蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

評価されない無形の楽しみ

2023-02-16 | 趣味
科学と哲学では理解出来ないことが、たくさんある。
それには変な新興宗教だったり、うさんくさいものが疑問解決へと導こうとする。

うさんくさくないものもある。
芸術。
芸術を理解する側と、自分が体現する側がある。
両方というのもある。
プロ野球の大ファンで応援団長をやっていたり、なおかつ、地元で仲間と草野球もするパターン。
コンサートを聴きに行き、それとは別に自分も家で演奏することもある。

で、わたし。
芸術脳が未発達。
科学脳も未発達。
唯一、発達しているのは哲学脳。
デキナイ自分を肯定し、応援するために哲学脳を駆使する。

小学校の頃から、成長期に、4教科(中学からは5教科)にだけ価値を置く教育を受けた。
その弊害が尾を引いている。
副教科はお遊び、息抜き、と。
入試の合否評価対象にならないからだ。
(芸術や体育コースには進まなかった)

だが、わたしは幼い頃からピアノ、習字、短期間ではバレエ、算盤を習っていた。
大人になってからも華道、その他諸々を習った。
全てものにならず、素通り。
素養がないのか、やる気がないのか、両方か。
大人になってから習ったものは特に、人には言えない。
逆効果なぐらい成果がない。
たんなる暇つぶしだったのだろう。
次のライフステージへ移るまでの待ち時間。

子供の頃のお稽古は親に勧められて。
拒否する選択肢があることを当時、知らなかった。
成果があったかと言うと、どれも現在、ひどい。
習ってない人より、ひどい。
時間と労力とお金の無駄遣いか。
素直に習いに行って、親はとりあえず満足していただろう。
しかし、見事に習得していない。
(ほんの少し、知っている程度)

滋養になっていない。 
が、ここで哲学脳は、「人生で無駄なことなど一つもない」と、無表情で無機質風に答える。

目に見えて残っているものは、全く活用されていない、形だけの免許皆伝。
その他、捨てずに残っている物、物、物、ガラクタの山。
あとは、子供、孫。

無形、有形、いろいろある。 
子供、孫は、有形になるのだろうか。
物体、物質として存在するから有形なんだろう。

かつて、脳を素通りして消えていった無形のもの。
今、その中の一つに取り組んでいて、厄介で難儀で理解不可能で、苦悩の涙を流している。
だが、老後の暇つぶしには、もってこいだと内心喜んでいる。
素養がないだけに、挫折も味わったことがない分野で怖いもの知らずの未知数。
敵は自分だけ。

老後は、評価点数に関係ないものに取り組むのが最適だと感じる。
評価はもう結構。
苦い涙で、卒業した。



子供を生み育てる

2023-02-13 | 人生
もしも子供がいたら?という、ブログ村エッセイの注目記事を読んだ。
書き手は80歳代の男性。

奥さんが子供が欲しくないというので、子供を産まなかったそうだ。
夕食を作りたくないというなら、抜きでいいよ、というノリ。
で、子供がいなかった人生を振り返ってみると、風邪を引いたら鼻水が出た、という感じの結果だったとのこと。
子供を持つには職業選択基準が変わり、育てるためのお金を生み出すことを第一に考えざるを得ない。 
そうすると、(稼いでくれる妻)髪結の夫だったら経済的心配はしなくてもよかったわけだが、(子供を育てるには経済力が十分とは言えない、大黒柱にはなり得ない)今の妻と結婚したことが子供を持たない大きな理由となる。
じつにわかりやすい。
そのブロガーさんは、子供の養育のために好きな仕事を選べない、奥さんは子供が欲しくない。
夫婦で意見や考え、方向性が同じなら悲劇は起こらない。
一方が子供が欲しく、もう一方が欲しくない、とか、
二人とも熱望しているのに出来ないとか、
苦悩の種はあちこちにある。

姑はわたしの兄夫婦に子供がいないことを、なぜ生まないんだろう?と、再三再四、わたしに言っていた。
あんなに賢い姑なのに、なぜそんなことがわからないのか不思議だった。
医学知識ゼロ。デリカシー、ゼロ。
本人に直接聞かないだけでもマシだが。

