蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

心身はセット

2021-10-13 | 日々のこと
足の痛みとの闘いに、ご親切にアドバイスをいただいた。
いつもためになる内容のブログを書いておられる、ずいぶん前から存じている方。
ありがとうございます。
傷めたのは膝ではなく、股関節ではあるけれど、歩く度に激痛は、こたえる。

ダンスの練習をした翌日に発症したので、へんに筋を捻ったのかなあと。
ダンス復活は最低1週間はかかるだろう。
ダンスどころか、日常生活に支障をきたすのは良くない。
しかし、ダンスが出来ない日々も必ず訪れるという現実を思い知った。
その日が来るのは、出来るだけ後、遅くの方がよい。
当たり前だけど。

身体とこころは、確実に繋がっていると実感する。
心身共に健康を維持することがどれだけ大切か。
生きる質を左右する。

若さは失ったこと、老いには耐性が出来たようだ。
もう若くない自分を素直に受け入れている。
が、病気知らずのわたしは、健康を失った時に、アワアワしないよう、オタオタしないよう、覚悟しなければならない、、、が、まだまだ全然、楽観的なわたし。
とりあえず、明日は今日より痛みが軽減されていることを祈り、そして、出来れば1日も早く、ダンスしたい。
と、だんだん欲深くなる。


泣きそうなほど痛い!

2021-10-12 | 日々のこと
足が痛い。
何らかのトラブルである。
傷めた様子。
だが、足の骨には異常はない。
筋肉か。
消炎鎮痛剤を処方された。
飲み始めて2日目、、、効き目、なし。
痛いよぉ、、、。

日頃、病気知らずなので、痛みに弱い。
そして、怖がり。
どうなるんだろう??
治るのだろうか??
不安がいっぱい。

一つ狂うとその影響を受けて他も支障をきたす。
痛い左足を庇って、へんな圧力がかかり、腰や肩、背中が痛くなる。
歩く時は、左足を引き摺り引き摺り。
すごく痛い。
まだまだ痛み止は、効かないそうだ。
痛いこと、この上ない。
痛みはなんでも薬や治療で取れるものと、思い込んでいるため、痛みが治らないとなると、この先、このまま我慢しなければならない。
痛みのない普通の普段の生活が、どれぐらい快適で幸せか、、、思い知るに至る。
痛いという感覚は、じつにイタイ!!


早朝、通勤の皆様と

2021-10-11 | 日々のこと
夫の実家のある駅から、朝5:58発の電車に乗って自宅に向かっている。
今朝は4:30に自宅を車で出た。
夫の実家のある地、目指し、ピンポイントの用事が終了するや否、Uターン。
そのまま実家に寄ることも一瞬、頭をよぎったが、寄らずにまっすぐ駅に向かった。

早朝の都会に向かう電車は男性通勤客で占められていた。
静かな車内。ほとんどの男性は座席で眠っている。
車内、通勤男性オンリーの中、わたしは、まったく、異質の客になっている。
これだけ早いと、女性がいない。
こんなにも早い時間に家を出て通勤するのは、男性が多いということ。

電車の外がだんだん日が照ってきて、まるで旅行気分。
クロアチアかどこかの車窓になっている。
なんか楽しい。

次の駅でまたたくさんの人が乗ってきた。
乗らずに残り、ホームの列の前列に繰り上げて待つ人もいる。
次の電車で座れるようにだろう。
車内、座れない人も出てくる。
田舎から都心に向かう朝の電車は、なんとなく余裕がある。
これが地下鉄や満員電車なら、そんな悠長なことは言っていられず悲鳴ものであるが。

わたしは、途中の急行停車駅で乗り換え、都心とは逆方面に向かう。
わたしが降りた後、わたしが座っていた座席に座れる人はラッキーだ。
そんな駅では、乗りはしても、降りる人はいない。
それにしても見事に、ほぼ97%ぐらいが男性サラリーマン。ご苦労様。

さて、乗り換え。
他の乗客も降りる人々がいて、意外にも動きがある。
急行から普通電車へ。
こちらも立つ人がいる中、座席の少しの隙間を見つけて滑り込む。
おばちゃん強し。いや、おばあちゃんか。

