雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

世界遺産 ・ 小さな小さな物語 ( 739 )

2015-09-24 14:30:28 | 小さな小さな物語 第十三部
 大型連休の前後には、注目すべき出来事が幾つか発生していましたが、軍艦島などの「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産登録が有力になったという報道もその一つでした。
これは、日本が世界文化遺産として推薦していた8県23施設に及ぶ多数広範な遺産を、わずか50年ばかりの間で産業の近代化を成し遂げた歴史的証としての価値が認められたということのようです。
もっとも、今回の発表は、世界遺産への登録の可否を調査する諮問機関である「国際記念物遺跡会議」(イコモス)が、「登録が適当」とユネスコに勧告したものです。正式には、六月に開かれるユネスコ世界遺産委員会で決定されるそうですが、これまで、イコモスのお墨付きをもらえば、ほぼ登録が認められるようです。

世界中の世界遺産がどのようになっているのかほとんど知らないのですが、今回のような広範囲によるものも珍しくないのでしょうか。
テレビの報道番組の説明の中には、この23に及ぶ施設が物語のようにつながっていると説明しているものがありましたが、その中でもいわれていましたが、推薦の仕方が功を奏した部分もかなりあるようです。
個人的に言えば、例えば、「軍艦島」と「松下村塾」が同一の遺産として登録されることに少々抵抗を感じる部分はあります。

現在、世界遺産登録されている遺産は、全部で世界中に1007件あるそうです。そのうちわが国には18件あり、今回の分が登録されれば19件目になるようです。
この件数が多いと考えるべきなのか少ないと考えるべきなのか分かりませんが、ユネスコなどは増え続けることに若干困っているみたいで、今回のような一括登録が今後増えていきそうだという声もあるようです。
本来の趣旨は、人類が生きてきた重要な意味を持つ遺跡や、貴重な自然環境を保全することなどが目的だと思うのですが、実態は、わが国に限らず、観光資源としての価値付けという部分がかなり大きなウエイトを占めているのではないでしょうか。

今回の候補に入っている施設の一つ一つを少しばかり勉強してみますと、わが国の歴史上それなりの意味があり、誇らしい部分も少なくありません。
しかし、今回の施設の中には、一部外国から非難を受けている面もあります。このような非難は今回に限らず、わが国ばかりでなく、時々起きることのようです。
考えてみれば、文化遺産として登録されるものの多くは、戦争や侵略や圧政などの過去を背負っている物は決して少なくありません。千年を越えるような時間を経ていれば非難の声も小さくなるでしょうが、百年や二百年程度の時間しか経ていない遺産には、負の部分はまだ色濃く残っているのかもしれません。今回の施設の中でも、例えば炭鉱施設となれば、わが国の市民の中でも、まだ近しい肉親が災害の被害にあったという人も少なくないと思うのです。
世界遺産となれば、観光資源として最大限利用することは当然必要なことでしょう。経済的な利益もさることながら、その施設の持つ意味をより多くの人に知ってもらう機会が増えることになりますし、後世に引き継ぐためにも役立つことでしょう。
しかし、今回のものに限らず、世界遺産とされるほどの施設には、ほとんどのものに負の遺産と言うべき部分もあるはずです。それらも含めて、現在に生きる私たちは、あまり歪めない形で後世に伝えていく責務もあるように思うのです。

( 2015.05.12 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸せの分量 ・ 小さな小さな物語 ( 740 )

2015-09-24 14:28:49 | 小さな小さな物語 第十三部
「幸せ」の分量を量ることはなかなか難しいことのようです。
「大へん幸せ」だとか、「小さな幸せ」といった言葉も時々見かけますから、「幸せ」には明らかに分量といいますか、大きさといいますか、あるいは、長さで表現されるものなのかもしれませんが分量があると思うのですが、その尺度を見つけ出すのは簡単なことではないようです。
「幸せ」という言葉そのものは、たいていの人は口にしたことがあるでしょうし、多くの人がその意味を漠然と理解していると思うのですが、いざ、真正面から見つめ直してみますと、そうそう簡単なものではないらしく、いわんや分量となれば、スプーンやバケツで何杯だと量るほど簡単ではないようです。

