熱戦を繰り広げている高校野球も、いよいよ決勝戦を残すばかりとなりました。決勝戦は仙台育英対下関国際という新鮮な対戦となり、どちらが勝利しても初優勝ということになります。
全試合を見ているわけではなく、多くはダイジェスト的なもので見ていますので、余り生意気な意見はまずいとは思うのですが、今大会に限ったことでありませんが、大熱戦の試合ばかりでなく、大差がついてしまった試合も幾つかあります。手に汗握る接戦は見る者にとっては楽しいのですが、大差がついてしまった試合は、少々辛さも感じてしまいます。一度負ければそれで終るというトーナメントだけに、大差で負けている選手やその背景などを考えますと、そうした試合を最後まで見るのは忍耐力を必要とします。
ところが、例えば「10対0」といった大差の試合の場合、明らかな実力差という試合もあることにはあるのですが、実際は、それほどの差はなく、結果として大差となったという試合の方が多いように感じられます。
特に最近は、東北や北海道など、かつては寒い国は、特に春の大会は不利だとされていましたが、そうした地域差は殆ど感じられなくなっています。また、都道府県によって参加校数にかなりの差があるため、レベルに差があるようにも感じられるのですが、多くの地域に野球強豪校が誕生していることもあって、その差も小さくなっているようです。
そうした代表校同士でも、一つの切っ掛けから、実力差を遙かに超えた差がついてしまうようです。そして、その切っ掛けとなるものは、幾つもの要因が積み重なることもあるのでしょうが、一つの判断、一つのプレー、といった一瞬の出来事に端を発しているように思えてならないのです。
念願果たした甲子園の晴れ舞台で、敗戦の直接原因になった当事者の気持ちはどうなのだろうか、と心配してしまうことがあります。しかも、それは、ほんの一瞬のうちに起ってしまいます。時には、その一瞬によって、長い間、時には生涯にわたって、うずき続く重荷になることさえあるようです。
そして、こうした事は、野球などスポーツだけで発生することではなく、私たちの日常、あるいは生涯にわたって、大きな転機となる一瞬というものが存在しているようです。時には、その一瞬の判断の結果のため、大きなダメージを受けてしまうこともあるようなのです。
「よく考えて判断せよ」「誰々のアドバイスを聞きなさい」「慎重に慎重に」などと注意してくれる人がいるとしても、最後の決断は自分一人にしか下すことが出来ません。それも、一瞬のうちにです。幾ら熟慮したとしても、決断するのは一瞬です。
そう考えてみますと、私たちは、毎日毎日、様々なことを決断していることになります。重大なこともありますが、起き上がる瞬間、歩き出す瞬間、右に曲がる瞬間、ある返事をする瞬間、どれもこれも一瞬の判断に基づいているのです。そのほとんどは、無意識であったり、習慣として判断しているのでしょうが、その一瞬の判断によって大事が出現することがあります。
プラスに働く場合は問題ないのですが、マイナスに働いた場合、私たちは堪えられないほどのダメージを受けてしまうことがあります。
私たちの生涯は、極論すれば、一瞬を膨大な回数繰り返しているものかも知れません。その一瞬一瞬ごとに、私たちは決断しているのです。その殆どは無意識のうちにですが。
従って、どんなに辛いことや、絶対に取り返しのつかないようなミスだとしても、それがすべてというわけではないと思うのです。どうも、くどくなってしまいましたが、一瞬の行動や判断のミスで、人生そのものを投げ出さないで欲しいと願うのです。
( 2022.08.21 )
「手の平の しわとしわを合わせて 幸せ」
なぜかこんな言葉を覚えています。テレビコマーシャルに使われていたようにも思いますが、昔話のような物にも登場していたのかも知れません。
この「幸せ」という言葉ですが、私たちにはとても身近でよくお目にかかりますし、自分でも使う機会は多いように思います。
ところが、「幸せ」って、どんな状態を言うのだろうかとなりますと、これがなかなか一筋縄では行かないようです。もちろん、書物やネットなどでも、懇切丁寧に説明されていますが、幾つもの項目が挙げられていたり、個人差があり、タイミングの問題があったり、うまく説明するのは、なかなか難しそうです。