普通電車しか止まらない駅で乗り換えるのは、別の線を利用する客。
どちらにしても都心に向かう。
わたしは別の線と交差するキー駅まで行くものの、そこからが、皆さんと真逆。
反対方面のホームに移り、郊外に戻る。
8時までには家に着くだろうから、朝の散歩か、ベッドで明け方に見る、ちょっとした夢みたいな感じ。

この時間、郊外に向かう人も通勤客である。
銀行、店舗、学校、、、色々ある。

しかしまあ、朝が早いと、三文の得である。
めちゃくちゃ得。
通常、起き出す時間には、すべての用事が終了しているのだから。
今日は実家に寄らずUターンしたが、実家に寄っても朝6時から何時間でも何でもできる。
今日は予定があったため、そそくさと引きあげたが、予定がない日は、ゆっくり夜までのんびり好きな時間を過ごせる。
なんだか、あんなに大嫌いだった夫の実家に、次の楽しみが詰まっているような気がしている。
せっかくリフォームしたことでもあるし、気候の良い時期は、やることは山のようにあるし、期待感が広がりを見せるかんじ。

わたしの実家は、傍観者のようなものだが、夫の実家は荷は重いものの、邪魔したり口出しする人はいない。
わたしの天下かなあ、、、と。
ただし、有形無形、荷物付き。
全く100%お気楽なわけではない。
自由と責任は、セットになっているから。
権利と義務もセット。

帰路、通勤ウエアの皆さんに混じって、場違いの家着のようなワンマイルウエアで違和感を覚えながら、いち早く帰宅中の7時のバスの中で、もうちょっと、1〜2時間でも実家に寄っていたら良かったかなあと、少し後悔した。
また、予定のない日にゆっくりしよう。
といっても、必要に迫られてしか行かないのだけれど。

欲張りの務め

2021-10-10 | 日々のこと
欲ボケに悩まされる。
同じ時間に三つの別の行動願望。
その時間は一つしかないのに、したいことは、全く別々に存在する。
それが、土日。
休日にしか皆んな動けないため、重なる。
平日に分散できないのは、社会人、お勤め人の辛いところ。
毎日が日曜日の人は、土日、休みの人に合わせるしかない。

で、休日にイベントが重なり、平日はスケジュールはガラ〜ンとなる。
ガラ〜ンはガラ〜ンで、ガラ〜ンを見越され、保育所お迎えの指示が突如、飛んでくる。
お迎え時間、1分でも遅れると容赦なく保育所からペナルティ罰金が課される。
たとえ、1分でも。厳しい。
2人子供を預かってもらっていると2倍。
なので、お迎え時間にアウトになりそうな時は、娘は SOS信号を発信してくる。
次女が育児休暇で実家にいる間は、次女に白羽の矢が放たれたが、次女が実家を出て行った後は、補填要員はわたしのみ。
ガラ〜ンのスケジュールの足元を見られるが、スケジュールがスカスカなんて結構なことだ。
究極の贅沢。
少しぐらいお裾分けしても良いかなあと。

さてさて。
いきなりですが、今日も3分の2は終了した。
あと、3分の1を残すのみ。
がんばろー!

同時に出来なかったことの優先順位第一位のことを選択して行動した。
あとは、選ばなかったことのフォローをして、帳尻を合わすのみ。
フォローは、好き勝手なことをやりっぱなしではなく、最後はキチンとする、欲張りの務めです。

邪魔にもならず役にも立たず期待もされない

2021-10-09 | 日々のこと
選挙が近いようだ。
河野太郎さん、総理大臣になっていたら、こんな田舎まで来ないかな、と。
まあ、自民党は選挙に勝とうと必死なのだろう。