そこで、広辞苑の力を借りるべく調べてみますと、
「しあわせ」の見出しに出ている文字は、「仕合せ」となっているのです。そして、その意味は、「①めぐりあわせ。機会。天運。 ②なりゆき。始末。 ③(「幸せ」とも書く)幸福。好運。さいわい。また、運が向くこと。」とあります。
私たちは、たいていの場合、「しあわせ」という言葉を使う場合、③の意味で使っているようです。
もちろん、広辞苑の説明にある①②③をごっちゃまぜにして考えることは正しくないと思うのですが、ただ、「幸せ」をそれらをすべて包含させて考えてみますと、何だかよく分かるような気がするのです。

つまり、「幸せ」には、天運、好運、運が向く、といった具合に、やたら運に左右される性格を持っているらしいことが窺えるのです。また、めぐりあわせ、機会、という言葉が見られることから、人間関係に限ったことではないでしょうが、「幸せ」には出会いといった要因が大きな鍵を握っているような気がします。そして、何よりも、②にあるように、なりゆき、始末、といった具合に、「幸せ」というものは一筋縄ではいかないので、どうとでもなれ、という性格も秘めているような気もしてしまうのです。

そもそも、「幸せ」の分量を量ろうという考え方が馬鹿げているかもしれませんが、私たちは、「幸せ」に対しては、かなり貪欲なようです。もっと大きなもの、もっとしっかりとしたもの、もっと長く・・、さらには、自分だけに、といった欲望もともなうことがあるようです。
何かの本で読んだ記憶があるだけで出典は分からないのですが、「不幸な人に同情しても関わってはいけない。誰かの不幸は別の誰かの幸せにつながっていて、多くの不幸な人なしには誰も幸せになれない」といった意味の内容が書かれていました。つまり、「幸せ」になるためには、多くの「不幸せな人」を作らなくてはならないという意味なのでしょうか。
もし、この言葉が真実を示しているのであれば、「幸せ」には、明らかに分量があり、一人が得れば、それだけ量が減ることになります。
世界中の人が、とまではとても考えられないのですが、せめて、身近で寄り添って生きている関係の人の間では、たとえ小さなスプーン一杯ずつであれ、「幸せ」を分かち合いたいものです。

( 2015.05.15 )

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな小さな物語  目次

2015-09-24 10:49:17 | 小さな小さな物語 第十三部
          小さな小さな物語  目次

     No.741  二重行政
        742  その時を待つ
        743  大接近
        744  気分しだい
        745  健康寿命  


        746  さそり座
        747  長江の流れ
        748  見切り見切られ
        749  なでしこジャパン
        750  1点の重み


        751  情報の洪水
        752  自衛は必要だが
        753  エースで四番
        754  オリンピックに追加競技
        755  デフォルト


        756  自己中心
        757  次善の策
        758  ギリシャの理論
        759  民主主義は難しい
        760  強行採決? 単独採決?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二重行政 ・ 小さな小さな物語 ( 741 )

2015-09-24 10:48:12 | 小さな小さな物語 第十三部
いわゆる「大阪都構想」を廻る住民投票は、投票率も高く、しかも全く伯仲した結果となりましたが、一応の決着を見たことになります。
私は大阪市民ではありませんので、部外者と言われればその通りなのですが、相当の関心をもって経緯や結果を見守ってきました。
今回の投票結果については、事前の世論調査などをもとに個人的に予測をしていたのですが、これほど接戦になるとは考えていませんでした。
投票結果についての報道機関などの情報を見てみますと、地域による差が歴然としているのは、大都市行政の難しさを示しているように思われました。また、出口調査の分析からは、世代間による意見の差も大きく、今後の課題となることでしょう。

他の街の選択とはいえ、個人的には大変馴染み深い街であり、何だかんだと言われても、大阪市は関西の中心といえる街であることは確かです。テレビ局も、特に関西キー局の報道はかなり熱を帯びており、うがった見方かもしれませんが、キャスター個人や、放送局にも若干の意見が反映されていたような気がします。
それらをもとに考えてみますと、今回の住民投票にはいくつかの違和感を感じる論点がありました。
まず、住民投票が実現した背景には、国政選挙の影響が強く感じることにあります。
次は、確かに「大阪都構想」は、大阪市と大阪府の問題と言えばその通りなのですが、大阪府内の他の市にも少なからぬ影響はあるはずと考えられるので、大阪市民だけの意志で決定させていいことなのかどうか、疑問を感じました。
また、二重行政による問題点、あるいは大阪都実現による経済的損益については、賛成派と反対派がそれぞれの意見を述べあっているだけで、視点がかみ合っておらず、それを判断せよというのは乱暴な気がしました。
さらに、「大阪都構想」の実現の可否を訴えての住民投票でしたが、現市長個人への支持・不支持が争点になっている点もかなりあるような気がしました。

