雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

遠交近攻 ・ 小さな小さな物語 ( 559 )

2014-02-24 19:57:40 | 小さな小さな物語 第十部

昨年末に就任して以来、首相の積極的な外交が際立っています。
久しく、わが国外交は停滞気味の感がありましたから、その成果に大いに期待しています。
しかし、その一方で、隣国である中国・韓国とは、未だに首脳会談が行われないという状態が続いています。まあ、首脳会談といっても、その多くは建前的な部分も多いのでしょうが、その建前的なものさえ行われないというのは、やはり問題ではあると思われます。
ただ、テレビのコメンテーターなどの意見を聞いていますと、先方の国内事情もあり、わが国が手をすりながら寄って行く必要はないという意見が多いように思われます。

古来、世界中の多くの国は、隣国とは何かと衝突しあうことが多いようです。利害が直接ぶつかり合うことが多いからでしょうが、ヨーロッパなど大陸の国の多くは、あまり仲が良くなかったがゆえに別の国家になっているわけですから、隣国と摩擦が発生しやすいのは当然ともいえます。
「遠交近攻」という策は、中国の戦国時代に、秦に仕えた政治家・范雎(ハンショ)が唱えた戦略だそうです。遠くの国と同盟を結び、近くの国を攻める、という戦法です。秦はこれにより領土を広げて行ったのです。この言葉が現在のわが国にそのまま通用するわけではありませんが、外交上の一つの戦略であることは確かなことでしょう。

「遠交近攻」という言葉は、「兵法三十六計」の中にも採られています。「兵法三十六計」は、五世紀頃までの故事などを十七世紀頃にまとめられた中国の兵法書です。
「孫子の兵法書」と混同しがちですが、民間においては日常生活の参考として孫子よりも親しまれているそうです。
因みに、わが国では、「三十六計、逃げるに如かず」などという言葉を、ことわざに使うことがありますが、これは「兵法三十六計」から生まれた言葉ではないようです。

ただ、「兵法三十六計」の最後の項目は、「走為上」となっていて、その意味は「勝ち目がないならば、戦わずに全力で逃走して、損害を避ける」という意味だそうです。
つまり、「戦ってみたが勝てそうもないから退却しよう」ということではないのです。
外交を、イコール戦いとする考え方には反対ですが、膠着状態の外交関係を少なくとも大きなダメージを受けることなく解決に向かわせる方法は簡単ではないようです。
その中で、間違いなく有効であると思われる施策は、国力の向上です。現在の私たちには、それを軍事力に頼ることなど出来ないわけですから、経済力の向上、文化の向上、そして、オリンピックの招致委員会の人が示してくれた「お・も・て・な・し」の心を磨くことではないでしょうか。

( 2013.10.13 )

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福島原発を研究センターに ・ 小さな小さな物語 ( 560 )

2014-02-24 19:56:34 | 小さな小さな物語 第十部
福島原発の終息への道筋が、なかなか描けないようです。
汚染水問題が最大の焦点のように言われているようですが、それは、たまたま目に見える問題が起こっているからであって、例えば、この前に近いような津波に襲われた場合、堤防の対策はなされているのでしょうか。
さらに、最近ちらちら聞かれるようになってきているのは、人材不足が現実のものとなる可能性が出てきつつあることです。一般の労働力も不足気味なのだそうですが、被爆の恐れのある現場で働くベテランの方々が、容認されている被爆限度額をオーバーする人が続出してくる可能性があるのです。

