雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

隠し味 ・ 小さな小さな物語 ( 729 )

2015-09-24 14:44:50 | 小さな小さな物語 第十三部
「隠し味」と言えば、料理から生まれた言葉だと思うのですが、味を大きく変えるほどではなく、ほんの少しばかり加えることによって、全体の味が引き立ってくるという秘伝のようなものを指すのでしょうか。そのような技や、あるいはその加える調味料そのものを指すこともあるようです。
テレビの料理番組などでは、「そして一番最後は、『愛情』という隠し味を忘れないように」などという何とも微笑ましいシーンを何度か見た記憶があります。

私は料理のことは全く分からないので、想像だけで勝手なことを書いて申し訳ないのですが、料理番組などでよく使われる言葉に、「素材を生かす」というのがあります。
素材が持つ特長をそのまま生かすことが、美味しい料理を作る重要な要素の一つのようですが、まあ、料理というくらいですから、素材そのままというわけではなく、長年の伝承や経験などから、様々な素材が組み合わされたり、さらに幾種類もの調味料が加えられたりして、絶妙の配合の結果として料理が生まれてきているのだと考えれば、「腹が減ったから」などという単純な理由だけで口にすることはとんでもないことなのかもしれません。
それは、私たちが日常口にしている家庭料理といえども全く同じで、しかも、「隠し味」も施されているかもしれないのです。それが、『愛情』という「隠し味」かどうかは、この際触れないことにしますが。

考えてみますと、料理から離れた私たちの日常においても、「隠し味」的なものは存在していて、特に人間関係を保っていく中では微妙な働きをしているように思われます。
人間関係といっても千差万別ですが、いくら素材が大切といっても、生(キ)のままの人間同士がぶつかり合っていては長い付き合いなど不可能でしょうから、様々な調味料に当たるものが加えられ、それでも甘すぎるとか辛すぎるとか言いながら、お互いに手加減をしながら、何とか関係を保っているのが人間関係の多くではないでしょうか。

それでも、人間関係というものは極めてもろく、自然解消するのならまだいいのですが、激しく傷つけ合わないことには関係を解消することが出来ないことも多々あるようです。
お互いにお互いの素材を品定めし、いろいろと調味料を試しながら工夫をしても壊れてしまう人間関係も少なくないようですが、せめてそこに何らかの「隠し味」が工夫されていれば違った結果が生まれていたかもしれません。
料理の「隠し味」には様々なものが使われるようですが、人間関係を保つための「隠し味」にも様々なものがあるようです。例えば、親切であるとか、優しさであるとか、思いやりであるとか、料理に負けないほどの数があるようです。
ただし大切なことは、「隠し味」は目立っては駄目だということです。ひとくち口にしただけで分かってしまうようなものは、「隠し味」でも何でもないことは、料理も人間関係も同様のようです。

( 2015.04.12 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地方の時代 ・ 小さな小さな物語 ( 730 )

2015-09-24 14:43:43 | 小さな小さな物語 第十三部
「地方の時代」という言葉を聞き始めてからかなり久しいと思うのですが、どういう姿を描いた言葉なのでしょうか?
折から、統一地方選挙の前半戦が終了しました。
一部の首長と市会議員、41の道府県議会の選挙が行われましたが、その結果については、各政党の勝ち負けや、投票傾向の分析なども行われていますが、新聞の大きな見出しとして目立ったのは、「大阪都構想の是非を問う住民投票への影響云々」と「投票率の低さ」でした。

私が見た新聞は、関西で発行されているものですから、例えば東京で発行されている版の場合は、もっと違うものが重点になっているのか、あるいは、いわゆる「地方版」と呼ばれるような新聞の場合はどうなのか確認していないのですが、「この選挙によって、わが県の政策はこのように変わる」といった見出しもあったのでしょうか。
私は大阪市民ではありませんので、あまり無責任な意見を述べるのは控えさせていただきますが、賛否の焦点の一つは、「二重行政の無駄を解消させる」「伝統ある大阪市を潰してしまってよいのか」といったあたりにあるように思われます。

