蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

無駄

2021-02-12 | 暮らし
さてと。
大きなワイン。飲みきれない。
コロナで飛行機も間引き運転、思い出は昔話となった。

で、最近のわたしは調子が良い。
まずは、ウエスト。
生まれて始めて創出されたクビレに大感激。
毎日、朝晩、お風呂の後に体重を測るのが楽しみである。
気分爽快。
おばあさん体型になる直前の今を大切に楽しんでいる。
いずれ必ず絶対におばあさん体型になる。
その前夜祭。

元々、わたしは手足が長い西洋人体型。
なので和装、着物は似合わない。
ウエストの位置が高いから、バランスが悪い。
洋服には向いているが、贅肉が気になっていた。
しかし、今は贅肉ごとき気に病んでいない。
完璧など全く目指さない。
贅肉が目立たない服を着ればよい。

何ごとも、とことん突き詰め追求しても幸せは得られない。
ぎゅーっと力を入れると指と指の間から溢れ落ちるだけ。
大まかに、そっとふんわり包み込むぐらいでよい。

封切りされたばかりの映画「すばらしき世界」でも言っていたが、逃げる勇気も必要だ。
わたしはいつも逃げてばかりだが。
結果的に今、幸せを感じているならそれでよい。
結果論。
逃げない勇気が素晴らしいのはわかりきっている。
が、逃げる勇気も逃げない勇気同様、包み込む寛容な社会、包容力が大事だと訴えたかったのだろうと感じた。

わたしにはそういう逃げない根性はないが、贅肉は逃がそうとしても逃げないようだ。
この贅肉は、目障りなプヨプヨである一方で、「生活の無駄」を象徴するらしい。
長女に「おかあさんは無駄が多い」とピシリと叱られる。





重荷

2021-02-11 | 
今回は、多くの皆さんとは共通点がないだろうと思われる話である。
老後住宅。
わたしも考えている。
まず、今の住まいのリフォームとまではいかない、メンテナンス。
水道蛇口の緩みからポツリポツリ滴り落ちる水漏れ3箇所、二階トイレタンク故障につき修理交換、玄関やインナーテラスの木製扉枠の修理、、、
あと、ひと段落すると、外壁塗装、屋根メンテナンス、ベランダ防水メンテナンス、、、
地味ではあるが、生活には欠かせない必須項目である。

それが終われば、あるいは同時進行で夫の実家の整理、リフォーム。
修理、メンテナンスも。
考えただけで、ウッとなる。
やだやだ。

これが明るい老後への架け橋なの?

元々、わたしは建築にはかなり趣味がある。
インテリア、アウテリア、庭にも。
だが、、、、。
住むのと趣味は違う。

そもそも、夫の実家はというと、、、。
江戸後期と、昭和初期と、昭和後半に建てられた家屋。
屋根瓦ひとつとっても別注になる。
そして、わたしの実家。大正時代の建物。
どうしろと?
これは、文化的には結構なことであるが、経済的に考えると負の遺産か?
次代の子供たちの肩にずしりと重くのしかかるのは気の毒である。

姑は家系の物証である家や家族をこころの拠り所にしていたが、家が負の遺産であるなどとは思いもよらないことだっただろう。
まだわたしの実母のほうが冷静な目で物事を見ることが出来て物分かりがよい。
姑にしてみると、イエ、それしかない。
実母は、それしかないわけではない。
二人とも同じ時代に生まれ育ったのに、そのあたりが性格や背景で違ってくる。
やはり経済的にも精神的にも自立しているか、していないかは、大きなポイントになる。
自分以外のものに依存すると、それを失った時、立ち直れない。
自分をしっかり持って自分の足でちゃんと立つと、自分は自分であり、足元から崩れていくことはない。

生きている間に自分軸で生きてきたか、他人軸で生きてきたかで大きく変わる。
他人にどう思われようが自分軸で生きてきた人は、評判が悪い傾向がある。
逆に他人の評価を気にして生きてきた人は、評判が良い傾向がある。
これは死後の評価であり、死んでから高評価であってもつまらない。
生きているうちは人の思惑などに振り回されず好きなようにしたほうが良いと、わたしは思う。