子供は出来たか?と毎月、結婚した翌月からまだかまだかと矢の催促に、さすがにタフで無神経なわたしでも、うんざりした。
昔の人、戦中派は、頭の中身、脳内部が違う。
無知は人を傷つける。
本人はそのことに気がついていない。
自分が無知であることも、それで人を傷つけていることも。
わたしが、教えてあげたらよかったのだが、わたしは自分の脳を素通りさせてしまった。
素通りさせなければ神経が持たないことは、ほかにもたくさんあった。
だが、世代ギャップ、ボタンの掛け違いだろう。
どちらが悪いというものではない。
善人同士。

さて。
わたしは、なんとなく子供を産んだわけではない。
若い独身のある時期、自分が生きている意味を自問自答した。
ぎゅーと脳みそを収縮させ、考えた。
で、過去から未来へ生命を繋ぐことに自分存在の意義を見出した。
子供を生み、時空の架け橋になること。
科学脳が半分、哲学脳が半分。
で、結婚して子供を産むことにした。

長女は、目標を掲げて仕事をしていたが、ある時、ふと思ったそうだ。
どんなに200%の力を振り絞って頑張っても、自分は組織の歯車の一つで、自分の代わりはいる。
自分にしか出来ない唯一無二のことは、子供を産むこと。
そう思い、本社から支店に代わり、結婚して子供を産んだ。
それぞれ、自分の人生を思い詰めて出した結果である。

エッセイ記事のブロガーさんも、ご自分で出した結果が子供を持たないこと。
それぞれに、それぞれの人生がある。


ただし、少子高齢化は加速度を緩めたいところだが。
このまま減少し続け、江戸時代のような人口で、農業国としてやっていくならまだしも。
国土が狭い。
豊富な人材を活かして、それとも観光立国の道か?



気づきの朝

2023-02-12 | 日々のこと
今日は暖かい。
にもかかわらず、もこもこダウン重ね。
流石にコート下のダウンベストを脱いだ。
日中の気温15度って知ってたのに、もこもこで出かけたわたし。
暑いのは脱げばいいけど、寒いと困るから。
そういって無駄に荷物を増やす。
「デキるおんなは荷物が少ない」と、長女によく言われていたが、最近は相手にされなくなったようで、何も言われない。

さて。
今週は涙週間だった。
おそらく涙袋が溜まっているのに上手く行かず停滞したままだったのだろう。
ちょっとしたキッカケで、出るわ出るわ、次から次へと堰を切ったように涙が流れる。
中には、どう考えても涙、因果関係ないのでは?といものもある。
涙の大バーゲンセール。
ついでに便乗!のような涙もある。

で、今朝も涙を流した。
もはや何が原因だったか忘れたぐらい。
肉親のことだったか?
最後のお風呂の水を抜く時、浴槽の汚れやアカを綺麗に流し落とすかのよう?
なんだか知らないが、なにしろ大安売りのわたしの涙である。
次は綺麗な新しいお湯のお風呂に入れるかな?と、期待しよう。

中身のない涙の話がやたら長い。
今日は洗面所で歯磨きしたり髪を整えなが、尊厳について考えた。
生きる、死ぬ、の尊厳ではなく、人間の核について。
誇り、プライド。
メイクなどを含め、洗面所にいる時間は15分ぐらいなので、結論など出るわけもなく時間に追われた。
こうやって毎日時間が滑っていき、大事なことを突き詰められない、、、わけではなく、突き詰めても仕方ない不毛な時間は使わないでね、という神様からの計らいなのではなかろうか。
究極は、無。

あ、今、ふと今朝、考えていたことが甦った。
わたしの人生の指針、羅針盤のようなものが天から(洗面所から)降りてきた。
信者はわたし一人なので、一人参加の会議の結果、一つの方向が見えた。
意義なし。
ただし、今回のところ。
今週の涙週間の顛末、結末はこれなのか、、、も知れないと複雑、神妙な気持ちになった。
「自分教」の神様(=自分)が信者の自分に降りてきた。
これを自発的に「気づきを得た」というのだろう。
わたしが科学者なら大発明、大発見につながるのだが、無名の一市民なので、普通ににっこり微笑んでおしまい。
映画なら明るい陽射しの空を見上げて輝く笑顔を見せるのだろうけれど。
あいにく洗面所なので、空は無し。

なんだかスッキリ。
気分爽快だ。

Be water.