今回の選挙の報道などを見ますと、無投票当選者の多さに驚きます。統一地方選挙の後半戦にあたる市町村議会の選挙でも、同様の傾向が見られるのではないでしょうか。また、投票が行われた選挙区の中にも、投票する気にもならないような立候補者の貧弱さが目立ったところも少なくなかったようです。
何も選挙は、ドラマチックな戦いを展開して、私のような野次馬根性の第三者を楽しませるためにあるわけではないのですが、それにしても、今回の選挙によって、わが県などが少しは変わるのだと、あるいは今の優れた施策が続くのだと、僅かであっても希望を描いた人はどのくらいいたのでしょうか。
選挙が今一つ面白くない理由は、「議員」と呼ばれる職務に当たる人の定数が多すぎるのではないでしょうか。

「二重行政」ということを考えるとすれば、道府県議会と市町村議会はどこかでそうなっているはずで、何も大阪だけの問題ではないでしょう。
あるいは、それは地方議会だけのことではなく、「衆議院」と「参議院」などはその典型的なもので、いろいろ必要性を述べる方もいますが、例えばこの十年の間で、「参議院」があって良かったということはあったのでしょうか。利権で世話になったというのは駄目ですよ。
しかし同時に、民主主義に基づく政治は、無駄も手間も必要とするもののようです。何の役にも立たないような二重三重の安全装置が、実は、百年に一度くらいかもしれませんが、大変な働きをする可能性も考えられないことはないのです。
いずれにしても、後半戦の市町村議会議員や首長選挙においては、地方自治のあり方や、地方の時代とは何なのかを具体的に示し合う選挙にしてほしいものです。

( 2015.04.15 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自由の限界 ・ 小さな小さな物語 ( 731 )

2015-09-24 14:41:43 | 小さな小さな物語 第十三部
「自由」といえば、私たちが人間らしい生活を送る上で欠かせない要件の一つであることは、疑いのない真実と考えられます。
幸いといいますか、無頓着といいますか、私たちの日常においては、ごく特殊な状況にある人を除けば、自由についてそれほど深刻に考えることは少ないのではないでしょうか。
世界中の国の中で、実現されているか否かは別にして、国民に「自由」を保証していない国はないのではないでしょうか。そして、そのうちの多くの国においては、長い時間と多くの血を流して、ようやく獲得したという国も少なくなく、それだけに「自由」を守る気持ちは極めて強く、それを侵すものに対しては、強烈な抵抗を示すようです。
それに比べて、私たちに、それほど「自由」を守ることに対して強い意志を持っているのでしょうか。

わが国の歴史においても、「自由」を唱えて政争に敗れて散っていった人たちも、歴史に刻まれている人だけでも少なくありません。しかし、現在の私たちの中に、先人たちの戦いを経て「自由」を手にしたと考える人は、そう多くはいないのではないでしょうか。いつの間にか手にしていたとか、そういうことさえ意識しないという人の方が遥かに多いのではないでしょうか。
私は、「自由」ということが話題になると、まずフランス国旗を連想します。三色旗でよく知られているフランス国旗は、「自由・平等・博愛」を表していて、フランス革命というおびただしい血を流して「自由」を獲得したのだという話を聞かされたのを今も意識のどこかに刻まれているのです。
実は、この「自由・平等・博愛」を表しているのは俗説だそうで、この国旗に使われている三色は、パリ市民とブルボン王朝の和解を表しているというのが正しいそうです。つまり、国旗の三色のうち、赤と青は、フランス革命軍の帽子に付けられていた帽章からきていて、白は、ブルボン王朝の象徴である白百合からきているそうです。
いずれにしても、「自由・平等・博愛」を享受できる社会の建設の為に、多くの血が流されたことは確かなのでしょう。