地下水の流入を防ぐ工事についても、その計画は事故後間もない頃から提案されていたのが、どういう理由からか実現しないまま今日至っているそうです。その理由の一つが、コスト面だったということを聞きましたが、もし本当なら、馬鹿らしくなってしまいます。
たまたま、今、IAEAの調査団の方々が来日されていて、現地の様子を視察してくれるそうですが、国内に限らず、世界の英知を借りて一日も早く安定化することは私たちの責務のはずです。
それを、もし具体的な対策をとるのにコスト面で制約があるから躊躇するなどはもってのほかです。もっとも、わが国に無限の資金があるわけではありませんから、五十兆円も百兆円もかかるという工事なら別ですが。
ところで、復興特別税のうちの法人税の部分を打ち切るという話がちらほら聞こえてきます。多分冗談だと思うのですが、もってのほかのことです。経団連などもこの話が提案されても、まさか受け入れることなどないと思うのですが、法人税を下げるべきだということと、復興特別税を打ち切ることとは全く別次元の話なのです。

また、人気の高い元総理が原発廃止を唱えられているようで、原発政策が政治の重要課題になる可能性があります。
最終処理の方法を持っていない原子力は、絶対に取り扱ってはいけないエネルギー源であることは、正論だと思います。しかし、すでにわが国には多くの原発があり、世界中にも散在しています。
原発は、停止していれば絶対安全というものではありません。未使用・使用済み両方の燃料が置かれているわけですから、東北のような地震や津波に直撃されると、その危険性は小さくありません。
つまり、廃炉にしていくためには、高度な技術と資金が必要なのです。それも、現在の知識や技術では不足で、さらに研究や実験を重ねなければならないようなのです。
さて、どうすればよいのでしょうか。

福島の第一原発とさらに第二原発を加え、現在帰宅困難とされている地域なども加えた広大な範囲を、原子力に関する大研究所にするのです。
何もかもに国が口出しすることには反対ですが、こと原発に関しては、事故が発生すれば東京電力クラスの会社でさえ吹っ飛んでしまうとすれば、一民間企業では責任など担えないことになります。つまり、一企業が原子力で儲けようなどということはまだ百年早いのかもしれません。数多くの原発を持ってしまった今は、国家なり、相当規模の企業連合による運営に移すしかないように思うのです。
そのためにも、とりあえずは、国家主導で福島県に原子力に関する最先端の研究センターを作り、運営・管理・保全・廃炉・最終処分などに関する世界最高水準の技術を蓄積し発信していくのです。
そう遠くない時期に、世界中から廃炉技術の指導要請が相次ぎ、意外に採算の合う事業になるかもしれませんよ。

( 2013.10.16 )
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小さな小さな物語  目次

2014-02-24 19:29:24 | 小さな小さな物語 第十部
          小さな小さな物語  目次

     No.561  無限に近い有限
        562  足して二で割る
        563  偽装食材
        564  偽装食材? 食材偽装?
        565  秘伝の出汁


         566  原発のない日本
        567  和食文化
        568  偽装と模倣
        569  ドードーを想う
        570  人口構成


         571  朝練習の是非
        572  スポーツは誰のものか
        573  健康生活
        574  セピア色の写真
        575  アイソン彗星


         576  自分の姿
        577  議会政治とは?
        578  くらげは気楽?
        579  喜怒哀楽
        580  分かり合う
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無限に近い有限 ・ 小さな小さな物語 ( 561 )

2014-02-24 19:27:26 | 小さな小さな物語 第十部
宇宙観測などでよく耳にするハップル宇宙望遠鏡は、地上約600km上空の衛星軌道上で観測を続けており、現在の人類が所有している望遠鏡の中では最高水準にあるものといえましょう。
このハップルという名前は、アメリカの天文学者であるエドウイン・ハッブル博士に因んでつけられたものですが、博士の功績の中で私などにも理解しやすいものとしては、私たちが属している銀河(銀河系銀河・天の川銀河)以外にも銀河が存在することを発見していることがあります。
その後の研究で、宇宙に存在する銀河の数は1000億個を遥かに超えるともいわれてきましたが、昨年、フランスに本部のある欧州宇宙機関が発表した数字は、観測可能な銀河の数は7兆3750億個という、まさに天文台的な数字でした。