2023-02-11 | 人生
親の敷いたレールを歩かされ、潰れた人がいる。 
・・・・・
かわいそう。 
だけど、それも運命。
夭折するケースもあり得るなかで、70年以上、、、長く生きている。

しかし、潰れたと見なすか、見なさないか、それは取りよう。
例えば、、、黄金の人生の人もいるが、病気の人もいる。
黄金は運だけではないと思うが、運も大きい。
病気は不運。
だとすると、運、不運に振り回されるのか。
逆に病気になって気付かされることもある。
どの面をどこから見るか。
取りようだ。

わたしはイジメられっ子だった。
おとなしくて可愛かったからだろうね、なんてちょろっと舌を出すのは、まあ痛いこと。
なんでもいいのだ。
自分を守るのは自分なので。

どこか陰があった。
子供の時から世の中を斜めから見ていた。
皆んな、何をわーわー喚いているんだろうと。
冷めた子供だった。
わたしの基準は、(文字通り)死ぬか生きるか、だった。
なので、生命維持の危機でもなければ、そんなに大騒ぎしなくてもいいのに、と思っていた。
なので「大変だ!!」の基準が周りとズレていた。
普通の一般的な表現をすると、「おっとり」していた。

真実は一つ。
が、諸説あるのは、見る方向が違うから。
どの方向から見ても同じとは限らない。
多面性がある。
多面性こそ、真実である。
どう捉えるかは、個人による。
信じた道、その一本、真実一路の人と一緒に行動すると疲れる。石頭カチンコチン。
なので、少し余裕、隙間を設ける。
アソビの誤差。
調整出来る自由な部分を持つ。

洗脳されやすい人の脳構造はどうなっているのか?
不思議だ。
自分のアタマで、自分で考える習慣がないのだろう。
または、考えてもまとまらない、わからないので、とりあえず丸投げ。 
あるいは、考え過ぎて磨耗して壊れた?
そんなかんじか。
分野によって使い分けることもある。
これは石頭コース、あれはお任せコース。
複合ミックス型。
1人の人間の中でも調整し、複数の人間の集まりでも調整する。

そうやって集まったコミュニティの形成。
緩やかなコミュニティもあれば、強固なコミュニティもある。
お互い、個人が目的を持って集まり、役割分担する。
が、役割を持たない人、コトもある。
緩やかで自由で束縛がない分、絆は弱い。
ローリスク、ローリターン。
滅私奉公で頑張り、ハイリスク、ハイリターンを求めるのは生身の人間だからこそ。
が、自分と同じ温度を人にも強制されたり求めたりされると、暑苦しい。

何もしたくない人は、他者に期待出来ない。
が、災害時などは助け合う。
日頃の気持ちや行いの積み重ねは、大事。


ちなみに、
SNSの影響、効果は、良い面も悪い面もある。
何ごとも両面ある。
社会経験の少ない未成年者や若者、高齢者には、落とし穴や罠が見抜けない。

しかし、、、
世の中には驚くほど無知な人がいる。
ではあるが、社会のことがわかっていて、社会で生活できていれば、少々無知でも構わない。
無知と無教養は、少し違う。
無教養でも生きていける。
無知は、自分を危険な目に陥れる場合がある。
よく言われていることだが、周りに信頼できる大人がいるかどうか。
1番身近なのは親だ。
子は親を選ぶことは出来ないから、著しくハズレだった場合は、いち早く自立するしかない。
かえってそれがプラスに作用することもあるから、結果的には何が良いのかよくわからない。

わたしの精神は70%ぐらいは親の影響で成り立つ。(アンチも含め)
時代の色も追加される。
自分で加工したものはあるのか?
姑や姻戚関係の人々を見て学んだことも多い。
ぶ厚い頑丈な鉄筋コンクリートのBOXの中で、小さな天窓から明かりを取り入れて生きてきた(とたぶん思う)。

ブルース・リーの言葉がNHKテレビ番組で紹介されていた。
Be water.
友よ、水になれ。

(水は、どんな形にもなるが、強いパワーを持つ)
短いこの言葉。
響いた。

涙は、自分を慰め癒してくれる

2023-02-10 | 人生
今朝、洗面所で何かを考えていて(忘れたが、しばらくしたら思い出すだろう)、それに関連したこととして息子のことが一瞬、頭をよぎった。
消息は絶っていないものの1年以上、顔は見ていない。
元気にしているとは思うが。
突然、涙が流れた。

(ちなみに、息子はお年玉を電子マネーアプリで甥姪にあげていた)

夫は息子が後継として戻って来てくれることを心待ちにし、糧にし、毎日頑張っている。
心待ちにしすぎて、まだかまだか、いつ帰る?と、10年ぐらい前から息子に矢の催促。
息子はハッキリとした期日を示さなかった。そんな時期もあった。
やがて月日は経ち、明確な返事をもらえないまま、ついに自分が引退を考える頃になり、諦め半分、息子に最後に問うていた。
が、息子は首を縦に振らなかった。

わたしのこころの声。(決して口に出して言わない)
息子の気持ちを察しろ。嫌なものは嫌なんだ。
親の望む道に行って親孝行はしたいが、自分が行きたい道ではない。
自分が歩みたい道があり、今は道途中なのに、無理やり引き止め引き戻す気か?
親のエゴのために。
息子を板挟みの苦しい立場にさせていることがわからないのか。
夫と息子、善人同士のバトルを横で静かに見ているわたし。
誰が悪いわけでもない。

歌舞伎役者や老舗の後継は、世間の目もあり大変だろう。
職業選択の自由を奪われる。
重い問題だ。


ちなみに。
姑は、自分が子供たちの役に立てなくなったら、子供たちの生活のリズムを乱さないよう、自分の健康に最大限、注意を払っているとよく言っていた。
わたしもその気分。
まだ少しぐらいは後方支援の最後方で「備え・スタンバイ要員」として位置しているが。
とは言え、1番下孫は1歳なので、何かしら引っ張り出されることもあるかも知れない。
が、娘たちはそれなりに親には面倒かけまいと、頑張っているようだ。
よほどのことでもないとSOSは発信しない。
逆にわたしの場合、姑たちが手を差し伸べ過ぎて甘すぎたかも知れない。
感謝はしているが。


涙にはいろんな意味がある。
言葉には出せないような、言葉に出来ないような、自分でも涙の理由が何なのかわからないような、そんな感情が涙となって現れる。
溢れ出る想いである。
流れる涙は無理やり止めることなく、自然なままに流すのがよいと思う。

そう書いたら、偶然、別件でまたまた大泣き。
涙週間か。


悲恋に涙、涙、涙

2023-02-08 | 日々のこと
わたしのブログ。
自分を癒すために書いている。
時には結果的には鼓舞されたり、納得したり、意図せず、気を鎮めるためだったり。
なので、読むほとんどの人の目やこころを素通りする。
別に良い。

書くエネルギーが湧かない時がある。
精神が静止している時。
喜怒哀楽が平坦になっている時。
病気で身体が悲鳴をあげている時。
退屈してない時。

あ、つまり、退屈しのぎ、壁の落書きか。
しかし、落書きコンクール(ブログ村)には既に申し込んでいる。
登録、参加費無料につき。
壁に落書きすると市民の皆さんの迷惑になる。
なので、片面印刷の広告チラシの裏に書く。
が、それも家の紙ゴミが増えるため、電子落書き帳、ブログに書いている。
電車内で書くことが多い。
ではあるものの、乗車下車など、周りの状況にも注意しなければならないので気が散っている。が、それで丁度ぐらいのわたしの筆。