と、同時代に生きた二人の女性を見て色々思う。

さて、老後住宅。
老後になるまでに、あれこれすべきことがいっぱいありすぎて、おちおち老後にもたどり着けない。
わたしは好きな老人ホームに入りたいと思っているのに、資金が枯渇しかねない。
住まない家にお金をかける、、、それで自分が住む家にかけるお金がなくなるなんて、本末転倒ではなかろうか。
自分の家どころか、老人ホーム資金までなくなる、、、過去への満足感は保てても日々の生活ができない。
誇りを維持するお金がない。
では、いっそ、満足感の中身を変えたら良いのではないだろうか。
柔軟に変わらないと、時代は変わるのに生きていけない。

とは言うものの、まだ、時間はある、なんて呑気に構えている。
そのうち選択肢はなくなり、ニッチモサッチモ行かなくなる可能性もある。
さっさとやっておかないと、子供たちに強制措置を取られる恐れもある。
しかしながら、半ば脳内が楽園になっているその頃なら、それも楽かも知れない。

ルーチンワーク

2021-02-09 | 暮らし
今日の写真は、これ。
これ、うちの天井です。
毎日、寝る時に見上げると楽しいですよ。
これ、ウソです。
すみません。

さて、本日の話題。
最近、わたしの生活はルーチンワーク化している。
「幸せを呼ぶルーチンワーク」だかなんだか、そういう内容がNHK教育TVのシニア向け番組「明日も晴れ!人生レシピ」で紹介されていた。
悲しいことに、内容を忘れた。
つまり、その場で理解してクリアしてしまったのだろう。
なあんだ、いつもやってることか、みたいな感じで脳に引っかかりを感じなかったと見られる。
(後からじわじわ思い出した、、、が)

で、わたしのその幸せ?ルーチンワークは、、、あまりにもルーチンワークで、自分の歳を忘れそうだ。
認知症になろうが、なろまいが、同じ事を同じ時間に繰り返し行っている。
娘に言わせると、生活にリズムが出来ていいのでは?とのこと。
確かにリズムは出来るが、脳みそが心配。
幸せ脳は、ツルツル脳だからだ。

毎日のほんの小さな小さな出来事の変化に驚いたり楽しんだりウエットになったりしている。
小さな小さな出来事なのだが、わたしにとってはとても感動したり、愛おしく思えたり。
このままずっと時を忘れて人生が終わってもいいと感じる。
が、じつはまだまだ執着があり、あと15年は生活を楽しみたい。

15年経ったら本格的に行き先を決める予定である。
今は毎日を楽しむ期間。
周りの人々にも楽しませてもらっている。

こんなチマチマで良いのだろうか。

ちなみに、、、、、
感想を求められた小説。
アニメ化もされるとか。
260話も毎日毎日、連日、発表していた。
執筆していた作家さん、すごいエネルギー放出だ。
その前にエネルギーチャージが半端ない。

学生時代の同級生に作家がいる。
彼女は死に物狂いで書いた小説を読者に、すれっと一晩で読まれてしまって、嬉しいやら悲しいやらとボヤいていた。
元仕事仲間に、出版し続けている人がいる。
ゆうに10冊は超えたようだが、ライフワークとなっている。
彼らはエネルギーを放出する側。
やはりわたしは、チャージと放出を繰り返すのが、バイオリズムとしては好きだ。
皆さんもそうかと思うが。

生活に追われると、そんな余裕はないかも知れない。
実のところ、もうじき、義務の塊がどかんとやってくるので、今はのんびりしている。
束の間の、のんびり。時間制限付き。
そういうメリハリも、ポンプの動きをして心臓に血流を起こさせていると感じる。
ずっとのんびり、永遠にのんびりしているのは、脳波にアップダウンがない状態かなあと。
のんびりしたいのだが、年齢に相応した肉体を駆使させられそうだ。
生きるって、そういうことなんだね、なんて言うヒマがあったら、掃除のひとつもしろ、と言われかねない。
て、自分が言っているんだけど。

さて、今日も楽しく心臓を動かそう!
(て、これ、演出表現です。ダサい)




皆んな違って当たり前、だけど、、、

2021-02-08 | 無題
過去の写真からピックアップ。
こっちのほうが、いいかな。
あ、これ、ウチ、我が家です。
あ、すみません、ウソです。

ふと見かけた素敵な門を勝手に許可なく撮った。
すみません。
わたしの人生の一コマにほんの0.00001秒でも関わりがあった、、、ことには間違いはない。
前を通り過ぎただけだけれど。