ハップル博士は、現代の宇宙論の基礎を築いた人物とも言われているそうで、その理論は残念ながらその欠片さえ理解することが出来ませんので割愛させていただくこととして、私などでも興味深いもう一つの功績は、1929年に、宇宙が膨張していることを発見していることです。
現在、人類が分かっている理論上の宇宙の大きさは、半径約450億光年だそうです。
宇宙が誕生して138億光年が経っているそうですが、誕生直後に一番遠くから発せられた光(の様なもの)が今地球に届いているものは、138億光年離れた所から発せられたものですが、その地点は、今では宇宙の膨張により450憶光年ほども先に行ってしまっていることになるわけです。
何とも壮大な話で、説明しているつもりの私が、何が何だかよく分からなくなっています。

宇宙旅行とか、月への旅行などということも耳にすることがあります。
常々この種の話が私は気に入らないのです。月への旅行というのは結構ですが、たかだか、衛星軌道や月や火星程度へ行くのを宇宙旅行などというのは、ちょっと次元が違うのではないですか、と言いたいわけです。
観測可能とされるだけでも、宇宙の果ては138億光年先なんですよ。月までの距離は、せいぜい40万kmなので、光だと1秒か2秒で到着する距離です。138億光年が何秒になるのか知りませんが、1秒や2秒などというのは誤差の範囲にも入らない差なのです。つまり、宇宙規模で考えれば、地球から月へ行くのも、地上でジャンプするのも大差ないということになります。

私のような素人は、天文や宇宙に関する記事などを見ていますと、少し感覚がおかしくなってきます。
例えば、日常生活において、私たちが無限だと考えていたものなどは、全て有限なのではないかと感じるようになることです。前段の例でいいますと、人類が月に到着したということは凄いことだと思う反面、宇宙の果てと思われるあたりまで観測されていることを考えれば、天文単位(1天文単位は、太陽と地球との平均距離)などは、宇宙を計る場合の最低単位の様な気がして、月へ行くのも地上でジャンプするのも大差ないように思ってしまうのです。まぁ、私だけかもしれませんが。
同時に、私たちが生きて行く過程では、有限のはずのものが無限のように感じることも多々あるものです。悲しみや、苦しみや、憎しみなどという感情は、永遠に消えることなく続くものだと考えてしまいます。これらも、おそらくは有限のはずなのですが、いくらそう言われても、また有限であることを承知していたとしても、当事者には限りなく『無限に近い有限』と感じるもののようです。
それだからこそ、悲しみや苦しみや憎しみに押しつぶされそうになった時には、その『限界の少し手前』で声を挙げるべきなのです。恥ずかしがらないで、躊躇しないで、助けを求めるべきなのです。
この世にあるものは、どんな辛いことでも有限です。しかし、その有限は、『無限に近い有限』であることも少なくないのです。
辛いことに堪えることも必要ですが、『限界の少し手前』で助けを求めることを私たち自身も心掛け、また、周囲の人の声にも耳を傾けたいと思うのです。

( 2013.10..22 )
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足して二で割る ・ 小さな小さな物語 ( 562 )

2014-02-24 19:26:07 | 小さな小さな物語 第十部
今年もノーベル賞の受賞が発表され、残念ながらわが国からの選出はなかったようですが、受賞となった研究に日本の研究者たちが参加貢献していたという話も伝えられていました。
文学賞などはそうでもないのでしょうが、物理や化学部門などについては、世界的な成果を構築するためには膨大な研究の積み重ねが必要になってきている現在、一人の受賞者の後ろには、大勢の人々の貢献があってのことなのでしょう。