この「しあわせ」という言葉は、室町時代の頃に誕生したそうですから、比較的新しい言葉なのです。もともとは、「仕・合わせ」あるいは「為す・合わせ」という言葉だったそうで、「めぐりあわせ」といった意味だったようです。従って、「良い しあわせ」と「悪い しあわせ」とがありましたが、やがて、「良い しあわせ」だけが残り、「しあわせ」といえば「良い しあわせ」を意味するようになり、いつか「幸せ」という文字も当てられるようになりました。「幸せ」という文字が使われるのは江戸時代になってからのことだそうです。
ところで、この「幸」という文字は、象形文字で「手枷(テカセ・手錠のような物)」から生れた文字だそうで、それが「幸運」といった意味を持っているのは、「手枷から逃れられた幸運」といったものと、「残酷な刑罰が多い中で、手枷程度で済んだ幸運」といった説もあるというのですから、「幸せ」が現代に至るも難解な一面を持っているのは当然のことかも知れません。
当ブログで、『日々これ好日』という短いコラムを書かせていただいていますが、この題名を付けました理由は、一日一善、というほどではなくても、自分の身の回りやニュースなどを参考にすれば、「一日に一つぐらいは、ちょっと嬉しいことや幸せに感じることがあるはず」なので、それを書いていこうと思ったわけです。
ところが、書き始めてみますと、これがなかなか大変で、「嬉しいことや幸せなこと」は片隅に追いやられて、「悲しい事件や嫌な事件、時には悪口的なもの」が主流になっているような気がしています。かの清少納言が枕草子の中で、「人の悪口を噂するのを咎める人の気が知れない」といった意味のことを書き残していますが、まさに至言だと思います。
とはいえ、やはり、「幸せ」なものに接することは嬉しいことです。自分に直接関係ないことであったとしてもです。
ある、達観したかの人に言わせますと、「何が幸せかどうかなどと言っている間こそが『幸せ』なんだよ」らしいですが、私たちは、日々のちょっとした「幸せ」に接することによって、元気をもらっているように思うのです。人生を左右するような「幸・不幸」といったものもありますが、それほどでもない、「ちょっとした幸せ」を素直な幸せとして感じ取れる感性を大切にしたいと思うのです。
ただ、「ちょっとした幸せは」その気になって求めると、以外に身の回りにあるものですが、その賞味期限は極めて短いものが大半です。一つの幸せを大事に抱き続けることも大切でしょうが、私たちの生活には、極めて短い賞味期限しかない小さな幸せを、見過ごさないようにすることも大切だと思うのです。
( 2022.08.24 )
「幸福と幸せは、同じものなのか、根本的に違う意味を持っているのか」などと言いますと、少々理屈っぽく過ぎて、当ブログ程度では荷が重いような気もしています。
ただ、前回テーマで『幸せ』について書かせていただきましたが、その課程で『幸福』という言葉もチラホラ浮かんだのですが、この二つの関係は、単純に同一視することは出来ないような気がして、重複するような気もしながら、今回のテーマに取り上げました。
手元の辞書によりますと、「幸福」とは、「心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ。」とあります。一方の「幸せ」の項目には、「しあわせ(仕合せ)③」となっています。そして、「仕合せ」の項目には、「①めぐりあわせ。機会。天運。 ②なりゆき。始末。 ③(「幸せ」とも書く)幸福。好運。さいわい。また、運が向くこと。」となっています。
つまり、この二つの言葉が持つ意味は、ふだん私たちは殆ど同様に受け取ったり使っているような面がありますが、この辞書から読み取れば、「幸福」は、「幸せ」とは同一だが、「しあわせ(仕合せ)」と比べると、その一部分、といった関係になります。
「幸せ」の語源などについては、前回の内容と重複しますが、「仕+合わせ」あるいは「為す+合わせ」から室町時代の頃に生れた言葉で、この言葉に「幸せ」を当てるようになったのは江戸時代になってからのようです。
「幸福」という言葉は、幕末から明治初期にかけて、翻訳語として誕生してきたようです。従って、手元の辞書などでは短い言葉で説明されていますが、おそらく、この言葉が誕生するにあたっては、西洋的な考え方、哲学や宗教といった、わが国とは少々価値観が違う思想も含めて生み出された言葉と考えられ、「幸せ」と同一視させるのには無理があるように思うのです。