と、そんな写真ならいっぱいある。
一種のコレクターか。
たんなるデータなので、かさばらなくていい。

さて、前置きが相変わらず長い。

いきなり本題。
鬱になりそうもない知人がいる。
その人は、ずーーーっとヒマがあればマンガを見ているか、ドラマを見ているか、ゲームをしている。
コドモではなくオトナ。
食事中、食べながらでも、四六時中。

この人はひょっとして、昨今、行動パターンや思考の仕方に名称が付けられて分類されている、とある特徴を持っているのではないかと思ったりする。
(表現に気を使うと、かなりボヤけた、わかりにくい書き方になった)
だが、誰にも迷惑はかけていないし、一端の家庭人でもある。
家で会話とか無さそうだ。
別にいいんじゃない?
というより、わたしには100000%理解出来ないのだが、人間同士、理解なんか出来ないものだと思っている。

その人が最近ハマっている小説を紹介してくれた。
260話ぐらいある。
やたら長い。
2015年に完結編が発表された、近未来と過去を行ったり来たりのSF小説なのだが、感想を求められたものの、申し訳ないが全く趣味が合わない。
最初の第1話だけ面白かった。
そう感想を述べた。
が、後に続く260話ぐらいは読んでいない。
まあ人の趣味などはそんなものだ。

わたしは他人が創造したものをすごい勢いで消費していくのは好きではない。
どちらかと無理矢理分類するとしたら、たぶん自分は創る側の人間だと身の程知らずにも思っている。

その人は食べるのも、ものすごいスピードで食べる。
味わうということがない。
歩くのもやたら速い。
景色など当然見ないし、季節感などまったく関係ない。
信号で先に走って行っても、ただでさえ予定時間より前に着くのに、別に急いだところで目的地で時間を持て余すだけだ。
早く行って何か良いことがあるのか?
たんに、性格から来るものだろう。

早く行ってスマホゲームするなら、先に一人で行ってもらうと良い。
単独行動が望ましい。
なぜ無理矢理合わせて二人で行動するのか?
疑問である。

随分前に、知人の税理士が離婚した。
その時の奥さんの言い分は、「いつも私は一人。結婚している意味がない」だった。
仕事人の税理士さん、いくら仕事を頑張っても、奥さんに理解してもらえてないのはどうかと。
家庭が崩壊するほどの仕事量だったとしても、だ。

それに近いものがある。
だが、わたしは別に配偶者でも家族でも恋人でもない。
お互い、独立した個人なのだ。
相手の嗜好に共感しなくても、なんの問題もない。

しかし、全く嗜好が違うのも不思議なような、かえって衝突しなくていいような。
なにしろ、この人物は鬱になるヒマがないと思われる。
次から次へと見たいこと、したいことが湧いてくる。
しかも受ける側オンリー。

例えば、旅がしたい、だとか、オートバイに乗りたい、だとか、絵が描きたいだとか、園芸が大好き、だとか、、、自然と触れ合ったり、クリエイティブな要素があったり、そういうのは一切ない。
ある意味、スゴイと思う。
だから、好きなことをするのが忙しくて鬱になるヒマがない。
好きなこと、というのは、大変安易に安価で手に入ることばかりなので、その人は幸せを手に入れるのは至ってカンタンだ。easy.
誰にでも手に入る、オール・バーチャル、ただただ脳内のみ。
寝たきりになっても、病気になって入院しても、楽しめる。
ひょっとすると差し入れしてもらったら、塀の中(拘束、監禁)でもOK。
羨ましい嗜好だ。

わたしとは違う。
だが、違って当然。
人は人。
金子みすず。
皆んな違っていて、皆んないい。
て、ことで片付けたい、納得したいところだが、未消化なまま、理解できないまま、理解は無理、理解する必要がない、と思っている。
人は人。
自分ではない。

※蛇足
お互い、趣味や嗜好はそれぞれ。
何が悪い?文句ある?
というところだろう。
それがどうした?の話、何の接点もないアカの他人なら何の問題もないが、リアルで仕事なり趣味なりで接点がある場合が、ややこしい。

いつもウェットです

2021-02-06 | 日々のこと
恋をテーマにした自分のブログを読んだ。
蝶ブログの過去記事から、どなたかが引っ張り出してこられたようだ。
最初の写真で、ワロた。
面白い。
さすが自分のギャグは自分にはウケる。
今後、益々老いても自分のブログで癒されそうな、、、まさに自分のための書き物だと、へんに納得、安心した。