ノーベル賞の受賞者は、2012年度までに863人(団体も含む)いるそうですが、まだまだ男社会のようで、このうち女性の受賞者は44人(延べ人数)に過ぎません。
女性のノーベル賞受賞者といえば、私などはキュリー夫人を連想するのですが、、彼女は1901年に物理学賞、1911年に化学賞を受賞しています。
女性の物理学賞受賞者は、彼女を含めて二人しかいません。その、もう一人というのは、マリア・ゲッバート・メイヤーという人です。
マリアさんは、1906年にドイツに生まれ、1924年に名門であるゲッティンゲン大学に入学し、物理学を専攻します。おそらく当時としては、女性で物理学を専攻する人は少なかったでしょうが、それにも増して、マリアさんは大変な美人だったそうです。
美人コンテストが行われたわけではないのでしょうが、文句なしのミス・ゲッティンゲンといった存在で、後に名だたる学者となる人たちの熱い視線を集めたそうです。
その激しい競争の中でマリアさんを射止めたのは、アメリカから留学していた化学者で、マリアさんの家に下宿していたメイヤー君で、二人は1930年に結婚し、それを機会にアメリカに移住しています。
メイヤー君は、ドイツで学び、とびきりの美人を妻とし、しかも最高の物理学者をアメリカに持ち帰ってしまったのですから、ドイツもたまったものではなかったでしょうねぇ。

マリアさんはその後も研究を続け、1963年に女性で二人目のノーベル物理学賞を受賞しました。その受賞となった研究テーマは、「原子核の殻構造に関する研究」だそうですから、この研究テーマを見ただけでも、とんでもない才能の持ち主だと思ってしまいます。しかも、たいへんな美人だということですが、こちらの方はノーベル賞の受賞式のスナップ写真を見る限り、どの程度美人だったのかをうまく説明することは出来ませんが、多くの厳しい観察眼を持った科学者たちを惑わせたのですから、相当の美人だったのでしょう。
つまり、「天」はそれほど公平な存在ではないらしく、マリアさんには美貌と才能という二物を与えているのです。

宇宙は、ビックバンにより誕生したというのがほぼ定説になっています。
乱暴な考え方になってしまいますが、何もない状態が、大爆発により宇宙のあらゆるものが生み出されたのだとすれば、逆に宇宙を一点にまで圧縮すれば、何もなくなってしまうはずです。
つまり、この宇宙にあるものは、陰と陽、プラスとマイナスから成り立っているはずで、マリアさんのように二物を得てしまう人がいれば、一物さえ与えられない者が出来てしまうわけです。
じゃあ、マリアさんのような人に二物とも取られてしまったような私などはどうすればよいのでしょうか。
マリアさんのように二物を得ている人を見つけて、『足して二で割る』ことも、可能ならば一つの方法だと思うのですが、政治の世界であれ、町内会のもめごとであれ、違うものを二つ足して二で割ったものほどつまらない答えはないことを、私たちは経験しているはずです。
公平さに欠ける「天」ですが、少なくとも私たち人間に対しては、存在している限り「無」ということはないようです。二物を得た人にいくら奪い取られていても、いくばくかの何かは「有」ようです。
細々と磨いていくことにしますか。

( 2013.10.25 )
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偽装食材 ・ 小さな小さな物語 ( 563 )

2014-02-24 19:24:40 | 小さな小さな物語 第十部
偽装食材が問題になっています。
特に今回大きな事件に発展しているのは、関西ではトップクラスのブランドを有する会社だけにまことに残念であり、いろいろ考えさせられてしまいます。
新聞報道などで見る限り、相当大胆で、悪質な感じを受ける内容ですが、それにも増して、経営陣の謝罪会見での説明のお粗末さに呆れるというか、驚いてしまいました。あの内容で、一般社会や消費者の非難をかわせるとでも思ったのでしょうか。
「すみません。嘘の食材を使っていました」とだけ言って、頭を下げている方が、よほど社会から容認されたのではないでしょうか。