一般的に、「幸福」とは、その人自身が主観的に感じるものであって、他人が強請したり判定するのは難しいと考えられているように思われます。
「幸せ」という感覚にも、主観的な面は当然ありますが、一般的には、客観的な判断で、幸運であるとか、恵まれているといった場合には、他人の状態に対して使っても、それほど不自然さはないようです。
例えば、「お幸せに」といった言葉は、比較的に気楽につかえますが、これが「幸福にね」となると、少し重くなるのではないでしょうか。
この例が、二つの言葉の違いの説明になっているのかどうか自信がないのですが、要は、「幸福」というものは、非常に内面的なもので、自分自身が感じないことには「幸福」になることはあり得ないということだと思うのです。
「世界幸福度ランキング」というものがあります。国連の関連機関が10年ほど前から毎年行っている物だそうですから、ある程度の意味合いはあると思われます。
その、2022 年 3 月に発表されたものを見ますと、
① フィンランド ② デンマーク ③ アイスランド ④ スイス ⑤ オランダ
となっていて、上位20カ国のうちヨーロッパ以外の国は、⑨ イスラエル ⑩ ニュージーランド ⑫ オーストラリア ⑮ カナダ ⑯ アメリカ の5カ国だけです。
わが国はといえば、54位です。この時の調査対象は146カ国ですので、この順位をどう考えれば良いのでしょうねぇ。
ヨーロッパの国々が、本当にそれほど「幸福」なのかという気もしますが、「幸福は極めて主観的なもの」ということを考えますと、上位にある国々の人たちは、もちろん国家そのものの持つ物心両面の豊かさということも必要でしょうが、それと共に、「自分を幸福にする生き方や心の持ち方」が優れているようにも思うのです。
ランキングに拘るわけではありませんが、他の調査などからも、もしかすると、私たちは、幸福な生き方や感じる心がまだ未熟なのかも知れません。
「小さな幸せ」は、その気になって探しますと、以外に身近に存在しています。それらには賞味期限が短い物も多いのですが、それらをありがたく頂戴しながら、心豊かな生活の糧に結びつけることによって、「幸福」という物も重なり合ってくるのではないだろうか、などと考えています。
( 2022.08.27 )
「五歳児を餓死させた」という、何とも痛ましい事件の裁判が注目を浴びています。この裁判は、事件が報道されて以来、余り知りたくない事件なので出来るだけ報道を見ないようにしていたのですが、それでも、その痛ましさは伝わってきます。
三人の子どもを一人で育てる若いお母さんにとって、時には藁にでもすがりたくなるような不安に襲われることがあるのは、想像に難くありません。多くの場合は、藁ほどの力であっても、助力してくれる人が現れるのが、私たちの社会だと思いたいのですが、どうもそれは、むかし話の頃の事だったのかも知れません。
人口が増え、人の流動化が進み、大家族が減り、地域社会の交わりが薄れていく中で、損得を抜きにした人間関係の構築が難しくなっていることは確かでしょう。
そうした隙間を埋めるために、様々な社会制度が設けられ、それによって救済されている人も少なくないのでしょう。しかし、そうした制度も、自らの声が大きいか、たまたまそうしたことに明るい人と出会うことが出来た人に限られ、ただただ歯を食いしばって堪えている人は決して少ない数ではありません。
そして、そうした懸命に歯を食いしばっている人に、優しい声を掛けてくれる人も居るには居るのです。ただ、残念ながら、その中には、声は優しくとも、前記の事件で裁かれているような人であったり、あの手この手の詐欺犯であったり、これも今話題になっている霊感商法のような類いも混在しているわけです。
わが国の経済力が、国際的な順位において沈下を続けていると言うことはよく耳にします。「失われた30年」などといったドラマにしたいような言葉にもお目にかかります。
では、それほどひどい状態の中で、個々の問題はともかく、社会全体としては、何とか大きな騒動を起こすことなく過ごすことが出来たのはどうしてでしょうか。
これまでの蓄積であるとか、国民性であるとか、様々な意見があり、それらに一理があるのでしょうが、最大の要因は、この間、ほとんど「物価」が上がらなかったことではないでしょうか。