秋晴れ。
お宮参りの日を目前に、良い気候を満喫する。
が、今日は夫の仕事がらみイベントに参加せず、好き勝手をしている今ドキの妻(わたし)。
代議士の妻なら、絶対に許されないだろうけれど。
もう終活に向っているから、わたしは自分の評判なんか別にどうでもよい。
急にこころを入れ替え、猛ダッシュで頑張っても、今からあの世までの間に名声をはじめ、良い評価なんか得られるわけがない。
せいぜい、「あの奥さん、好きなことしてたなー、それを許す旦那さんはふところの大きな出来た人物だなあ」と、夫の評価が上がるのがオチ。
夫は今まで高評価だから、益々、高評価に。
わたしは、今まで低評価だから、そのまま横滑りで低評価のまま低空飛行。
ドスンと墜落しなければ、地上すれすれのところでもよい。
今更、期待されていないし、この期待されない低空飛行まで持ってきたのはわたしの苦労?の賜物だ。
嫌われる勇気を駆使して、見事、「どうでもいい人」の位置を得た。
「忖度」と闘う自己との葛藤。
自分勝手、自己中と思われても、自分を優先した。
自分のために生きている。
ただし、孤独とセット。
仲良し連合会からは、脱退している。
何かあった時に自己都合で、仲良し組合に擦り寄って行っても、冷た〜くされるのは自業自得、覚悟の上。
少しぐらいは保険をかけて、リスクヘッジを取るけれど。
これぐらいなら大丈夫、だとか、周りの顔色や反応をチラチラ見ながら、さじ加減を調整する。
一人じゃ生きて行けないことは、重々に承知しているから。

と、またまたこんな、反省文的な内容を綴って、免罪符効果を狙って自分を納得させようとしている。
罪の意識を軽減させようと、じたばた。
相変わらずの、わたし。

ちなみに、舘ひろしの「終わったひと」、観そびれている。
また機会があればぜひ、観たい。
プラスチックみたいな無機質感を感じていた舘ひろしを、そうでもないかも、とわたしが捉え始めたのは、性格俳優的な演技を観てから。
見た目、ルックスが良すぎると中身を見そびれることがある。
見てくれが良いだけで、石原軍団に添えもののように追加されていた印象を受けていた。
シミ一つない、汚れ、ヒビ一つない完璧なものは生きている存在感やリアリティに欠ける。
人間は、弱り始めてボロが出かけてから本当の個性が出るのかも知れない。
人間らしい、いい味が出る。

※ちなみに、タイトルは河野太郎氏のことではない。
写真をトップに持っていくと、誤解を受けるかも知れない。
代議士の妻には到底なれっこない、わたしのこと、、、です。

秋、、、

2021-10-08 | 
いきなりですが、、、
距離感は重大だ。
大好きなもの、人も、適度な距離を取ることで、いつまでも好きでいられる。
近寄り過ぎたり、遠過ぎたりすると、ヤケドしたり過干渉したり、冷めたり、疎遠になったり、修復困難になったりする。

親子の関係もそう。
助けを求めている時や、羽を休める時は手を差し伸べる。場所を提供する。
が、滋養を得たら、笑顔で送り出す。
また来てね、と。
いつでもいいからね。
(ただし、わたしの身が空いている時)

自分が必要とされている時期を過ぎたら静かに撤退。
後を追わない。
向こうも追いかけて来ない。
寂しさと、ちょっと余力や余韻が残るぐらいがよい。
秋の季節にぴったりの話になった。
カッコよく書きすぎ感はあるものの。

わたしも次の段階がある。
余生である。
余生が動き出すことがあるとしたら、次の駅に向かって発車したかんじ。
まだ「あの世ステーション」や、「天国駅」ではない。
まだ、いくつかの駅がある。
秋から冬に向かうのではあるが、厳しく寒いイメージはあまりない。
だって、天国に近づくんだし。
ちょっと宗教チックになるが、何教でもない、自分教である。

わたしのこれからの、ゆっくりした歩みは、なぜか、母や姑の軌跡に似ている。
歳を取った女性の行動は似通ってくるのだろうか。
自分の今後の居場所整備のため、周辺を整理し始める。
今、流行りの断捨離や終活と同じ。
彼女たちは、流行や世相を反映したのではないと、わたしは思っている。
自分のしたいことをしたら、たまたま世間で取り上げられつつあることだった、、、世の中の動きの、前の方の走者だろう。
それが著書やマスコミなどで盛んに語られるようになり、その影響を受けた人々が動き出す。
世の中や世間、人様、ご近所さんの影響を受けて、、、ではなく、自分がしたいようにしただけだと思う。
というか、昔からある流れ、動きを「断捨離」だの「終活」だのと包装、パッケージを変え新たに名前を付け直しただけなのではないだろうか。

