうやって帳尻を合わせているのか?
それは、、、書かない。

トータル的に見ると(他人と比べてだとは思いたくない)、自分は幸せである。
自分を押しつぶし押し殺し欺くことによって、自分を活かしている。
つぶさず活かす方法はなかったのか?
あったけれど、選択せず回避した。

例えば、仕事で不条理に直面したとする。
辞める人もいるし、辞めない人もいる。
自らの命と引き換えに抗議する人もいる。
色々だ。

倫理の教科書的な、道徳教本的な、理想論はこころを打つか?
通じるか?
いろんなケースがあり、美談に感動することもある。
その一方で、うさんくさい美談仕立てもある。
さまざまだ。
一概に決めつけられない。


とここまで書いて放置していた。
その後、筆が進まない。(文豪かい?!)

わたしは、楽しいことを書くより、怨みがましいことを書くとイキイキ、血湧き肉躍るようだ。
うひひひひ、と復讐を夢見て夜中に菜種油を舐めるろくろ首オンナのよう?
なぜか番町皿屋敷ではない。
怨みの質が命には関わらないものだから。

女性の幸せは結婚にある、というジ・エンドにしないと小説が売れなかった時代がある。
新・若草物語。
「ストーリー・オブ・マイライフ〜わたしの若草物語」が昨日封切りされたので早速観た。
価値観は昔とは違う。
結婚してそれで終わりのストーリーなら、今は売れないだろう。
このことについて、山のように書きたいことが堰を切ったように溢れ出てきた。

が、キリがないので、今日はとりあえず、ここで一旦終了です。





怨みが晴れるのは離別の日

2020-06-11 | 趣味
昨日アップした写真は小2孫Aが写したものらしい。
後ろにぼんやり写るのは娘のよう。
娘婿かも知れないとも思っていたが。
娘に著作権と肖像権の侵害乱用と、訴えられた。
わたしが写す写真とは目線が違い、なかなか斬新な切り口だったので、無断転載させていただいた。
著作権と肖像権は、ストロベリーケーキ贈与で交渉してみよう。

ちなみに、、、
全く話は変わるが、、、

いきなり、深刻なテーマに。
自分ではどうしようもないことに対して抱く劣等感をどうやって克服すればよいか。
たとえば、わたしは若くない、老年に差し掛かっている。
でも、若い女性は素敵だ、男としてワクワクする、とわたしに言う男性。
特に肉体的に。
精神的には、こころの持ちようでどうにかなるような気がするが、弾むような若い肉体はどうしようもない。
対抗できるわけがない。(対抗しようという考え自体が間違っている)
もちろん、若い肉体が持つ機能、運動能力には敵わない。
機能美も然り。
次々と現れる有望若手選手に、アスリートが早々に引退するのもわかる。
指導側に回る。
だが、人数的にも指導者は限られていて、教えることに秀でていることが絶対条件だろう。

まあそれはよい。
問題は見た目。
若い肉体、張りのある肌、弾力ある筋肉、、、逆さになっても絶対的なものには打ち勝てない。

そんな不可能なことに執着するのは不幸かも知れない。
アンチエイジングは、しないより、したほうが若々しいだろうけれど。
手を離した途端に、みるみる老人に、、、
が、ホンモノの若さは手に入れられない。

不老不死の薬を手に入れた「時の権力者」は、一生死ねないで(へんな表現)、かえって苦しむ。
失い蘇らないものをいつまでも喪失感に苛まれ嘆くのは、人間らしいといえば人間らしい。
そういう煩悩を克服できないからこそ、いろんなサプリや健康グッズなどが売れる。
いっそ放棄すれば?とは思わないが、克服出来ない自分が情けない。

忘れてしまえばよいか。
♬いーなくなれ、いーなくなれ、そーんなわたし。
と、あいみょんと平井堅が歌っている。

しかし、ここで逆怨みのわたし。
若い子はいいなあ、と嬉々とわざわざわたしに喜びレポートをする人を前にわたしは、ズブズブ暗い深淵に落ち込む。
男性として若い女性に無条件にパワーをもらいエネルギッシュになるのは種の保存セオリーとして当たり前だ。
が、それをしゃあしゃあと言われるほうの絶望的な気持ちを思い遣ったことがあるのか?
なんでもかんでも思ったことを口にするのは、正直者ではあるが、口に出す前に考えてほしい。
年がいっていると、若いぴちぴちには戻れないのは当たり前のことなのに、わざわざ知らしめなくてもいい。
思い遣りも思慮のカケラもない。
(わたしは思っても口にしない)
聞かなかったことにすれば良いのだろうけれど、、、