それはともかく、大阪市民の選択は大阪市存続ということで決着しました。
しかし、現状では駄目だという意見が、誤差の範囲と言えば民主主義に失礼に当たるかもしれませんが、ほぼ過半を占めているということは、今後の市政運営に反映させないわけにはいかないでしょうし、さらには、同様の形態となっている、全国の大都市の運営のあり方にも大きな影響を与えていくのではないでしょうか。
特に、昨今、目に余るような地方議会の議員や首長が散見されます。今少し質の向上を図るべく、選挙民である国民は政治に真剣になる必要があるように思うのです。

今回の大阪市の住民投票ばかりでなく、「二重行政」がまるで悪者のような風潮があるのが気になっています。
わが国の政治形態は「二重行政」を基本として成り立っているのです。住民の生活は、市町村の行政下に組み立てられており、さらにそれらをカバーし補填しチェックする形で、府政や県政があるはずです。つまり、二重になるようにしているのです。
住民生活が、一人の優秀な市長の号令のもとに成り立つのであれば、地方議会もいりませんし、それは現行制度よりはるかに効率的で優れているでしょう。しかし、わが国に市町村が幾つあるか調べていませんが、そんな優秀な首長など、どれほどいるのでしょうか。
それに、スタート時点では優れていると思われていたリーダーが、どんどん劣化していく姿は嫌というほど見てきているではありませんか。
無駄が多くても、「二重行政」が私たちの生活を守っているということを忘れるのは、実に危険なのです。
問題なのは、無策な、あるいは利権に結び付いた政治を業とする存在が多すぎることなのであって、「二重行政」から生まれる純粋な無駄は、民主主義政治のコストだと思うのです。

( 2015.05.21 )
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その時を待つ ・ 小さな小さな物語 ( 742 )

2015-09-24 10:46:51 | 小さな小さな物語 第十三部
昨日、わが家のサボテンは、白く大きな花を七つ咲かせてくれました。
トゲをいっぱいつけた丸い体から、花芽のようなものを長く伸ばし、大きく膨らんできていましたので楽しみにしていましたのですが、昨日の朝早く見に行きますと、見事に花を咲かせていて、それも全部で七つもです。

このサボテンの正確な名前は知らないのですが、わが家には、ずいぶん以前から住み着いています。正確な名前は知らないのですが、やや縦長の丸型で、一番大きなものは三十センチ近くもありますが、回りに多くの子供を付けていて、時々それを外しては植え替えて行って、今は三十余りにもなっています。冬は、簡単なビニール小屋に入れますが、それは半分ほどで、残りのものは軒先で寒さをしのいでおり、梅雨時は、浸かってしまうほどに水を浴びていますが、それでも、腐ったり枯れたりすることはあまりなく、気まぐれに植え替えたり子供を外したりしているうちに鉢の数が増えてしまったのです。
花を咲かせるようになったのは、多分十年ほど前からだと思うのですが、現在は十個ほどが花を咲かせてくれています。
サボテンの花は一日花ですが、一シーズンに一個が四つも五つも花芽を伸ばし咲いてくれます。
そして、いつも不思議に思うのですが、咲く時には、一つだけではなく、同時に複数の物が花を咲かせるのです。昨日は七個のサボテンがそれぞれ咲いてくれましたが、この先は、しばらくはどれも咲きそうな花芽はないのです。

昨日咲いたサボテンたちは、何らかの方法で咲く日を連絡しあっていたのでしょうか。偶然というには数が多すぎますし、その時期が来たからというのも、あまりにも日が揃いすぎている気がします。
全部が同じ親から育った可能性はありますので、同じ遺伝子を持っているのか、あるいは、温度なり、風の匂いなどで察知する何かがあるのでしょうか。
今、わが家の庭のあちらこちらや、鉢植えにしているユリが蕾を少し膨らませてきています。白ユリが大半で、黄色のもの、スカシユリも少しばかりあります。これらのユリたちも、あまり世話をしてもらえないのに、球根で数を増やし、一部消えていっている物も少なくないのですが、全体としては数を増やしています。これらの花は、サボテンのように言い合わせたかのような感じはないのですが、やはり、ほぼ同じころに芽吹き、同じ頃に花を咲かせます。