さて、それに引き換え、自然発生してきたかに受け取る人も少なくないように見えるわが国ですが、「自由」を廻る論争も少なくないようです。
最近でも、テレビ番組内における「表現の自由」に対する論争と言いますか、醜態と言いますか、生放送中であっただけに大きな話題となり、政権も巻き込んで、今もくすぶっているようです。
テレビなどのコメンテーターの方などが、「表現の自由」などに対して熱弁を振るうことを時々見ます。また、放送局や新聞社などが「言論の弾圧」だなどとかなり過激な言葉を使うこともあります。
「自由」といっても、その範囲は広いですが、報道を業務としている会社や携わっている人たちの発言の中には、「報道は正義の味方」といわんばかりの発言を聞くことがあります。その心意気は良いとしても、どうも、すんなり受け入れることが出来ません。「やらせ」と呼ばれるような取材があったり、犯罪や事故の関係者に対する目に余るような取材を見ていると、しょせん自分の立場を守るためだけのパフォーマンスのように見えてしまうことが少なくありません。
たまたま、最近亡くなられた著名な俳優の家族に対して、おそらく、ごく密やかに「密葬」を行いたいと考えていたのでしょうが、あれだけ集まる報道陣をどう考えればいいのでしょうか。
もっとも、その番組を私はかたずをのんで見ているのですから、そんな私をどう表現すればいいのでしょうか。
いずれにしても、「自由」は、私たちが何としても守らなくてはならない基本的人権の最たるものだと思うのですが、そこには、自ずから「制限」されるものがあっていいのではないでしょうか。
自分の自由は大切だけれど、人の自由には無神経なのは少し反省すべきではないでしょうか。

( 2015.04.18 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リベンジ ・ 小さな小さな物語 ( 732 )

2015-09-24 14:40:38 | 小さな小さな物語 第十三部
「ぜひ今一度議会の場で活躍させていただきますよう『リベンジ』させてください」
という、絶叫を聞きました。
統一地方選挙の後半戦が始まりました。
残念ながら、今回も無投票での当選者が各地で大勢発生しているようですが、立候補者が少ない場合は、自動的に定数を立候補者より1~2名少なくするという法律なり条例なりを作るわけにはいかないのでしょうか。もっとも、市長選などとなれば、当選者が無くなってしまうわけですが・・。

それはともかく、『リベンジ』という言葉はなかなか便利な言葉のようです。
冒頭の人物の場合は、議員だったのが前回の選挙で落選してしまったので、今回こそは雪辱を果たそうというわけです。
『リベンジ』という言葉は、英語の「revenge」から来ているそうですが、本来の意味は、「復讐、仕返し、報復」といった意味のようで、そのまま直訳して使ったのでは、なかなか使いにくい言葉になってしまいます。
最初の立候補者の演説の場合でも、「『復讐』させてください」などと呼びかけられますと、少し引いてしまいますものねぇ。

わが国で『リベンジ』という言葉が使われるようになったのは、ある格闘競技で「リベンジ・マッチ」というイベントが組まれたのが最初のようです。
これは、多分アメリカのプロボクシングで使われていた言葉を持ち込んだもののようで、アメリカでも、スポーツなどにおいて「雪辱する」という意味でも使われていたようで、「リターン・マッチ」を格好良くいった感じなのでしょうか。
その後わが国では、1999年の新語・流行語大賞に選ばれるなど一時期大ブレークしたようです。
「復讐するぞ」と言われると引いてしまいますが、「『リベンジ』するぞ」と言われると、何だか応援したくなるような響きを持っているような気もしないではありません。
言葉って、使い方次第で、面白い働きをするものです。

ところで、冒頭の候補者は、何に『リベンジ』しようとしているのでしょうね。前回落選したことに対しての『リベンジ』だと思うのですが、「それはあなたの問題でしょう?」という気もしてしまいます。
本来、議員となってどういう仕事をしてくれるのかということが有権者が知りたいところのはずですが、それはそれとして、『リベンジ』という言葉の力に頼ろうとしている感じが見え見えですが、ちょっと引き付けられてしまいました。
同じような現象のような気がするのが、某家具販売店の「おわびセール」です。
おわびすると言っても、誰に何をおわびしようというのでしょうか。「世間をお騒がせしたおわびだ」ということなのでしょうが、世間は勝手に騒いでいただけで、テレビやコメンテーターからは、材料提供料をいただいてもいいくらいなのではないでしょうか。
ところが、そこをぐっと押さえて、「世間におわびいたします」ということを前面に打ち出して「大セール」を企画し、またまたマスコミは大はしゃぎしていますから、きっと、このセールは大成功することでしょう。
「うまくやっているな」と思いながらも、何だか応援したい気持になってしまうのは、やはり、言葉の魅力なのでしょうか。それとも、父親に『リベンジ』を果たしたトップの魅力に惹かれたからでしょうか。