これまでも偽装食材に関する事件は、表面化したものだけでも数多くあります。
よく知られた四文字熟語に『羊頭狗肉』という言葉があります。「羊の頭を看板に掲げて、実際は狗肉(犬の肉)を売っている」ことを指します。中国などには犬の肉を食べる食文化があって、とんでもない肉を売っていたわけではないのですが、顧客をだまして利幅を大きくしていたわけです。
ところで、この『羊頭狗肉』という言葉の初見は、中国の宋の時代の禅僧・無門彗開(1183-1260)によって編集された公案集「無門関」だそうです。
「無門関」は、室町時代にはわが国にも伝えられ、江戸時代には注目されるようになった、有名な公案集だそうです。四十八則から成っていて、その第六則「世尊拈花」に対して無門彗開がいちゃもんをつけている(私にはそう思える)部分に登場しています。
この「世尊拈花」は、大変有名な仏教説話なので、少し長くなりますが紹介させていただきます。
「その昔、お釈迦さんが霊鷲山(リョウジュセン)で大勢の弟子たちを集めて説教をなされた時、一本の花を手に持って弟子たちに示されました。集まった弟子たちはその意味が分からず皆黙っていましたが、高弟の一人である迦葉尊者だけが、にっこりと微笑みました。これによって、文字でも言葉でも伝えることの出来ない仏教の奥義は迦葉尊者に伝えられたそうです」
この説話は、「拈華微笑(ネンゲミショウ)」としても知られていて、当ブログの『言葉のティールーム・第十二話』でも紹介させていただいています。

話を『羊頭狗肉』に戻しますが、食材の偽装というのは、洋の東西を問わず実に長い歴史を持っているようです。
例えば、「ワインだと言って、酢を売る」「看板に偽りあり」などという言葉もありますし、「牛頭馬肉」などは、『羊頭狗肉』からの連想かと思いますと、実はこちらの方が本家なのです。
「牛頭馬肉」という言葉は、中国春秋時代の斉の政治家・晏嬰(アンエイ)が、主君をいさめる時に使ったとされる言葉で、今から二千五百年程も前のことなのです。
「二度と起こらないように、再発防止に務めます」などという言葉は、『羊頭狗肉』が登場した時代からだけでも、世界中で何回言われてきたのでしょうね。

それにしても、営々と積み上げられてきたブランドや信用といったものを、どのように考えているのでしょうか。
「そんなものでは食ってはいけない」という時代になってしまったのでしょうか。
同時に、「騙された」と怒る人の気持ちも分からないでもないのですが、「さすが、ここの料理はすばらしい。何せ、素材が違うからな」などと蘊蓄を述べていたような人なども、やっぱり騙されたと言って怒るのでしょうかねぇ。それともう一つ、食材偽装に限らず、企業の不祥事などが表面化した場合、社長や取締役などが謝罪の形として給与や報酬の減額を行うことがよく見られます。あれ、少し変ではありませんか。
給与や報酬などの減額は、所属している企業に対しての謝罪にはなるでしょうが、社会や消費者にとっては何の意味もないのですよ。公共の報道機関を通じて謝罪する上は、社会に対しての謝罪も形に表すべきではないでしょうか。
社長が報酬を減額すれば、その企業の利益は増えることになります。不祥事が発生すれば当該企業の収益が増えるなんて、変ですよ。そんなことは、嬉しそうに報道機関に向かって叫ぶのではなく、社内でこっそり決めればよいのです。
そうではなくて、社会に対して謝罪しているのだというのであれば、減額する給与や報酬は、当該企業に返納するのではなく、社会活動などを行っている然るべき機関に受け取ってもらうべきなのではないでしょうか。
今回に限らず、この種の謝罪会見自体が『羊頭狗肉』のように思えてならないのです。

( 2013.10.28 )
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偽装食材? 食材偽装? ・ 小さな小さな物語 ( 564 )

2014-02-24 19:23:22 | 小さな小さな物語 第十部
大手企業の食材を偽っていた問題は、さすがに苦し過ぎる弁明は修正したようですが、まだまだ問題は終息しそうもありません。
問題となっている企業は、少々やり過ぎたのかもしれませんが、発端となったのは他の企業ですし、さて、このような偽装はごく限られた企業だけの問題なのでしょうか。
噂では、幾つかの大手のレストランでメニューが変わったとか、消えてしまったメニューがあるとか聞こえてきます。これは、単なる悪質な噂なのでしょうか。
もし、そうではないのであれば、問題が発覚してしまった企業だけを吊るし上げるのは、少々不公平ではないのでしょうか。

ところで、「偽装食材」と「食材偽装」は違うのでしょうか?
「メニューの誤表示」というのは、実にすばらしい言葉を考え出したものだと少々感心していたのですが、残念ながら消費者たちを丸めこんでしまうほどの神通力はなかったようです。
それでは、今回のことは、「偽装食材」を用いたものなのか、「食材偽装」したものなのか、どちらなのでしょうか。
大変苦しい状態にある企業の問題を、言葉遊びの材料にするつもりなど全くありませんが、「メニューの誤表示」などという言葉を考え出す人がいるとすれば、「偽装食材」と「食材偽装」も同じではないかというわけにはいかないような気がしたのです。

前回の当コラムの表題では、「偽装食材」という言葉を使いました。
実は、「偽装食材」と「食材偽装」とを、何度も書き変えて、かなり悩んだ上で決めたのです。
確かにどちらを使っても意味に大差はないのでしょうが、今回の事件は、一般消費者ならほとんどの人が信用してしまうような業者の犯行であり、しかも一点や二点ではなく、相当の食材が偽物であり、おそらくそのほとんどが低価格の物に置きかえられているのです。
そのことを表現するためには、「食材をそれらしく偽装した」というより、「偽装の食材を堂々と提供した」という方が事実に近いと思ったのです。
少々偏執過ぎますかねぇ。

まあ、いずれにしても、食べられない物や、有害な物を提供をしたわけではありませんから、そこそこのところで収束する方が平和的な気もします。
ただ、ある人いわく、「エビなんてものはね、大きな物はクルマエビ、小さな物はシバエビと言っておけば、食べる方も気分が良いんだよ」だそうです。
つまり、消費者の方も、本当に食材にこだわって利用するのか、味にこだわって利用するのか、値段をもとに利用するのか、食べたことを自慢するために利用するのか、などをしっかりと意識する必要があるようです。

( 2013.10.31 )
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秘伝の出汁 ・ 小さな小さな物語 ( 565 )

2014-02-24 19:22:02 | 小さな小さな物語 第十部
ずいぶん前のことになりますが、おでん屋によく通ったことがありました。
小さな商店街の路地の奥にある小さな店で、お世辞にも清潔などとは縁のない雰囲気の店でした。十人も入ればいっぱいになる広さで、中年というより高年に近いご夫婦が経営されていて、おでんの鍋というのでしょうか、四角で幾つかに仕切られている鍋の三方を囲むように客たちは座るのですが、その椅子は背当ても何もない丸い木の椅子で、客が来さえすれば二十人でも二十五人でも詰め込むといった店でした。
客はほとんどがサラリーマンですが、男性に誘われて女性も結構来ていて、すごく繁昌していました。
その秘訣は、何といっても評判の味で、知る人ぞ知るといわれるほど有名だったようです。それに値段も安いのです。

私はある時期、三日に一度程度の割で通っていたこともあって、その親父さんとはずいぶん親しくさせてもらいました。
正直なところを言いますと、私は特別味音痴というわけではないと思うのですが、それほど大勢の人が詰めかけるほどの味だったのかどうかは今もよく分からないのですが、ほとんど毎日のように、夜の六時頃から十時過ぎ頃までは満席でした。
私はその秘訣はどこにあるのかきいたことがあります。
親父さんは即座に「出汁(ダシ)だな」と答えました。材料の吟味も大事だし、火加減一つとってもそうそう簡単ではないが、何十年かけて作り上げた「出汁」こそが、この店の生命線だと断言したのです。
それともう一つ、「ワシは、別に日本中の人に美味いと思ってもらう必要などないんだ。百人か二百人の人がどこのおでんより此処の物がうまいと感じてくれさえすれば、十分ワシらは食っていけるんだ。あとは、その味を絶対に落とさないことなんだ」と話してくれたのです。