四季の廻りといいますか、季節の変化とはそういうことを指すのでしょうが、日頃、気付いてはいてもごく当然のように見過ごしている様々な事柄にも、それぞれの生体は、あるいは自然現象も含めて、じっと「その時を待って」いたのかもしれません。
私たちの生活というものは、そのほとんどが、惰性というわけでもないのでしょうが、一つの流れの中を走っているようにも感じられます。あまり人から遅れないように、あまり人から離れてしまわないように、といったことのみを規律にして日を過ごしているように思うことがあります。
しかし、私たちも自然の営みの中の一個体だとすれば、やはり、「来るべき時」というものがあるのではないでしょうか。ややもすれば、走り回ることに忙しく疲れを感じることもあるのですが、じっと「その時を待つ」というこも必要な気がするのです。

( 2015.05.24 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大接近 ・ 小さな小さな物語 ( 743 )

2015-09-24 10:45:36 | 小さな小さな物語 第十三部
お月さんに金星と木星が「大接近」するということで、空が暗くなった頃に眺めました。一昨日のことです。
確かに、三日月より大分太ってはいますが、細い月の近くに金星と木星が輝いていました。しかし、家人は何から情報を得たのか知りませんが、「大接近」というのは、少々というより、かなりオーバーな表現のような気がします。

某大国を訪れたわが国の大使節団は大歓迎を受けたようで、長らく覚めた関係が続いていたのが「大接近」を始めたらしいというのです。
どの国とでも仲良く付き合うことに全く異論はありませんが、「大接近」が始まったというのは、かなり単純すぎる判断ではないでしょうか。
わが国の使節団の方には、さらに多くの観光客を迎えて稼がせてもらおうという魂胆が見え見えですし、先方は、わが国より遥かに芝居巧者と思われますから、簡単に手の内は見せないでしょうが、それでもいくつかの思惑が透けて見えています。
それにしても、首脳同士が握手などをする場合、わが国の代表の方は、どうしてあんなに卑下しているように見えてしまうのでしょうか。

大阪市の、いわゆる都構想問題は一応の決着を見ましたが、これで大阪市の懸案事項のいくつかは進展するのではないかと見ていましたが、なかなかそれほど簡単なことではないらしく、あれほど激しく対立したのですから、そうそう簡単に「大接近」など出来るものではないらしく、むしろ、中央の政治の方に波紋を広げていて、どこかとどこかが大接近しそうだとか、すでに一部では手を握ったとか、好き勝手な憶測が流れているようです。まあ、こちらの方は、スケールの小さな話ですが。

「大接近」などと言えば大げさですが、その実態は見かけと大きく違うことの方が多いようです。
冒頭に挙げた金星と木星の大接近など、地球上から見ている人だけが感じていることで、金星は地球より太陽に近く、木星は地球より太陽から遠い位置に在るわけですから、ほんとうに「大接近」などすれば、その前に地球の存在そのものが大変なピンチを迎えることになるわけです。
まあ、こんな話が適切なたとえだとは思いませんが、「大接近」などという言葉や憶測は、かなり割り引いて、そして冷静に受け取ることが必要なようです。
国家間や企業間のこともそうですが、個々の人間関係となりますと、そう言った噂の影には陰謀や妬みが潜んでいることが少なくないようです。芸能ネタや、笑い話で済んでいる間はいいのですが、近しい人間関係を壊してしまうことも少なくないようです。
教訓としては、せめて家族関係だけは、「大接近」など望まないで、そこそこの接近を守りたいものです。

( 2015.05.27 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気分しだい ・ 小さな小さな物語 ( 744 )

2015-09-24 10:44:04 | 小さな小さな物語 第十三部
芸能人の方の訃報を伝えるテレビ報道を見ていますと、やはり、さまざまなことを考えさせられます。
もちろん、面識も何もないのですが、相当の芸歴を持つ著名な方である場合には、その折々のことが自分の思い出と関連することも少なくなく、ついつい引き込まれてしまいます。