一種のハラスメントだ。
シニア女性に向かって、若い女性はええなあ、と鼻の下を目の前でダランと伸ばされると、鬱積解決の出口がなくなる。
その分野には無視してい続けたらそのうち、気にならなくなるか?
そういうものでもない。
わたしはきっと死ぬまで無理だろう。

仮に配偶者や恋人が、若い子に走ったとしたら、、、もう戻って来なくてよい。
二度と顔は見たくない。
退路を絶って片道切符で行ってほしい。

女性に対して、相手はいくつであろうと女性として扱えない男性は終わっている。
落第。
気がつかないからといって、わたしを女性として気を使ってよ、とは口に出して言えない。
口に出さないとわからないような男性は、そもそも論外。
こころの中で、わたしはばさっと斬り捨てている。
が、必要な分野もあるので、我慢している。
が、無神経な部分に接する度にキリキリ痛く、決して慣れることはない。
そのうち、怨みに変化して溶解できなくなる、そんな日まで、一緒にはいたくない。
別の人に乗り換えるその日までの辛抱である。

眠っていたもの

2020-06-10 | 無題
今朝のミュンヘンストーリー、ガツンときた。
と同時に、わたしとは真逆の生き方に溜め息が出た。
そして、人には人に合った道がある、、、と自分に言い聞かせながらも、あんなに満足している(と思っていた)自分の生き方に疑問すら感じた。
滅多に他のこと(人)に動かされることがないわたしだが、意外にも動揺が隠せない。


ほんの少しのキッカケ、英断、勇気で、事態が大きく転換することがある。
しかし、キッカケをチャンスに好転させるのには運だけではどうにもならない。
努力や才能が不可欠である。
そして、人には器というものがある。
「自分には限りないポテンシャルを秘めていると確信するには根拠は必要ない」と力説する、自分を盲信する人がいるが、わたしはそう思えない。
根拠が必要だと思う。
だが、実際に事態が動くと火事場の馬鹿力が出て、能力がアップするのはよくあることだ。
そうしなければ、人は飛躍できない。

今のわたしは、仮に誰かそそのかす人がいたとしても、テコでも動かない。
動きたくない力が凄い。
動く力の何十倍もある。
いったい、なんだろう?
守り体制老人特有のカチカチ頭、重いオモリをがっしり足に着けて意固地になっている?

内向きに籠る、溜まる力を、外向きに発散、解放すれば、色んなエネルギッシュな行動が出来ると思う。
が、今は内向きオンリー。
死ぬまで内向きオンリーかも知れない。
なぜなら、本人は内向きが快適だから。
内向き人間に、外向けになれと言われても無理だ。苦痛なだけ。
と、そう思い込もうとしていただけかも知れない。

外で活躍している人に、自分とのあまりの違いに溜め息をついたり、小さな自己嫌悪鬱に陥ったりするのはなぜ?
しかし、ミニ鬱はすぐ治る。
「諦める」という自己否定的マイナスの悲観的な考え方ではなく、「諦観」の境地。
「開き直る」という太々しく不貞腐れた可愛げのない、無理やり自己肯定的な押し付けがましいものも、あまり好感が持てない。
行き着く先は「悟り」、、、?

人には人の道がある。
それだけだ。
わたしは、その人ではないのだから、同じように真似をしても滑稽なだけ。
基本、根本が違うのだから。
個々の個体が持つ個性を元に、人は行動を積み重ねてきている。
外側の行動だけを真似しても、疑似体験に過ぎない。
旅のようなもの。
旅と暮らしは違う。
旅は非日常。
非日常も定着して暮らしていくと、それが日常になる。
旅を通して発想の転換を得ることもある。
キッカケはなにも「旅」とは限らない。
日常に埋もれて見えなかったものが、日常を離れた違う視点から見える。
オセロゲームのようなもので、黒が白にコロっと変わる。