( 2015.04.21 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

巨星の最期 ・ 小さな小さな物語 ( 733 )

2015-09-24 14:39:31 | 小さな小さな物語 第十三部
『 (一部割愛) 老齢期になると星は巨大化します。太陽は地球のざっと100倍の直系がありますが、その太陽よりも何百、何千倍というようなサイズの星もこの宇宙には存在しています。シルバー世代の星は、とにかく大きいのです。その後は? 実は、星も最後は死んでしまいます。星の終末の様子は2種類にわかれます。一つ目は、大きくなった星がさらに膨らむので、しゃぼん玉のようになり、さらに自分自身のガスを宇宙にゆっくり、ゆっくりまき散らしてついに消滅してしまうタイプです。2番目は、ある日とつぜん、星そのものが爆発をおこして飛び散って死んでしまうタイプです。この爆発を超新星といいます(他のメカニズムで起きる場合もあります)。
地球から観察すると、新しい星が出現したようなので、新星という文字がつきますが、実態は星の死です。  (以下割愛) 』
以上は、毎日新聞4月23日付朝刊の『県立大西はりま天文台からの便り』の天文科学専門員・鳴沢真也氏の記事を流用させていただきました。

いつも愛読させていただいているコーナーですが、『はるかな宇宙へ』という表題もついていて、壮大な宇宙の現象のワンカットを簡潔に教えてくれる記事なのです。
今回は、『クラゲ星雲』という見出しもついていて、クラゲ星雲の見事な写真も掲載されています。
この星雲は、肉眼では見えないそうですが、今から3千~3万年前に起きた超新星爆発の残骸だそうです。地球からは約5千光年離れていて、大きさは70光年程度あるそうです。
いつものことですが、宇宙に関する記事は、何とも壮大です。
「3千~3万年」ということは、その程度の差は誤差の範囲だということかもしれませんが、その間に、私たち人間であれば、何世代経ているのかと計算するには、電卓が必要になります。さらに、5千光年離れていて、70光年の大きさがあるとなると、想像の域さえ超えてしまいます。

宇宙や天文に関するお話は、私のように知識がなくても好き勝手の想像を広げることが出来る楽しい分野です。
日夜大変な苦労を重ねて研究されている方々には申し訳ないのですが、素人が考える分には、少々の思い違いなど気にすることなく想像することが出来、遠い昔の羊飼いたちが夜空を眺めながら星座を想い描き、物語を生み出したのも何だか分かるような気がしてしまいます。
しかし、今回の巨大な星の最期ということを考えますと、何ともスケールの小さな話ですが、人間の終末と似ているような気がするのです。

「巨星落つ」などという言葉がありますが、偉大な人物が死去した時などには、今でも似た表現が使われることがあります。
いうほどの「巨星」であったかどうかマユツバのような気がすることもありますが、「ゆっくりゆっくり吐き出しながら・・・」と「突然爆発を起こし・・・」という表現を見ますと、一般的には平凡な人生を送ったとされる人であっても、そのスケールはともかく、何だか人間の生き様、散り方、を教えられているような気もするのです。
さて、私は、どちらのタイプを目指すことにしますか・・・。

( 2015.04.24 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初心忘るべからず ・ 小さな小さな物語 ( 734 )