最近は、ガンなどは告知するのが当然のような状態で、また、多くの方が回復し社会復帰されているものですから、「これから闘病に専念します」とか「必ず元気な姿をお見せします」などと言った言葉を残す記者会見のような報道も少なくありません。そして、実際に多くの方がそれを実現されており、厳しい闘病生活が、人間を大きくさせることが少なくないことを示してくれたりしています。
しかし、やはり、再び元気な姿を見せてくれない人もいるわけです。

「病は『気』から」という言葉は、おそらく相当古い時代から使われている言葉ではないでしょうか。
昔は、どの程度昔かはうまく説明できないのですが、病気治療の主体は祈祷などで、もちろん薬や整体のようなものも施されたのでしょうが、本人や周囲の人の『気』の力に頼る割合が、現代以上に大きかったのではないでしょうか。
近代医学とかいわれるように、科学の進歩などとともに、薬や手術などの具体的な療法によって治療が進められる今日ですが、やはり、『気』の持つ力はなお大きな比重を占めているようです。
病床にある人を見舞ったり、あるいは励ましの言葉を伝えたりするのは、受ける方も与える方も、いくばくかであれ効果があると信じているからではないでしょうか。
あるいは、単なる願望に過ぎないかもしれないのですが、闘病生活において、病人自身の『気』のあり方が回復に大きな意味を持っていることは科学的にも証明されていることのようです。

この、何とも理解しがたい『気』について、例によって広辞苑の力を借りようと思ったのですが、その説明たるや膨大なもので、私などが気軽に語れるレベルのものではないようです。ただ、一番最初に書かれている部分だけを紹介させていただきますと、「天地間を満たし、宇宙を構成する基本と考えられるもの。また、その動き。」とあります。理解するには、かなりの根性を必要としそうです。
その点、『気分』となれば、かなり気軽な感じです。『気分』が「『気』の子分」というわけではないのですが、特に、『気分しだい』となれば、私たちの日常に密着している感じです。
但し、『気分しだい』は程々でなければ、天地間を満たすほどではないとしても、周囲の人にとっては迷惑なことが多いようですから注意したいものです、お互いに。

( 2015.05.30 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

健康寿命 ・ 小さな小さな物語 ( 745 )

2015-09-24 10:42:42 | 小さな小さな物語 第十三部
「健康のようで健康でない・・」「健康でないようで健康である・・」などと言えば、南京玉簾のパクリのようですが、私たちには、多かれ少なかれこの傾向があるのではないでしょうか。
一般的に、まだ青少年と呼ばれる年代の人や、重篤な疾病を抱えている人の場合は別ですが、いわゆる中年以上で、何とか日常生活を過ごしている人の多くは、健康に対する不安は抱えているようです。そして、健康とはどのような状態を指すのか、なかなか難しい面もあるようです。

『健康寿命』という言葉は、公の機関としては、2000年に世界保健機関(WHO)が公表したものが最初のようです。
つまり、健康に過ごせる機関のことを指し、平均寿命との差は、「不健康な期間ということになります。
わが国においては、「少子高齢化」という言葉がよく使われていて、よく言えば長寿社会、平たく言えば長生きしなければならない時代の諸問題を、「少子高齢化」という一括りの問題にされがちですが、子供の数が多かれ少なかれ、長寿命時代に生きる人たちの尊厳について、もっともっと真剣に取り組む必要があるのではないでしょうか。
そこで大きな意味を持ってくるのが、『健康寿命』という概念なのです。
一般的に、個々の人について、長生きすることは良いことですが、健康状態と相談という面もあると思うのです。

厚生労働省のデーターなどを見てみますと、『健康寿命』あるいは、『健康であること』などについて、考えさせられる面が多々あります。
データーを挙げてみます。
2004年 WHOレポート 健康寿命 男 72.3 女 77.7
2001年 厚生労働省 健康寿命 男 69.4 女 72.6 平均寿命 男 78.1 女 84.9
2010年 厚生労働省 健康年齢 男 70.4 女 73.6 平均寿命 男 79.5 女 86.3
2013年 厚生労働省 健康年齢 男 71.2 女 74.2 平均寿命 男 80.2 女 86.6
* 「不健康な期間」を、厚生労働省の2001年、2010年、2013年の順に並べてみると、
    男  8.7年 →  9.1年 →  9.0年
    女 12.3年 → 12.7年 → 12.4年
少し見にくいかもしれませんが、たったこれだけのデーターでも幾つかの物が見えてきます。
まず、年度が違いますが、WHOのレポートと厚生労働省の調査とでは、かなりの差が見られます。つまり、私たち日本人は、世界レベルで考えてみた場合、実態以上に不健康だと認識している人が多いということになります。
次は、「不健康な期間」の推移ですが、意外なほどに改善(短縮)されていないということです。つまり、公的な対策も、個人の努力も、『健康寿命』に対して、関心が薄かったのではないかと思えてならないのです。2010年から2013年の間の改善は小さくないという見方も出来ますが、おそらく、介護保険受給の審査が厳しくなった影響のような気がするのです。これは、全く個人的な想像ですが、今年あたり調査すればさらに改善がみられると思うのですが、そのほとんどは、介護保険の対応の厳格化の影響ではないかと思うのです。