特に、私たちが日常必要とする、生きていくのに必要な物などは、その気になれば、むしろ支出を抑えることが出来るほどの低価の商品が誕生してきていました。懸命に生活を守ろうとしている私たちは、そうした商品などによって、数回の消費税増税に堪えてきたのだと思うのです。
しかし、今、日常生活用品の値上がりが顕著になってきています。それに対して、給与の増加は緩慢であり、人口のかなりの割合を占めている年金主体の生活者は、その影響をまるまる受けることになるでしょう。
かのチャップリンは、名作「ライムライト」の中で、こんな言葉を残しています。
「人生で必要なものは、勇気と、想像力と、そして、少しばかりのお金・・・」というものです。私の大好きな言葉ですが、私はこの上に、「めぐりあい」それも「良い めぐりあい」を加えたいと思うのです。
当コラムの前回、前々回と重複しますが、「幸せ」の語源は「仕合わせ」であって、そのうちの「良い 仕合わせ」から「幸せ」という言葉が生れたのです。「幸せ」のためには、「良い 仕合わせ」つまり、「良い めぐりあい」が必要なのです。
おそらく、今秋から来年にかけて、最低限の生活費の増加が、問題化するのではないでしょうか。そして、生活が苦しくなると、その弱みにつけ込む輩が増え、「悪い めぐりあい」が弱者をますます痛みつけることになります。
為政者や社会が、しっかりとしたガードを張り巡らせてくれることを期待しますが、まずは、一人一人が「美味しすぎる話しはマユツバ」と心に刻み、大切な大切な「めぐりあい」を優しく温かいものが増えるように、まず自らが発信者になる心がけを持ちたいと思ってはいます。さて・・・。
( 2022.08.30 )
いつの間にか、わが家の庭をホームベースにしてくれているクロネコ君がいます。本当は女の子なのですが、ボランティアの方たちがノラネコの世話をされているのですが、その関係もあって、一匹はわが家で飼わせていただいていますが、このクロネコ君は、一年あまり前から、朝夕、時には昼にも食事をするためにわが家の庭に現れます。寝るのは、庭の片隅やガレージにもそれらしい場所を作っているですが、日中の間には、ひなたぼっこや、日よけのために座っていますが、夜に寝ることはないようです。主に、ボランティアをされている方の屋根裏辺りが寝床のようです。
ところが先日、そのクロネコ君が二日ばかり行方不明になったのです。その前に、二日ばかり夜中に喧嘩をしていましたので、どうやら追い払われたようなのです。
前にも同じようなことがありましたが、いざ、いつも来ているはずのネコ君が姿を見せないとなると、心配なものです。家人や、ボランティアの方なども探してくれたのですが、見つけることが出来ませんでした。
前にもあったことだ、などと慰め合っていると、昨日の早朝、何食わぬ顔で、いつもの場所で食事をねだっていたのです。少し痩せたみたいなので、二日ばかりはほとんど食事をしていないのでしょうが、元気は元気で、まずは一安心というところです。
ノラネコ一匹で大騒ぎとは、と言われてしまいますと、まったくその通りです。
これは、聖書にある話ですが、『 百匹の羊を持っている人がいるとして、もし その一匹が迷い出てしまった場合、九十九匹を野原に遺しておいたまま、あちらこちらと迷える一匹を 探し回るだろう。もし その一匹を見つけ出すことが出来れば、迷わぬ九十九匹に勝りて この一匹を喜ぶでしょう 』という、イエスの言葉とされるものが、新約聖書マタイ伝18章にあります。(正しい訳文とは違いますので、ご了解下さい。)
よく知られた教えですが、イエス・キリストの言葉ということですから、安易な説明は避けたいと思いますが、私たちは、時には、九十九匹よりも一匹を愛おしく思い、あるいは価値ある物と感じ取ることがあるのが、良く分かる教えだと思います。
価値観が人によって、必ず同一ではないことはよく知られていることです。
個人間の差ばかりでなく、国家や民族により、時代により、環境により、様々な物や現象の価値観は変化します。
大げさに言えば、頻繁に発生し絶えることのない紛争も、価値観の差が大きな原因の一つと考えられます。
私たちには、誰でも大切な物を持っています。それは、物であったり、人であったり、関係であったり、時間であったり、様々なものが対象になりますが、そのいずれも、自分が大切だと思うものの順位と、他の人が考えることとは必ず一致するわけではなく、むしろ一致しない場合の方が多く、時には、自分の大切な物や現象が、ある人には憎しみの対象になることさえあります。