そう言えば、昨夜見たNHK「関西熱視線」という地域情報ドキュメンタリー番組で、暴力などで荒廃した小学校を立て直した話が紹介されていた。
それぞれ生徒に「赤ちゃんの頃」「今」「10年後」を書き出させる授業が成果をあげている。
(孫もそれをやっていて、赤ちゃんの頃の話を親から聞き取ったものの、なかなか進まない宿題には手こずらされた)

中で、離婚したばかりの母子家庭となった男子が書いたものにはこころを打った。
その子は当時、気持ちが荒んでいて自分の感情が抑え切れなく周りに迷惑をかけていたが、こころの学習のおかげで落ち着いた。
「今、僕はとても楽しいです。
10年後の僕は、どんな風になっていますか?
どんな風になっていても、10年前の楽しかった今を思い出して、頑張りたいと思います」
これには担任の先生も感動して涙していた。
涙腺ゆるゆるのわたしは、ポロポロと涙が溢れた。

さて、そんな純粋な話とは程遠い、蝶ブログ。
恋記事内容に関してはハラハラドキドキしながら読んだ。
8年ぐらい前に書いたものだから、その頃の自分にも興味があった。
今ならちょっと違う傾向、視点で書くのではなかろうか。
(ヒマにまかせて。そんなヒマがあるかどうかは別として)
人間は伊達に歳を取らない。
あれから、無から創造された新しい生命体(孫)に4つも遭遇した。
変化が生じて当然だろう。

で、それはそれとして。
昨日、小説のジャンルとしては、生まれて初めて自分で購入した文庫本を読んだ。
なんと男性作家の50年前の現代小説。
50年経つと現代小説は何小説になるのだろう。
わたしは、よっぽどヒマだったのか?
否。
前々から落ち着いたら読もうと思っていた。
なかなか、本に手を伸ばす、そういう機会がなかった。
ゲーマーだったり、漫画好きだったりするのと同レベルか?というと、そうではない。
彼らに比べると、わたしには情熱が足りない。
熱狂しない。そのかわり、発狂もしない。
ヒマのタイプ、種類が違うのだろう。
わたしの捉える「ヒマ」は「退屈」「何もすることがない」ではない。
義務から解放された喜びの自由時間である。
たとえ、制限された時間であっても自由が大好きなのだ。
仕事や何かをしないと生きた気がしない、という人の逆である。
1秒でも多く、義務から解放されたい。
と、まあそれはよい。
文庫本の話は、また今度。
今日は時間切れとなった。



蟻ライフ

2021-02-05 | 人生
最近、わたしはホンネがつい口から出そうになる。
言いかけて思わず口をつぐむ。
こんなこと、言ってしまったらおしまいじゃないの。

相手の話に合わそうとする。
だが、どれもこれも共感しなかったり、興味がなかったり。
でも、否定する気持ちはない。
なぜなら、人それぞれの思いは自由だから。

とは言え、、、
上っ面だけ話を合わせることになる。
しかし、合わさなければ接点はなくなる。
かたや、接点をなくす、という選択肢もある。

接点のみ、点のみで繋がる方法もある。
接する部分を線にしたり、面にしたり、立体にしたり、色々可能だ。
分野によって使い分ける。
多くの分野に接点があるのが望ましく、接する部分も多いほうが理想だ。
ではあるが、逆に「芯」だけなんていう抽象的なものもありだ。

何もかも合うのは不可能。
A>B
AとBは大小の相似形で、Aの中にBがぴったり収まるのなら、小さい方のBはAと何もかも合うと感じるだろう。
AはBの全てを把握して自分の中にすっぽり収まっているBの状態に満足するだろう。
Bが収まり切らなくなると事態が変化する。
良い刺激となってAも変化するのは悪くない。
BがAを超えてしまったり、全く別の特色、傾向を発揮し始め、Aとは合わなくなることもある。
Cと合う。Dとも合う。
Aは、どうする?
Bの成長と見なすのか、反逆と見なすのか。