『健康寿命』を伸ばすことと、「不健康な期間」を短縮させることは、社会保険制度運営上大きな意味を持っていますが、本来の目的は、人生の最後に当たる期間をいかに輝かせるかということだと思うのです。
長生きすることもたいへんですが、健康でいる為には個人の努力や根性も必要ですし、何よりも、公的な知能や資源をこの方面にもっと手厚く投入すべきだと思うのです。
冒頭の、南京玉簾のバッタもののような言葉ですが、私たちは、ややもすると、働き盛りには体調不良を押して頑張り過ぎる傾向があり、ある年齢になると、「まだまだやれるのに、健康でないように」振る舞う傾向があるように思えてならないのです。

( 2015.06.02 )

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さそり座 ・ 小さな小さな物語 ( 746 )

2015-09-24 10:40:13 | 小さな小さな物語 第十三部
『 この季節になると、南の空にS字状に並んだ星たちが昇ってきます。夏の代表的な星座のひとつ、さそり座です。
このさそり座のちょうど心臓あたりに、ひときわ赤い星が光っています。1等星アンタレスです。アンタレスとはアンチ・アレスから来ており、アレスは火星のこと。つまりこの名は「火星に挑む者」という意味です。その赤い輝きから、こう名づけられたのでしょう。
このアンタレスは肉眼、それどころか大望遠鏡を使ってのぞいても点のようにしか見えませんが、実際は太陽の700倍もある巨大な星です。その赤さと合わせて、このような星は「赤色超巨星」と呼ばれます。
赤色超巨星は、星が燃え尽きる直前の姿だ、と言われています。太陽もあと50億年くらいすれば赤く大きくふくれあがると考えられています。そのときには、地球はとてもではないですが生命の住めない環境になってしまうことでしょう。 (以下割愛させていただきます) 』
以上は、毎日新聞6月4日の朝刊の記事で、いつも愛読させていただいています「県立大西はりま天文台からの便り」の研究員・大島誠人氏の記事の冒頭部分を使わせていただきました。

「さそり座」は、星座としてよく知られていますが、実際に星座を眺めたことがない人でも、占いなどで興味をお持ちの方も少なくないのではないでしょうか。
夏の星座として知られている「さそり座」は、その主星のアンタレスは全天に21しかない1等星の一つですが、この星座には2等星も5つ含まれていて、明るい星座の部類に入るようです。もっとも、私は宇宙や星などの話は好きなのですが、いざ見つけるとなると、火星や木星などの惑星以外は実に頼りなく、その惑星さえも、木星と土星を間違えることはしょっちゅうのことなのです。
21ある1等星を、住居地から全部見ることは出来ませんが、いずれの1等星も何らかの星座に属しているそうですから、1等星を見つけることが出来れば、幾つかの星座も見つけることが出来るかもしれませんよ。
但し、星座を見つけ書物などに描かれているように思い描くには、相当の視力と想像力が必要なようです。

それにしても、「さそり座」という名は、少々おどろおどろしい面もありますが、神秘的なものを感じさせてくれます。
ギリシア神話によれば、「英雄オリオンの傲慢さに怒った女神ヘラは、地上にさそりを送ってその毒針でオリオンを殺させた。この功によりさそりは天に昇り星座となった。一方、殺されたオリオンも、それを憐れに思った女神アルテミスがゼウスに頼んで天に昇らせ星座になった。そのため、今でもオリオンはさそりを恐がっていて、東の空からさそり座が姿を見せると、オリオン座は西の地平線へと逃げて行く。そして、さそり座が西の地平線に沈むと、オリオン座は安心して東の空に顔を見せるのである」
というのです。