これだけは譲れないといった大切な物は、多くの人が持っているのでしょうが、その価値観は誰にとっても理解できるものではないということを承知しておくことは、必要なことだと思われます。
( 2022.09.02 )
「米海洋大気局などの国際チームが、8月31日、地球温暖化などに関する報告書を公表した」とのニュースがありました。
そのニュースから拾い読みさせていただきますと、
「地球温暖化を引き起こす二酸化炭素(CO2)の大気中の平均濃度が、2021年は近代観測が始まってから最高になった。強力な温室効果ガスであるメタンの濃度も過去最高となった。」
「海水面は、人工衛星による計測が始まった1993年に比べ9.7cm上昇した。」
「世界の平均気温は、2021年は観測史上5~6位の高さ。」
「気候変動に減速の兆候はない。」
などが気になりました。
地球温暖化ということが話題になり始めてから久しいですが、たとえ半歩でも改善に動いた年は無いように思います。
現在様々に検討されている計画も、いずれも、悪化のスピードを遅らせる物ばかりのように思われます。
地球温暖化の原因については、二酸化炭素やメタンガスなどによるものではないという意見もあるようですが、これらの排出がかなりの要因になっていることは確かだと思われます。ただ、この排出量削減については、なかなか各国の意見統一は難航していますが、その影響はすでに表面化してきています。
異常気象は、何もわが国特有の現象ではなく、多くの国から深刻な状況が伝えられています。また、海水面の上昇は、ツバルなど島嶼国では深刻な問題が浮上しています。そして、この問題は、さらに上昇が続けば、大きな影響を受ける国は、①中国 ②インド ③バングラデシュ ④ベトナム ⑤インドネシア とアジアの国々が挙げられていて、わが国も6位にランクされているのです。
二酸化炭素の排出量制限については、その実効性に疑問を持たれながらも、各国の協調が進みつつありました。
しかし、ロシアによるウクライナ侵攻により状況は一変してしまいました。二酸化炭素削減云々より、明日の原油や天然ガスの確保の方が重要課題だということが明らかになってしまった感があり、石炭の獲得競争さえ起き始めているようです。
伝えられるウクライナの悲惨な状況には胸が痛みますが、ロシア側の人的な被害も小さなものではないはずです。
そして、この紛争が、世界各国に与えつつある影響は甚大で、例えば金銭に換算すれば、どれほどになるのでしょうか。その10%でも世界中の貧しい人々に支援することが出来れば・・・、などと考えますと、どれほどの大義名分があったとしても、戦争というものは避けるべきだと痛感されます。
そのようなことは、わざわざ述べるほどのことでもなく、誰もが分かっていることなのでしょうが、私たちには、それを実践するだけの知恵を持つことが出来ていません。
いわんや、今のままでも三年や五年はどうというほどの心配が無いとすれば、地球温暖化の問題などは、一日延ばしにされるだろうと、悲観的に感じてしまうのです。
( 2022.09.05 )
「今、自分は、何合目あたりを歩いているのだろう」と思うことがあります。
まあ、それほど深刻な思いからではないのですが、何かの機会に、自分の生きてきた道を振り返ることがあります。多くの場合は、「あの時の判断は、どうだったのかなあ」とか、「よく無事でここまで来れたものだ」などと単発的な出来事に対して思い出すことはあっても、自分の生きてきた過去を思い返したり、反省したりということはあまりありませんでした。
「今、何合目あたりだろう」ということを考えることは、比較的よくありましたが、そのほとんどは、トレッキングといえば格好良すぎますが、登山にはほど遠い山歩きの時などに、目的地まであとどのくらいかと考える場合に、こうした考えをよくしました。あるいは、仕事や趣味などでも、一つの区切りに至までの量を測るのに、こうした考えもすることもよくあります。
ところが、残念ながら、齢を重ねてきた以外に理由が見当たらないのですが、「何合目あたりを歩いているのだろう」と考えることが、時々あるのです。
しかし、冷静に考えてみますと、そのようなことはいかにも無駄な思案のようにも思われます。