まずは、時系列を軸にした整理。
自分のモノではなく、過去に遡る。
これは舅もやっていたが、途中で手を離した。
これぐらいでいいかな、という自分の基準を満たしたのだと想像する。
が、人が変われば整理の仕方も変わる。
まあ、それぞれに整理した後に、その上に我々の歩みが乗る。

わたしも整理と自分流改造を加えたい。
改善と言いたいところだが、趣味嗜好は各々違うので、別の人の目から見ると、たんなる無駄に映るかも知れない。
スペインのガウディほどの偉大な人なら話は別だが、宇宙の星屑の一つであるわたしでは、全く自己満足以外の何ものでもない。
だが、駅を一つ一つ、楽しく満足感に満ち溢れて止まり、そして通過していきたい。

具体的には、先ず、実家終い。
家の終活みたいなものだ。
終わるわけではなく、枯れ木に新芽が出るように、新たな設え、新顔で再出発。
編集しなおし、要るものと要らないものを精査し、まとめて、さらにお色直し。
そのために、あれやこれやと、てんてこ舞い。
といっても、実際は、姉と姪が労務担当。
わたしは、権利ばかりを振りかざすわけにはいかない。
が、一応、ギョロリと見ている。
わたしの実家なんで。

懐かしい椅子を二脚、もらってこようと思っている。
引っ越しに当たって、廃棄処分グループに入っていたところ、捨てずに保存のお願いをした。
着払い荷物便で送ってくれるそうだ。
楽しみに待っているが、配達送料を考えると、もしかして買ったほうが安いかも?
いや、思い出はお金では買えない。
とかなんとか、、、。
今後も旧・実家終いに伴って、あれこれ貰ってくる(引き取る)予定だ。
引き取り側である、わたしの家族からは多少のクレームが出ると予想されるが、なんのその。
聞く耳を持たない。
(ただでさえ子供が多いところに、勝手に養子を貰ってくるようなものなんだけど)

ただし、ゴミ屋敷は避けたい。
ゴミ屋敷は一種の精神的疾患から来るそうだ。
そうならないよう、精神がしっかりしているうちは、好きな環境を整えたい。
いずれ、「それ、精神しっかりしてないんですけどーー」と、子供達に言われ、ライフスタイルの変換を強制執行されそうだ。
子供達が見て目にあまるようなら、やはり逸脱していると思われるので、その時は子供達に従おう。
(と、今は思っている)

強制執行されるまでの貴重な時間、カウントダウンしながら積極的に楽しもう。
天国駅はまだ先のはず。

イメージダウンにつき非公開

2021-10-06 | 日々のこと
次女母娘が用事で外出している。
本来なら、真面目で娘想いの母親なら、次女に付き添い、ベビーカーを運ぶとか、荷物を持つとか、赤ちゃんの世話をするとか、そういうことをするだろう。
わたしは、どうか?

いってらっしゃ〜い!!
と、満面の笑み。
さあ!わたしの静寂の時間!
黄金の自由時間だ!!

ものすごく解放された気分になっている。
気のせいか、空気が軽井沢。
爽やか〜。

何も次女が嫌いなわけでもなく、ベビーが憎たらしいわけでもない。
二人とも可愛く大好きで、愛おしく思っている。
なのに、この、外出した後のフレッシュさったら。

さあ、次女に見つかっては困るような秘密のことをしよう!
あれこれ、バタバタしようとしたが、1番最初にしたのは、次女が嫌いで食べない冷凍赤飯をチンして急いで食べただけ。
賞味期限が迫っている、神宗(メーカー名)の高級塩昆布も新しく開封して、急かされるように食べた。(誰一人、急かすような人はいないのに)

あとは、ミニチョコ小袋、ミニポテチ小袋を意味もなくお腹に詰め込んだ。
どれもミニなのは、多分、気が散っているのと、たいして食べたいわけではないのだろう。
なにしろ、早く急いで、自由時間を満喫しなければ、と焦っている。
全く、何がしたいのやら。

今朝、別サイトにアップした記事のリコメを書いたり、どうでもよいことばかりしている。
家に居る間にスマホだけをいじっていると思われたくない自分がいる。
わたしは、一人でスマホ遊びが大好きのようだ。
やたらゲーム好きのおっちゃんと、そう変わらない。