2015-09-24 14:38:20 | 小さな小さな物語 第十三部
「初心忘るべからず」といえば、世阿弥の言葉だそうで、「習い始めた頃のひたむきな気持ちを忘れてはいけないという教え」という能楽を学ぶにあたっての心構えを説いたもののようです。
この言葉は、現在でも、使われる分野を広げる形でよく使われています。
折から、統一地方選挙の後半戦が終わり、二週間前の前半戦と合わせると、首長・議員を合わせると、何人が新しく任用されたことになるのでしょうか。もちろん、新しくというのは、初めて当選したという人だけを指すのではなく、たとえ四半世紀を越えるほどその職責を経験してきていたとしても、今回の選挙で選ばれた以上は、全員が新しく着任したということになります。さらに言えば、たとえ無投票当選であっも、これからの四年間の職責を新しく任命されるということには全く変わりがありません。
ぜひ、新首長・新議員諸氏の初心を大切にした政治活動を期待したいと思います。

しかし、残念ながら、国民の信託を受けた首長や議員からは、とんでもない人物がほぼ定期的と言っていいほどに登場してくることも事実です。
最近の例でいえば、我が兵庫県からは、お話にならないほど経費をポケットに入れておきながら、弁明だか何だか分からない絶叫する姿は、兵庫県だけで済めばよいものを、全国、あるいは海外にまで報道されたというのですから、何とも県民としては恥ずかしい限りです。さらに、この人物と似たり寄ったりの議員が、絶叫はしないまでも複数いるようですし、他県からもちらほら噂が出ていたようです。
また、最近お騒がせした某国会議員は、数年間の議員生活で○○万円蓄財したと豪語していたという報道もありましたが、事実だとすれば、議員報酬はともかく政治活動に当てるはずの経費もひたすらため込んでいたのでしょうか。

多くの新首長・新議員諸氏は、地域の発展や福祉や教育など、それぞれの理想を想い描いての登場だと思うのです。ぜひ、理想到達はともかく、初心を忘れることなく活動されることを期待したいと願うばかりです。
同時に、先に挙げた絶叫氏などは、当初から個人的に蓄財が目的であったのかどうか、もしそうだとすれば、彼もまた初心に忠実であっということになるのでしょうし、今回選ばれた人の中にも、同類が混入してしまっていないか、少々心配もあります。もしその可能性があるとすれば、うかうか「初心忘るべからず」などと期待してはいけないことになります。

「初心忘るべからず」というのは、何も政治家に求めるばかりの教えではなく、私たちこそ心に留めておきたい教訓のように思われます。
但し、大切なことは、「ひたむきな気持ち」を忘れてはならないと教えているということです。
ややもすると、惰性で時を過ごしているように感じることも少なくないのですが、入学とか、入社とか、いわんや選挙に当選したというほど大それた折り目でなくとも、何かとひたむきに取り組むような機会はあるものです。時々は、その時のようなひたむきな気持ちを思い起こしてみたいものです。

( 2015.04.27 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウインウインの関係 ・ 小さな小さな物語 ( 735 )

2015-09-24 14:37:11 | 小さな小さな物語 第十三部
政治家の発言、特に外交に関する発言の中で、「ウインウインの関係」という言葉を時々聞くことがあります。
少々乱暴な言い方をすれば、「どちらかが隷属するということではなく、互角の関係で親密化を図る」といった意味合いで使われるような気がします。
もちろん、もっと深い意味が込められていることもあるでしょうし、大した意識もなく、ちょっと格好を付けたように聞こえる場合もあります。
「ウインウイン」に限りませんが、外語語をカタカナで表現する場合には、「日本語でうまく表現する能力がない」あるいは「意識的に具体的な内容を漠然とさせるため」といったようなことが、ままあるような気がします。
横文字に弱いゆえの偏見かもしれませんが。

「ウインウイン」という言葉、つまり「win=win」という造語は、英語の「win(勝つ)」という言葉から生まれたようです。
最近よく耳にする例は、二者(二国)間の関係強化について、「ウインウインの関係」つまり、双方が勝つ(得をする)関係を築いて行こうといった意味が多いようですが、本来は、関係者全員が勝つ(得をする・意義がある)関係を作ろうとすることで、相対する関係というよりは、もっと数多くの関係者を意識していたように思われます。
この言葉は、あるビジネス書から広まったらしいのですが、今回、この言葉をテーマにした理由は、「人間関係のあり方の理想形」といった意味で使っている人を見たものですから、少し違うのではないかと思ったからです。