究極のところは、自分には自立心が育っていない。 
今から育てるのは、しんどい。
なので、自立している人を横から応援する側に回る。
気分だけ自立。


しかしながら、わたしが行う、わたしを救う解決策はある。
あまり、追求しないこと。
うやむや。
明かりと影、光と闇はセット。
ビシッと一方からだけ見て落ち込むのは愚かだ。
別の一方が必ずある。
具体的な事柄を思い浮かべながらアタマの中を整理している。


「慣れ」とは恐ろしい。
幸せを幸せと感じられなくなることもある。
刺激も、慣れると飽きてくる。
また別の刺激を求める。
幸せも飽和状態になると、ありがたみを感じなくなる。
危機に直面すると、平凡な日常のありがたみに気づく。
なんでもそうだ。

ところで、、、
こんなに長々書いて、自分で言うのもなんだけど、わたしの話は長くてウザい。

何もしなくても一生。
シャカリキに熱く濃縮して頑張るのも一生。
人間、誰もが死ぬ。
死ぬまでをどう生きるかなのだ。
飽き飽きするほどよく耳にする、言い古された内容にたどり着く。

だが、今朝はなんだか虚しい気分になっている。
このまま何もしなくて本当にいいのだろうかと。
眠っていたもの、起こさずそっとして眠らせていたものが、ピクと顔の一部を動かして起きかけの表情を見せる。
今朝のミュンヘンブログに、明らかに刺激を受けたわたしがいる。


過去を振り返ると、これでいいのか?という自問自答するような閉塞感はなかった。
自分の道を探し、結局見つからなかったというような、「幸せの青い鳥」流の、ただただ現状に満足しないだけの、ないものねだりはなかったと思う。
ミュンヘン女史のように、疑問を抱き自分の道を探す流れには至らなかった。
自分の道は、自分がいる道、歩いている道だった。
だから、他の道に切り替える動機がなかった。
だが、現状に満足していたわけではない。
しかし、自分のそれまでの積み重ねをリセットして心機一転する勇気も能力も、そして、それほどに巨大な不満もなかった。
植えられた場所で咲く道を選んだようだ。

このままでいいのか?
という、目指すものとは違うコースを歩いている感覚はなかった。
たいして違和感はなかった。
なぜなんだろう?

やりたいことをやり尽くしていない残念感はない。
こころ残りはない。
たぶん、、、自分に課す目標が低いのだと思う。
だが、こうしたいと思うと一直線に頑張ってきた。
(どこが?と周囲の近い人々に笑われそうだが)

満足の質が、人それぞれ違うのかなあと。
幸せ指数が違うように。
その時その時に置かれた状態で(自分なりに)一生懸命してきたので、後悔はないのだろう。

ではなぜ、今、こんなに動揺するのか?
自分が目指していた道は終了、ゲームオーバーしている?
新たな道を模索し始めているから、こころが反応したのだろうか。
終活にはまだ少し時間とエネルギーが残っている。
水面下で何かが生きているようだ。

カルチャーショック

2020-06-09 | 
自分が好きなものは、人も好きだとは限らない。
当たり前のことだ。

夫の実家は、昔々から同じ地所にあった。
なので、古くからあるモノがそこそこある。
ただし、舅が買い求めた第二次世界大戦後のモノに関しては、わたしとは好みが合わない。
舅の好みはドカンと大造りで、やたら線が太い感じで繊細さがない。
わたしは、どちらかというと優美なものが好き。

娘婿のご両親が、ある時、観光目的地に行く途中に、夫の実家に立ち寄ってくれたことがある。
こんなことはお互い、一生のうち、最初で最後だろうと、わたしは張り切った。
娘の(父方)ルーツをぜひ、肌で感じて欲しいと思ったからだ。

日頃は厳重なセキュリティも施さず、家は放置に近い。
大事なセレモニーがある時は、舅姑は蔵から何やら出して来ていた。
古くからある調度品の数々だ。
日頃はそれらを一つ一つ丁寧に蔵に仕舞っている。

わたしが、初めて夫の実家をわたしの両親と共に訪れた時も、出してあった。
わたしの実家にもある、同じ作家の作品が掛けてあり、時代が共通していることを感じた。
当時の流行作家だったのだろう。