事務ノートを広げて、仏事の総括まとめを記載しようとしていたが、こんな真面目なことは、誰か人が居る時にすることだ。
誰も人目がない時は、ソファに行儀悪く寝っ転がって、ブログ更新!!
こういう、ダラダラ、だらしない一人きりの日は、もう3ヶ月近くなかったように思う。

昔日、姑があんなに我々との同居期日を指折り数えて提唱していたのに、その期日が来る頃にはすでに、同居案を引っ込めていた気持ちがよくわかる。
姑は、「手本になる、見せる生活をしなくてはならないのが疲れる」と、こそっと言っていた。
快適な一人住まいを体験すると、もう同居には戻れない。
別居推進。
なんと言ってもマイペースが気持ち良い。

と、ここで睡魔が襲ってきた。
おやすみなさい、、、

しばらくすると、、、そんな長い時間は経っていないが、、、
脚が痒い、、、ソファに隠れていた虫に噛まれた?
腕も?
ソファに敷いているカバーから、加齢臭がする、、、
明らかに夫のニオイ、、、
うぅ〜
げ、げ、、、
まったり午後のまどろみは何処へ、、、

今日のブログは、わたしのイメージダウン甚だしいと思われるため、アップしないほうが良さそうだ。
と、少しホンネを書きすぎたことに反省していると、日が暮れ始め、なかなか次女母娘が帰って来ない。
居なければ居ないで心配だ。

一緒に住んでも別に住んでも、わたしが次女母娘を大切に愛おしく思っている事実には変わりがないようだ。

いい加減な家庭教師

2021-10-05 | 暮らし
孫、小学生男子チーム、面白い。
小1孫。
宿題のプリントに取り掛かる。
まず1枚目は、ひらがなをカタカナにする。
一つ一つの言葉の上に、人気アニメキャラクターが印刷されていて、子供の気を惹こうと苦心が見える。

「ソ」と「ン」。
何度書いても「ン」が「ソ」になる。
そうじゃない、って。
ばあちゃんは(わたし)「ン」と「ソ」の違いを説明する。
正方形を上下左右4つ並べて四マスを作り、その中にどう収まるか書いてみる。
「ソ」は、細長い。
「ン」は、横幅が広い。
2画目は、上から下に向かって下すか、下から上に向かって跳ね上げるか。
一生懸命、真面目に丁寧に説明した。

小1孫、全然聞いてない。
あいかわらず同じ字を書いては消し書いては消しして、プリントは、しわくちゃ。
ゴシゴシ消しゴムで力任せに消す。
そんなに何度も同じところを消すと破れるよ、と、わたし。

「ん、わかった」
と言うものの、やっぱり同じ間違いを繰り返す。
「ソとンは、似てるから難しいね」と、わたしがサジを投げる。
いい加減な無責任家庭教師だ。

「ム」がわからない、と言う。
ム、、、ム、ねえ、、、
なんか良いヒントはなかろうか。
思いつかない。
教えてしまうのは実に簡単だ。
しかし、答を教えては勉強にならない。
考えさせないと。
何か良い案はないかと、それまで読んでいた情報誌をパラパラめくる。
どうしたものかと適当に考えていると、たまたま「ム」が入ったタイトルを目にした。
「ここ、『ム』って入ってるよ」
と、なんのことはない、ヒントどころか答を示しているのと全く同じ。
頭を使わないばあちゃんである。

2枚目は、算数。
定規が要ると言う。
時計の絵が描いてあって、今何時か、かっこの中に書く問題と、何時何分を時計盤に描く問題。
引き出しから、娘が就学前、幼稚園で貰ったピカピカの(新古品)定規を出してくる。
役に立つ時を迎えるのは、なんと30年以上も後!
ちなみに同じ場所に、わたしの小学生の時の木の定規も入っている。
拙い字で自分の旧姓フルネームを裏に書き込んである。
物持ち、良すぎ。

と、それはよいとして、、、
何時何分と考えてから書くのがいちいちめんどくさいらしく、先に全部のかっこの空欄に、「じ はん」と書き込んでいた。
時計盤を見るとどれも、長い針は6を指してて、半だった。
これは、兄孫も、そう。
先に式の後に=(イコール)だけ書き込んでおく。
ちょっとでも考える際に立ち止まる手間を惜しむにしても、ユニーク。
大人もそんなふうにしているかも?