「ウインウインの関係」などと言えば大げさに聞こえますが、二者間でいえば、大昔、まだ貨幣さえ登場していない時代においても、人々は「物々交換」という手段を見つけ出していました。これは、まさに「ウインウインの関係」であって、両者が交換することで得を感じなければ成立しないわけで、「ウインウインの関係」なんて、もっとも原始的な商業行為の一つに過ぎなかったのではないでしょうか。
その後、人々は進化という「人間性の劣化」とともに、「武力」や「資本力」や「欺瞞」などを駆使して、もっとも単純な商行為である「ウインウインの関係」を保つことが難しくなってしまったため、今さらのようにこの言葉がもてはやされるようになったのではないでしょうか。

外交や経済などにおいて、あるいは学問として「ウインウインの関係」を重視することは、まあ良いとしましょう。
しかし、個人の関係において、まさか親子や家族内で声高にこの関係を築こうなどとは言わないでしょうが、近隣や友人関係でこのような意識を表に出すのは勘弁してほしいものです。
それでなくとも、人間というものは、ほとんど無意志のうちに、常に自分が得をすることばかり考えているものです。ぎすぎすした商売の関係でないのであれば、「ウインウインの関係」とは、「いかに相手が損をしないか」「相手が不愉快な思いをしていないか」などとおもんばかる言葉なのだと考えたいものです。

( 2015.04.30 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花の色は様々 ・ 小さな小さな物語 ( 736 )

2015-09-24 14:34:16 | 小さな小さな物語 第十三部
荒れ放題のわが家の小さな庭は、雑草も含めて一番元気な時を迎えています。
「山笑う」といえば、山が緑にあふれてくる様子を表現していて俳句では春の季語になっています。わが家の庭は山ではなく、のっぺりとしていますが、それでも、「山笑う」という表現を借りたいほどですが、実態はそれ以上で「山笑い転げる」と言いたいほどに何もかもが生い茂っています。

それでも、球根類たちは賢いもので、大して世話をしてもらっていなくても季節ともなれば芽を伸ばし、やがて鮮やかな花を咲かせてくれます。
チューリップは毎年球根を掘り上げ、新しいものも加えて秋に植えますが、その他のものはほとんどほったらかしですが、次々と花を咲かせてくれるのです。
わが家の球根類の色合いの主役は「紫」あるいは「青紫」のようです。ヒヤシンス、ムスカリ、アイリスと青紫系の色が多く、球根ではありませんが、一本きりのフジも、見事な花房を数多くつけてくれました。
それらの花が盛りを終えた今、がぜん存在感を示してくれているのがノースポール(クリサンセマム・パルドサム)です。この花はキク科の一年草ですが、まだ寒い頃から花を付け始め、四月には満開状態でしたが、今もなおまだまだ元気です。
数年前に鉢植えしていたものの種から広がっていったものですが、年々その勢力範囲を広げて行き、今年は、通路ばかりでなく、花壇の中から菜園としている場所の一画も占領していて、先日のトマトの植え付けは、その花の間を間借りするような状態で植えました。
球根類たちが花色を誇っていた頃はあまり目立たなかった小さな白い花は、その数の多さもあって、現在のわが家の庭の主役になっています。

それにしても、花の色は、実に様々なものがありますねぇ。
わが家の庭で咲いてくれるものだけでもかなりの数になりますし、植物園などの物を見ますと、無限と表現したいほどです。
自然界にある花の色合いは、「白色」系統が一番多くて33%ほどを占めているそうです。次いで「黄色」系統が28%、「赤色」系統が20%、「青紫」系統が17%ほどだそうで、それ以外の色はせいぜい2%ほどだそうです。
そして、例えば、「黄色」だとか「赤色」だとか言っても、それぞれの花には微妙な違いがあって、さらに複色の物や斑入りの物もあるので、完全に花色の種類を分類することなど不可能に近いことでしょう。