さそり座に限りませんが、星空や宇宙の話などは、何となく気持ちを和らげてくれます。
あれが欲しいこれが欲しいと言ってみても、わずか50億年ほど経てば太陽は大きく膨らんで地球などのみ込まれてしまいます。
いろいろ人間関係で悩むことも少なくありませんが、天空で威張っているかに見えるオリオンでさえ、さそりの姿におびえているのですから、私たち人間が、わずかなことにおどおどしてしまうのも、別に恥ずかしいことでもないように思うのです。
まあ、あまり現実から逃げ出してしまうのもどうかとは思いますが、時には梅雨の晴れ間の星空など仰いで、ゆったりと歩いて行きましょうよ。

( 2015.06.05 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長江の流れ ・ 小さな小さな物語 ( 747 )

2015-09-24 10:38:10 | 小さな小さな物語 第十三部
中国の大河、長江で起きた大型客船の転覆事故は大惨事となってしまいました。
大河とはいえ、中流域での事故となれば、私などは、ついついわが国の河川を思い浮かべてしまうものですから、あれほどの大型船が、いくら荒天の中とはいえ、簡単に沈没し、救助もままならないのかと思ってしまうのですが、中流域とはいえ、長江のスケールは私などが想像するよりはるかに大きく、残念なことに大惨事へとつながってしまったようです。
犠牲者の方々のご冥福をお祈りするばかりです。

長江は、チベット高原を水源地域として東シナ海に流れ込む大河ですが、その長さは6,300kmにも及び、流域で生活する人の人口は4億5千万人にも及ぶそうです。
その流れは、太古の昔から途絶えることなく、私たちになじみの三国志などでも名場面の舞台となっています。その流れに刻まれた歴史は、現代に伝えられているものだけでも数多く、一般庶民の悲喜こもごもなどは、語り伝えられることもなく流れ去っているのでしょうが、長江の流れは、新たな悲しみさえも飲み込んで、今日も変わることのない姿で悠々と流れていることなのでしょう。

余談になりますが、長江のことを揚子江として認識している人も少なくないでしょうが、揚子江というのは長江の最下流域を指すもので、それさえも、橋の名前から欧米人が呼び始めた名前らしいのです。
また、長江の「江」というのは、もともと固有名詞だそうで、「江」と言えば長江を指し、「河」と言えば黄河を指すそうです。
長江の雄大さは、長さが6,300km、流域面積は180万㎢ということですから、わが国の小さな島を加えた長さに対しても2倍に及び、面積となれば、いくつこの川の中に納まってしまうのか心細くなってしまいます。
さらに余談になりますが、長江の長さは、世界第三位だそうで、これは一応確定しているようです。ただ、一位はどの川かと言えば、アマゾン川とナイル川が争っているそうです。ある資料によれば、ナイル川6,671km に対して、アマゾン川7,025kmとなっていますが、両川とも調査の度に変更されているようで、まだまだ予断を許さないようです。
流域面積はアマゾン川が断トツのトップで、オーストラリア大陸が入ってしまうほどだそうです。ブラジル政府は650万㎢としているようですが、こちらも調査機関によっては、上下に大きくぶれていて、その誤差は、わが国の領土が幾つも入るほどです。
地球は、まだまだ広く、未知の部分も少なくないのですねぇ。

わが国は、現在中国政府とは厳しい関係にあるとされています。
個人的な関係や、商売を通じてなどは、極めて親密な関係である部分も少なくないのでしょうが、両国の公式なコメントを見る限り、とても有効な関係などとはいえない状態ではないでしょうか。
世界中の歴史においても、近隣の国家は、常に何らかのトラブルを抱えていることが多く、いわんや戦争や侵略などの衝突があった場合は、世代が一代や二代変わった程度では解決できないようです。つまり、どうにもならないことなのかもしれません。
ただ、わが日本列島を幾つも飲み込むような大河の流れのもとに生きてきた人と、八百万の神々をすべて容認してしまうような人とは、しょせん価値観が一致するはずなどないのです。
そのことを承知の上で、何とか手を差し伸べ合うというのか大人の知恵ではないでしょうか。
まあ、言うことは簡単なのですが・・・。

( 2015.06.08 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする