『 甲子園ボウル 立命館大が優勝 』
甲子園ボウル 法政大対立命館大の戦いは
立命館大が勝利した
法政大が 追いすがる場面もあったが
立命館大が 試合早々のリードを守り切り快勝
9回目の優勝を果した
フィールド内の選手は 両軍合せて22人だが
全部で100人程もの選手が 入れ替われ立ち替わり
激しくぶつかりあう迫力は 他に類を見ない
健全な競技環境が続くことを 切に祈る
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『 今ぞ悔しき 』
水鳥の 立ちの急ぎに 父母の
物言はず来にて 今ぞ悔しき
作者 上丁 有度部牛麻呂 駿河防人
( 巻20-4337 )
みずどりの たちのいそぎに ちちははの
ものいはずきにて いまぞくやしき
意訳 「 水鳥のように 急いでて出発したので 父母に ろくに話もしないで来てしまったので 今になってそれが悔やまれる 」
* 作者の 上丁 有度部牛麻呂(ジョウチョウ ウトベノウシマロ)は、その後に記されているように、駿河国の人で、防人(サキモリ)の務めにあたった人物です。
上丁というのは、一般兵士のようなので、ごく普通の庶民だったのでしょう。
防人は、筑紫や壱岐・対馬などの防備にあたるために、主に東国から集められた兵士のことです。この制度は、大化の改新の施策の一つで、乙巳の変直後に即位した孝徳天皇(在位 645 - 654 )の御代に始まったようですから、万葉集に登場する防人たちは、この制度が始まってまだ初期の時代に務めにあたった人々といえます。
* 防人は、主として東国の多くの国の兵団から選出され派遣されたようです。毎年千人から二千人を超えるほどの兵士が難波に集められ、船団を組んで筑紫に向かったようです。食糧や武器は個人持ち(派遣した国が負担するのでしょうが。)で、税も免除されることがなかったので、国府や兵士たちにとっては厳しい制度だったようです。兵士といっても、当時専門職の兵士などはごく限られていて、そのほとんどは農民だったでしょうから、危険や負担ばかりが多い任務だったようです。
* 万葉集に防人の歌が数多く採録されているのは、おそらく、大伴家持が兵部少輔という地位に就いていたので、難波に集まってくる兵士たちから歌を聴取する機会があったと考えられます。これが、万葉集に幅を持たせ、歴史的にも貴重な資料を提供することになったようです。
掲題の歌は、作者はおそらく農民で、国府の警備などに徴収されていたのが、防人の任務を命じられたのではないでしょうか。もちろん、若干の手当てなどのような物もあったのでしょうが、両親などと別れの時を満足に取ることも出来ずに、遙かな西国に向かって出立したのでしょう。そして、故国を離れるに従って、再び会えることさえ困難であろう父母を思う気持ちが押えがたく、その気持ちを吐露したものだと考えますと、切なさが胸に迫ってきます。
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