まだ三十代や四十代の人ならばともかく、ある程度十分に生きてきた人であれば、平均寿命や平均余命から残り時間はある程度推定できますし、人の寿命は分からないと言いますが、百二十歳くらいまで生きる人はいるとしても、百五十歳まで生きた人は、神代の昔はともかく、まずいないようです。
そういうことが分かっていながら、なせ、「今、自分は、何合目あたりを歩いているのだろう」などと考えるのかと言いますと、どうも、考える余地や価値があるような気がし始めているからなのです。
この「何合目」というのは、登山コースの距離を示すあたりから生れた言葉のようです。
何気なく使っていますが、少し変わった表現と思われます。
その語源には諸説あるようですが、「山の姿を米が盛られている姿に擬して、全体を1升とし、10等分して1合、2合と数えたもの。頂上の10合目は1升すなわち一生とする、奥深い説もあるようです」、「山を登る時に提灯を持っていったが、その油が1合消費した地点を1合目とした」。この二つは升で量る単位からきていますが、中には「劫(コウ・果てしなく長い時間。)から転じたというものも有ります。これなどは宗教的なものを感じさせます。
また、「何合目」という言葉は富士山で生れたとされています。富士山には、登山口が4つありますが、当然スタート口も4つあり、それぞれに1合目から10合目(頂上)までありますが、その距離も標高も様々です。また、富士山に限らず、1合目~10合目地点を決めるのは、距離でも標高でも所要時間でもないそうで、特別な標準はないそうです。さらに、スタート地点を0合目とする場合と1合目とする場合があり、中には、頂上を5合目とする山、20合目とする山もあるそうです。
私などは、「何合目」という標識のある山など、数えるほどしか登った経験がありません。
しかし、わが国だけでも「山」は数限りなくあります。2万5千分の1の地図に示されている山だけでも1万6千以上あるそうですから、それ以下の物も加えますと相当の数になります。
そして、富士山も山ですが、私の背丈を少し高くした程度の土塊でも山と言えば山です。それらの多くの山には「何合目」などの表示はありませんが、登るとすれば、スタート地点があり、頂上があるはずです。
そう考えますと、私たちが生きている時間を山にたとえるとしますと、今自分が立っている地点が何合目にあたるかなど、考え方次第でどう変化してもいいと思うのです。
「ああ、我が人生も8合目を過ぎたか」などと言うセリフも味があるものですが、「何合目」などと言うものは、考え方、捉え方しだいで、どうにでも設定できるように思うのです。
もっとも、六十歳を遙かに過ぎたお方が、「人生の3合目にさしかかった」などと言うセリフは、心の内だけにしておく方が無難のようですよ。
( 2022.09.08 )
昨夜は「中秋の名月」でした。旧暦の八月の十五日に当たるわけですが、旧暦では七、八、九月を秋としていますので、八月十五日は、まさに秋の真ん真ん中というわけです。
なお残暑は厳しく、熱中症に注意とか、台風の進路に一喜一憂、新型コロナもピークアウトは出来た感はありますが、まだまだ完全制圧にはほど遠い状態と、気の重い状況が多いですが、季節は揺るぐことなく前に進んでいます。
九月八日は二十四節気の「白露」で、秋も本格的になる頃とされています。次の二十四節気は「秋分」ですから、ここしばらくは秋そのものと言うべき季節なのです。
残念ながら当地は、中秋の名月を楽しむには適さないお天気でした。全国的にも、雲の多い天候の所が多かったようです。(今朝は、美しいお月様を拝ませていただきました。)
しかし、中秋のこの季節、お月様を存分に楽しむために、先人たちは、いろいろな名前を付けてお月見を楽しめるようにしてくれています。
列記してみますと、いずれも旧暦の八月ですが、「十四日は、小望月」「十五日は中秋の名月」「十六日は十六夜(イザヨイ)」「十七日は立待月」「十八日は居待月」「十九日は臥待月」「二十日は更待月」と続いています。
これだけ続いているのですから、お月様が最も美しいこの時期、どれか一つぐらいは、じっくりと月見とやらの風流を味わってみたいものです。
今、勉強しています「古今和歌集」は、幾つかに分類されて編集が行われています。
季節で言いますと、「春が 134首」「夏が 34首」「秋が 145首」「冬が 29首」となっていて、古の人も秋への想いは深かったようです。もっとも、「恋歌は 360首」ですから、季節全部でも及ばず、「愛」恐るべしと言うことでしょうか。