その日は、彼らの夕食を担当しているが、小3兄ちゃんが、また食べることには貪欲で。
公平に分けていても、少しでも多いほうを取ろうとする。
ピザに乗せたトッピングのパイナップルにすごく執着して大事に大事にする。
なぜか、前々からぜんざいを強くリクエストされ、ご期待に沿うと大喜びされる。
トーストサンドも、弟の分までパクリ。
食い気に走る。
が、よく食べてくれて気持ちいい。
ベビーの頃から食いしん坊で、食器の底が見え始めると泣き、満腹中枢が故障しているのではと心配されたりしていた。
食べないより食べるほうが良いのだが、、、4番目孫もこの傾向がある。
皆、健康でいてくれるのが何よりだ。

5番目孫は、びーびこ、びーびこ、ギャーギャーと1日中、実によく泣き、次女を悩ませ相変わらずだが、まああと1週間で、さようなら。
濃密な赤ちゃん密着暮らしだった。

一人一人、成長してくれ、どんどんわたしの手から離れていくことは、今は嬉しいの一言だが、後に何年も何十年も経って、あれがわたしの1番充実した時期だったなあ、なんて懐古するかも知れない。

秋深し、、、には、まだまだ季節はずれに近いほど暑いが、そのうちにどっぷり秋になり冬になり、、、と季節の変遷を感じることだろう。

どの時期も、その時その時の時期が1番楽しかったと思いたい。

幸運の女神はカツラか?

2021-10-03 | 無題
ある人。
趣味繋がりの人物。
趣味以外はほとんどと言っていいほど、共通点はない。
今日は良い天気ですね、と、天気の良い日は一言添える時もある。
よくこんな人に長い月日、着いて行ったなあと自分に対して感心する。
人生の伴侶でもない、単なる趣味仲間なので、首はいつでも挿げ替えられるし、別に掘り下げる必要もないとは思うが。

どんな分野でも、大まかなところが、わたしのジャッジポイント。
生死に関わるような重大事か?とか、信頼関係を根こそぎ壊すようなことか?とか、修復は絶対に不可能か?とか、、、
そういう観点なので、ちょっとぐらい気に入らない箇所があったからといって、全体から見て、他の全てに取って代わるほどの欠点か、、、を考える。
自分だって欠点がある。
大きなことは言えない。

が、ほんの小さな取るに足りないことでも、どうしても受け入れられないことであれば、どんなに他が良くてもダメはダメ。
あまりそういう事態には出逢ったことはなく、大概はそんな欠点は本能的に察知して、わたしは最初から近づかない傾向にあるようだ。

ソリが合わない、相性が良くない組み合わせは悲惨だ。
仕事でも上司が変わったりすると、暗転する。
好転する場合もあるのだろうけれど。
強い者同士、鋭い者同士はお互いを傷つけ合うこともある。
難しいものだ。
離れると解決することが多い。
が、身も心もボロボロになっている。

セラピストやカウンセラーは、ストレスの原因のものを遠ざけることを勧める。
当たり前なのだが、ストレスの元をまるまる無くすことは出来ない。

自分ではどうしようもなく苦しんでもがいていると、事態が動くこともある。
天ぷら油をお箸で何度も掻き回さないで、じっと天ぷらが揚がるまで待つ。
忍耐力が必要だが、待つばかりでは、自分が潰れたり、好機を逃したりする。

幸運の女神は前髪しかない、と、趣味仲間の人がよく言うが、ふむふむと、わたしは快く聞いているわけではない。
あなたの場合は、あまりにも決断が早すぎる、じっくり熟考したりすることがない、といつもこころの中で思っている。
口に出してもよいが、どの口が言う?と反逆、倍返しを恐れ、胸にしまう。
熟考の後に、決断を下したいところだが、わたしの場合、熟考が長すぎて、事態が先に動く。
待ってぇ〜、となる。
幸運の女神はカツラなんじゃないかと思う。
前髪を掴み損ね、後ろから引っ張ると、つるっ。
肝心の前髪だって、つるっ。
カツラだったら、掴むタイミングはいつでも良いのか、いつでも悪いのか。
幸運ではなく悪運の女神だったら、掴み損ねて大正解だし。
まあ、なんでも結果論なんだろう。