子育ては親がA。子供はB。
子供は親から養分を採りやがて乗り越えて行く。
蛍の光窓の雪。卒業。

親子でなくても、師弟だったり、上司と部下だったり、色々。
上下、縦は分かりやすい。
横、並列の場合はややこしい。
ネットワーク的に常に縦横ななめ自在に関連する。

一点でも関わりがあればそれで繋がる。
多くを求めても失望することがある。
というか、合わないのが普通なのではないかと思う。
だが光が強い人、パワフルな人の場合、他に多大な影響を与える。
力でねじ伏せる場合もある。
自然に任せると離れてしまうので、接着剤を用いることもあるだろう。

接着剤は、いろいろなものがある。
お金だったり、マインドコントロールだったり、権力だったり、愛情だったり、、、。
お互いの打算が一致する場合もある。
企業や商売はそうだ。
打算という言い方が汚ければ、算段、目的、目標とでも言えばよいか。
「理念」なんていうのも加えると美しい。

目的と結果は、どちらが先か。
目標を掲げて頑張ると結果が付いてきた、、、
そういうのは理想だ。
ぜひこうしたい、こうなりたいと頑張っても希望通りにはいかないことがある。
短絡的に早急に、目の前の目先の成果を追い求めるからだろう。
しかし、モチベーションがないと慈善事業など成り立たない。
難しいものだ。

キレイごとでは生きていけない。
親は子供にどう教えるのだろう。
自分や親を信じて行きなさい、生きなさい、と背中で見本を示すのか。
背中は時代と共に変わる。
背中の中にあるもの、内側にあるものは?
筋肉、骨、神経、内臓、、、
不正解ではないが、学校のテストなら倫理の科目でその答えだと何点もらえるか?

はぐらかしてるのか?
真面目に答えろ!と、お叱りを受けそう。

はぐらかしてもいいと思う。
答えなんか直ぐに出ない。
歴史を紐解いても、史実は本当か、真偽が実証できるものは、どれぐらいある?
後から歴史が作られる場合もあることだろう。
何百年も先まで自分は生きていないので、確かめることは出来ない。

が、大災害やコロナは後の時代に伝えられるだろう。
わたしは宇宙飛行士ではないので、宇宙から見ることは出来ない。
蟻になって毎日、生きるだけかなと。
毎日毎日の積み重ねがあって、一生が終わる。
ポーンと飛ばす人もいるけれど。

と、あれこれ蟻の独り言。
今日も蟻のわたしは生きている。

永遠に無常

2021-02-04 | 人生
理解できない異種のもの。
たんに良さが理解できないだけであり、自分はちっとも良いと感じられず、その価値を認められない。
しかし、価値観は個々にある。
好みもある。
人が良いと感じるものを自分も同じように良いと感じるとは限らない。

自分が良いと感じるからといって、他人にも共感を求めても、共感を得られる場合も得られない場合もある。
同好同士が集まれば共鳴、シェアできる。

好みや価値観を人に押し付けるのは嫌だ。
押し付けられるのも嫌だ。
では、どうすればいい?

徐々に変わっていくのを気長に待つしかないのか。
いつまで経っても平行線、交わることがない時は、頃合いを見て離れて行けばよい。
努力をいくら積み重ねてもダメなものはダメなら虚しいだけだから。
不毛。
その見極めをどのあたりでするか?
諦める場合、忍耐力のある場合や、キャパシティのある場合、包容力のある場合は、すぐには諦めないだろう。
あるいは、粘着質タイプ、執拗なタイプは、、、?

諦めるのではなく、方向転換、善処。
マイナーイメージではなく、プラスへ。

ひょっとすると、一生交差しなくてそのまま進むこともあるかも知れない。
ほんの一点の接点だけあればよいのかも。

平行線で進むのか、どんどん離れていくのか、状況に応じていく。
事態は常に変わる。
変りながら進む。
無常。


※写真はブログ記事とは関係ない、過去写真からチョイスしました。

合わない感覚を理屈をつけて理解しようと頑張る

2021-02-03 | 無題
昨日書いた日記は、とりあえず未公開にする。
自分の胸のうちが、痛々しく生乾きの場合は、例え見ず知らず、不特定多数にであっても公開するのを躊躇する。

サバサバした、自分で痛みがないもの、クリアしたものしか公開する気にならない。
まだどうなるのかもわからない、未知のことであっても、ワクワクするようなことなら書いて喜びの前倒しを享受する。
悲しいヒドイことでも自分を励ましたり鼓舞するために書くこともある。
一番よくやるのは、こんがらがった自分の気持ちを整理する時。
これはかなり効果がある。