「秘伝の出汁」とか「秘伝のタレ」などということを時々耳にします。
テレビなどには、この手のお店が紹介されたり、「それは企業秘密なのです」などということも聞くことがあります。開業三年や五年の店から「秘伝のタレ」と言われると少々白けてしまいますが、食べ物商売にとっては、「味」こそが勝敗を分ける分岐点であるのは確かだと思うのです。
ただ最近は、提供する方もされる方も、味の良し悪しを見分ける能力が落ちているのかも知れないと思うことがあります。このところ問題になっている、食材を偽装したとか、表示を間違えたとかいうトラブルは、その証左ではないでしょうか。
舌に自信がないから、メニューというおまじないに騙されたり、作る方も自信がないから素材の力を過大宣伝したり、しているような気がするのです。

腕に自信がある料理人は、材料は「企業秘密」だということにし、その味付けは「秘伝の出汁」を使っていることにすれば、偽装も誤解も起こり得ないわけです。
但し、健康や宗教的な理由などから食べられない食材がある人たちからはそっぽを向かれるでしょうが、なあに、百人か二百人の支持で十分という商売をすれば、名料理人になれると思うのですが。
ただ、これだけ流通が盛んになり、外食が日常的になったわが国では、なかなかそうもいかないでしょうから、材料などの表示については、抜け道が作られないようなルールを構築する必要があるような気がします。

(2013.11.03 )
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原発のない日本 ・ 小さな小さな物語 ( 566 )

2014-02-24 19:20:52 | 小さな小さな物語 第十部
原発の是非について、幾つかの意見がかみ合わないままにさまよっています。
このところ、いまだに国民に人気が高い元首相が、原発反対を唱え始めたものですから、マスコミでも取り上げられるようになり、一部の忘れられていたような人たちがこれに便乗しようとする動きもあって、政治的な課題になりそうな気配があります。
ただ、政権を担っている人たちが正面から向き合うつもりがないようなので、それぞれがそれぞれの意見を展開させるだけで、白熱した、あるいは実のある議論が展開されそうもありません。
まさに、それぞれの主張が世論の支持を求めてさまよっている感じです。

それでは、「原発のない日本」を実現させるには、どうすればよいのでしょうか。
その前に、「原発のない日本」というのは、どのような状態を持って実現とするのでしょうか。
世界的なエネルギー問題ということは考えないことにして、わが国だけのことで考えた場合、原発による電力の供給がなくても大丈夫なのかということを考えた場合、それは可能な気がするのです。
太陽エネルギーや水力・地熱・風力などからの発電はまだまだ開発で増大させることは可能でしょうし、短期的(10~20年程度)にはシェールガスの輸入はプラス材料になるでしょうし。また、そう遠くないうちにメタンハイドレートという夢の燃料が大量採掘される可能性も期待できます。
私たちの生活水準を少し落とすだけで、原発に頼らないエネルギー供給は可能な気がします。

但し、私たちが目をつぶってはならないことは、現実としてわが国には54基の原発が存在しているということです。「原発は危険だから再稼働させてはならない」というのは一つの意見ですが、それを以って原発がない状態とはいえないことを私たちは銘記しておく必要があるのです。現時点のわが国はそのような状態ですが、「わが国には原発がない」とは言えないはずです。
「原発のない日本」とは、わが国内に原発がない状態を指すべきだと思うのです。停止していても、廃炉処理が完了していない物や使用済み核燃料を保管している原発は、福島第一原発を越えるような災害に襲われた場合、決して安全などとはいえないからです。
現在の状態から、「わが国には原発がない」という状態に至るためには、30年を超える年月と、おそらく20兆円を相当越える資金が必要であり、何よりも、優秀な技術者やベテランの現業者を多数必要とするはずだと思うのです。