なんでもかんでも、バタバタ掴めば良いというものではない。
幸運の女神なのか、悪運の女神なのか、見る目はあるのか?
勢いだけで掴んだところ、ラッキーだったのか、アンラッキーだったのか、掴まなくてラッキーだったのか、アンラッキーだったのか。
あの時のあれは、こうだったよね、と、後にならないと善し悪しは判らない。


悩みは解決できない

2021-10-02 | 無題
「学歴」と「学力」と「学力外のもの」は違う。
なので、学歴の低い親からでも優秀な子供は生まれる。
学力がなくても、学ぶ力があれば、学力は得られる。
学び方によって、早く簡単に得られる場合もあるし、時間がかかるハードなハードルになることもある。
早く習得しても、それ以上伸びないこともあるし、想像力に欠け、応用が効かないこともある。
応用問題ばかりに挑むと、考え方や捻り方が開発されるかも知れない。

得意分野や好きな分野は難なく伸びるが、その逆の不得意分野をとりあえずクリアするのは困難。

東大生の勉強の仕方や、ノートの取り方は参考にはなる。
ただし、ある程度、生まれつきアタマが良い人向き。
苦労人には苦労人向けの方法がある。
スイスイ涼しげにあまり苦労せず、要領の良い人の真似をしても、向き不向きがある。

人生もそれに似たところがあるように思う。
良いとこ取りをしようと真似てみても、土台が違うことがある。
じゃあ、不公平感を宗教かなにかで是正するか?
不公平なのは確かであるが、どう捉えるかだ。

書店で、幸せになる本をパラパラと立ち読みした。
末期医療に従事する医師が書いたもの。
あと余命1年と宣告されたら?
最初は自分の人生と向き合い絶望する。
目標に向かって頑張ってきたのに、今から果報を得る時期なのに、、、夢も希望も砕かれ生きる気力を失う。
が、そこからがスタート。
終わりに向けてのスタートである。
どう克服して幸せなジ・エンドを迎えるか。
克服する人はおそらくいないと思う。
事実の受け取り方、受け入れ方だろう。
宗教の力も大きいかも知れない。
が、どの宗教も似たり寄ったりのことを言っているような気がする。
こころの安らぎを得るために。

こころの安らぎを生きていながら掴むのか、あの世で掴むのか。
いろんな教えやノウハウはあると思われる。
生きている間、未来永劫に安らぎを得るのが理想だが、生きている限り煩悩や葛藤は必ずあり、矛盾して不可能。
生きながら安らぎを得るには、俗世界と縁を切り、出家する?
出家しても生き仏になるまで修行。
生きている限り、僧侶でもなかなか大変なのだ。(生臭ボウズも、いるが)

天に召されることが幸せなら、そういうのは危険思想になる。
戦争やテロに利用される危険性がある。
扱いがデリケートで難しい。
生き死には聖域ゾーンである。
安易に用いてはいけない。
やはり、神様の出番か?

わたしのつたない知識では、神様というとキリスト教イメージ。
仏教は、仏様なので、なんだか、ぼよよ〜んとボヤける。
日本人として普通に仏様と身近に暮らしてきたため、「仏様」は「隣のちょっと偉い人」ぐらいの親しみやすい存在。
日常に宗教が溶け込んでいるのかも知れない。
あの世に行った肉体(死体、遺体)を「仏」とも言う。
あの世に行ったら全員が成仏することを祈る。
成仏しないと、この世に帰ってこられると、ややこしい。
仏教ではなくとも、この世に未練を残したり恨んだりして幽霊として現れる話は、本当か作り話か知らないが、よく聞く。

と、相変わらず、話は逸れまくり。
生死観からオバケの話になってしまった。

話を戻す。

生きている間に100%満足感を得ることはそうないと考える。
仮にあったとしても、この世は「無常」なので、満足がいつまでも続くとは限らない。
ということは、死なないと満足が続かない、つまり、死ぬと完結するということか。
しかし、死んでしまったら元も子もない。
と、話はグルグル回り、一向に結論に辿り着けない。
生きている限り、人は考え続ける宿命を背負っているし、考え続けることこそが、生きている証なんだと思う。

つまり、今日も結論は出ず、電車の行き帰り、ブログを更新して楽しく遊んだ。
良かった、良かった。