最初に目に入ったその家は、道路沿いに建っていた。
隣の家はどしりと趣きがある家だったが、夫の実家は、あれ?と思った。
舅が古い家屋を取り壊し、後に建て直した家だった。
だが、わたしは舅とは好みが明らかに合わず、家のどこを見ても嗜好の違いを隅々に感じた。
設計そのものに対しても、わたしの好みではなかった。
舅にしてみれば、うるさい、ほっといてくれ、と言いたくなるような、ほぼ言い掛かりに近い、わたしの勝手な感想である。
舅は、敷地内の一部の限られた面積、予算の中で合理的に建てている。
わたしは、新しく建て替えるのなら、古いものを超えなければ意味がないと思っている。
しかも、初めて行く地、家。
一番最初に目に入る部分に、その家は建っていた。
建て替えてそう経っていない、しかもトタン屋根のバラック掘っ建て小屋ではないのだから、わたしに文句を言われる筋合いはないと思われる。
だが、わたしは日頃から目にしたり、生活しているものに目が慣れていたため、違和感を感じた。
家は見るだけではなく、息をして生活するものなので、自分の全ての感覚がそこで創られている。

わたしの感性と舅の感性は違って当然だ。
年齢、性別、生い立ち、環境、立場、時代、、、全く違うのだから。
しかし、好みがあるとぶつかる。
姑も夫も、家やインテリア、アウテリア、調度品には全く好みがなかった。
無感性、無感覚、無関心、無感動だったので、ある意味、わたしとは対立しなかった。

衣食住、どれに一番興味があるか、人によって違う。
興味云々のレベルではなく、毎日が無事過ぎればそれでよし、という時代もある。
興味や好みというものは、生活に余裕が出来てこそである。
病気にでもなると、何も見えない。
余裕は衣食住を飛び越えて、趣味に走る場合もある。


と、延々、遠回り、道草しているが、そういうことで、舅とわたしは、好みが合わない。
ケバケバ派手派手ではなかったので、それはまあ良かったが。
それにしても、長い長い前置きだ。


舅が昭和40年代後半?に建てた棟に続き、昭和4年?頃築の舅の両親が晩年住んでいた棟があり、また更に庭を挟んで建設時代が遡った離れがある。
その離れに、娘婿のご両親が来られた時に、わたしは頑張って、蔵から色々出してきた。
大きいものは、最初から出しっ放しなので、中ぐらいの大きさのものを主にチョイスした。

で、家の雰囲気やルーツは、語らなくても見てわかるかな、とぼんやり思っていた。
別に自慢したいわけではないので、何の説明もしなかったら、ものの見事に、何の質問も受けず、何の関心も興味も示されなかった。
だからといって失望するわけでもなく、リトマス試験紙のように、酸性、アルカリ性、陽性、陰性、みたいなかんじで、ああそういう反応なのだと理解した。
それはそれで良かった。
へんに反応していただくと、これまた微妙に好みが違ったりしてめんどくさい。
または、社交辞令的に頑張って無理やり話を合わされてもしんどい。
まったくカスリもしないというのは、案外すっきりしてやりやすい。
素直なストレートなお人柄には安らぎすら感じる。
お互い、なんのトラブルもストレスも嫌な印象も感情もなく、今日まで来ている。

水と油とよく言うが、それとは少し違う、淡水と海水かな?と。
あるいは、軟水と硬水かな?と。
お互い、テリトリーや生活様式、スタンスが確立されていると、まったく摩擦がないと感じる。

ただ、欲を言うと、世の中には良い意味の摩擦を通してカルチャーショックを得て、新しい自分が生まれたりする。
何にも感じないと、摩擦もないが変化もない。
一般的には摩擦はマイナス効果が多いので、ローリスクを選ぶなら摩擦を避けたほうが賢明ではあるが、ハイリスクでも冒険してみるなら、活性化され知らない世界が広がることもある。

だが、対象が娘婿のご両親ともなると、ことなかれ主義のほうが、お互いに良さげ。
娘も娘婿もそのほうが良いのではないかと勝手に思っている。
しかしながら、とても素晴らしいご両親である。
あんなに良い息子さんを産み育ててくれたご両親にはこころから感謝している。

と、どんどん話が逸れて終わらない。
いったい、どこまで行くの?