で、上記のどれにも当てはまらない、未解決案件については経過観察のため、書かない。

そこで、お蔵入りにした未処理案件内容の代わりに書こうと思ったことがある。
読んでいる人にとっては、全くどうでもいいと思うプロセスであるが。

ある人、Aさん。
全くわたしと視点が違う。
同じ場にいて気づいたこと、コメントを数時間後にわたしが言うと、全く見てない、気づかなかったという。
では、何を見ていたの?
真っ白い、盲目の人の視界のようなかんじ?
と聞くと、返事に窮していた。
意識してないからわからない、何にも見てない、の一点張り。
目を開けていると何か見えるだろうに。
禅の精神か?
頭とこころを真っ白にする。
意識して無意識にする。

しかし、わたしには見えて、その人Aさんには見えない、というのは、何だろう?
最近見た映画、「さんかく窓の外側は夜」にあるような、幽霊が見えるか見えないか、みたいなものか。
わたしが見えすぎるとしても、見えない人は代わりに何が見えるのだろう?
(幽霊の話ではありません)
真っ暗?真っ白?真っ黄色?木目調?
何が見えるのか、聞きたい。
幼児でも何かしら目に映ると思うのだが。

たぶん、視点が違うのだと思う。
興味、関心があることが全く違うため、見えるものが違うと思われる。
関心のないものは、目にもアタマにも入らないで、無かったかのように、何も起こらなかったかのように素通りするのだろう。
途中、よほどショッキングな出来事でも起こらない限り、記憶には残らない。
例えば、大きな揺れ、物音、叫び声、停電、人が倒れたとか、事故だとか。

それにしても、関心があるか無いかでこんなにも違うということだ。
この人は、会社でも家庭でも実は何にも見てないのではないかと思った。
何も特別なことが起こらない限り、平穏に時は過ぎていく。
幸せな人である。
それと同時に、嫌なものも見えないだろう。
絶対に鬱病にはならないと確信した。

問題点があっても見て見ぬ振りをしてやり過ごしている。
問題点そのものが、大したことがない問題点であるとわたしは捉えている。
人の生死に関わるような重大なことではない。

ぼーっと暮らしても、キリキリ舞いをして暮らしても、退屈してないならそれでいいのではないかと思った。
朝から晩まで漫画に明け暮れても、ずっと飽きることなく興奮できてこころ踊るならそれでよい。
漫画がダメで、古典や文学が良い、なんてことはない。
近年はサブカルチャーも確立されている。
読む一方でアウトプットがないのはつまらない、なんて思う必要もなく、ひたすら楽しい時間ならそれでよい。

わたしは貧乏症かも知れない。
インプットばかりでは面白くない。
自分に取り入れて栄養にしたい。
変化の素にしたい。
そう思ってしまうので、一方的に受け入れる側オンリーで楽しめる人が羨ましい。

考察してもしなくても、結果は同じ、事態が変わらないなら同じだ。
だが、わたしとしては、自分はどういう状態で何をしているのか、何をしようとしているのか、考えて納得したい。

所詮、他人は他人。
自分と関わりがない人はどうでもよいが、自分の身近にいる人には精神的に近寄りすぎることがあるため、距離を取ったほうが良いこともある。
距離を縮めたり離れたり、試行錯誤しながらコミュニケーションを取り、相互に理解していきたい。
理解できないことを理解しようとして、今まで気づかなかったことに遭遇することはある。
気づきを得る。

異種のもの、理解に苦しむような人との出会いは、新しい自分を導き出してくれることもある。
と、良いように解釈しよう。
無理矢理、理屈をこじつけなくても、何も考えなくてもすんなり共感できるほうが理想的だが、理想はあくまでも理想である。


変わりたくない、、、が。

2021-02-02 | 暮らし
終活の方向が、ぐわぁ〜んと変わった。
しかし、状況は一変しても基本方針は同じだ。
変わらない。
変わらないというか、変えないためにはかなり努力を強いられそうだ。

自由をこよなく愛するわたしは、自由が奪われるのは死ぬほど辛い。
世の中の皆さんもそうだろうけれど。
物理的には拘束されなくても、精神的に自発的に窮屈感に囚われる。
自分で自分に手枷足枷をする。
難儀な性格。
が、折り合いをつけてやっていくしかない。

自分を変えないために、自分が変わるというパラドックス。
ああ、しんど〜。