それはともかく、古今和歌集の中から、秋歌のうち「読み人しらず」とされている和歌五首を掲載させていただきます。
『 木の間より もりくる月の 影見れば 心づくしの 秋は来にけり 』
『 わがために くる秋にしも あらなくに 虫の音聞けば まづぞ悲しき 』
『 いつはとは 時はわかねど 秋の夜ぞ 物思ふことの 限りなりける 』
『 もみぢ葉の 散りてつもれる わがやどに たれをまつ虫 ここら鳴くらむ 』
『 緑なる ひとつ草とぞ 春は見し 秋は色々の 花にぞありける 』
異常気候だとか、人工的な冷暖房、あるいは、食べ物の季節感が薄れた、などとよく耳にします。しかし、春夏秋冬、季節はしっかりと廻っています。
特に、私たちの国は、若干の無理があるとしても、一年を四等分して四季を表す風習が根付いています。少々のずれなどは、「暦の上では秋ですが・・・」などといった名言で、むしろ楽しんでいる感があります。
日頃の慌ただしさに、あるいは、心に余裕がなくて、季節の変化に鈍くなっているように感じる時があります。しかし、ちょっとした草花や雑草にしても、その気にさえなれば、季節の変化を教えてくれます。
それを学んだからといって、何がどうなるわけでもありませんが、もしかすると、それを越える心の豊かさなど、そうそう無いのかもしれない。とも思うのです。
( 2022.09.11)
安倍元首相の国葬が何かと騒がしいことです。
わが国の首相として相当期間、それもかなり難しい時期を、わが国をリードして下さったことは、その成果はともかく、率直に感謝したいと思います。
同時に、岸田首相としては、おそらく、時の政権首班として決断できる事項だと判断したことだと思うのですが、その要因の中には、元首相の暗殺という大惨事に、やや浮き足立っていたのではないか、とも考えてしまいます。
すでに、参加を表明してくださっている海外の要人も少なくないようですから、今さら中止や変更というわけには行かないのではないでしょうか。
ただ、国葬に関して、国費がかかるから程度の意見も多いことを考えれば、わが国においては、一般国民の、特に政治家の国葬は、相当ハードルが高くなってしまったと思われます。
そうした中で、ある国会議員の方で、この国葬の案内状をもらったが「私は不参加です」と大見得を切っておられる姿が放映されていました。
あれは、どういう意図なのでしょうか。
国葬などもっての外だという義憤からなのでしょうか。私は案内状をもらったが参加しないのだと、自己PRの絶好のチャンスだと考えたのでしょうか。それとも、故人に対して強い憎しみを持っていたからなのでしょうか。それとも、多くの人に訴えたい何かがあったのでしょうか。
それはともかく、たとえ国葬という特殊な形式であっても、葬儀は葬儀ですから、何らかの都合で参加しないのであれば、黙って欠席すれば済むことであって、それを全国に広がるのを承知で発表するのは、あまりにも故人に対して失礼で、下品すぎる行為に見えてしまいました。
まあ、下品すぎる行為というのは言い過ぎかもしれませんが、その方にとっては、元首相の葬儀など、「どうでもいいこと」なのでしょうね。
少々、皮肉っぽい言葉になってしまいましたが、「どうでもいいこと」って、確かにありますよねえ。
毎日の生活の中で、私たちは、能動的に、あるいは受動的に、さらには偶然に、様々な事象に直面しています。その数は、意識として感じるものだけでも少なくありませんが、ほとんど何も感じることなく過ぎ去っていくものまで加えると、相当の数になるはずです。
ふつうは、それらの中で重大事というほどのことは、それほど頻繁に起ることはなく、まあまあ必要な事項だけが、私たちの行動や思考に影響を与えますが、それより遙かに多くのものは、一瞬気を取られるとしても、あるいはほとんど気にかけることもなく、「どうでもいいこと」として、流れ去っているのでしょう。
これが、出会う様々な事象のほとんどが、「どうでもいいこと」と流すことの出来ないものばかりだとすれば、私たちは息が詰まり、精神を壊してしまうのではないでしょうか。
しかし、もう少し考えてみますと、その事象が「どうでもいいこと」か否かは、ひとえに個人的な価値判断に起因しているように思われます。