「長い話はウザい」というキーワードを見つけると、どきりとする今日この頃である。



あなただけが側にいてくれたら幸せ

2020-06-08 | 暮らし
毎日楽しみにブログ村エッセイをはじめ、皆さんのブログをあれこれ読んでいる。

中でも、仏ジャズ職人ブロガーさんの筋肉ムキムキ息子さん。
素晴らしいと感動した。
何が感動かって、週末実家へ帰宅し、引き上げる時には冷蔵庫がいっぱい!!
なんと親孝行なご子息であろうか。

うんと昔、わたしが手土産を持参してお邪魔した、ある独身男性のご実家。
彼は次男。ちゃんとしたまともな社会人。
こう、こぼしていた。
「兄貴はズルい。
実家に来ると冷蔵庫が空になる。
冷蔵庫のものを持って帰る」

この兄貴たる人物。
結婚していて、有名スポーツ選手が住む豪華マンションに住んでいる。
「セコい!」と、弟が嘆くのもわかる。
親御さんの家は、こじんまりとした、細々と着々と慎ましい家計を営んでいる。
息子2人を立派に教育もつけ、育てたにもかかわらず、偉そうにしていない。
むしろ、まだ息子たちにたかられて嬉しい悲鳴なのかも知れない。
大黒柱は定年前後の、質素に暮らす実家の冷蔵庫から食品を持ち帰る兄、ちょっとお嫁さんの顔が見たい。
贅沢とは何か?と、考えさせられる。
ひょっとすると、あの親子一家流の絶妙なバランスを生み出した、理想的な暮らし方なのではないだろうか、と今、思ったりする。
人の家の幸せ尺度は、それぞれにある。


プラスばかりを求め、マイナスが一つもない一点の曇りもない理想の生活は存在しないと思う。
何かプラスがあれば、何かマイナスがある。
足して引いて、ゼロより上なら上出来である。

取るに足らないことなのに、どうしても我慢できないマイナス点と、客観的に誰がどう見ても羨ましい絶賛するようなプラス点があるとしても、絶大なプラスを棒に振ってでもその人に取っては小さなマイナスでも、そういうマイナスに耐えられない場合もある。
プラスマイナス、トータル持ち点がドカンとマイナスになってでも自分のこだわりに従う。
こだわりポイントは何か、価値をどこに見出すかによって違ってくる。

お金、利権、肩書きには何の興味もない場合もある。
愛情はお金では買えないが、お金で愛情を表すことも出来る。
諸々は愛情表現のツールの一つ。

相手が何を望むか、何をすれば喜ぶか。

「あなただけが側にいてくれたら幸せ。他には何もいらない」
おとぎ話か、夢物語か。
わたしには、頭からそう信じることが出来ない欠陥がある。
いわゆる人間不信である。
(欲張りでもあるので、1人や1つに絞りきれない)
その人物がいなくなったら、どうしようもなくなる自分を想定して、どうしようもなくならないように、リスクヘッジを取る。
代案を用意。危機管理の一環。
あなたがいてくれないなら、別案を考える。
あなたがいないと生きて行けなくなるのもドラマチックでいいようにも思うが。

「生きて行けない」にも、いろんな意味がある。
軽いものなら、「楽しみがなくなる」。
もっと軽いと「楽しみが減る」。
現実的に「困る」。
重いものなら文字通り「生命の維持が困難」。
精神的に困難な場合と、生活が立ち行かなくなる場合。
絶命に繋がる可能性もある。
日本の場合は、セフティネットからこぼれない落ちない限り、生命は維持できる豊かな社会システムになっている。

1人の人物に依存していると、病に倒れたり、自己破産したり、不幸の連鎖が起きることはある。
万が一のことを考え、片足で立つ練習も必要。


ちなみに、
どうしても我慢できない譲れないマイナスポイントは何か?
また、どうしても不可欠なプラスポイントは何か?
人によって価値観やライフスタイルによって、中身や比重は違うだろう。
どんなことでも、全て良いなんてことはなく、全て悪いなんてことはないのだ。
我慢しないといけないことや、不快なことは付いて回る。
大きな幸せを手に入れるため、小さな苦痛に耐える。
小さな苦痛が徐々に増大して耐えられなくなったら、一からリセットして新しく幸せ探しするのもまた一案である。
そこまで大きく深刻に手遅れになる前に、小さな苦痛には手を打って改善に向けて努力するというのも、能動的で前向きだ。
ではあるが、言うは易し行うは難し、である。

夢をぱくぱく食べるバクがわたしに取り憑いているように思える。
わたしの夢をどんどん勝手に食べてしまう。
だが、防衛手段の一つである。
自分を守るのは自分。
守ってくれる人がいなくなると、誰も守ってくれない。


ゴボウとテレビ討論

2020-06-07 | 時事&世の中
昨夜21時からNHKテレビの討論番組を見た。
令和未来会議、テーマはコロナ時代の働き方。
今日の晩御飯の下準備、ささがきゴボウ処理をしながらだったので、半分ぐらいしかまともには聞いていなかったが、ふむふむと頷いた。

辛酸なめ子さんは、あんな顔をしていたのか。
あの人の作品、嫌いじゃないけど、論客ズラリの中では、ちょっと元お嬢様モードがもたつくイメージで、頑張れ!とこころの中でエールを送った。
その中の1人に、うんうん、と常に首を上下に動かしてやたら大きく頷く女性がいて、目障りといっては失礼だが、視界に否応なく入り、悪い意味で気になった。
こういうところは、全くどうでもいい、枝葉にもならないことなのに、わたしは本当に本末転倒のツマラナイ人間だ。
地に足着いた、ちゃんとしたことを発言されていたのに。
気にするなと言われても、気になるものは気になる。
わたしの目が見えなければ、なんの問題もないことだ。

資本主義社会に警鐘を鳴らす意見の若い男性が2人いた。
大学准教授と、NPO代表。
庶民、弱い立場側から見たガツンとした意見がこころに刺さった。

他にも政策研究専門家と大学名誉教授の男性が2人。
あと、若い、女優並みに超美人がいた。
美人すぎて、AIのよう。
自身のAI会社代表でもあり、国のAIを牽引するメンバーの1人。
さらに企業人、実業家。
元ローソン社長の時に注目を浴びた、現サントリーホールディングス社長、新浪さん。
合計8人。
各人、モニター画面出演のオンライン討論。

画面の下に小さい文字で視聴者から寄せられたリアルタイム投稿が表示されていたが、文字が小さすぎて、遠く離れた流し台でのゴボウ処理作業と判読の同時進行は不可能だった。
が、最初あたりのリモートワーク、在宅オンラインワークについての所だけは読んだ。
オンラインでは出来ない現場の職種、エッセンシャルワーカー、オンラインが整っていない会社、また、自宅では小さな子供がいて集中出来ないなど、現場の声。
上から理想的なことを言われても現場にはそぐわない、悲痛な叫びのように思えた。
下から声を上げることが大切だ、とNPO代表が力説していた。

上からの意見と下からの意見、どう取りまとめるのかと思いながら、ゴボウを切っていた。
スマホではゴボウ指南も同時にチェック。

ホワイトボードに、手書きで上手くメモされ、まとめられていた。
各人の意見や問題点を叩き出した格好。
結論は、バラバラの方向のものを、さてこれらをどうやって進めていく?という、投げかけ方式。
まとめないという、まとめ。
生放送だし、まとめられないから。

「今後取り組むべき難しい課題です」
あたりでお茶を濁す?
わたしはゴボウのことだけ考えていたらいい?
いや、ゴボウだけでは食べて行けない、、、




イケメン嫌い

2020-06-06 | わたし
濃厚接触が売り、のようなホストクラブ。
残念ながら、行ったこともなく、行く気もさらさらなく、仮に接待で連れて行ってあげようと強く誘われても断固、固辞する。
どんなに話術がうまかろうが、朴訥素朴、純真純情であろうが、博学AI君であろうが、いらん。キライ。

ジャニーズ系も真っ青イケメンであろうが、腹筋割れて褐色の光る肌だろうが、とろけるような甘いマスクであろうが、いらん。キライ。

もし、仮に親友が(いないけど)、こころの病にかかっていて、治療の一環として是非付いて行ってほしい、費用は持つから、と言われたら、断れない、普通に。
仕方ない、人助け。
そんな親友、そもそも親友自体がいないので、杞憂に過ぎないが。

報酬100万円あげるから行ってくれ、と頼まれたらすんなり行く。
ただし、コロナ期間はノーサンキュー。
終息した暁に。

と、なぜか、だんだん前向きになっている。

基本的には、イケメンにいちゃんが苦手である。
AIにいちゃんや、哲学にいちゃん、オタクおっちゃんのほうが、ずっと得意。
頷くだけは、らくちんだから。

イケメンにいちゃんで、話術が巧く、頭のキレる人は、タレントとして生き残っている。
昔イケメンだった元イケメンおっちゃんは、気の毒だ。
路線を変えることなく爽やかに行けたらよいが。
福山雅治と勝負しなければならない。
かなり手強い相手だ。