原発を「トイレのないマンションのようなものだ」と説明する人を何度か見ました。何とも品のないたとえだと思うのですが、トイレのないマンションに人を住まわせるのはもってのほかですが、かと言って、「廃墟になるまで何十年でも放っておこう」というのもどうかと思います。
そのような欠陥マンションを建築した責任者を責めるのも結構ですが、現に存在している以上は、改良して住むか、取り壊す算段をしないことには解決しないわけです。
原発稼働について賛成・反対するのはそれぞれの考えあってのことなのでしょうが、廃炉、あるいは使用済み燃料の処理についての提案なくして、安易な提言など慎んでほしいと思うのです。
私のような素人がぐずぐず言うのは勝手ですが、少なくとも、国政や地域政治に関わる人や、社会に相応の影響を与える可能性のある人は、そうだと思うのです。
まあ、そんなことは承知の上で、波風を立てることが目的の発言なのでしょうが。

( 2013.11.06 )
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和食文化 ・ 小さな小さな物語 ( 567 )

2014-02-24 19:19:47 | 小さな小さな物語 第十部
少し前になりますが、わが国の「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録するための事前審査に通り、十二月には正式決定するというニュースが報じられました。
登録申請にあたっては、「自然の尊重という精神を表現している社会的習慣」として和食を推薦したそうです。
食文化というのは、それぞれの国や地域の根源的な文化が生み出したものでしょうから、わが国の食文化を評価てもらえることは誇らしいことではありますが、さて、本当に素直に喜んでいていいのでしょうか。

まず、事前審査されるにあたって、素朴な疑問があります。
登録申請したわが国の担当された方々の思いはともかく、事前審査にあたった方々は、何を対象に審査されたのか大いに疑問があるのです。
「和食」は世界的なブームだそうで、欧米やアジアをはじめ世界各国に専門店が営業しているそうです。
審査にあたった人々は、それらの店舗で提供されている「和食」に影響されているのではないでしょうか。実際にわが国にも足を運ばれたことでしょうが、その場合でも、一流料亭や割烹店のような所で提供される料理をもって「和食」と受け取っているのではないのでしょうか。
あるいは、一般家庭の日々の食事にも審査の目を向けたとした場合、現代の物なのか、いつの時代の物なのか、あるいはどの程度の水準の家庭の物なのか、どの地域の物なのか、そのいずれをも加味したのか、あるいはどの程度考慮して「和食」としたのか、知りたいものです。

普通の家庭で生活している人なら、一生のうちに数えるほどの回数しか食べることのできないような料理をもって、「わが国の和食文化」というのには、いささかというより、大いに抵抗を感じるのです。
一流料亭などの、ため息の出るような豪華な料理は、食材や料理人の腕ばかりでなく、食器や、部屋の造り、あるいは借景までも含めて、世界中に紹介し、わが国の誇りにしたい文化であることは間違いないと思います。
しかし、それをもって、「わが国の和食文化」といわれると、抵抗感があるのです。

現在、食関係でユネスコの無形文化遺産に登録されているものは、「フランスの料理や食文化」「地中海周辺の料理」「メキシコの伝統料理」「トルコの麦かけ食」の四つだそうで、間もなくわが国の「和食」と韓国の「キムチとキムジャン文化」が登録される予定のようです。
これらのいずれをとっても、高い文化性が感じられるので登録となるのでしょうが、この種の文化は、ごく限定的なものとする必要があるように思えてならないのです。
「食文化」という言葉をよく聞きますが、実に幅広い意味があると思いますし、現在の世界中には、食べることは「文化」ではなく、「命」をつなぐ細い細い糸だと感じている人々が決して少なくないことを忘れてはならないような気がするのです。
そして、もう一つ、わが国の「和食」といわれるものが、それも一流だと思い込まされていた店舗の多くで、食材さえも正しく示されていなかったという「現実」をもっと真剣に考えることの方が、ユネスコの無形文化遺産に登録されるとはしゃぐより、遥かに重要なのではないでしょうか。

( 2013.11.09 )
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