花が、なぜ様々な色を持っているのかと言えば、虫などを引き寄せる手段として進化の過程で「色」というものを持ったと考えられています。もっとも、最近では、人間の目を楽しませるために、あるいは商品価値を高めるために交配などによって生み出された色も少なくないことでしょうが、それを花たちはどう受け取っているのでしょうか。
それはともかく、子孫に命をつないでいくために花たちは「色」というものを持ち始めたとした場合、なぜ様々な色が生まれてきたのでしょうか。絶対的に有利な「色」があるのであれば、すべての花は、同じ色になっていたのではないかと思うのです。
実際には、気候状況、地質、他の花たちとの競合等々もあって、媒体となる虫たちの種類も違ってきたことでしょうから、それぞれが生き残りのために最善を図ったのではないでしょうか。中には、同じ花でありながら違う色があるというのは、環境の違いもあるでしょうが、それぞれの個体の判断の差もあったのではないかと思ったりしています。
花といっても、のんびり咲いているわけではなく、命をつなぐ壮絶な努力が重ねられてきているのかもしれません。

( 2015.05.03 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遊び方も様々 ・ 小さな小さな物語 ( 737 )

2015-09-24 14:32:55 | 小さな小さな物語 第十三部
大型連休も本日が最終日ということになりました。
ゴールデンウィークという言葉は、娯楽の中心が映画を観ることであった時代に、ある映画会社が興行戦略として生み出したものらしいのですが、社会にすっかり定着した感がありますが、同時に、ここ数年、この言葉の輝きが薄れてきた感があります。
その期間は、年度により少しずつ変わりますが、一般的には、4月29日に始まり、5月5日までの期間ということになります。曜日との絡みでその期間は少しずつ変わりますが、それ以上に、サラリーマンの場合は勤める企業の休日設定により大きく変化するようです。今年の場合でも、4月25日から5月10日までの期間だという会社もあるようですし、例えば官庁や銀行のように暦通りの休日体制を取っている場合は、今年の場合は、4月29日は孤立している感じで、大型連休に加わっている感じはあまりしません。
さらに言えば、そもそも一般的な休日を営業日としているような事業会社に勤めている人にとっては、むしろ稼ぎ時というか、超繁忙期に当たるわけで、国民あげてのゴールデンウィークなどと声高に叫ばれているのは、片腹痛い感じではないでしょうか。

それはともかく、本日5月6日は振替休日だそうで、何の振替なのか考えてしまったのですが、まあ、おまけの一日といったところでしょうか。
どの期間を大型連休と考えるかは人によるのでしょうが、総じて天候に見舞われたこともあり、レジャーといいますか、いろいろ計画されていた人も比較的順調に楽しめることが出来たのではないでしょうか。
もちろん、めったにない新幹線の架線事故などにぶつかってしまった方もいるでしょうし、渋滞や事故に巻き込まれてしまった人もいるかもしれません。国内においては、ゴールデンウイーク、八月の旧のお盆前後、年末年始、この三期間は、大変な人出は覚悟しなくてはならないのは常識となっていますから、少々の混雑やトラブルなどは計算済みのことでしょう。
最近は、外国からの観光者の動向も少なからぬ影響を与えており、旧正月の頃は、働く人にとっても遊ぶ人にとっても、相当の影響があるようです。

そうした中で、この連休中の人々の過ごし方が少しずつ変化してきている様子もうかがえます。
おそらくそのきっかけは、バブル崩壊などによるわが国経済の失速と国民所得の縮小に原因しているように思われます。「安・近・短」などと表現されたこともありますが、安価で近くて短期間の旅行やレジャーを求める傾向が生まれたのは、当初は、決して積極的に望んだことではなく、主として経済的な理由から、次善、次々善の行楽を求めたからと思われます。
当然最初は、忸怩たる思いや、肩身の狭いような気持もあったのでしょうが、そのうちに、「安・近・短」に加えられるようななかに、「高・遠・長」を勝る行楽を手にし始めた人たちが出てきているように思われます。ゆったりと、身近にあった香り高い文化や旧跡を知り、むしろ以前より遥かに豊かな気持ちで楽しめるひと時を手に入れた人が増えてきているように思われるのです。
他人の目を意識した、あるいは背伸びしきったようなレジャーではなく、身の丈の範囲で、しかも世界に冠たる名所旧跡や文化の結晶が、意外に身近にあり、それを見つけ出すことの楽しさを知ってしまった人が、少しずつ増えてきているような気がするのです。
遊び方も様々な形を持ち、多様化してきているのでしょう。