こころが安定すると書く材料がないので困る。
幸せはネタにはならない。
人間は不思議なもの。
他人の幸せなど、これっぽっちも興味がない。
あたりまえ。


昨夜のNHKドラマ「大奥」。
不覚にも涙ポロポロ。
ああかわいそう。悲恋。
福士蒼汰、めちゃくちゃ演技が上手くなった。
といっても前は知らないが。
なにしろ、悲恋には涙腺が連動、過剰作動し破壊され、自分にはまったく関係ない、経験するはずもない恋愛に、涙を流す。
これ、どうなってる?
そりゃあ、孫の発言に涙を流しても当たり前の、涙・貯蔵量。
潤沢な資金ならいざ知らず、潤沢な涙量。
資金は強盗に盗られる恐れがあるが、涙は盗られない。
だがしかし、上手な役者さんと作家さんに、涙を搾取される。
いや、喜んで哀しい涙を流す。

涙が枯れるほど泣くような経験をしたことがないので、流されないままの涙がたっぷりチャージされているのは、なんと幸せなことか。
(時々、漫才でどかっと涙を流して大笑いして、減らしている)
涙貯蔵量が真の哀しみの涙で減らないように願うが、あまり願い過ぎると現実の目の前の幸せを十二分に味わえない弊害が生じて、幸せが目減りするような気がする。
何ごとも自然体でありたい。



嬉しい時にどんどん流す涙

2023-02-07 | 
涙が出るほど楽しいイベントの後、体調を崩して伏せった。
アップダウンが激しい。
これだから、困る。

しかし、楽しい日曜日だった。
(親抜き)小学生男児孫たちと、ミニ旅。
朝は7時29分のバスに乗るのだが、7時15分ごろには孫2人共、我が家に来てスタンバイ。
前日(土曜日)もうちで前泊するという兄ちゃん孫(小4)Yをわたしはダメだと断った。
次女が1歳児孫(神経質)を連れて、1番上孫Yのバースデーパーティ参加のため、同じ日(土曜日)に泊まるので、ややこしいことと、翌日(日曜日)にミニ旅があるから負担になるため。(わかりにくい説明)
1歳児は夜泣きギャン泣きしていたから、結果的には泊まらなくてよかった。

朝7時半から18時04分までの小旅だった。
弟(小2)は水筒を肩からかけ、2人で使うんだそうだ。
2人共、それぞれ首に、交通非接触型ICカードをぶらさげている。
ポケットにハンカチ以外は、手ぶら。
学校へ行く時より早起きもへっちゃら。
意気揚々と出発!

(中身は割愛)

テーマのある旅。
近畿一円はテーマパークのよう。
近い、便利、楽しい、安い。
日帰りできて、時間にも体にも財布にも負担がない距離。
しかも歴史深い名所がギュギュッ。
さらに四季折々の美しい自然風景。
ちなみに、この兄弟は2年前に同じ地の旅館に泊まったらしく、その旅館の前で、「ココ」と教えてくれた。
なんだ、かつて来たことがあるのか。

しかし、上孫は「乗り鉄」なので、今回は「青の交響曲(シンフォニー)」。
行きは、さくらライナー。
近鉄も色々、楽しませてくれる。
感謝!
この電鉄会社は潰れることはないとは思うけれど、今後も乗客のために頑張ってほしい。

帰りに、両親(長女夫婦)&女の子保育所チーム(2歳&5歳)と合流して、回転寿司に行った。
女の子チームは、日中は次女と1歳児と合同。(従姉妹3人保育所グループ)
大人3人、子供3人の保育所女の子グループは、幼児向けアウトドア自然密着体験公園へ。
(小学2年の男児孫はどちらに参加するかは、本人の希望に任せた)
次女と1歳児は、前日はうち(実家)に泊まったが、翌朝、我々とは顔を合わさず、女の子チームと行動して、夕方には自宅にUターン。

わたしは、夕方から調子が悪くなった。
食欲ゼロ。

上孫は、回転寿司で一口も食べものを口にしないわたしを見て、首を傾げるので、
「青の交響曲(シンフォニー)のケーキセットが高級すぎて、胸につかえてお腹いっぱいになったから食べられない」と説明した。 
他の家族(両親や妹たち)に、「ばあちゃんはケーキでお腹いっぱいになって食べられない」と説明していた。
でも、納得いかないのか、不思議なのか、
「なんで食べないの?
せっかく来たのに食べなかったら意味ないやん」と、わたしに言った。
この子が他者のことで意見や感想を言ったのを初めて聞いた。
とても印象に残った。
と同時に、わたしのことが気になる、視界に入っているのだと思うと感激した。
理由がわからないのか、合点がいかないのか、想像外の行動なのか、はたまた、心配してくれているのか?

いずれにしても、これは成長だとわたしは捉えた。
初めての孫で生まれた時から知っている、かわいいかわいい子が、こんな(電車以外の)ことを言うようになったのかと思うと涙が溢れ出た。

孫の成長は何事にも替えられない喜びである。
しかも、今!今が一番!
いずれ、知恵が付いたり忖度したり、邪魔、うるさい、足手纏いに思うようになったり、汚いと避けたり、、、そんな時期は必ず来る。
まあその時はその時。
今しか味わえない喜びを存分に味わっている。
まさに、今、今、今!
年月が経てば、孫たちは大きくなり、わたしは歳を取って衰え、喜びは半減、もしくは悲しみを感じるかも知れないが、嬉しい経験が出来たのだからそれで良い。
姑と子供たちの関係性を時系列で追って行くと、わたしと孫たちの関係性がぴったり予想される。
時の移ろいとは、そういうもの。
あんなに仲良く遊んでいたのに、交流はいずれ内容が変わり、高齢になればなるほど、疎遠になり、距離は離れていく。
あたりまえ。
かわいそうとも取れるが、祖母(姑)本人も歳とともに以前ほど孫に熱をあげていないと感じる。
文字通り、自分が生きるのに精一杯。
ま、そんなものでしょう。
わたしの行く道。
先に行く人は示してくれる。

歳が行くと、自分の歳に順応するかのように、自然に変わる。



忖度

2023-02-03 | 日々のこと
書きたいことが、わんさか出てきた。

前日、ふと目にした光景。
制約なく「自由に行動してください」と許可が出ると、全員同じことをする。
これがとても不思議である。
一斉にスマホをいじる、とかではない。

それは、あるダンス練習場とのこと。
全員黒いウエア。
決められたユニフォームでもない。
何を着てもよい。どんな色でも形でもよい。
それぞれに黒を着る理由はあるようだ。
が、自由選択の結果、全員黒。
お葬式??(違う)

ある人のコメント。
色柄ものを着て、悪目立ちしたくない、、、んだそうだ。
悲しく浮きたくないと。
この発言にわたしは衝撃を受けた。
と同時に失望した。
皆んなと同じようにしないと落ち着かないということ。
チームプレーではなく、個人が勝手に集まっている練習場。
発表会を前に演目のウエアを揃えているわけではない。
皆んな同時に自由になっても、自由の表現は、横並びかと。
これこそ悲しい同調だと思う。
社会で生きてきて培ってきた知恵だろう。
叩かれたくない、悪い評価を受けたくないという消極的な自衛。
しかし、この考え方、誰が非難出来るだろうか。

ただ、趣味分野のことなのに、と思う。
自治会や親戚付き合いや、仕事がらみでもない、なんのしがらみもない、自由に自分を解き放つ分野なのに。
そういう自由時間にも、その人らしさが出るのだろう。
一人旅専用のパック団体旅行のよう。
全員がおひとり様の団体ぞろぞろ。
手堅く賢いけれど、わたしはあまり共感を覚えない。
まあ人それぞれ、誰の忖度にも関与せず影響されず、自分が快適な道を行けばよい。


ちなみに。
キムタクと綾瀬はるかの映画「レジェンド アンド バタフライ」を観た。
ストーリーとしては、意図的に女性に気を使ってくれたと感じた。
あれ?路線大チェンジ、タイタニック?

それはそうと。
娘たち(長女と次女)との話題、LINEやりとりのテーマ。
「夫の実家に帰省した時、嫁は料理を作るのか?」
長女Mと次女Rの夫の実家での、あちらのご両親の対応が興味深い。
長女Mの夫の実家。
嫁であるMが台所に立たされそうになった、と。
(夫は第三子で末っ子)
次女Rの夫の実家。
お客さん扱いで、ご両親から暖かいおもてなしを受け、夫は台所で料理を作った、とのこと。
(夫は一人っ子)
わたしの実家にわたしの夫が訪れた時は、夫はお客様で接待される側。
母は接待をわたしに丸投げ。
わたしがちゃんと夫を接待できていないと母に叱られた。
時代が移ると変わるものだ。
だがしかし、いまだに夫は自分の家に娘の夫(婿)が来た時も、接待するどころか、若いお婿さんにお給仕されたりしている。
彼のアタマはどうなっているのか。

それにしても、織田信長の時代に、令和の現代の女性が喜んでしまうようなストーリーは、どうも自然ではないように感じる。
現代女性への忖度?




歳のせいなの?

2023-02-01 | 老い
綺麗事は書けない。
なぜか?
自分が楽しくないから。
が、ホンネを書きすぎると、自分も傷つく。
ついでに他人も傷ついたりする。
なので、適当に、いい加減に、曖昧に。
ファジーという言葉がかつて流行った。
曇りガラスで明かりを取り入れる。

さて。
ある人との会話。
「歳だから」
とわたしが言うと、なんでもかんでも歳のせいにする、と非難めいた口調のリアクション。
わたしが「歳だから」と言ったのは、ファッション。
ショーウインドウに飾られている素敵なコートを見ても、こころときめかない。
こんなコート、もう何十年も前からある、なんの新しさもないデザイン。
わざわざ買う気もしない。
着た自分を想像しても、全くワクワクしない。
なんで今更あんなコート?
手に取ってみた厚手の手編み風カーディガン。
半世紀前、エジンバラ(イギリス)のお土産に父に買ったものと似たようなカタチ。
どこが新しい?
ただただ古い思い出が引っ張り出されるだけ。
ただし、思い出はカビ臭くはないのが救い。
曇りガラスで明かりを取り入れるかのごとく。
いや、実際より鮮明に綺麗に輝いているように思う。
昔は良かった、、、なんて言うと、「今」や「未来」が明るくないお年寄りの仲間入り。
でも、昔も今も未来も明るいと思うのだが。
ただし戦争のない世の中であることを願うばかり。

売っている服を見て、欲しいとは思わない。
服は家に山のようにある。(断捨離の呪縛に苦しめられる)
次から次へと服を欲しがるのは若い人の特権だと思っていた。
先述の会話の人、Aさん。
最近、猫背気味、70代。
服が大好きでよく買っておられるのだが、確かに身だしなみに気をつけなくなると認知度、黄色信号。
ではあるが、身だしなみはとっくにクリアしているのに、それ以上に服を欲しがる。
わたしも服は好きだが、もうよほどのことでもないと買う気はほぼほぼない。
Aさんは、わたしの服に対する関心減少は歳のせいにするが、わたしはAさんの服に対する情熱が理解できない。
人は人。
自分が良いと思えばそれでよい。
ひとのことなどどうでもよい。
なので、わたしはAさんの服への情熱に対して非難も否定も賛同もしない。
お互い、感性が違う。
カッコイイと自分で思っていられることは、生きる原動力になるので、ひとの生き甲斐を奪う権利は誰にもない。
(迷惑や犯罪ではなければ)

しかし、そんな、どうでもいい点が増えると、その人との接点がどんどんなくなる。
すごい勢いで離れていっているように感じる。
(これ、仏教系の本で書かれていた)
歩む道の分岐点、曲がり道か。

逆に離れていた道を歩いていた人と合流したりする。
あらまあ、こんにちわ。
人生は予期しないことがたくさんあって面白い。