確かに、万民すべてが大事と受け取るべき事象もあるのでしょうが、ある人々にとっては、それも「たてまえ」だけであって、本心では、「どうでもいいこと」のはずです。しかし、逆に考えてみますと、自分にとって「どうでもいいこと」であっても、ある人にとっては大事である場合も当然考えられますし、時には、深刻な大事である場合かも知れません。
もしかすると、世の中には、まったく必要のないものなど、ないのかもしれません。ただ、自分にとっては「どうでもいいこと」の方が遙かに多いのですが、少なくとも自分で気付く事象に対しては、相手の立場についても考えてみることが優しさであり、知恵ではないでしょうか。
( 2022.09.14 )
東京オリンピック・パラリンピックを巡る汚職事件は、次々と広がりを見せています。
伝えられている情報だけしか知ることが出来ませんが、何とも分かりやすい、むしろ古典的と言いたいような事件のような気がします。しかし、そうした事件は、組織の上層部が絡んでいる場合には、むしろ、白日の下にさらされないことがあるようです。
今回の事件のことを指しているわけではありませんが、事件の張本人や共同犯のような人々が、大手を振って堂々と歩いていたり、そしてそれが、演技なのではなく、罪の意識などほとんど感じていない人の行動は、名演技さえ遠く及ばないほど、悪事を隠蔽する力を持ってしまうようです。
名演技と言えば、歌舞伎などの口上には、『 東西、東西 』に始まり、締めは、『 隅から隅まで ずずずいっと 希(コイネガ)い上げ奉りますぅ 』と言うのがあります。
歌舞伎などの名口上と汚職事件を同列にするのも何ですが、今回の事件も、こうあってほしいものです。
この汚職事件はまだ進行中ですので、あまり勝手な想像は避けたいとは思いますが、これも一般論としてですが、こうした金銭の絡む汚職事件などは、ゲンナマをぶつけ合って、まるで主役の如く動き回る輩は捕まりやすいのですが、ゲンナマからは巧みに少し距離を取る実質的な主役やディレクター・シナリオライター役といった実力者は、なかなかお縄に出来ないようです。
今回の汚職事件も、一般的な結末が懸念されますが、スポーツ行事の頂点とも考えられる大会での事件ですから、ぜひとも特捜部は、『 隅から隅まで 大物も小物も ずずずいっと 逃さないでいただきたい 』と、希(コイネガ)うばかりです。
もちろん、オリンピック大会に限らず、大きなイベントや事業には、様々な事業者が関わりますから、激しい受注競争も起るでしょうし、フィクサーと呼ばれるような人物の暗躍も見られます。何もかもを公正に、適正利益の範囲内で事業が行われるなどとは、誰も思っていないのでしょうが、やはり、程度があるというものでしょう。
今回の東京オリンピックの場合は、誘致する段階から不愉快な資金の流れがあったと報じられていましたが、その白黒もよく分かっていません。その時の報道などを思い出しますと、オリンピックの誘致にはある程度のその種の資金は動くものだ、という声もありました。
このような状況を踏まえれば、ここしばらくは、少なくとも10年程度は、わが国はオリンピックの誘致は遠慮するのは当然だと思うのですが、すでに誘致を画策している人たちがいるとも聞きますので、よほど美味しい事業なのでしょうね。
今回の汚職事件を、個人的には特に不愉快に感じています。
その最大の理由は、平和の祭典だとか、友情の輪だといったように、スポーツを神聖化する傾向があるように思えてならないのです。
確かに、大谷選手の活躍に我がことのように喜んでいる事を考えますと、スポーツのすばらしさ、その持っている力を否定するつもりなどまったくありません。
同時に、それだからこそ、その運営における不愉快な事件を、格別憎らしく感じるのかも知れません。
しかし、スポーツは、何も特別な人のものではなく、そのレベルにかかわらず、広い層の多くの人々が楽しむことこそがベースになるべきだと思うのです。
幸いわが国には、スポーツ庁が設けられています。オリンピックで金メダルを獲得するのもすばらしい事ですが、国民全体が広く、スポーツに親しめる環境をさらに進めて欲しいと願っています。その為にも、スポーツ行事に関わる汚職、学校での課外活動のあり方、青少年スポーツの指導者育成等々、課題はたくさんありますが、『 隅から隅まで ずずずいっと 』ご配慮をお願い致します。
( 2022.09.17 )