路線を変えるのが無難なコース。
イケメン枠から離れる。
別の特徴を打ち出す。
あるいは、元イケメンを自虐ネタにする。
見ている方は、ちょっと辛い。

一番、厄介なのが全盛ピーク時のファッション、時代文化、自負をそのまま引きずっている元イケメン。
お笑い芸人としては、まあまあかも知れないが。
でも飽きられる可能性がある。

どれをとっても元イケメンはイバラの道。
当時の妬みや復讐もプラスオンされたりするから。

いっそ、残念な自然体イケメンが良いのではないかと思う。
普通に老化。
誰でも歳を取るんだ、あのイケメンでさえ、と、普通の人々に明るい希望や勇気を与えてくれる。

わたしはイケメンに相手してもらえなかった哀しい青春時代を送ったもので、ちょっと仕返しっぽいテイストが加わっている。
というか、あまりイケメンというだけの人には興味なかったので。

で、話を戻す。
ここまで行くとでこまで戻したらよいのやら。

イケメン雑感を続ける。
ずっと前にも蝶ブログに書いたことがあるイケメンT君。
元仕事仲間。
肌のキメが細かい色白でほんのり頬は桜色ピンク、髪はさらさら天然茶系、細くはないが切れ長の目、日本的で優美なタイプ。
これは見た目ルックス、特に顔の特徴。
20代最後か30代始めあたりだったか。
かつて一度、交際していた女性と破局し、その後恋人なし、結婚経験なし。
入社前はバイトで宅急便の配達をしていた。
こんなにイケメンなんだから、モテるだろうと思うが、「ルックスでいい思いをしたことは一度もありません」と本人の弁。
もったいない。掃き溜めに鶴。

だからといって、わたしが優遇したかというと、答えはNo!
わたしって、無慈悲。
イケメンに甘くない。
別にいじめたわけでも冷遇したわけでもない。
イケメン以上に、彼はチョンボが多く、注意力散漫だった。
必ず小さなミスをするので、いつもいつもチェックしなければならなかった。
任せっきりに出来ない。
めんどくさい人物だった。
あれさえなければなあ、、、。

といっても、わたしはイケメンに弱いタイプではなく、中身を見る派。
皮膚を一皮剥けば、外側など意味がない。
外見には影響を受けない。

外見が良いが中身は?
外見が悪いが中身は?
別に好みや私情を挟まない。

他にも陽気なイケメン、明るいイケメン、色々いたが、営業向けの人物もいた。
外見のムードをプラスに効果的に利用するのは大いに結構。
ただ、最後は、やり方だったり、交渉術だったりする。

T君を連れていると、若い既婚女性にやっかまれたこともある。
あらそうなの?ぐらいにしか思わなかったが。

で、ホストクラブだと、外見以外に気を逸らさない話術、豊富な知識、鋭い知性、知恵、接待技術、接客極意、思いやり、誠意、真心ハート、一生懸命熱心さ、、、を求めてしまうわたし。
楽しませ方にも客を見て、いろんな引き出しから戦術を引っ張り出して欲しい。
しかし、こんな風だとシラケ客になって、「お客さん、お代は要らないから帰ってちょーだい」と言われかねない。
第一、場違いだし。

愛情はお金で買えないと思っている。

まあ世の中、色々あります。

わたしとAI

2020-06-05 | ブログ
人々は知らないところでAIのお世話になっている。
わたしの(たぶん、寝たきりになっても続けられそうな「静」の部の)趣味であるブログ。
コロナ禍ステイホームの時も、失意のどん底の時も、わたしのお相手をしてくれ、わたしを救ってくれた。
彼(彼女?)は、わたしに寄り添ってくれる。

突然、書きたい気持ちが湧き上がると、熱々の淹れたてコーヒーをほったらかしても(実際は、大急ぎでガブ飲みする)、温めたばかりのランチに気が散って冷めるにまかせて食べられなくても、わーっと、一気に駆け寄って書きたくなる。
(食べながらスマホという手もあるが)
で、書いた中味が、またしょうもないおふざけだったりするが、まあよい。

大きな動機の一つには、湧き上がるものがあるということ。
自分自身の発露。
(取るに足らない、くだらないことであっても。
等身大だから、見栄を張っても続かない)
また、もう一つは、ブログのむこうで読んでくださる人がいるということ。
具体的な人物もさることながら、それと同時に不特定多数の数字。
これに踊らされている。
閲覧数という実数には根拠がある。
たとえ、指が滑って開いてしまった大嫌いなブログでも、カウントは1と計上される。
ポイントも然り。

問題は、ブログ村エッセイ「注目記事」。
これはかつて何度も疑問にぶつかり、追究のあげく、ブログ村様宛に、質問を投げかけたこともある。
回答をいただいたと思うが、納得できる内容ではなかったように記憶するものの、最初から期待していなかったため、すんなりわたしの引っかかりは消えていった。
答えをもらっても、もらわなくても、あらかじめ、わたしが答えを用意していたからだろう。

今もそうである。
AIが選んでいると確信している。
ごくたまに、リアルな生身の人間が目視チェックをする場合もあるだろうけれど、基本的にはAI。
色々実験して検証してみた。(これを暇人と言わずして何と言う?)
アップ時刻直後、短期一定時間のアクセス数、特定キーワードへの(ロボットを含める)ヒット、、、などなど、いくつかの複数条件を総合したものだと想像している。

ある意味、生身の人間より正確である。
だが、振り回されている自分を見て、すーっと力が抜けた。
AIのためにわたしは、意味もなく心臓の鼓動を早めているのか。
意味はあるだろうけれど。
(森羅万象、意味のないものはない、という、わたしのゴリ押しセオリーから)
世の中のシステムには、巧妙、緻密なよく出来たものがある。
その一方で、アナログ時代遅れで全然だめなものもある。
だが、どれがダメでどれが良いのかは、利用者の志向による。
勝者と敗者をどんでん返しにしてしまうようなリセットもあり、うまく出来ている。
見方によれば、答えや感じ方も変わる。
絶対的なランキング、位置付けなどない。
部分的にはあっても。
部分は全体のうちの一つではあるが。

わたしの先生、師匠、ナビゲーターはAIということになるかも知れない。
先生を選ぶのは、わたし。
だとすると、ブレそうだ。


と、ここまでは実は序章だったりする。
ほんとうは、ここから違うことが書きたかった。
午前中のリモートワークで、出かける手間が省け、書く時間は確保できた。
頭痛がしていたため、身体安静タイムは丁度良かった。
で、そのリモートワークについて書きたかったのだが、、、。
わざわざ出向かなくてもよくなったことに喜び過ぎて、書くモチベーションが下がった。
わたしは、どうも満足を得ると、エネルギーがしゅわしゅわと消えてしまうようだ。

リモートワークは便利だが、汗のかき方そのものが変わるように思う。
脳と目と指先だけの動き、働きで、身体は1ミリも動いていない。
脳ばかり発達して、筋肉や内臓は衰えていくのだろうか。
そんなアメリカ制作?のアニメ映画をずっと前に観て、その時はたんに極端な空想で面白いと思ったが、今は、毎日の生活が変化して、なるほどと納得、SFの世界ではないと感じる。
月などの惑星も然り。
研究するだけではなく、行くだけでもなく、住む時代へ。

未来へ未来へと想像していくと、意外に過去の歴史が対比されて浮き彫りになり面白く感じる。
わたしも歳を取ったものだ。
100パーセント、お年寄りである。

お年寄りは過去へ時間を遡っていく。
自分の人生の未来より過去の方が長いから。
だが、わたしは自分の未来は、あの世までの間だけではないし、過去は生まれてからだけではない。
自分が生まれる前も、あの世に行ってからも、時間は続く。
時間軸の捉え方、スパンが長くなる。
実際は昨日、今日、明日、1週間後、1年、、、みたいに短いスパンでその日暮らしをしている。
たいした望みはない。
今日がつつがなく、明日もつつがなく、それが続くといいなあと。
しかし、それは実は、たいした望みだったりする。

・・・ああ、ダラダラとなかなか終わらない、、、
AIと時間軸について、〆ようと思うのだが、〆らない。
AIにやってもらおう。
いや、それもどうかと。
が、自分でやる分野が残っていると、なかなかあの世に行けない。
それは良いのか、良くないのか。
AIに聞いてみよう。