大型連休の最終日である本日は、交通の混雑が一段と激しいことでしょう。くれぐれも気をつけていただき、楽しい休暇の最後を飾って頂きたいと思います。
そして、本日は「立夏」でもあります。暑いの、寒いのと言っていても、旅行だ、仕事だと慌ただしく時間を送っていても、季節は微動だにせず時を刻み、夏の訪れを示しています。
そして、遊び方が様々な姿を持ち始めているということは、生き方もまた様々な姿を持ち始めているということではないでしょうか。自分自身が価値観を感じる生き方を掴もうとしている人も生まれてきているのかもしれません。

( 2015.05.06 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火の山 ・ 小さな小さな物語 ( 738 )

2015-09-24 14:31:39 | 小さな小さな物語 第十三部
箱根山が小規模噴火の恐れがあるとかで、一部立ち入り禁止の処置がなされました。
五月の行楽期であり、大型連休中にもかかり、当地の観光産業にとっては少なからぬ影響が出ることでしょう。当地を訪れ、良質の温泉を楽しむ計画を立てていたり、真っ黒なゆで卵を楽しみにしていた人にも残念な思いをした人が出ているようですが、火山活動となれば、先を見通すのが難しいだけに、地元の関係者の方の心配は大変なこととお察しします。

わが国は世界に冠たる火山国といえます。この前の御嶽山の噴火は大惨事をもたらしてしまいましたが、私たちに火山についての啓蒙の機会を与えてくれました。
火山と言えば、私などは「火の山」という言葉を連想するのですが、これまでの箱根山からは、「火の山」という感じはとても受けることはありませんでした。大涌谷周辺の光景は、確かに不気味さを秘めてはいますが、「火の山」に程遠いものに思っていましただけに、火山性地震が増加し、山体の膨張も観察されているとなれば、さすがに単なる不気味さだけではないのかもしれません。

わが国に多くの火山が存在していることは、当ブログでも何回か触れさせていただきましたが、しかし、危険性を示す「噴火警戒レベル」の指定となりますと、案外少ないのです。私などが漠然と思い描いていたのは、今回の箱根山に出された「噴火警戒レベル(2)」程度の山は、二十やそこらはあるものと思っていました。
ところが、実際は、「レベル(2)」が、吾妻山・阿蘇山・草津白根山・霧島山・諏訪之瀬島・三宅島と今回の箱根山の7山で、これより危険性の高い「レベル(3)」が、御嶽山・口永良部島・桜島の3山で、「レベル(4)」「レベル(5)」に指定されている火山はないのです。
そう考えれば、「噴火警戒レベル(2)」というのは、相当の注意が必要なことになります。

わが国だけではありませんが、私たちの生活は自然災害と背中合わせという関係にあるといえます。
その中で、「火山」による災害は、若干他の災害と違って、比較的地域が限定されます。もっとも、富士山が大噴火したとなれば相当広範囲になるでしょうし、二次、三次的な被害は想像を絶するものになる可能性があります。
しかし、一般的に言えば、地域は限定的であり、そこから離れれば被害は避けられるわけです。逆に言えば、その地で生活している人にとっては、「火の山」を動かせるわけにはいかないのですから、運命共同体のような関係を迫られるともいえます。
同時に、私たちのこの美しい日本列島は、「火の山」から実に多くの恩恵を受けています。現在はもちろん、この列島の生成の歴史そのものにも深い関係があるのです。
厳しい環境を強いられる地域の方々には同情申し上げますが、「火の山」との共存の関係をもっともっと研究していく必要があるように思うのです。

( 2015.05.09 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする